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昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:伊自良氏館 (2022/07/29 訪問)

成願寺城からの転戦です。伊自良温泉駐車場(35.957311、136.421717)に駐車しました。
そこから歩いて、伊自良いやしの里(35.957130、136.420968)に向かいました。

詳細は定かではないようですが、鎌倉時代から活躍した伊自良氏の館で、戦国時代は朝倉氏に従い、その後大野城の金森長近に仕え、江戸時代には大野へ移り加藤宗月(依田康勝)に従ったようです。

かみあしみがわの川沿にある土塁が遺構?と思います。
伊自良いやしの里は現在は閉館中です。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=戌山城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:成願寺城と波着寺 (2022/07/29 訪問)

東郷槇山城からの転戦です。成願寺ふれあい会館駐車場(36.030524、136.278888)に駐車しました。その道路向かいに「波着寺縁起」の案内説明板が建てられています。
そこから歩いて、波着寺参道入口(36.030748、136.280040)に向かいました。

詳細は不明のようですが、戦国時代、成願寺の地は一乗谷朝倉氏の重臣・前波九朗兵衛が治めており、朝倉方の要衝として城が築かれていました。
前波吉継は織田信長に内通して朝倉氏の滅亡に加担し、その後は信長に越前一国を任され桂田長俊と名乗りましたが、富田長繁と対立して滅亡しています。

登山道入口の鳥居付近から道を間違えて迷子になってしまい、波着寺さえ辿り着けませんでした。
波着寺縁起の案内説明板に地図まであったのに、方向音痴の自分が本当になさけないです。登城断念です。
攻城時間の30分は迷子でさまよった時間です。次の攻城先=伊自良氏館に向かいます。

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肉球

一回りしてみました (2022/08/23 訪問)

市役所南側にある忍城バスターミナル駐車場に車を止め探索しました。
駐車場は無料です。
城の痕跡が残る部分は少ないですが町中に石碑で案内されていて親切な感じです。
大手門跡は一般住宅の前
隠居所跡と三重櫓跡は水上公園
太鼓門跡は忍小学校と忍中学校の間に
忍小学校の敷地では発掘調査がされているようでしたが
太鼓門に関するものかはわかりませんでした。
二重櫓跡は諏訪曲輪北西にある病院の敷地内に他にも沢山あります。
大手門の北にあった北谷門は加須市の総願寺に移築されています。
門扉は欅の一枚板で出来ているようです。

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赤い城

私有地もあるが遺構が残る (2022/07/30 訪問)

駐車場があり、簡単なパンフレットも置いてあります。
道路沿いに少し歩くと民家の脇に空堀があります。
さらに進むと石碑と説明板が立っています。
その周辺にも土塁が残るものの私有地も多いので注意して下さい。
八幡神社裏手にも土塁が残っています。
南北朝時代の城で関朝泰が築城したとされています。
攻防戦に際し掘られた坑道跡も残りますが崩落の危険もあり入ることはできません。


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ぴーかる

橋津の藩倉 (2022/08/11 訪問)

【橋津の藩倉】
<駐車場他>古御蔵の横に見学者専用駐車場あり。
<交通手段>車

<見所>現存藩倉
<感想>橋津台場リサーチ中に地図で橋津の藩倉の史跡が目に留まったので台場見学後に寄ってみました。橋津の藩倉は鳥取藩最大の藩倉で主に橋津港に集めた年貢米を収納していました。寛永年間には14棟の御蔵があったそうです。現在は「古御蔵」「三十間北蔵」「片山蔵」の3棟が現存しています。三十間北蔵の鬼瓦には池田家家紋の揚羽蝶紋が見られます。江戸時代橋津は港の海運拠点と街道の町、藩倉がありずいぶん賑わっていたと思います。現在は落ち着いた雰囲気のいい所になっていますので台場と一緒に見学下さいませ。

<満足度>◆◆◇

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POYO58

福井旅行城巡りpart1 (2022/08/14 訪問)

この前一泊2日の福井旅行に行って参りました。合計4つの城に行きました。
まずは越前大野城から。越前大野城は金森長近が4年かけて築いた城です。金森長近は築城前、越前一向一揆で戦い、織田信長にその功績が認められました。その後、大野を与えられ、小山に大野城を築城しました。これは軍事的な目的もありましたが、政治や経済の中心がこの大野城であるということを市民に見せつけるためにこの場所に築いたそうです。

越前大野城は平山城で山麓には一部水堀が残っていますが、水路となっています。その水堀は地下水や防火用水に使われ、今も市民がその地下水で生活しています。つまり、金森長近がいなければ、簡単に水は取れなかった。遺構は石垣が多く、山頂に点在しています。また天守台や笏谷石など残された遺構は多く、なかなかすごい城でした。石垣は野面積みですが、あまり隙間が見られず、赤木城のようなものとは違いました。

ただ一番すごかったのが、石垣に挟まれた細い石段。これ現存です。(写真③)なかなか他の城には無いと思います。安土城にもこんなものは無かった気がする‥。お城初心者の人でも楽しめそうな城なのでぜひ行ってみてください。

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朝田 辰兵衛

方向感覚狂ったら,桝形を見つけよう。 (2020/02/23 訪問)

方向感覚に難がある方は,たぶん迷われると思います。迷ったら,1周する気持ちで桝形を見つけて再スタートで。最近の投稿を見ると,案内標識が設置されているようですね。私の時はありませんでしたので,何回も廻られている方がおられました。

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トク

【鹿児島城と西南戦争の遺跡巡り④】南洲公園(+鹿屋知覧とラーメン) (2022/08/12 訪問)

「③ 城山と西郷洞窟」からの続きです。

最後に、西郷隆盛の墓がある南洲公園を訪ねてきました。西郷に最後まで付き従いそして城山で亡くなった士族たち(桐野利秋、村田新八、別府晋介など)の墓もすぐ隣にありました。公園からは、圧倒されるような姿で目の前にドーンとそびえる桜島が見えました(写真①②)。敷地内には「顕彰館」があり、西郷隆盛の人生がジオラマなどを通じてわかりやすくまとめられています(写真③④)。黎明館と顕彰館は、ぜひ訪問される事をオススメします。

西郷は「敬天愛人」(天をうやまい、人を愛する)を座右の銘にしていたそうです。市内のあちこちでこの文字をよく見かけました。出陣の際に私学校の生徒たちに、「おいの命はおはんらにあずけもんそ」と言ったらしく、最初から自分の意見は言わず、皆の意見をまず十分よく聞き、それから自分の意見を言い、皆と納得するまで話し合いで進め、そして決する。圧力で頭越しに命令し物事を決めようとはしない。そして最後は自分の命と引き換えに責任をもってそれを実行する。今の時代の人々に何か最も欠けているような、そんな事をあの動乱の時代にやって生きていた、とてもすばらしい人物だと思いました。私は西郷隆盛をいう人を実は今までよく知りませんでしたが、今回熊本城から鹿児島城まで西南戦争の遺跡を通じて2カ月間追い続け、気がつくと今ではすっかり西郷どん(せごどん)ファンになってしまいました😊。


【周辺観光】鹿屋・知覧
せっかく鹿児島まで訪れて終戦の日も近かったので(お城とは全く関係なくてすいませんが)、翌日は少し足をのばして、鹿屋の旧海軍航空基地(写真⑤)と知覧の旧陸軍航空基地(写真⑥)も訪ねてきました。77年前の1945(昭和20)年、両基地合わせて1,347名の若き特攻隊員たちが、ここから沖縄へ向け飛び立ち、そして帰らぬ人となりました。両資料館では、その方々の遺書と1,347名全員の遺影が飾られています。鹿児島は悲しい場所が多いですね😭。

【グルメ】鹿児島ラーメン
帰りに鹿児島中央駅で「鹿児島ラーメン(だれやめセット)」食べて帰りました。あっさり豚骨でおいしかったです。おみやげは当然「さつま揚げ」です😊(写真⑦)。 (「だれやめ」とは、「一杯飲んで一日の疲れを癒す」の意味の方言だそうです)

では最後に、薩摩の武士になったつもりで気合を入れて叫びます!(皆さんも御一緒に!)
構えて、せーのー「ちぇすと~~!」😲

以上全4回、鹿児島編を読んでいただきありがとうございました😊。
 

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「下関城郭カードコレクション」のご案内

下関で活動している「下関城郭サミット」の中の人です。
我々、下関城郭サミットは下関市内各地のお城がある地域の団体が相互に集まり立ち上げたグループです。
数ある下関の城のうち12をとりあげて、「下関城郭カード」をつくりました!詳しくはHPご覧ください。
http://shimo-jo.com/

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おっちゃん

尼崎城跡縄張り図 (2016/03/21 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

徳島城跡案内図 (2016/11/03 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

庭瀬藩邸内略図 (2017/01/04 訪問)

現地案内板より抜粋

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りあそーる

でかい。

広い。見晴らしが凄く良い。お城の事は皆さん書いてらっしゃるので、せっかくなので津山の街並みも散策しましょう。街並みも外敵の侵入を想定していますよ。資料館には浦上宗景書状もあります。少し足を延ばしてB’zの稲葉さんのご実家を見たり、ホルモンうどんを食べるのもいいですね!

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りあそーる

真庭市図書館

の裏から「本段」は登城できます。登ってグラウンドにつくので、そこからまたグラウンドを通り過ぎて登ると本丸です。グラウンドの奥に石垣があるみたいで・・。見逃しました。また、「出丸」は時間もなかったので登り口がわかりませんでした・・。
名門三浦氏の栄枯盛衰のお城、牧氏や2度ほどあった高田城奪還の戦いに思いをはせて・・。
城下の「のれんの街並み」で日本酒や地ビールもおすすめです!

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カズサン

本丸東西に模擬二重隅櫓が再建 (2005/05/02 訪問)

 出石城は昭和43年(1968年)に本丸東西隅に二重の模擬隅櫓が、また平成6年には下の曲輪に登城門と登城橋が再建されました、城郭誌に再建された隅櫓、登城門と大手門跡櫓台に建てられた辰鼓楼が出石城頁には掲載されて居り何時か訪ねたいと思って居りました、故郷鳥取に京都東ICから国道9号線を利用して何度も帰省してるのですが、出石は路線が北に外れて居り中々訪ねる事が出来ず、今回17年前の平成17年5月の連休中、90歳を過ぎた母の見舞いの帰りに9号線を北にコウノトリの里を通り初登城しました。

 車は麓の駐車場を利用。有子山の麓に石垣四段の居城が築かれて居る、上から稲荷曲輪、本丸、二の丸、下の曲輪、三の丸と成り現在は下の曲輪と三の丸間に谷山川が流れてる。本丸には模擬西隅櫓続土塀、模擬東隅櫓続土塀が再建され、城址探訪に景観がきりっと締まります。
 上段の稲荷曲輪の東側に有子山城への登城路が確認出来ましたが山頂の有子山城は登城して居ません、麓から眺めるだけ、三の丸大手門跡に内堀が残って居り、また三の丸側には石垣もしっかりと残って居ます。
 仙石騒動で有名な家老仙石左京屋敷も見学。

 城下町は伝統的建造物保存地区にも成って居り、但馬の小京都として町並み家並がしっとりして居ます、また名物の出石そばを提供する店はあちこちに在り入るのに迷うほど、一軒の蕎麦屋に入り初めて出石そばを頂きました、その店には出石城下絵図が大きくパネルに掲示されて居り、出石愛が溢れています。
 歴史は皆さんの投稿に記載があり省きます。
 今回もサブのコンパクトデジカメに残っていた数少ない写真より投稿させて頂きます。
 

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イオ

とことん江戸城(常盤橋門~八重洲) (2022/06/23 訪問)

(続き)

常盤橋門は大手門へと続く江戸城外郭の正門にあたり、外郭の門の中で最も状態良く枡形の石垣が遺っています。日本橋川(外堀)に架かる常磐橋は往時は木橋でしたが、明治に小石川門の石垣を転用して石橋に架け替えられました。東日本大震災で被災し、ブラタモリ・東京駅の回で取り上げられた時はまだ修復工事中でしたが、現在は歩いて渡ることができます。往時は石橋ではなかったにしても、常磐橋越しの常盤橋門はなかなか絵になる光景です。

常盤橋門の南隣に建つ渋沢栄一像を横目に日本橋川を下って行くと、一石橋の南詰に一石橋迷子しらせ石標があります。いわば江戸期の迷子情報の伝言板で、このあたりは繁華街で迷子も多かったことから設けられたものなんだとか。宮部みゆきの時代小説(江戸もの)にも迷子しらせ石が描かれていましたが、こういうものが各地に設けられていたんですね。

一石橋で日本橋川を離れて呉服橋門へ。呉服橋交差点のあたりが門跡のようですが、交差点の少し西に説明板が建てられているくらいで痕跡も窺えません。

呉服橋門跡の説明板から永代通りを渡った丸の内トラストシティのあたりが北町奉行所跡(別途投稿します)で、丸の内トラストタワー本館の東側には鍛治橋門周辺で発掘された外堀石垣が移設されています。また、東京駅八重洲中央口の外堀通り沿いにも鍛治橋門北側の外堀石垣が移設されています。ブラタモリで見たとおり、石垣は薄くスライスされていました(笑)

…と、今朝にも訪れた八重洲に到達し、これで外郭めぐりも雉子橋門から四谷門までは踏破しました。明朝は市ヶ谷門から浅草橋門を目指します(続く)。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:東郷槇山城 (2022/07/29 訪問)

清水山城からの転戦です。槇山城入口(36.008391、136.272839)の由来板を確認して、槇山公園(36.010254、136.276661)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、応永年間(1394年〜1428年)に朝倉正景によって築かれたと云われています。 朝倉氏景の次男正景が東郷庄の庄官となり槇山城を居城にしました。
1471年(文明3年)頃、朝倉氏が一乗谷に本拠を移してからは、その支城となりました。
朝倉氏の滅亡後、柴田勝家の支配を経て、1584年(天正12年)長谷川秀一が城主となりますが、秀一が文禄の役で朝鮮で病没した後、北庄城の丹羽長秀の次男・長昌が城主となり、15万石を領しました。
しかし、関ヶ原合戦で西軍に組した丹羽氏は改易となり廃城となりました。

二の丸が駐車場になっています。二の丸を挟んで北側に本丸、南側が千畳敷曲輪になっています。
本丸に当たる北の城山に天守閣跡があり、「長谷川秀一公碑」、「忠魂碑」の石碑が建てられています。その下段に曲輪があります。
千畳敷曲輪は芝生広場の公園として、滑り台等の遊具が設けられ、一角に句碑がありました。千畳敷曲輪の南側に堀切があります。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=成願寺城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:清水山城 (2022/07/29 訪問)

織田城からの転戦です。清水山上公民館(36.006429、136.158676)に駐車しました。
そこから歩いて、毘沙門神社入口(36.006665、136.160792)に向かいました。

越前国守護斯波氏の家臣太田貞敏によって築かれました。城主は太田美作守、太田小源吾でした。太田氏は毘沙門を守護神として城内に祀っていました。
1480年(文明12年)清水山合戦で、朝倉勢に攻められた太田美作守は討ち死にし、落城しました。

城址は毘沙門神社の境内及びその裏の杉林付近のようです。
毘沙門神社に城跡碑、毘沙門堂大杉碑と空堀跡らしきものがありました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=東郷槇山城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:織田城 (2022/07/29 訪問)

織田城は山城ですが、登城口の林道入口が立入禁止だとの事前情報より登城を断念し、麓にある劔神社を目指すことにしました。
ということで、武生駅でレンタカーを借り、25分くらいかけて織田文化歴史館駐車場(35.958311、136.054516)に着きました。
織田文化歴史館は10:00開館なので、まだ開いていません。そこから歩いて、劔神社入口(35.957450、136.055916)に向かいました。

戦国時代、朝倉氏の一族・朝倉兵庫助景綱が織田庄を領し織田氏を名乗り、織田城を築城しました。
1570年(永禄13年)に織田信長が越前国を攻めた際は、景綱は500の軍勢で河野口を守備しました。
また、1573年(天正元年)の刀禰坂の戦いでは、木ノ芽峠で敗残兵をまとめ一合戦しようとする朝倉義景の命令を無視して織田城に退却します。
景綱は、そのまま織田信長の軍門に降り、朝倉氏滅亡後も引き続き織田城を守りました。
1574年(天正2年)越前一向一揆が勃発すると、本願寺の七里頼周が率いる大規模な一向一揆勢に城を攻められます。
織田城に篭城したが多勢に無勢であった為に、景綱は織田城の兵を見捨てて、妻子のみを連れて海路から敦賀郡へ落ち延び、その後の消息は不明だそうです。

劔神社に「織田一族発祥地」の石碑や本殿横に織田神社が建てられています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=清水山城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:府中城 (2022/07/29 訪問)

龍門寺城から10分弱歩き、越前市役所(35.903179、136.168546)正面玄関付近に着きました。

築城年代は定かではないようですが、文明年間(1469年〜1487年)頃に朝倉氏の府中奉行所があったのが始まりとされるようです。
1575年(天正3年)越前を再び平定した織田信長は北庄城に柴田勝家を置くとともに、府中城には前田利家、小丸城には佐々成政、龍門寺城に不破光治が入りました。
府中城はこの前田利家の時代に改修され、1581年(天正9年)能登国七尾へ移ると、改めて前田利長(利家の嫡男)に府中城が与えられました。
1583年(天正11年)賤ヶ岳の戦い後に越前が丹羽長秀に与えられると、利長は加賀国の松任城に移されます。
1585年(天正13年)長秀の没後に丹羽家が減封されると、木村重茲が十二万石を与えられ入城、文禄の役の後、山城国淀城十八万石に加増転封されました。
1599年(慶長4年)隠居料として越前府中五万石が堀尾吉晴に与えられます。
1601年(慶長6年)結城秀康が越前一国を領して北庄城に入ると、徳川家康より付家老として派遣された本多富正が三万九千石で府中城に入り以後、本多氏が続いて明治に至ります。

越前市役所横の道路脇に石垣、「越府城址碑」、「本多富正公顕彰碑」があります。
説明板によると石垣は、平成28年~平成29年の越前市役所本庁舎建設に係る発掘調査で見つかったようです。
新善光寺城(城びと未登録 福井県越前市)攻城時に見た、正覚寺にある府中城の移築山門の写真はこちらにも投稿します。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=織田城を目指す前に、ホテルに戻って朝食を取り、レンタカーを借ります。

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