〇築城時の長曾我部ばまだ脅威ではなかった
天正3年はいまだ長曾我部は土佐を出るか出ないかの頃で、翌三年には土佐中村の一条との戦いも起きており讃岐の瀬戸内海側の将が長曾我部を意識して築城したとするのは不自然。むしろ後述の通り三好や毛利とこの前後で戦っており、長曾我部ではなくそれらの近くの敵勢との絡みからの築城と考えるのが自然。
〇前年に三好に居城を落とされている。
天正2年に阿波の三好長治の軍勢が香西氏と香川氏攻めをしており、三好勢は勝賀山城まで攻め込んでいる。その際に麓にあった居城の佐料城は三好勢に落とされている可能性が高い。築城はそれまでの居城の佐料城が落とされたので新しく居城を築く必要があったと考えるべき。実際に後の長宗我部との戦いで佐料城は使われていない。
〇三好との敵対関係
三好氏の讃岐への侵攻は頻繁でこの藤尾城の築城開始の年と言われる天正3年にも寒川氏の昼寝城攻めが行われているなど、前年に攻められた際に和議を結んだとはいえ三好との関係は緊張のなかにあった。この年に香川氏と共に三好に付いた金倉氏を攻めているあたりからも敵とも味方とも言えない微妙な関係であることが伺える。
〇毛利の讃岐侵攻
三好に攻められた3年後の天正5年には善通寺周辺で毛利勢と三好勢の合戦が起きている。
この時に讃岐衆は三好に付いたとあるがこの讃岐衆のなかに香西の名があることから時には三好の敵となり、時には三好の味方となりながら毛利とも敵となったり味方になったりしていたと考えられる。
永禄の児島攻めは毛利側として戦い、その時は三好は毛利の敵の浦上に味方して戦っている等関係は本当に複雑。
<まとめ>
以上の事から讃岐に於いては香西氏や香川氏を中心に三好、毛利との激しい外交戦があり、ここに織田信長や足利義昭とのやりとりもあり非常に混沌としている。
そもそもが天正2年に三好が香西を攻めた理由などももっと深く考察すべきなのだが、なぜかこの頃にはまだ土佐あたりをウロウロしていた長宗我部への対策で城を築いたなどと専門家までもが誤って発信しているのでその考察も進まない。
面白いのは天正2年に香西攻めの帰途に三好氏は大窪寺を燃やしたのだが、寺はこれも長曾我部が焼いたと伝え、増補三代物語でも「天正2年に長曾我部が焼いた」と記している。
いまだ土佐か阿南かあたりにしかいないはずなのに大窪寺を焼くとはどんな能力なのかと思う
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