(24人目)島津義弘の続き⑦です。
義弘が最も長い26年間(30~56才頃)を過ごした「飯野城」と義弘が天下にその名をとどろかせた「木崎原古戦場」を訪れてきました。飯野城へはえびの文化センター前から再度同じバス小林駅行バスに乗り10分「飯野」で下車しそこから徒歩20分の所にあります(写真①)。
人吉城の相良氏の抑えと日向の伊東氏の薩摩進攻に備えるため、義弘は1564年に平松城からここ飯野城へ居を移します。そしてここから出陣した、木崎原の戦い(1572年:対伊東氏)、耳川の戦いと豊後攻め(1578年:対大友氏)、根白坂の戦い(1590年:対豊臣)と数々の義弘伝説をここ飯野城から出陣して作っていきました。
ここもシラス台地を利用し三方を川内川と急峻な崖に囲まれ、本丸・二の丸・三の丸・物見曲輪から構成された強固な作りの城でした(いかにも島津らしい城だ🤔)。物見曲輪からは木崎原古戦場も見えました(写真⑩)。
1590年「根白坂」で豊臣秀長軍に大敗した義弘は、再びここ飯野城へ逃げ戻り籠城します。しかし義久が秀吉に泰平寺で降伏したため、徹底抗戦を叫ぶも結局は兄には逆らえず、また義久には薩摩を義弘には大隅の安堵の条件を秀吉から提示されたため、自らも剃髪しここから秀吉の元へ行き降伏しました。
そしてその直後、この日向の飯野城を離れ、自領大隅の松尾城(栗野城)へ移り、さらに秀吉の命により朝鮮へ出兵します(文禄の役)。帰国後1594年そこから南の海に近い帖佐に館を構えそこに移り住み、また再び朝鮮へ出兵します(慶長の役)。そしてその帖佐から1600年の関ケ原へと出陣して行ったのでした。
次は、木崎原古戦場に続きます。
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