女城主の影響でさらに有名になった城だが、その面影などなく石垣で固められた武骨で守り堅固な山城だ。
日本三大山城と言われるほどで、私も石垣に魅了され何度も足を運んできた。駅から歩いても行けるし、車で本丸直下まで行くこともできる。
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2021/08/20 14:39
織田、武田が奪いあった城 (2020/04/05 訪問)
女城主の影響でさらに有名になった城だが、その面影などなく石垣で固められた武骨で守り堅固な山城だ。
日本三大山城と言われるほどで、私も石垣に魅了され何度も足を運んできた。駅から歩いても行けるし、車で本丸直下まで行くこともできる。
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2021/08/20 08:38
波切九鬼氏の本拠地 (2021/08/01 訪問)
南北朝後期に波切九鬼氏初代・九鬼隆良が居城として築いた城で、四代・泰隆が居城を田城城に移した後も拠点として存続しました。九鬼嘉隆は波切城の生まれとされ、波切城主として田城城の兄・浄隆とその子・澄隆を支えましたが、後に本拠地を鳥羽城に移したことにより波切城は廃城となりました。
志摩半島東南端の大王崎の突端に位置し、太平洋を見下ろす断崖の上に築かれています。主郭は展望公園(八幡さん公園)として整備され、北辺に土塁、北西部に虎口が設けられ、北辺の切岸にはわずかに石積みも見られました(遺構か後世のものかはよくわかりませんが)。虎口の下には城址碑(小さな説明板付き)が建てられています。
なお、主郭から東に徒歩1分の大王埼灯台からは海に突き出た岬の断崖絶壁の上に築かれた主郭と北辺の切岸が一目瞭然で、この日は天気も良かったため、夏空のもと視界いっぱいに広がる太平洋といい、有料(大人300円)ながらも、それ以上の価値がありました。時間に余裕がある方は、灯台の隣の大王埼灯台ミュージアムもどうぞ。少しだけですが波切城についても触れられています。
また、灯台から北に徒歩3分の仙遊寺は波切九鬼氏三代・隆次が菩提寺として建立した寺で、境内奥には隆次、泰隆ら波切九鬼氏の五輪塔が安置されています。
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2021/08/19 20:33
緊急事態宣言を受けて! (2021/08/19 訪問)
とうとう私の県も緊急事態宣言を・・・なので県を跨いでの城址探訪は出来なくなりました。でも、家で自粛ばかりではヤバいので〔肥満の元〕地元で密を避けて城址歩き! 今回は真壁城、最初に来た時よりだいぶ発掘調査が進んでいて見所が出てきました。中には土塁や堀がそのまま遺っている所があります! これからますます楽しみな城址です。
雨引観音にある移築門も見てきました。
追伸
案内板の所で蝉が蜘蛛の巣にかかり死に際でしたので助けてあげました、だって蝉の命は短いからかわいそうですよね❗️
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2021/08/19 19:35
石碑の周辺に遺構が見当たらない (2021/05/29 訪問)
鷲巣・丸根両砦の陥落を那古野城でごろごろしていた信長が知って愕然となるシーンは冗談で、さすがに救援には向かっていたらしい。ちなみに石碑の周辺には鷲巣砦らしい遺構がないらしいということを現地で初めて知って驚いた。
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2021/08/19 16:34
渋川城に行ってきました (2021/08/19 訪問)
渋川城に行ってきました。
お寺の跡にあるこの城は1570年代に築城されました
遺構は堀の跡?のような溝がありその周辺に
井戸の跡?があるらしいです。
お寺の駐車場に車をとめ登城しました
石碑は寺の中にあり分かりやすい場所にあります
ここは元亀三年に真田幸隆ら武田勢が渋川城の上のほうにある
白井城を攻略する際構築した城と言われています
そして長尾憲景が八崎から出撃してそこの場所にいた武田勢を
破ったと言われています
〔城情報〕
・別名寄居城
・築城年代1572年(元亀三年)
・平城
・築城者 渋川地衆
・主要城主 武田氏(以下不明)
・主な遺構 郭跡、堀切、井戸、土居
・長さと形 180m×150mのほぼ正方形(長方形)
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2021/08/19 14:50
信長が武田対策で築こうとした城 (2020/03/01 訪問)
美濃国の東部で最大の敵、武田の岩村城に対抗しようとして築いた城。
脆くも武田家が弱体化しこの城の建設は中断するが、武田滅亡後数ヶ月で信長も逝く。
小規模だが、まるで信長の人生を象徴するかのようなこの奇抜な城跡が好きで、私は何度も訪れている。
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2021/08/19 10:41
2021/08/19 10:18
2021/08/19 10:12
2021/08/19 08:29
和具城(三重県志摩市志摩町和具) (2021/08/01 訪問)
和具城(城びと未登録)は、詳細は不明ながら室町期に青山氏(和具氏とも)によって築かれた城で、青山豊前守は九鬼嘉隆の侵攻に対して越賀氏らとともに抵抗した後、和睦して九鬼水軍の一員となり、九鬼氏がお家騒動で転封された際には、青山氏も和具を離れて摂津国・三田に移りました。
和具城は和具漁港東側の丘陵地に築かれた城で、南に太平洋を見渡せる位置にあります。駐車場はないので丘陵西麓の道路脇に路駐して登城開始。西麓の登城口から民家に至る舗装道を上って行くと、ほどなく目前に主郭西辺の切岸が現れます。切岸をよじ登り、土塁の上から主郭内部を見ると、下調べでは畑とのことでしたが、時季的にもすっかり藪の中…。越賀城の笹藪よりは遥かにましですが、藪蚊が飛び交う中を突入する気力もなく、主郭西部の虎口とその脇の石積みを確認して退散しました。
藪や虫が(蛇も獣も)嫌なので、夏場の山城は避けていますが、丘城でも未整備だと同じことですね。鳥羽城や田城城、この後に行った波切城はよく整備されていて問題ありませんでしたが、越賀城と和具城は夏に訪れるのは無理がありました。…冬でも無理かもしれませんが。
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2021/08/19 06:54
別名は内城館 (2021/08/13 訪問)
上野原駅北口から徒歩で20分くらい。
鶴川の河岸段丘上にあります。
上野原駅は北口と南口の高低差がかなりあり、城の南側は崖で守られていたことが想像できます。
城跡には中央道が走っていて、稲荷神社に説明板が立っています。
これによると地下には遺構も眠っているかもしれません。
明確な遺構はありませんがカルビンさんの投稿にある畑は確かに堀跡と思われます。
城の知識はまだまだなので皆さんの投稿には大変お世話になっています。
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2021/08/18 16:44
広大な縄張りが見渡せる (2021/03/23 訪問)
冬枯れの時期、手入れも良くされており縄張りが良く理解でき、堪能。往時は石垣も多用されていたことも分かるが、相当破却されているのが至極残念。豊臣政権時、大和三城のひとつだったというのも納得できた。
帰路の途中、近くに又兵衛桜という立派な枝垂れ桜があると聞き寄り道。大坂の陣で戦死した後藤又兵衛が実は生き延びてこの地で余生を送ったという言い伝えがあり、その住まいにあった枝垂れ桜がこれだという。
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2021/08/18 08:21
海に突き出た岬の城 (2021/08/01 訪問)
詳細は不明ながら、室町期に越賀氏によって築かれた城で、九鬼嘉隆の侵攻に対して、越賀隆俊は越賀城に籠城して抵抗した後、和睦して九鬼水軍の一員となり、隆政、隆春と三代にわたって九鬼氏に仕えました。
太平洋に突き出た小さな岬に位置し、三方を海に囲まれた単郭方形の城で、北側の集落との間を堀切で断ち切っています。堀切の西端に主郭に至る登城路が設けられていますが、時季的に藪に沈んでいて突入するのはためらわれます。それでも勇を鼓して、藪をかき分け蜘蛛の巣を払いながら進んで行くと…主郭もやっぱり藪の中でした。下調べでは中心部は畑とのことでしたが、もう何年も放置されているようで、笹藪が激しく茂っていてとても入り込めません。かろうじて北東隅の土塁に石組みの穴(井戸? 古墳跡?)が見られたくらいでした。
なお、越賀城から西に車で約3分の普門寺は、隆春が隆政のために建立したとされる越賀氏の菩提寺で、境内には越賀氏三代の墓所があります。普門寺の寺紋は越賀氏の家紋と同じ桧扇(七本骨扇)のようですが、門の脇には桧扇紋の瓦が並べられていました。
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2021/08/17 23:02
2021/08/17 20:12
2021/08/17 17:47
今村城石碑が民家に (2021/08/17 訪問)
たまたまネット検索で見つけた今村城に行ってきました
石碑があると聞いて車で登城しました
あるていど遺構があると思い調べようとしましたが
雨でいけず、さらに石碑が民家の前にあり行きにくかったので
あきらめました。
そのご城びとで今村城があり、赤い城さんやチェブさんが石碑を取っている人がいて
つぎは石碑の写真と遺構の状況を調べたいとおもいます
(城情報は情報が無かったのでまたのきかいに載せることにします
ご了承願います)
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2021/08/17 17:33
竹田城 石垣 (2021/08/15 訪問)
竹田城ってすごいよね!
私は評価ニキみたいに批評できないけど、とにかくすごいよね!ね!(圧)
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2021/08/17 11:04
真田氏の山城に石垣が (2020/10/03 訪問)
真田幸隆は真田本城を拠点としたとされるが、さらに山奥の松尾古城を根城という説もある。この城の本丸は石垣で囲まれていると知り、違和感を感じながらも訪問。
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2021/08/17 09:40
小笠原流石垣 (2020/11/15 訪問)
小笠原家の拠点からさらに北方向に位置するこの城の石垣を見るために訪問。
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2021/08/17 08:46
九鬼岩倉神社 (2021/08/01 訪問)
戦国後期に波切城主・九鬼泰隆が鳥羽進出のために築いた城で、その孫・浄隆の代に北畠氏の支援を受けた志摩七党と呼ばれる地頭たちに攻められ、戦の最中に浄隆が病死(討死とも)し、まだ幼い澄隆が家督を継いで叔父・嘉隆の補佐を受けるも落城。澄隆と嘉隆は朝熊山に落ち延びました。その後、織田信長に仕えた嘉隆が北畠氏を破ったことで、澄隆は田城城を回復しましたが、九鬼氏の実権を嘉隆に握られたまま病死(嘉隆による毒殺とも)し、嘉隆が本拠地を鳥羽城に移したことで廃城となりました。
加茂川と河内川に三方を囲まれた丘陵地に築かれた城で、かつては周囲は湿地帯だったようです。国道の九鬼岩倉神社前交差点近くに石鳥居があり、その脇に田城城跡の標柱と説明板があります。鳥居をくぐり階段を上って行くと神社の境内に至ります。ここが主郭のようです。東西に細長く広がる主郭の北辺と南辺には土塁(状の土盛り)が見られ、東奥に九鬼岩倉神社の社殿が建てられています。
九鬼岩倉神社は嘉隆の子・守隆が澄隆を祭神として祀ったとされますが、そうせずにいられないあたりが毒殺説を裏付けているようにも思えます。ともあれ、訪れた時も氏子の方々が境内の整備をしておられました。今なお大切にされているようです。
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