兵庫城が築かれた兵庫津は奈良期に行基が整備した港で、当時は大輪田泊と呼ばれていましたが、平安末期、日宋貿易の拠点とするべく平清盛が大修築し、今日まで続く国際貿易港の基礎となったことから、周辺には平清盛ゆかりの史跡が数多く見られますので、兵庫城とあわせて訪れてみました。
清盛塚
清盛塚の花崗岩製の十三重石塔は鎌倉中期に執権・北条貞時が建立したと伝わり、平清盛の墓所と考えられてきましたが、大正の道路拡幅時の調査では石塔の下に墳墓は確認されませんでした。石塔の隣には清盛の銅像や、清盛の甥で琵琶の名手の平経正の墓所とされる琵琶塚の石碑が建てられています。
能福寺
清盛塚が清盛の墓所でなかったとしても、遺骨を大輪田や経ヶ島、能福寺に収めたとする文献が複数あることから、能福寺には清盛の八百回忌にあわせて平相国廟が再建されています。また、能福寺は兵庫大仏の寺としても知られています。
来迎寺(築島寺)
清盛が大輪田泊の修築に際して風浪避けとして築いた経ヶ島の位置は特定されていませんが、一説には築島寺とも呼ばれる来迎寺周辺と言われています。経ヶ島築造は難工事だったため、清盛の従者の松王丸が人柱となって工事を完成させ、来迎寺はその菩提を弔うために清盛が建立したと伝わり、松王丸の供養塔が建てられています。また、その隣には清盛の寵妾の妓王と妓女の供養塔も並んでいます。
一方で、人柱に替えて一切経を書いた石(経石)を埋め立てに用いたことから経ヶ島と呼ばれるようになったとも言われます。この日訪れた松岡城跡の勝福寺が経ヶ島築造に協力したというのは、経石を書いたということなのかもしれません。
清盛くん像
新川運河西岸のキャナルプロムナードから入江橋方向に曲がったところに清盛くん像と説明板があります。かつては平家物語に描かれた悪逆非道のイメージでしたが、大河ドラマにもなりましたし、再評価が進んだことの証ですね。
その他、清盛ゆかりの地では薬仙寺の萱の御所蹟碑を見落とし、兵庫城ではイオンモールでの見落としに加えて、つい先日(11月3日)には初代県庁舎(兵庫城跡の大坂町奉行所勤番所)を復元した初代県庁館が開館したようですので、またいつか(和田岬砲台とあわせて?)訪れることになりそうです。
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