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中根氏の城 (2023/01/26 訪問)

 徳川家康の家臣としても活躍する中根氏の城です。下箱柳バス停前に石碑があり、案内に従って行くと少しわかりにくいですが、石垣の上に箱柳城跡と書かれた看板があります。枯れて倒れている竹などが行く手を阻みますが、そのまま登って行くと削平地が雛壇状にあります。石垣は各所に見られますが、当時のものか否かはわかりません。居館跡に思われたので詰の城があるのではないかとグーグルが示している城址の位置まで道があるかないかわからないような(多分ない)坂を上ってみましたが城址を思わせる遺構はないように思われました。頂上が見えてきたので尾根まで行くと石仏遊歩道のコースに出ました。尾根はよく見かける城址と思えないこともないのですが、堀切等もなく違うのでしょうね。明治から大正にかけて山岳信仰が盛んな時期に木曽御嶽山にならって石仏が建立されたとのことで整備されたようです。縄張り図を手に入れることができなかったこともあり、よくわからないまま遊歩道を通って下山しました。

 城址入口に下箱柳バス停がありますが、本数は少なく日に3本くらいです。15分くらい歩いたところにある猫沢池前バス停を利用しました。名鉄東岡崎駅から1時間に1本くらいあります。

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侍ホリタン

日本史上最後に築城された名城を訪ねて (2022/05/28 訪問)

園部城は1619年園部藩初代藩主小出吉親が築城を開始したのが始まりです。この時櫓を建てる許可が幕府から得られず幕末まで陣屋扱いとなっていました。幕末の京都警備のため明治政府によりようやく櫓の普請が認められましたが、完成まもなく廃藩置県により園部藩は廃止され園部城の建物、敷地は取り壊しもしくは払い下げになりました。
現在、園部城跡は園部高校・中学の敷地となっていて櫓門等が同校の校門として使用されています。
駐車場は国際交流会館前(天守閣風の建物なのでわかりやすいです)にあります。太鼓櫓は園部城跡から10キロ先にある八木町安楽寺に移築されています。 御城印は南丹市立文化博物館と園部文化観光協会で購入できます。

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トク

⑬【関ケ原の26人 】(7)細川忠興 (細川忠興と小倉城) (2023/01/12 訪問)

(7人目)「細川忠興」の続きです。
関ケ原の時の居城は「宮津城」ですが、今回は関ケ原後の居城「小倉城」を訪れてきました。

小倉城訪問は昨年春以来ですが、南蛮造りの天守はいつ見ても美しいと思いました。城の内部は昨年秋にリニューアルされ展示が一新されていました。また、「池の水ぜんぶ抜く」のテレビのおかげで、汚れて濁っていた堀が今では水面に城の姿が反射して映るほど水がきれいになっていて、鯉が気持ちよさそうに泳いでいました(写真⑤:テレビ東京さん(淳さん)ありがとう!😊)。

関ケ原の功で、忠興は丹後18万石から豊前39万石に加増移封され、いったん中津城に入ります。そして、1602年より新たに陸海の交通の要衝地である小倉に築城を開始、1609年に完成します。当時の天守は今の天守と異なり、白い層塔型の天守に4-5階の上部のみ黒く張り出した南蛮造りの形だったようです(城内にあった模型:写真⑥)。

私は小倉城の天守に立ち小倉の街を眺めて見ました。現在は商業施設のビルなどに囲まれてしまい、わずかしか眺望はありませんでした(写真⑦⑧)。しかし当時は北は海に面して海運に恵まれ、忠興は京より祇園太鼓などを誘致したため領民は大変喜び、街は物資と活気にあふれて賑わい、忠興は領民から大変慕われていたようです(当時の絵図と小倉祇園太鼓で賑わう街の様子:写真⑨⑩ 小倉城内より)。

小倉城を築城した忠興は、この完成した天守から小倉祇園太鼓を聞きながら、領民が楽しく平和に暮らしている姿を、どんな思いで眺めていたのでしょうか? 本当はガラシャといっしょに、この平和な景色を眺めたかったのではないでしょうか?・・・

次は、(8人目)へ続きます。
 

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イオ

小川古城(奈良県吉野郡東吉野村小字黒田) (2023/01/07 訪問)

小川古城(城びと未登録)は、築城時期は不明ながら南北朝期より丹生川上神社神主として東吉野地方を治めた小川氏が築いた城で、高見川に三方を囲まれた尾根の突端に位置する単郭の山城です。小川城を新城、小川古城を古城とも呼ぶようです(なので小川城で投稿します)。

高見川沿いの県道220号から原裕句碑の案内表示に従って対向不能の狭い舗装道を上って行くと公園に至り、公園の手前に車を駐めて登城開始です。主郭にある神社に続く石段の脇に小川城址の石碑が建てられています。石段は後世のものと思われますが、石段の両側には段曲輪らしき削平地があり、石段の北側には虎口と思しき痕跡が、南側には水の手らしき石組みが見られます。石段を上った先が主郭です。主郭東奥の土壇には石垣が施され、その上に愛宕神社の社殿が建てられています。また主郭の北辺には土壇から続く土塁がうっすらと遺っていました。土壇の東下には岩盤を掘削して堀切が設けられ、東にのびる尾根筋を断ち切っています。

主郭の西側には公園が広がっており、原裕の句碑が建てられています。公園には石積みが見られ、主郭がかなり狭いだけになだらかな地形は屋敷地とも考えられますが、西側には堀切などの防御施設が見られないこともあり、城域に含まれるかどうかは微妙なところでしょうか。

このために訪れるほどの城でもありませんが、小川城のついでにどうぞ(小川城から高見川沿いに車で5分)。
 

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todo94

初詣 (2022/01/01 訪問)

山頂に四津山神社が鎮座していましたので、ここが2023年の初詣となりました。地元の方々もそれなりに訪れているようです。さほどの期待はしていなかったのですが、眺望はよいし、社殿の奥には見ごたえのある遺構がかなり残っているし、なかなかの城でした。

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赤い城

櫛形城 茨城県日立市 (2023/01/09 訪問)

十王スポーツ広場に車を置き少し歩きます。
坂道を登っていくと右手に堀のようになっている部分があり、ここから入って行きました。
常陸に多い堀底道が周回できる城です。
入った方は東側で郭の周りを囲む感じで歩けます。
一部二重になっていました。
西側には坂虎口も見られます。
南側は道路になっていて消滅していますがそれ以外は綺麗に遺構が残る単郭の城です。
おそらくここも夏は藪、この時季がおすすめです。

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にのまる

2023年城はじめ (2023/01/01 訪問)

①最初の目標地点は王喜小学校。小学校後背の形のいい小山が松屋城です。
②登城口は校庭右側の道を進むと左手に現れる「城山」の説明板のところです。(山の東側の道)
③赤い矢印に従って右に曲がります。
④上へ上へと登っていきます。
⑤岩場も少しだけあります。
⑥登城口の説明板から7分ほどで山頂に到着しました。

見晴らしのよさに(゚д゚)!
古くから船の往来の目標や、砦、狼煙場として使用されてきたそうです。
ちょうど日の入りの時刻と重なり、新年初日の入りを拝ませていただきました。

城納め翌日の城始め。
今年も心の赴くままお出かけしたいです╰(*´︶`*)╯♡

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ぴーかる

躑躅ヶ崎館 (2023/01/07 訪問)

【百名城64城目】
<駐車場他>武田神社参拝者専用駐車場を利用
<交通手段>車

<見所>堀・枡形虎口・北曲輪石垣
<感想>新春1泊2日甲府盆地の旅1城目。車で約6時間かけて来訪しました。武田神社は32年前に一度来たことがありますが、宝物殿で武田24将図を見た覚えが微かにありますが他が全く覚えておらず新鮮でした。この日は松木堀・梅翁曲輪⇒西曲輪馬出⇒北曲輪⇒西曲輪⇒武田神社・宝物殿⇒大手門・大手門東側史跡⇒隠居曲輪⇒龍華池の見晴台⇒躑躅ヶ崎亭跡⇒信玄ミュージアム⇒甲府城⇒信玄堤⇒白根将棋頭⇒御勅使川の石積出の順で巡りました。見応えがあったのは北曲輪・隠居曲輪の石垣、館北面の深い堀、石積みの残る枡形虎口です。            
 また勉強になったのが松木堀・梅翁曲輪の南の防御設備、大手門東側の広大な遺構が単純な主郭と西曲輪の方形連郭式平城ではなく、馬出し・出曲輪を鎧の様に周囲に取り付けていた縄張りだったことです。また館跡は要害山の山の裾野の微高地にあった(全くの平地にあるかと思ってた)こと、躑躅ヶ崎邸跡から見下ろす甲府盆地は450年前の上洛作戦出陣前に信玄も見ていただろうと思うと感慨深い。
 甲府城を見終え夕刻、信玄の治水事業跡は絶対に見たい場所でしたので日没前に間に合い大満足でした。

<満足度>★★★★☆

<グルメ>夕食に「甲州ほうとう小作」にて、ほうとう・馬刺し・鳥もつの甲州名物3点をいただきました。ほうとう初体験で大分のだんご汁に似ている。

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POYO58

復習がてら (2022/04/30 訪問)

登城口を通ると、食い違い虎口があり、それを通ると苗木城の天守跡が望める。大手門跡までは主に切り込み接ぎの石垣が存在し、大矢倉跡の石垣が綺麗に残っている。櫓台には巨石が用いられている。その後の大手門跡を過ぎた後は主に打ち込み接ぎや野面積みの石垣が縄張りを形作っている。天守台には展望台が立っている。結構区画が多かった。また巨石がたくさん配置されている。展望台からは木曽川と恵那山を望むことができる。

城クイズをきっかけに少し復習してみました。にのまるさん、やりますね。僕と同じアングルで写真を撮っていらっしゃるんですね。あ、っていうか僕がパクったのかな?すみません…。苗木城は城巡り初めての方にもおすすめですね。僕は苗木城2回行ったのですが、スタンプ目当てにまた訪問しようと思ってます。

カズさん、お分かりになりました?背後の山は恵那山です。写真は苗木城の天守へ続く区画の途中にある石垣を恵那山を入れて撮ったものです。石垣に使われている石が結構大きめのものであることが特徴ですね。

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イタさん

富田城(千葉県山武市) (2023/01/23 訪問)

 津辺城から境川を挟んで南東へ600メートルの位置にあり、津辺城との関連はどうだったのだろうか。道が分からず東の台地から西へ向かう。車道から北へ入る場所には「関東ふれあいの道」標示があり、傍らに「善兵衛公園入口」と標柱が立っている。
 台地は畑地が多く南の道へ行くと小さな祠があり、南一帯は崖状になる。先の三等三角点を過ぎると谷状になり南端に道が続く。土塁が現れるが堀は確認出来ない。先は広い平坦地だが低い段差があるようだ。中央に大高善兵衛の墓が案内と共にある。以前の道路地図に一帯は里山ふれあい公園とあった気がするが、今は善兵衛公園らしい。平坦地の西端に忠霊塔が建つ。その西は木々が鬱蒼としているが、わずかな踏み跡を行くと狭い空間に幾つか出る。多く場合古い墓があり、雨が降り暗いなかで少々の不気味さを隠せない。一部腰郭かと思うものもあるが分からない。
 最西の遺構は傘をさしながらでは気が進まず、断念したため確認出来ず。忠霊塔の南辺りには、二ヶ所南に下る手すりの付いた道がある。下れば光明寺と民家の間に出られる。

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城主の波々伯部(ははかべ、ほうかべ)氏は古代朝廷の部民 (2023/01/22 訪問)

城びと先達がレポートされているように、低比高でコンパクトながら、急で高い切岸や多くの竪堀など、見ごたえがありました。
2022年9月のキンヤさん訪問後、本丸に説明板が追加されたようです。また、県道372沿いに、淀山城の矢印標識が設けられているのですが、淀山城の反対側を向く「東山城址」矢印が。本丸に追加された説明板にも「東山城」他の文字あり。淀山城は軽くこなして、篠山城経由で篠山盆地西方の山城攻略の予定でしたが、変更して、東山城、南山城に向かうことにしました。これがなかなかのもの。続く

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イタさん

津辺城(千葉県山武市) (2023/01/20 訪問)

 先人の方々の記載を参考にさせて戴いくと、永禄年間に里見氏の成東周辺進出に対し、井田氏が築城する。井田氏は坂田城にも名がでてくる。成東駅から北へ700~800メートルにあり、台地先端に築かれている。東は境川が天然の堀となっている。
 集落から城跡入口へ向かう道路は一部切り通し状で、左台地上には東漸寺などがある。切り通しを過ぎると右側に掘跡が現れる。入口から左は上に郭、右には土塁状の高まり・堀があるが、かなり崩壊している部分がある。主郭手前は一見馬出かと思う区画で先の土橋で主郭内へ。左右の堀は広く深い、左右に出っ張りがあり土橋に横矢が掛かる。堀には木々が多く画像では伝わらない。主郭内を端まで行くが遺構を探せなかったが、南の虎口辺りは堀が見られ、馬出になっているらしい。主郭手前の複数の郭は下草が刈られ整備されており歩きやすい。小さな城だが堀などの遺構は素晴らしい。


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イタさん

田間城(千葉県東金市) (2023/01/19 訪問)

 説明板に「土塁と空堀で区画された主郭と、細長い第二郭が並ぶ直線連郭状の城跡で、現在城山団地になる一帯にも、山小屋と呼ばれる腰曲輪(郭)が存在していた。そのため長軸で500m、短軸で240mが城域と考えられる。南西部はガンガン坂と呼ばれる切り通しで区切られるが、かつては城域を区切る堀切であった可能性が高い。緩傾斜の北側斜面には腰曲輪(郭)が回り、堀切や削り落としを持つ支尾根が数多く延びている。
 一説には土気酒井氏が土気からいったん田間城に移り住み、城地の狭いことから東金城へ移ったというが、裏付ける資料はない。むしろ縄張から判断すると、16世紀中ばころ東金酒井氏領域の東端の境目の城として機能し、天正18年(1590)に東金城落城とともに、廃城となった可能性が高い。」と載る。
 田間神社さんに断り駐車させてもらう。城跡の西側(搦手)からも行けるようだが、社殿左横から上り出す。道は整備されているが、斜面はほぼ密集した竹林になっている。主郭と二の郭を分ける堀の先が長い帯郭で、田間神社元宮が建っている。帯郭・主郭は端から下は竹林化し、竹の間から腰郭が見える程度。主郭の二の郭側に土塁と虎口表記があるが、篠・下草等が多くほぼ分からない。二の郭も主郭同様に檜?・笹等が多い。特に南側下の法面は木々が鬱蒼としている。
 西方面は緩い斜面に幾段もの平地を設けている。堀と思われる場所があるが、主要な郭も切岸くらいで、全体に堀が少ない。城山団地西は現代の切岸になり、上に熊野神社・城山公園がある。

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イオ

五条の堀切 (2023/01/07 訪問)

南北朝期より丹生川上神社神主として東吉野地方を治めた小川氏が戦国期に築いた城で、高見川に三方を囲まれたハルトヤ山の南北にのびる尾根に連郭式に曲輪が並んだ山城です。筒井順慶が大和国の支配を広げる中、小川氏は没落し、小川城も廃城となったと思われます。

北麓の東吉野村役場から駐在所の裏手を通って登城開始。登城道は稲荷社の参道(ドコモ通信施設の整備道)として樹脂製の階段が設けられていて、墓地を抜け鳥居をくぐって20分弱で北端の堀切に到着。ここからが城域です。

北端の堀切は土橋の両側ではずいぶん浅くなっていますが、東側に長く続いて竪堀となって東斜面に落ちています。堀切の先に広がる北の曲輪は東西二段になっていて、西側上段には通信施設が設置されています。通信施設の南にも堀切と土橋があり、土橋を渡ると二の曲輪です。二の曲輪も東西二段で、東側下段からは東麓に至るであろう登城道が続いていました。二の曲輪の南にも堀切があり、西側はほとんど埋まっていますが、東側は竪堀となって続いています。また、竪堀の脇には石組みの井戸跡も見られます。二の曲輪南の堀切の南側には石積み(たぶん後世のもの)があり、石積みの上が主郭です。主郭は南北に細長く、北側に稲荷社の社殿が建てられ、南端の土壇には石垣(これもたぶん後世のもの)が積まれ、小川城址の石碑が建てられています。土壇の背後は二重の堀切で南に続く尾根筋を断ち切っていました。

尾根上の曲輪群を五条の堀切で区画しただけの単純な縄張ですが、浅くなっていたりはするものの遺構はしっかり遺っており、いかにも中世山城という感じで、これはこれで充分に満足できる城でした。
 

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todo94

城と云うか館跡 (2023/01/01 訪問)

説明板によると本田氏は畠山重忠の重臣の後裔で、現在の本田氏はこれの末裔とのこと。現在のことまで記されている説明板って珍しい気がします。民家の後ろの林の中に、土塁、空堀を見つけることが出来ました。

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岡崎城を読みとく (2023/01/21 訪問)

岡崎城の本丸は、河岸段丘の先端に立地しています。
本丸南は、段丘下の風呂谷曲輪を挟んで龍城堀が廻ります。
一方、本丸北側は、地続きの段丘の為、深い空堀で区画して幾重にも重なる曲輪を造り出しています。
清海堀は、本丸と持仏堂曲輪を隔てる大規模の空堀で、岡崎城の最初の築城者の西郷頼嗣の法名(清海入道)に因み、「清海堀」と呼ばれています。
そこで、最初の誰が「清海堀」を造ったのかですが、西郷頼嗣という説と徳川家康という説がありますが、私は徳川家康だと推測いたします。
西郷頼嗣時代は、砦だけで堀は築いていなかったと思います。
また、本丸を護る為にどのような仕組みを造り出したのかですが、二の丸から本丸大手門へのルートは、まず持仏堂曲輪に入り、180度方向転換して清海堀に沿った幅の狭い通路(帯曲輪)を通らなくてはなりません。
この帯曲輪には本丸から常に横矢が掛かる仕組みになっていました。
このような本丸周辺の厳重な護りは、戦国時代後期に徳川家康が築き上げた縄張りを表しております。
田中吉政が本丸周辺の大改築を行った際に、清海堀に石垣を築いたと思われます。
清海堀の石垣には積み直しの痕跡が見受けられることから、江戸時代を通じて積み直しがあったと思われます。
最後に、田中吉政が東海道を総構えに沿ってくねくねと屈折した二十七曲りの道筋を城下町に造ったかは、城下防衛と共に、街道筋に店舗を並べて旅人たちに留まらせる経済効果を狙ったとされております。

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モト

主郭の石垣に思わず声が出てしまいました (2023/01/12 訪問)

この日は雪が積もる山を上にある主郭を目指して登りました。
登城口を歩くと、すぐに地獄の釜という沼があります。
昔、馬一頭が引き込まれたとの事、さすが地獄というネーミングが付いているだけある恐ろしい逸話のある沼です。
城の水の手という話しもあるようで、現在は井戸のようになってました。
主郭までの道のりは曲輪や竪堀や魅力的な遺構が見れました。
頂上の主郭が近づくと、囲んだ石垣が見えてきます。
雪が積もってると足場が滑りやすいのと、道が合っているのか不安を覚えながらの道のりです。
石垣が見えた時の喜びは大きかったです。
ここは林大城とのセットでぜひ訪問ください。
両城の遺構はもちろんですが、当時の2城の連携がどうだったかと連想しながら楽しめると思います。

登城口には駐車場はありません。
若干のスペースがあり、停めて獣よけフェンスを開けて山に入りました。
私はそのまま停めて林大城も見学しました。

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赤い城

小学校背後の竜子山城 (2023/01/09 訪問)

麓には武家屋敷などがあり、城下町の雰囲気があります。
小学校の隣の公園に駐車場があります。
公園から登りますが入口に説明板が立っています。
登ると井戸跡などがあり、途中に堀切や土塁も見ることができます。
主郭までもそんなに登らなくても到達。
その先、二郭との間に土塁と空堀があり、竪堀へと続きます。
二郭から東側の尾根を降りて行きました。
段になった曲輪がありますがロープが付いているほどの高低差が。
なかなかのハードさでした。
こちらの尾根はほぼ竹藪、堀切も竹で埋め尽くされていました。
やっとの思いで下まで降りると神社が鎮座。
背後には水堀も残っていました。
城下町も歩いて見ると発見がありそうですがやっぱり山城に惹かれる感じでした。

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にのまる

ご指名いただきましたので✋

同じアングルの写真がありました。
苗木城は続100名城ですね。
印象深かったのは……スズメバチの巣です(^^♪

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侍ホリタン

キリシタン武将、内藤ジョアンの居城を訪ねて (2022/05/28 訪問)

松永久秀公の弟内藤宗勝の子として生まれた内藤忠俊公は、乳母がキリスト教信者であったことからフロイス神父の洗礼を受けてジョアン(如安)と名乗るようになります。足利義昭公に仕えて備後国、鞆の浦下向中に八木城は明智軍によって落城、その後はキリシタン大名小西行長公に仕えます。関ヶ原の戦い後は、前田家の家臣となりましたが徳川幕府のキリシタン追放令によって高山右近公と共にマニラへ追放、マニラの地で一生を終えます。
本丸跡にベンチが複数設置されていて京都方面の山々を見ながら休憩することができます。 駐車場は東回りで登る場合は春日神社、西回りで登る場合は西山墓地下駐車場が近くて便利です。 西回りで登った場合、途中で分岐があります。左手に行くと岩場のある急なコース、右手に行くと緩やかなコースになります。妙見宮跡方面に行く場合は緩やかなコースを進む事になります。近くの料亭八光館にてプレミアム御城印が販売されています。

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