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城好きのメガネ

「横須賀城」 (2024/04/06 訪問)

<オススメ>★★★★★
横須賀城は徳川家康が大須賀康高に命じて築いたとされる。その後、東海道の要衝を守護する地として大須賀家2代、渡瀬家1代、有馬家1代、大須賀家2代と能見(松平)家2代、井上家2代、本多家1代とめまぐるしく藩主が代わり、西尾忠成が2万5千石で入封し、廃藩置県まで西尾氏が治める。戊辰戦争では尾張藩の説得を受け、新政府軍に恭順した。現在、曲輪、石垣、土塁などが遺されている。

<アクセス>
JR袋井駅 秋葉バス「七軒町」下車 徒歩10分

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カズサン

自然石基壇に石碑と解説板 (2024/04/20 訪問)

 木舟城を終えて北陸路14番目南西に約6.3km程の蓮池城を初登城。

 駐車場:無し、自然石基壇の南横に路駐。
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 自然石を使用した基壇に松、ツツジが植栽されて自然石の蓮沼城銘記の石碑、蓮沼城跡解説板、城主遊佐加賀守藤原長滋の連歌「たひ人の しつまる月に かねなりて」句碑が立っている。

 解説板によると、城域規模は東西26間(46.8m)、南北36間(64.8m)で周囲に幅5間(9.0m)の堀が有ったとの事。蓮沼城は室町中期越中守護の畠山氏の家臣である守護代遊佐氏の居城であった。遊佐氏一族は文事を好み都より連歌師がしばしば蓮沼城に立寄り句会が開かれた様子、代表作が句碑の刻まれてる。天正13年(1585年)佐々成政の家臣が守備していた蓮沼城を前田利家が攻略した。(解説板抜粋)
 短時間の探訪にて次に安養寺城(安養寺御坊)を目指す。
 

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ゆき

広大な広さ (2023/12/30 訪問)

まさに圧巻です。
本丸までが遠い‥
以前はもっと遠くにあったんでしょうね。
ゾッとします。

年末だったため天守閣の内部は公開されてませんでした。
残念!!
時間がなかったのでさらっとしか見てませんが多分一日かけて回らないとじっくりは見れないと思います。

石垣の発掘調査をやってました、いずれ公開されるようです。

この辺りは大阪の陣絡みの史跡や名残が色々あるのでまたしっかり時間をとって行きたいですね。

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もりちゃん

見る方角によって全く異なる素敵な姿を見せてくれます (2024/05/04 訪問)

さすが人気城ですね。入場券を買うまでに1時間待ち、更に入城するまでに50分待ち、見物ルートも大渋滞で、内部の造りや天守からの景色は堪能できましたが、自分のペースで見学することはできませんでした。
GWだったからかもしれませんが、計画はしっかり練ったほうが良さそうです。
ぐるり四方を巡ってみると、どこから見ても美しい、総堀跡にも一部 土塁や石垣が見られます❗
コンパクトな街で、近くには四柱神社などもあり、御朱印好きにも堪りません‼️

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todo94

針尾送信所の近く (2024/03/28 訪問)

佐世保鎮守府周遊ラリーの川棚町のポイントに続いて、針尾送信所に赴きました。こんなに巨大な構造物の存在を今まで知らなかったとは。針尾城は針尾送信所のほど近くですが、グーグルマップに載っていません。城郭放浪記さんの情報をもとに雨中、しばし彷徨いつつ、見事な二重堀切を見つけることができました。主郭からの帰路、堀切を越える際に足を滑らせ尻もちをついてジーンズが泥だらけになってしまいました。この後は西海市の2つのチェックポイントをクリアすることができました。崎戸島の先端、北緯33度線展望台はかなり遠かったです。

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たぬぬ

桜の季節の桜チャシ (2024/04/29 訪問)

公園として整備されていて、目立った遺構は確認できませんでした。
かつては、チャシであることを記載した案内板があったようですが、登城時は撤去されていたようです。
その名の通り、桜がきれいでした。

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すみか

GW初訪問 (2024/05/05 訪問)

頂上までの登山ルートは4つ、過去に死者が出たこともあるとのことで、侮れない険しい山。 ロープウェイ頂上からもさらに山を登って、ようやく天守に到着。本当に山に沿う形に建てられた城。
頂上からの見晴らしは絶景、城主として下々を見下ろすのは優越感だったろうと想像。
天守から見えた美濃の山と町と長良川は、まちづくりミニチュアっぽくて楽しかった。

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T-Shionoya

本證寺の城郭伽藍 (2024/01/27 訪問)

城郭施設が残る珍しい寺院とのことで1月に訪問した愛知県安城市の本證寺。

鎌倉後期の創建と伝わり、室町時代には地域の本願寺派の有力寺院に成長。
矢作川西岸の平坦な碧海台地上に位置し、戦国期に入ると自衛のために堀と土塁が必要となったのでしょうか。
1563年に三河一向一揆が起こると、一揆方の拠点の1つとなり家康と対立。その結果、空誓らが一旦は領国追放となりますが、1585年に赦免され再興を果たしました。

現在も内堀内は本證寺の境内で、本堂や庫裏、裏門、鼓楼などは江戸期から残る建造物。また内堀周辺エリアは令和9年の史跡公園化に向け発掘調査と工事が進行中。ただし内堀や土塁が戦国期に存在したという決定的な証拠は得られていないとのこと。

訪問時は本堂周辺の内堀や鼓楼を確認した後、裏門から境内の外側を散策。
隅櫓のような鼓楼やクランク形状をした内堀は、正に要塞の雰囲気。
境内北側は草木が少々伐採され、一般にはまだ未公開の土塁が一部確認可能な状態。

滞在時間は約1時間半。
3年後が気になる城郭伽藍の本證寺が、私の城郭巡りの172城目となりました。

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🏯🐈おーちゃん

とにかく (2024/03/09 訪問)

寒かったでしゅ
城下町歩きも楽しかったでしゅが
なんかもったいない感じでしゅ
軒先貸し出しとかでもお店増やせば賑わう
スポットにならないでしゅかね〜

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🏯🐈おーちゃん

行きまちた (2024/03/09 訪問)

寒い日で雪空でちた
昔の人は足腰が丈夫なんでしゅねー

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三浦の晃ちゃん

附家老の城 (2024/05/05 訪問)

紀州徳川家の附家老、水野氏の城です。石垣が見事でした。ただ、案内表示が少ないので、それを直して欲しいなと思いました。

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赤い城

僕らのカープ♪ (2024/04/29 訪問)

ご存知、広島カープの球団名由来の鯉城、広島城です。
マツダスタジアムでのナイターが雨天中止となりとりあえず陽気でラーメン食べて宿泊先に。
翌日から九州遠征なので気を取り直します。

翌朝、相方睡眠中に久しぶりに広島城を散策しました。
近世城郭ではまずは内堀を一周するのが常ですが、この日もまずは内堀沿いに歩きました 

GWとは言え平日、人もまだまばらです。
横矢がかかる石垣も素敵、裁判所敷地内の土塁も見学しました。

北側に行くと天守も望めます。
復元ですがやっぱり見応えありの天守です。
内堀を一周して大手門から二の丸へ。
もちろん堀には鯉が泳いでいます。
この二の丸、馬出を兼ねる珍しい造りです。

中御門から本丸に入りますが、石垣が所々赤く焼けています。
そう、原爆によるもの、違う意味でも歴史を感じます。
本丸には日清戦争時の大本営跡も。
広島が軍事の重要拠点であったことが伺えます。

北西の隅に復元天守、朝早かったので中には入れませんでしたが内部は博物館になっています。

福島正則時代の石垣や土塁も残り石垣には刻印のある石も積まれています。

原爆で天守含めて破壊されましたが様々な時代の歴史を感じることができる城なのではないかと。

帰りは大手門前の地下道を通りましたがここに暗渠の跡も残っています。
鯉城を訪れる際には見逃し無きよう。

しかし今日もカープ負け、打てない・・・。

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真壁久幹 (2024/05/04 訪問)

 筑波山系から西へ伸びる尾根上の微高地を利用して造られた城です。今でも発掘調査が行われ史跡公園整備事業が進められています。見学路があり、堀や土塁等と見ることができます。
 いろいろと逸話のある真壁久幹、氏幹父子ですが、小豪族として戦国時代を乗り切っていて興味ある一族です。

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新善光寺 (2024/05/04 訪問)

 戦国時代には結城氏、小田氏が争った境目の城です。最終的には佐竹氏の支配となりました。当時の城域はかなり広かったようですが、面影はあまりありません。新善光寺へ行って来ました。墓地横の堀跡と思われる地形がありました。他にも土塁等が所々残っているようですが確認していません。

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カズサン

田圃の中の微高地が城跡 (2024/04/20 訪問)

 切山城を終えて加賀の国から越中の国へ北陸路13番目北東に約18km程の木舟城を初登城。当初は切山城から近い松根城沿い安養寺城、蓮沼城、木舟城と廻る予定でしたが、切山城へ進行中国道304号線途中に国道359号線(富山方向へ抜ける)が今回の能登沖地震災害で通行止の表記を確認し、駐車してる道すがらの車の運転手に聞きますがはっきりしなく、高速北陸道、能登道(金沢森本IC~福岡IC)を利用してまず間違いない木舟城を先に登城する次第と致しました。

 駐車場:木舟城址公園専用駐車場、バスもOK、トイレ有。
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 能登道福岡ICを降りたらすぐに木舟城に着きます500~600m程西、専用駐車場利用、田圃の中に微高地として残ってる本丸跡、解説板を見ると南北に湿田沼状の微高地に本丸、北曲輪、南曲輪、東に東曲輪貴布祢神社鎮座の構、周辺の民家も微高地に夫々建ち周りは水田に成っている、湿田沼地に囲まれた要害だった様子が窺えます。
 
 歴史は、平安末期石黒氏が築城と伝わり約400年国人領主として栄えたが上杉氏に服属、越中一向一揆勢力との抗争、織田氏に服属の中、上杉氏に木船城を追われた。その後織田氏の信頼を失い織田氏に滅ぼされた。
 
 その後越中は前田領となり天正13年(1585年)8月前田利家の弟前田秀継が城主として入るが同年11月の天正大地震で木舟城は倒壊し秀継夫婦は落命した。
 天正大地震の災害では飛騨帰雲城の山塊崩落地すべり山津波崩壊が有名で埋蔵金黄金伝説でも有名、此処木舟城も液状化現象、地滑りが発掘調査で確認されています、長浜城山内一豊城主の時代に災害を受け娘が亡くなって居ましたが?中部圏大きな被害だった様で、戦い中の小牧長久手の戦いもこの地震で終焉を迎えた様でした。

 今年の元旦に能登半島沖地震が発生して大きな被害を受け現在も復旧活動が続いており、お見舞い申し上げます。
 
 

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茶てん23

模擬櫓 (2024/02/02 訪問)

明智光秀の娘・玉
細川ガラシャ

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茶てん23

幻の一夜城 (2023/10/28 訪問)

夕日とひょうたん

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ヒロケン

巨大三重天守 (2024/05/04 訪問)

小田原城天守が最初に築かれた時期は分っていないそうですが、前期大久保氏が城主を務めた1596年~1615年頃には存在した可能性が高いそうです。小田原城天守は4度建て替えられ、現在の天守は1960年に鉄筋コンクリートで外観復元されており、江戸時代の天守雛型や明治期の解体中状況を撮影した古写真を参考に復元されたもので、外観はほぼ正しいとされています。
外壁は白漆喰の総塗籠で、二重目の屋根面を千鳥破風を二つ並べた比翼千鳥破風、二階建ての出窓が設けられている点は、小田原城天守独自のデザインです。

5月4日小田原城を訪れた日は、第60回小田原北條五代祭り(祭り期間、5月3日~5月5日)が行われており、二の丸広場でイベントが行われており、大勢の方がお祭りに参加されていました。
人出が多く天守に入るにも行列が出来ており、時間の都合上諦めました。(何度か天守内に入っているため、さほど気になりませんでしが)
しかし、この天守は、何度見てもデッカイし、恰好が良い(*^▽^*) 石垣好きではありますが、やはり近世城郭には天守があった方が絵になります。

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茶てん23

天守 (2023/10/28 訪問)

公園内にある天守

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茶てん23

二の丸東南隅櫓 (2023/11/25 訪問)

地元です。

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