安吉城は山島公民館周辺に築かれていたようで、土塁らしき遺構も残っているそうです。
長享2年5月、加賀一向衆徒は守護の富樫政親を高尾城にて自害させましたが、その中に
河原衆(河原組)を率いる安吉(大窪)源左衛門尉家長という人物がおり、この人物によって
安吉城は築かれたとされています。河原衆というのは安吉周辺の一向宗徒のことを指し、
家長はその首領格とみなされます。天文年間に城を家臣の窪田大炊介に譲って出家し
浄土寺を建て、了海と名乗ったと伝わります。
天正8年、安吉城は柴田勝家によって落とされ、指導者19人の首が信長に進上されましたが
その中に窪田大炊介も含まれていたようです。
「越登賀三州志」によると主郭の大きさは長さ45間、幅33間で北方に枡形とあり
牧忠輔の図だと長さ40間、幅20間で北方に10間四方の郭とあります。
1間=1.82mと考えればわかりやすいと思います。2倍して1割引いてやれば良いわけです。
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