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ぴーかる

滝山城 (2022/10/30 訪問)

【滝山城】
<駐車場他>神戸箕谷線<34.706206, 135.182741>の駐車スペースに駐車しました。
<交通手段>車

<見所>曲輪・土塁
<感想>城跡に至るルートは2つくらいはあるようで、上記の駐車スペース(城跡西側)からハイキングコースで城の搦手から入るルートと東側の布引から瀧山ハイキングコースを通るルートとあるようです。私の行った西からのルートは比較的なだらかですよ。
 滝山城の築城年は定かではないが築城者は赤松円心によるもので、1333年鎌倉幕府倒幕で挙兵した円心が摩耶山城を築いて京都近辺まで進撃しますが六波羅探題軍に押し返されて「生田布引の城にこもる」(瀧山城)と文献にあるそうです。戦国時代には松永久秀の持城となり現在の遺構に見られる大改修を行います。その後三好三人衆との権力抗争で淡路の安宅水軍に攻められて落城します。
 私の行った西側からのルートは堀切・二重堀切を超えたあと主郭櫓台の裏側搦手側から城跡に入ります。主郭から放射状に広がる段曲輪にはあちこちに石垣の転落石が転がっており少しだけ石垣跡も見られる箇所もあります。主要部の南にある大竪堀とその周辺は山城観のある見応え、現地説明板・縄張り図のある主要部の虎口には巨石がありここも見ごたえあります。主要部から南に連なる曲輪を見て終了しました。城跡内で夢中で石垣を探しをしました。円心が築城して松永久秀が改修している山城でこんだけ遺構が残っている城跡ってあまりないような気がします。なかなかいい城跡でした。

<満足度>◆◆◇ 
 本当にこれにて城びと登録のある赤松氏の山城コンプリート出来ました。自分好みの石垣・石垣跡の多く残る巨大山城が沢山ありました。またそれらを巡り山城遺構を見る目が出来て大変勉強になりました。また再訪したいです。

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カズサン

【越前・白山平泉寺城】福井県勝山市 中世の石畳道 (2022/11/03 訪問)

 南谷・復元の土塀と門編の続きです。

 白山平泉寺城へたどり着くまでに数拾年掛かりましたが、今思えばそれまでに近くの一乗谷城、越前大野城、勝山城、村岡山城(ムロコヤマジョウ)、勝山城博物館と探訪しておきながら、イオさんの投稿写真で一瞬ハット気付く、勝山城博物館の北側の道を東に2km程進んだ所だったのですね、近くに行きながら気づかない。疑問もやもやがはっきりして有難い。
 白山信仰の最初の拠点で中世の宗教都市、城郭都市、武装集団と歴史が綾成って居ます、発掘調査されて一部復元、まだまだ発掘調査が続く事でしょう、坊院跡も全体で6000箇所在るとか、世界遺産登録を狙ってるとか、白山信仰と中世宗教都市、武装都市として一乗谷城の中世城下町、城跡と合わせて登録なると良いですね!

 さて、続きの探訪は、南谷発掘地の復元の門・土塀の区画を終えて、西へ進み四辻へ、そこの南北筋が中世の石畳として発掘調査の上石畳道が復元されて東側は坊院の石垣塀、石垣塁が若宮神社まで続いてる、石畳道の西側は横堀が若宮神社まで続いてる。横堀の西側も土塀が在ったそうです。
 石畳道の東奥には杉林が林立してますが石垣などで区切られた坊院跡が曲輪が群がる様に在るそうで、石垣段の連なる様が垣間見られます。
 壮大な広さです。皆さんも大野城、勝山城つながりで探訪されたら如何でしょうか?

 (続きます、残存大杉を訪ねて編へ)
 

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いんげん丸虫

笹平城 新潟県村上市 (2022/11/20 訪問)

上杉謙信の重臣、本庄氏の反旗に対抗するために謙
信の命により急造されたようですね。
標高238mの山頂に主郭があり、主に2つの主要尾
根上に遺構が展開しています。
連続竪堀、畝状阻塞が数ヶ所にあります。
また投石陣地と称して川にあるような丸い石が集積
されてる箇所が何ケ所かありますね。
しかし新潟特有の常緑植物ユキツバキが凄くて、移
動するのも大変です。雪に耐える為、茎はしなやか
で冬に花を咲かせるので生き生きとしています。
まぁ、このツバキ種の藪のおかげで遺構の保存が
良好なのかもしれませんが。。
尾根先端の畝状阻塞など写真とかでは表現出来なく
その場に出向かないと見れないというのが逆に貴重
な遺構かも。もしも藪状態でなく遺構が明瞭に見れ
たら山城ファン垂涎の城郭になるでしょうね。
先人のHPでは中津川に木橋が架かってたようです
が、現在はありません。
城跡の周りに林業関係の作業道がありますね。

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零汰

9月:大分角牟礼城と、4回目の福岡鷹取城・・・撮ツー (2022/09/10 訪問)

局地的にゲリラ豪雨に見舞われて、梅雨時期からまともに城に行く事が出来ずにいた。降水確率0%晴れ時々曇り所により雨、毎日が予報のフルメニュー、どの予報を信じていいのやら。

9月に入り幾分天候が落ち着いてきて完全に晴れそうな日が2日あったので1泊で出掛けてきました。本格的に山城はちょっと気乗りせず、九州の平城は思い浮かばず思案していた。おお!そうだ、4回目の鷹取城行こう、今年こそはウネウネ見れるかもしれない。だったら角牟礼城にも行って石積と一緒に写真撮ろう。結果、阿蘇方面を抜け、気になっていた城の入り口を確認しながら景色を楽しみ写真を撮りながら城訪問には滅多にお供しない1号機で出掛けた。

大分の角牟礼城は2019年に行った。続100城なんですね、今年初めに知りました。こちらは三の丸まで行けるので石垣と一緒に良い写真が撮れます。

福岡の鷹取城は2019年から毎年訪れている城で、城廻りのきっかけになった大切な城の1つです。が、1度もウネウネを見たことが有りません。今回も見ることが出来なかった。草刈はしているのだけどウネウネ廻りは毎回手付かずの様子です。

早朝からガツガツしてめい一杯城を廻るのも良いが、稀に気の抜けた城訪問もそれはそれで楽しく思える。

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カズサン

【越前・白山平泉寺城】福井県勝山市 南谷・復元の門と土塀 (2022/11/03 訪問)

 中枢寺社城郭編の続きです。

 白山平泉寺は717年に泰澄大師が白山に登ろうとして開いた所、池の傍らで祈っていたら白山の女神が現れ現れ、この池は「平清水」(ヒラシミズ)「平泉」(ヒライズミ)と呼ばれ、ここを中心に修行者の為の宿坊、白山を礼拝する拝殿や寺院が建ち並び発展した。のちに「平泉寺」(ヒライズミデラ)と呼ばれる様になり、何時しか音読みに。
 寺社域は主翼の尾根に社堂48社36堂の神社仏閣が建ち並び北尾根の間の北谷に2400坊、南尾根の間の南谷に3600坊、僧、僧兵8000人、社領9万石9万貫が中世、戦国期の最大勢力の様子でした。
 戦国期天正2年(1574年)一向一揆との抗争により焼失し、9年後焼け跡に再興し、時の領主金森長近、秀吉の庇護、江戸期には松平氏の庇護を受け再建をしていく。
 明治に成り神仏分離廃仏毀釈で平泉寺の名称廃止、白山社の本社、拝殿、鳥居などは白山神社として残された。
 (白山平泉寺散策マップの歴史編からの私なりの大まかな抜粋です)
 
 さて、続きの探訪は、拝殿、本社、三の宮参道鳥居の南側の坂道を降りて南谷側へ、降りると可愛い手製の南谷発掘地への案内指示板、途中に整備されたトイレが有りトイレ休憩、案内に従って東に登り南に進行、復元の土塀、門が見えて来る、イオさんの投稿写真が現実に、復元の門と土塀に対面、南谷発掘地此処まで立派に発掘復元されたのかと感激、屋敷跡に門を潜って行ったり来たり、復元石畳通路、排水溝、水路かも?石橋、石垣塀、虎口風な出入り口、復元門と土塀の西隣にも屋敷跡、石垣で虎口出入り口が残り、屋敷内は草刈りされた直後かよく整備されて居る、石畳通路の途中に矢穴の有る石垣が案内板で指示、他に人は無く私一人、中世最盛期の白山平泉寺南谷坊院跡を独占状態良い空間に迷い込んだ様でした。
 石畳通路、石垣塀、屋敷跡等一つ一つが小城郭屋敷跡の構え防御の様に観えたりもしました、これだけの構えの物が6000坊も有ったのかと驚嘆もした。畏るべし白山平泉寺城郭跡。

 (続きます、中世の石畳道編へ。)
 

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todo94

城カードと天守リニューアル (2022/11/04 訪問)

今回の備後遠征は福山城に一刻も早く行きたかったからに他ありません。2021年のお城EXPOでチラシを頂き、2022年8月28日の天守リニューアルを心待ちにしていたのに新型コロナウイルス感染症の第7波に打ち砕かれてしまいました。お城カードの重文三重櫓シリーズのラスト、伏見櫓のカードは文化の日にゲットしました。この日は伏見櫓の特別公開が行われていました。職場の越県禁止解除が実現した時には既に手遅れだったのですが、羨ましいったらありゃしない。天守に入るにも土日祝日はネットでの事前予約が必要とのことで、改めて平日に出直した訳です。修学旅行生でかなり賑わっていましたがね。特別展「水野勝成と徳川四天王」、しっかり拝見させて頂きました。

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にのまる

住宅街に痕跡 (2022/11/11 訪問)

城址碑のある天神社と(伝)七士の墓へ行きました。
内堀跡とされる水路はこの地が交通の要衝であるためいつの時代のものか判明していないようですが外堀跡とともに館跡としての整合性はあるようです。そして今でも現役です。
駅への往復で外堀にあたる住宅地を歩きました。中村獅童さんのお顔がずっとチラチラしていました。

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Tokyobay

クランクはあるものの、城下町らしからぬ道幅の広さが印象的 (2022/10/17 訪問)

クランクはあるものの、城下町らしからぬ道幅の広さが印象的。武家屋敷の配置は城に近い方が上級なので作りが立派になっているようだが、こういうことは大々的には案内していないので気を付けて見ないとわからないかもしれない。
ちなみに、城下町散策の往路はタクシー利用しようとしたが駅前に一台もなく、新幹線停車駅の観光地でもこの惨状なのかと驚く。レンタサイクルは休業だし、バス利用しようとしても歩いた方が早いと言われ、仕方なく往復歩く事に。タクシーは予約した方がよいかもしれない。

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ぴーかる

摩耶山城 (2022/10/30 訪問)

【摩耶山城】
<駐車場他>掬星台駐車場有料を利用
<交通手段>車

<見所>竪堀・当時のものなら石垣
<感想>攻め取りこぼしていた赤松氏の山城、涼しくなってきたので攻略してきました。摩耶山城は1333年、護良親王の令旨を受け鎌倉幕府討幕の挙兵をした赤松円心が播磨から進軍し六波羅探題勢と戦うために築いた城です。
 掬星台駐車場に駐車し掬星台展望台から天上寺跡を通過しハイキングコースを南下・下山しました。城跡は摩耶ケーブル「虹の駅」から西側一帯にあり、狭地(かつての堀切か?)を挟んで東西2つのピークに曲輪が分かれています。東側は展望所となっている曲輪・そこから下段(雑草化している)の曲輪がいくつかと東側ピークにはコンクリートの建造物があり、その傍から大竪堀が1条見受けられます。西側の曲輪群はかつての摩耶花壇跡(宿泊・娯楽施設)で現在は私有地となっていて立入禁止となっています。西側には石垣が多く残り、基壇と一部は施設跡(石垣の石を使用している?)狭地とケーブル駅を降りてすぐ左手に見える石垣などは隙間をコンクリートで埋めているものの、私には当時の石垣(城びと情報にも遺構石垣とあるので)をそのまま補強しているように見えました。戻りもロープウェイ代をけちってハイキングコースを徒歩で登りました。1㎞くらいかなりきつかった。

<満足度>◆◆◇
<周辺観光>掬星台:六甲山展望所と共に神戸の夜景が美しいデートスポットです。20代の頃から数回来たことがあり、昔から城跡があることも知っていましたが赤松氏の城だったとはつゆ知らず。
天上寺跡:摩耶山天上寺は大化二年(646年)孝徳天皇の勅願によりインドの高僧法道仙人によって開創されました。1976年に火災にあい建物のほとんどが焼け落ちましたが山門は残っています。摩耶山城も当時は天上寺を背後の守りとして砦として利用していたかもしれません。

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零汰

8月:アニメ呪術廻戦展・・・鹿児島城跡地黎明館にて (2022/08/28 訪問)

特に好意があったのではなかったのだが、安倍元首相の襲撃事件に動揺してしまった。以降投稿を試みたが気乗りがしなく早4カ月経ってしまった。その間に、国葬も終わりレベルを保つ最後のワールドカップが始まった。4年ぶりに睡眠不足な1カ月が始まった。2026年以降からは出場国が32か国から48か国に増えてしまいガッカリ。数が増えるとハードルが下がりレベルの低い大会となる。密かに思う・・・続続100城出るなよ、と。

8月は荒れた天候により全ての予定をキャンセルし、まともに城を訪れたのは鹿児島城だけ。孫と娘に連れられて鹿児島城跡地にある博物館「黎明館」で開催中のアニメ呪術廻戦展を見に行った。復元門も。呪術廻戦は昔から多くの男子を魅了し続けている週刊少年ジャンプに連載中の漫画が原作です。私も小学生の頃からお世話になっていて名作は数知れず、今でも新刊ごとに単行本を購入している作品もあります。因みに私は原作派、原作が先だとアニメになっても見ない事が大半です。オリジナルの破壊力を超えるものは多くなく余程の事が無い限り興味が沸かないです。

展覧会ではマニアックな物が多く有り、数知れない人々が熱心に時間をかけて食い入るように見ていた。「色んなオタクっぽい人達多いね、あんなに熱心に、分らん。」と娘に言うと「パパもそうじゃん、山とか畑みたいな所行って、土手見て石見てるじゃん。私にも分らんよ。」流石私の娘、ストレートな答えが返ってくる。

工事中から復元門の前を通った時に時折見ていたが、立ち止まって見たのは初めて。写真に納めて自宅で鹿児島城のフォルダに保存しました。

いんげん丸虫さん、毎回コアな城チョイスとブレない姿勢が素敵です。投稿の再開お待ちしてました。これからも陽のあたる場所に出てこない城の投稿楽しみにしてます。

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西の城 (2022/11/24 訪問)

 一之瀬公民館バス停から案内表示したがって3分くらい歩くと登城口に着きます。城は尾根にあり堀切を備えて防御しています。主郭の背後には6カ所の堀切(表示は空堀)があり楽しませてくれました。案内板には「一之瀬城は東西の城が一体となって機能した城でした」と記されていましたが、どのように機能していたか気になります。城域は概ね整備されて、それなりに歩きやすいと思います。
城の周囲には寿宝院跡、向井将監屋敷跡があります。

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東の城 (2022/11/24 訪問)

 東の城と西の城があります。
愛洲氏の城で、五カ所城へ移転するまで居城でした。居城を移してからは支城としていたようです。南北朝の頃、後醍醐天皇の皇子、宗良親王を迎えて北朝と戦ったとされます。戦国期は田丸氏が、織田信雄が田丸城に入城したため一ノ瀬城に入ったとされます。
 伊勢市駅(JR、近鉄)より三重交通バスにて一之瀬公民館下車。バスを降りると左右に一之瀬城の東の城と西の城の案内表示があります。まずは東の城から行きました。バス停から徒歩1分で案内板に行くことができます。案内板の横に「一之瀬城を守る会」が作成された資料が雨に濡れないように置いてありました。
そこから一之瀬神社を経て主郭まで約5分です。北側には二重の空堀(堀切だと思いますが)や土塁がよく残り見ごたえがあります。先ほどの資料によると東側には連続の竪堀があった可能性が記されていました。南の見張り台には宗良親王の碑がありました。城内は整備され歩きやすく、各所に表示もあり散策しやすい城址です。

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カズサン

【越前・白山平泉寺城】福井県勝山市 中枢寺社城郭 (2022/11/03 訪問)

 数拾年前より福井県に白山神社城郭が在る?との情報が脳裏に残って居り色々の城郭誌を見て居ましたが場所が分かりませんでした、ところが今回10月6日の「イオさん」平泉寺城投稿の写真で脳裏の写真とピッタリ合致し、あぁ此処だったのかと、白山神社と平泉寺城とが一緒だったのだと合点しました。長年の疑問が晴れました、イオさん投稿有難う。

 と言う事で秋晴れを狙って文化の日、白山平泉寺城を主目的に越前未踏の城廻り致しました。
 地元で白山平泉寺と呼称されて居ましたので今回の投稿は越前の国なので【越前・白山平泉寺城】の呼称を使わせて頂きます。

 住所:福井県勝山市平泉寺町平泉寺56(平泉寺白山神社グーグルマップ史跡マーク)
 住所:福井県勝山市平泉寺町平泉寺66-2-12(白山平泉寺歴史探遊館まほろば)

 先ずは歴史探遊館まほろばを目指し、空きの有ったまつや前の駐車場を利用、まほろば館により館内観覧と白山平泉寺散策マップを頂き散策探訪を開始。

 脳裏に残ていた白山神社一の鳥居、精進坂で初の対面、此処だ此処だの脳内反応、参拝者は結構多い、世界遺産登録を狙って居るようです、参道を進み杉林、杉並木が林立し、石垣は苔むし幽玄な雰囲気、参道両脇には坊院跡が石垣で囲まれ区切られて居る、国の名勝枯山水の庭園はパス、御手洗池は出入口が枡形虎口の様な石垣構造、二の鳥居を潜ると神域中枢、一面苔むし神秘的拝殿前の広いエリアは往時、大講堂、各伽藍が立ち並んでいた事でしょう、正面に拝殿、焼失前は三十三間拝殿(約60m)が建っていたそうです、両脇にその痕跡の礎石が苔むし残って居ます、その奥が本社が鎮座、基壇は巨石を使った石垣と成って居り石段が三基、夫々本社、越南知社、別山社が鎮座、巨石の石垣は見応えが有ります。
 拝殿の南側の鳥居から三の宮への参拝路がります、まほろば館の係員の方に伺ったら約30分掛かるとの事でパスし、陽の有る内にと更に南降りて復元の門と土塀の在る南谷発掘地へ急ぎました。(復元の門と土塀編に続きます)

 天正2年(1574年)一向宗門徒との抗争で焼失したものの、平成元年(1989年)からの発掘調査によって遺構が確認され、坊院跡も徐々に明らかに成り、旧境内は約200haにわたって広がり、現在も地道な発掘が続いているとの事です。
 

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イオ

シンプルでも見応えあり (2022/10/22 訪問)

城ヶ峰と呼ばれる丘陵の頂部に位置する山城で、築城主や築城時期等、詳細は不明ですが、戦国末期の東美濃での武田氏と織田氏の勢力争いの中で活用されたものと考えられます。

大手道登城口の駐車場に車を駐めて登城開始。それなりに歩くことを覚悟していたら、3分弱で南端の虎口に着いてちょっと拍子抜け。虎口の両側には曲輪が設けられ、大手道を攻め上ってきた敵に横矢が掛かるようになっています。虎口を抜けた先には竪堀がありますが、藪に沈んでいてわかりづらい状態でした。

登城道を進んで南側の虎口から主郭へ。阿木城は円形の広大な主郭を帯曲輪や腰曲輪が取り巻き、北東尾根と西尾根を堀切で断ち切ったシンプルな縄張ですが、主郭の切岸は鋭く高さもあり、西から南西下にかけての帯曲輪には土塁が設けられていたり、シンプルながら堅固な造りになっています。また、西尾根の堀切は普通の規模(深さ2mほど)ながら、主郭より高い位置から続く北東尾根には幅10m、深さ6mの巨大な堀切が設けられていて、外側の切通道と併せて二重堀切になっている上に、堀切の西端は直角に北に折れて竪堀となり、東端は竪土塁が侵入を阻んでいます。

阿木城も山城サミット可児大会でリーフレットをもらい、いつか行こうと思っていました。ただ、縄張図を見る限りでは単郭の小さな山城という印象で、さほど期待はしていなかったんですが、切岸は鋭く高く、虎口や堀切にも技巧が凝らされた小さくても見応え充分の城でした。縄張図だけではわからない良さがありますね。また、案内表示や説明板もあちこちに設けられていて、とても大切にされている城だと感じました。
 

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トク

【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (第13回)臼杵城(丹生島城)① (2022/09/26 訪問)

(鶴崎城からの続きです)

大友宗麟は、キリスト教に没頭する自分に対する家臣の不満を避けるため、家督と大友館を息子の義統に譲り、自らは早々に臼杵湾に浮かぶ丹生島(にうじま)に城を築いて移り住み、城下には教会・修道院・学校・病院などを建て、キリスト教の街を作っていました。南蛮貿易も盛んに行われ、臼杵の街は大変賑わっていたそうです。そしてこの臼杵城(丹生島城)は、当時の大手口は海側(卯寅口:写真①)のみにあり船でしか出入りできませんでした。島の周りは40mの断崖絶壁で近づく事すらできない難攻不落の浮城と呼ばれていました。家督譲りも表向きで、重要な政事(まつりごと)は全てこの臼杵で行われていたようです。

大友氏改易後は、1593年に「福原直高」が入り石垣造りの城へ改修を始めます(大友時代は断崖の上に館のみ)。そして現在の古橋口に大手門(写真②)を作り陸続きとし、天守台(写真③)などができた時点で直高は府内へ。代わって1597年に「太田一吉」が入り天守台の上に三重の望楼型天守を完成させ(写真④ここに天守があった)、また31基の櫓と7つの櫓門を造り、現在のような城の原形を完成させました。九州の関ケ原では太田一吉は西軍についたため、東軍の中川秀成(後の岡城主)から攻められます。しかし、この城は大友宗麟の時と同じ、またしても落ちる事はありませんでした。2度の戦にも落ちなかった難攻不落の浮城というわけです。

関ケ原後は、郡上八幡から「稲葉貞通」が入り大手門の改修や二の丸の総石垣化などで形を整え(写真⑤⑥⑦)、幕末まで稲葉氏15代の居城となりました。島も江戸時代に入り砂が堆積したり埋め立てられたりして陸続きとなり、城下も拡張されていったようです。稲葉氏の時代の畳櫓(写真⑧)と卯寅口門脇櫓(写真⑨)が現存しており、ともに珍しい重箱櫓となっています。

続100名城スタンプは大手門(古橋口)の前の「観光交流プラザ」内の受付にあります。その観光交流プラザには無料の駐車場があるため、車の方はそこに止めて見学されたらいいと思います。JR臼杵駅からは徒歩10分程です。「城びと」の大きな看板も大手門(古橋口)横にありましたよ!(写真⑩)。


臼杵に入った島津軍はまず街を焼き払います。この時、宗麟が心血を注いで建てた教会・修道院・学校・病院なども全て焼き払われてしまいまいた。宗麟にとってこれはとてもくやしくかつ屈辱的であったようです。そして島津軍は丹生島に近づけないため、陸より鉄砲を放ちます。しかし、届きません。3日間攻め続けますが、落とす事はできません。

この後、大友宗麟はこのまま籠城を続けるかと思いきや、このくやしさを晴らすべく、何と討って出る事にしました! 実はこの時、宗麟にはある秘策がありました。いったい宗麟はどうやって島津軍を攻め、どうやってこの臼杵城を守り抜こうとしていたのでしょうか?

臼杵城②へ続きます。
 

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todo94

11年ぶりの鞆城 (2022/11/04 訪問)

大可島城を俯瞰するために鞆城にも脚を伸ばしてみました。2011年8月以来、11年ぶりの鞆城です。その間、大河ドラマで何度も足利義昭が描かれました。「麒麟がくる」の足利義昭は特に印象的でした。この後、対潮楼や桝屋清右衛門宅なども巡って鞆の浦を満喫させて頂きました。

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赤い城

別名は宇都野城 (2022/11/13 訪問)

県道30号線を那須塩原方面に向かう途中にあります。
城址の前の道路に駐車スペースがあります。
登城口から登るとすぐに城址。
3つの郭が並び、それぞれ堀切で区切られていました。
主郭と二郭には土塁も残っています。
鎌倉時代の城で、程よく整備された城でした。

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にのまる

大磯城山公園 (2022/11/11 訪問)

JR大磯駅より、旧島崎藤村邸、明治記念大磯庭園(旧大隈重信別邸・陸奥宗光別邸)に寄りつつ行きました。旧東海道の松並木やこゆるぎの浜など歩きましたが、のどかでゆったりと流れる空気や新旧調和し落ち着いた街並みは江の島や茅ヶ崎とは違った湘南の雰囲気です。
国道1号線の南側が旧吉田茂邸地区、北側が旧三井別邸地区となっている県立大磯城山(じょうやま)公園が小磯城址とされています。現状から城の遺構は認められないようです。
山頂の展望台から富士山や箱根の山々がよく見えました。下りは北側の出口へ下山しました。

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スミヤキ

朴葉の落ち葉の絨毯が印象的 (2022/10/22 訪問)

鮫ヶ尾城は、上杉謙信の本拠春日山城にも近く、隣接する信濃へ通じる重要拠点として整備された、標高 185m程の丘陵頂上部に主郭がある連郭式山城です。
謙信急死後の後継者争い「御館の乱」で敗れた上杉景虎が自刃して果てた城としても知られています。

現在は、弥生時代後期の斐太(ひだ)遺跡とその後の古墳時代の古墳群と共に史跡公園になっています。
麓から山頂曲輪に至る登城道(遊歩道)には、山城の北斜面を行く「北登城道」と山頂につながる尾根筋を行く「南登城道」と「東登城道」があります。
麓の斐太神社脇に駐車場があり、少し歩き登ると「斐太歴史の里総合案内所」に着きます。続 100名城スタンプ、パンフレットをゲットして、お薦めの登城ルートを確認して下さい。
案内所から東登城道を上り、山頂曲輪を目指し、北登城道を下る小一時間のハイキングになります。熊除け鈴付杖の貸出しも有り、とても重宝します。
緩やかな勾配の東側の尾根を登ると堀切が多数見られ、強力な防御網が敷かれていた事が分かります。また、山頂曲輪からの眺望が素晴らしく、春日山、頸城平野と日本海が一望出来ます。
そして朴葉の落ち葉で埋め尽くされた道を下り歩いたのがとても印象的。

朴の木の花言葉は「誠意ある友情」、「自然の愛情」だそうです。最後に一緒に戦った仲間の裏切りで自刃する景虎さんの心境はどうだったのでしょうねえ?
里山の自然景観が豊かでそれぞれの季節で歩き楽しめる山城です。おすすめですよ!

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カルビン

ニアピン賞 (2022/11/13 訪問)

石川県遠征の次の日に疲労蓄積しているのに、勢いで群馬県渋川に行ってきました。。。今度こそ自粛前ラストと言う事で(←たぶん我慢できずにまた遠征するw)

渋川駅からレンタサイクルで白井城再訪を含め延距離10kmくらいの行軍を考えていた(以前同じ距離で足がいっぱいいっぱいだったので(汗))ので、白井城をメインとすると剣城は範囲外になるので当初は手抜きで道中の電車の車窓から城碑撮影出来たら登城した事にしようと考えてました(確信犯w)

しかし借りた自転車がアシスト付だったので行ける所まで行ってみようと思って進んでいたら、意外と行けてしまいました(笑)

現地は線路沿いの畑しかない場所で、手作り感満載の城碑がある風景は正にナニコレ珍〇景でした(^^;

結局4時間の滞在で6城回り、何だかんだで25kmも距離走ってました・・・アシスト付自転車、侮れん(ーー;


ちなみに剣城の謂れや由来、何もわからずじまいでした・・・何しに行ったんだかorz


帰宅後に車窓から当てずっぽうに撮った写真みたら・・・非常に惜しかった事が判明。。。
誰も得しないニアピン賞でしたorz

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