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零汰

8月:アニメ呪術廻戦展・・・鹿児島城跡地黎明館にて (2022/08/28 訪問)

特に好意があったのではなかったのだが、安倍元首相の襲撃事件に動揺してしまった。以降投稿を試みたが気乗りがしなく早4カ月経ってしまった。その間に、国葬も終わりレベルを保つ最後のワールドカップが始まった。4年ぶりに睡眠不足な1カ月が始まった。2026年以降からは出場国が32か国から48か国に増えてしまいガッカリ。数が増えるとハードルが下がりレベルの低い大会となる。密かに思う・・・続続100城出るなよ、と。

8月は荒れた天候により全ての予定をキャンセルし、まともに城を訪れたのは鹿児島城だけ。孫と娘に連れられて鹿児島城跡地にある博物館「黎明館」で開催中のアニメ呪術廻戦展を見に行った。復元門も。呪術廻戦は昔から多くの男子を魅了し続けている週刊少年ジャンプに連載中の漫画が原作です。私も小学生の頃からお世話になっていて名作は数知れず、今でも新刊ごとに単行本を購入している作品もあります。因みに私は原作派、原作が先だとアニメになっても見ない事が大半です。オリジナルの破壊力を超えるものは多くなく余程の事が無い限り興味が沸かないです。

展覧会ではマニアックな物が多く有り、数知れない人々が熱心に時間をかけて食い入るように見ていた。「色んなオタクっぽい人達多いね、あんなに熱心に、分らん。」と娘に言うと「パパもそうじゃん、山とか畑みたいな所行って、土手見て石見てるじゃん。私にも分らんよ。」流石私の娘、ストレートな答えが返ってくる。

工事中から復元門の前を通った時に時折見ていたが、立ち止まって見たのは初めて。写真に納めて自宅で鹿児島城のフォルダに保存しました。

いんげん丸虫さん、毎回コアな城チョイスとブレない姿勢が素敵です。投稿の再開お待ちしてました。これからも陽のあたる場所に出てこない城の投稿楽しみにしてます。

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西の城 (2022/11/24 訪問)

 一之瀬公民館バス停から案内表示したがって3分くらい歩くと登城口に着きます。城は尾根にあり堀切を備えて防御しています。主郭の背後には6カ所の堀切(表示は空堀)があり楽しませてくれました。案内板には「一之瀬城は東西の城が一体となって機能した城でした」と記されていましたが、どのように機能していたか気になります。城域は概ね整備されて、それなりに歩きやすいと思います。
城の周囲には寿宝院跡、向井将監屋敷跡があります。

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東の城 (2022/11/24 訪問)

 東の城と西の城があります。
愛洲氏の城で、五カ所城へ移転するまで居城でした。居城を移してからは支城としていたようです。南北朝の頃、後醍醐天皇の皇子、宗良親王を迎えて北朝と戦ったとされます。戦国期は田丸氏が、織田信雄が田丸城に入城したため一ノ瀬城に入ったとされます。
 伊勢市駅(JR、近鉄)より三重交通バスにて一之瀬公民館下車。バスを降りると左右に一之瀬城の東の城と西の城の案内表示があります。まずは東の城から行きました。バス停から徒歩1分で案内板に行くことができます。案内板の横に「一之瀬城を守る会」が作成された資料が雨に濡れないように置いてありました。
そこから一之瀬神社を経て主郭まで約5分です。北側には二重の空堀(堀切だと思いますが)や土塁がよく残り見ごたえがあります。先ほどの資料によると東側には連続の竪堀があった可能性が記されていました。南の見張り台には宗良親王の碑がありました。城内は整備され歩きやすく、各所に表示もあり散策しやすい城址です。

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カズサン

【越前・白山平泉寺城】福井県勝山市 中枢寺社城郭 (2022/11/03 訪問)

 数拾年前より福井県に白山神社城郭が在る?との情報が脳裏に残って居り色々の城郭誌を見て居ましたが場所が分かりませんでした、ところが今回10月6日の「イオさん」平泉寺城投稿の写真で脳裏の写真とピッタリ合致し、あぁ此処だったのかと、白山神社と平泉寺城とが一緒だったのだと合点しました。長年の疑問が晴れました、イオさん投稿有難う。

 と言う事で秋晴れを狙って文化の日、白山平泉寺城を主目的に越前未踏の城廻り致しました。
 地元で白山平泉寺と呼称されて居ましたので今回の投稿は越前の国なので【越前・白山平泉寺城】の呼称を使わせて頂きます。

 住所:福井県勝山市平泉寺町平泉寺56(平泉寺白山神社グーグルマップ史跡マーク)
 住所:福井県勝山市平泉寺町平泉寺66-2-12(白山平泉寺歴史探遊館まほろば)

 先ずは歴史探遊館まほろばを目指し、空きの有ったまつや前の駐車場を利用、まほろば館により館内観覧と白山平泉寺散策マップを頂き散策探訪を開始。

 脳裏に残ていた白山神社一の鳥居、精進坂で初の対面、此処だ此処だの脳内反応、参拝者は結構多い、世界遺産登録を狙って居るようです、参道を進み杉林、杉並木が林立し、石垣は苔むし幽玄な雰囲気、参道両脇には坊院跡が石垣で囲まれ区切られて居る、国の名勝枯山水の庭園はパス、御手洗池は出入口が枡形虎口の様な石垣構造、二の鳥居を潜ると神域中枢、一面苔むし神秘的拝殿前の広いエリアは往時、大講堂、各伽藍が立ち並んでいた事でしょう、正面に拝殿、焼失前は三十三間拝殿(約60m)が建っていたそうです、両脇にその痕跡の礎石が苔むし残って居ます、その奥が本社が鎮座、基壇は巨石を使った石垣と成って居り石段が三基、夫々本社、越南知社、別山社が鎮座、巨石の石垣は見応えが有ります。
 拝殿の南側の鳥居から三の宮への参拝路がります、まほろば館の係員の方に伺ったら約30分掛かるとの事でパスし、陽の有る内にと更に南降りて復元の門と土塀の在る南谷発掘地へ急ぎました。(復元の門と土塀編に続きます)

 天正2年(1574年)一向宗門徒との抗争で焼失したものの、平成元年(1989年)からの発掘調査によって遺構が確認され、坊院跡も徐々に明らかに成り、旧境内は約200haにわたって広がり、現在も地道な発掘が続いているとの事です。
 

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イオ

シンプルでも見応えあり (2022/10/22 訪問)

城ヶ峰と呼ばれる丘陵の頂部に位置する山城で、築城主や築城時期等、詳細は不明ですが、戦国末期の東美濃での武田氏と織田氏の勢力争いの中で活用されたものと考えられます。

大手道登城口の駐車場に車を駐めて登城開始。それなりに歩くことを覚悟していたら、3分弱で南端の虎口に着いてちょっと拍子抜け。虎口の両側には曲輪が設けられ、大手道を攻め上ってきた敵に横矢が掛かるようになっています。虎口を抜けた先には竪堀がありますが、藪に沈んでいてわかりづらい状態でした。

登城道を進んで南側の虎口から主郭へ。阿木城は円形の広大な主郭を帯曲輪や腰曲輪が取り巻き、北東尾根と西尾根を堀切で断ち切ったシンプルな縄張ですが、主郭の切岸は鋭く高さもあり、西から南西下にかけての帯曲輪には土塁が設けられていたり、シンプルながら堅固な造りになっています。また、西尾根の堀切は普通の規模(深さ2mほど)ながら、主郭より高い位置から続く北東尾根には幅10m、深さ6mの巨大な堀切が設けられていて、外側の切通道と併せて二重堀切になっている上に、堀切の西端は直角に北に折れて竪堀となり、東端は竪土塁が侵入を阻んでいます。

阿木城も山城サミット可児大会でリーフレットをもらい、いつか行こうと思っていました。ただ、縄張図を見る限りでは単郭の小さな山城という印象で、さほど期待はしていなかったんですが、切岸は鋭く高く、虎口や堀切にも技巧が凝らされた小さくても見応え充分の城でした。縄張図だけではわからない良さがありますね。また、案内表示や説明板もあちこちに設けられていて、とても大切にされている城だと感じました。
 

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トク

【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (第13回)臼杵城(丹生島城)① (2022/09/26 訪問)

(鶴崎城からの続きです)

大友宗麟は、キリスト教に没頭する自分に対する家臣の不満を避けるため、家督と大友館を息子の義統に譲り、自らは早々に臼杵湾に浮かぶ丹生島(にうじま)に城を築いて移り住み、城下には教会・修道院・学校・病院などを建て、キリスト教の街を作っていました。南蛮貿易も盛んに行われ、臼杵の街は大変賑わっていたそうです。そしてこの臼杵城(丹生島城)は、当時の大手口は海側(卯寅口:写真①)のみにあり船でしか出入りできませんでした。島の周りは40mの断崖絶壁で近づく事すらできない難攻不落の浮城と呼ばれていました。家督譲りも表向きで、重要な政事(まつりごと)は全てこの臼杵で行われていたようです。

大友氏改易後は、1593年に「福原直高」が入り石垣造りの城へ改修を始めます(大友時代は断崖の上に館のみ)。そして現在の古橋口に大手門(写真②)を作り陸続きとし、天守台(写真③)などができた時点で直高は府内へ。代わって1597年に「太田一吉」が入り天守台の上に三重の望楼型天守を完成させ(写真④ここに天守があった)、また31基の櫓と7つの櫓門を造り、現在のような城の原形を完成させました。九州の関ケ原では太田一吉は西軍についたため、東軍の中川秀成(後の岡城主)から攻められます。しかし、この城は大友宗麟の時と同じ、またしても落ちる事はありませんでした。2度の戦にも落ちなかった難攻不落の浮城というわけです。

関ケ原後は、郡上八幡から「稲葉貞通」が入り大手門の改修や二の丸の総石垣化などで形を整え(写真⑤⑥⑦)、幕末まで稲葉氏15代の居城となりました。島も江戸時代に入り砂が堆積したり埋め立てられたりして陸続きとなり、城下も拡張されていったようです。稲葉氏の時代の畳櫓(写真⑧)と卯寅口門脇櫓(写真⑨)が現存しており、ともに珍しい重箱櫓となっています。

続100名城スタンプは大手門(古橋口)の前の「観光交流プラザ」内の受付にあります。その観光交流プラザには無料の駐車場があるため、車の方はそこに止めて見学されたらいいと思います。JR臼杵駅からは徒歩10分程です。「城びと」の大きな看板も大手門(古橋口)横にありましたよ!(写真⑩)。


臼杵に入った島津軍はまず街を焼き払います。この時、宗麟が心血を注いで建てた教会・修道院・学校・病院なども全て焼き払われてしまいまいた。宗麟にとってこれはとてもくやしくかつ屈辱的であったようです。そして島津軍は丹生島に近づけないため、陸より鉄砲を放ちます。しかし、届きません。3日間攻め続けますが、落とす事はできません。

この後、大友宗麟はこのまま籠城を続けるかと思いきや、このくやしさを晴らすべく、何と討って出る事にしました! 実はこの時、宗麟にはある秘策がありました。いったい宗麟はどうやって島津軍を攻め、どうやってこの臼杵城を守り抜こうとしていたのでしょうか?

臼杵城②へ続きます。
 

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todo94

11年ぶりの鞆城 (2022/11/04 訪問)

大可島城を俯瞰するために鞆城にも脚を伸ばしてみました。2011年8月以来、11年ぶりの鞆城です。その間、大河ドラマで何度も足利義昭が描かれました。「麒麟がくる」の足利義昭は特に印象的でした。この後、対潮楼や桝屋清右衛門宅なども巡って鞆の浦を満喫させて頂きました。

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赤い城

別名は宇都野城 (2022/11/13 訪問)

県道30号線を那須塩原方面に向かう途中にあります。
城址の前の道路に駐車スペースがあります。
登城口から登るとすぐに城址。
3つの郭が並び、それぞれ堀切で区切られていました。
主郭と二郭には土塁も残っています。
鎌倉時代の城で、程よく整備された城でした。

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にのまる

大磯城山公園 (2022/11/11 訪問)

JR大磯駅より、旧島崎藤村邸、明治記念大磯庭園(旧大隈重信別邸・陸奥宗光別邸)に寄りつつ行きました。旧東海道の松並木やこゆるぎの浜など歩きましたが、のどかでゆったりと流れる空気や新旧調和し落ち着いた街並みは江の島や茅ヶ崎とは違った湘南の雰囲気です。
国道1号線の南側が旧吉田茂邸地区、北側が旧三井別邸地区となっている県立大磯城山(じょうやま)公園が小磯城址とされています。現状から城の遺構は認められないようです。
山頂の展望台から富士山や箱根の山々がよく見えました。下りは北側の出口へ下山しました。

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スミヤキ

朴葉の落ち葉の絨毯が印象的 (2022/10/22 訪問)

鮫ヶ尾城は、上杉謙信の本拠春日山城にも近く、隣接する信濃へ通じる重要拠点として整備された、標高 185m程の丘陵頂上部に主郭がある連郭式山城です。
謙信急死後の後継者争い「御館の乱」で敗れた上杉景虎が自刃して果てた城としても知られています。

現在は、弥生時代後期の斐太(ひだ)遺跡とその後の古墳時代の古墳群と共に史跡公園になっています。
麓から山頂曲輪に至る登城道(遊歩道)には、山城の北斜面を行く「北登城道」と山頂につながる尾根筋を行く「南登城道」と「東登城道」があります。
麓の斐太神社脇に駐車場があり、少し歩き登ると「斐太歴史の里総合案内所」に着きます。続 100名城スタンプ、パンフレットをゲットして、お薦めの登城ルートを確認して下さい。
案内所から東登城道を上り、山頂曲輪を目指し、北登城道を下る小一時間のハイキングになります。熊除け鈴付杖の貸出しも有り、とても重宝します。
緩やかな勾配の東側の尾根を登ると堀切が多数見られ、強力な防御網が敷かれていた事が分かります。また、山頂曲輪からの眺望が素晴らしく、春日山、頸城平野と日本海が一望出来ます。
そして朴葉の落ち葉で埋め尽くされた道を下り歩いたのがとても印象的。

朴の木の花言葉は「誠意ある友情」、「自然の愛情」だそうです。最後に一緒に戦った仲間の裏切りで自刃する景虎さんの心境はどうだったのでしょうねえ?
里山の自然景観が豊かでそれぞれの季節で歩き楽しめる山城です。おすすめですよ!

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カルビン

ニアピン賞 (2022/11/13 訪問)

石川県遠征の次の日に疲労蓄積しているのに、勢いで群馬県渋川に行ってきました。。。今度こそ自粛前ラストと言う事で(←たぶん我慢できずにまた遠征するw)

渋川駅からレンタサイクルで白井城再訪を含め延距離10kmくらいの行軍を考えていた(以前同じ距離で足がいっぱいいっぱいだったので(汗))ので、白井城をメインとすると剣城は範囲外になるので当初は手抜きで道中の電車の車窓から城碑撮影出来たら登城した事にしようと考えてました(確信犯w)

しかし借りた自転車がアシスト付だったので行ける所まで行ってみようと思って進んでいたら、意外と行けてしまいました(笑)

現地は線路沿いの畑しかない場所で、手作り感満載の城碑がある風景は正にナニコレ珍〇景でした(^^;

結局4時間の滞在で6城回り、何だかんだで25kmも距離走ってました・・・アシスト付自転車、侮れん(ーー;


ちなみに剣城の謂れや由来、何もわからずじまいでした・・・何しに行ったんだかorz


帰宅後に車窓から当てずっぽうに撮った写真みたら・・・非常に惜しかった事が判明。。。
誰も得しないニアピン賞でしたorz

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赤い城

長い堀が素敵な塩谷氏の城 (2022/11/13 訪問)

この日は那須塩原方面へ進軍。
川崎城は矢板ICから那須塩原方面に向かう途中にあります。
公園になっていて駐車場もあります。
注意から登って行くと南曲輪を経て一の堀へ。
なかなかの長さがあります。
この堀は両サイドが竪堀となって落ちていますがまだちょっと薮ってました。
本丸もまだ下草が茂っています。
本丸の土塁上に石碑があります。
三の丸方面に進むとニの堀、ここはまだ薮。
冬季の訪問がよさそうですね。
草が刈ってある部分も多く見応えのある城です。

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チェブ

城びと未登録のお城攻め「畠山 重保館」鎌倉編。 (2022/11/13 訪問)

以前、神奈川県横浜市の「畠山 重保館」の投稿で
『鎌倉にもあるようです。』
と、書きました。
偶然に、鎌倉の「畠山 重保館」を見つけました。

畠山 重保さんは、畠山 重忠さんと北条 時政さんの娘の子です。
なのに、北条 時政さんと、奥さんの牧の方(りく)の野望の為に消されてしまいました。

場所は鶴岡八幡宮から段葛を通り、由比ヶ浜を目指して歩きます。歩道の左側に『浜の大鳥居跡』の石碑がありました。
もう少し歩くと、『一の鳥居』です。
その右側に『畠山 重保邸』の石碑と供養塔があります。
、、、?。鳥居の近くに館を建てるかな?
畠山 重保さんは鎌倉において重要な方だったのでしょう。
重保さんは、源 実朝さんの奥様になる方を、お迎えに行くメンバーの1人でもありましたし。
この時の都での、いざこざが悲しい結果になってしまうんですけどね。

鶴岡八幡宮の近くで『鶯ヶ谷』の説明板を見つけました。実朝さんが、鶯の初音を聞いた事から名付けられたそうです。平和だ~。

「畠山 重保邸」の石碑には討死するまでの、無念が刻まれてます。
畠山一族、この春の鶯の初音を どのような気持ちで聞いたのか。
冤罪の愚痴を聞いてあげたいと思った「畠山 重保館」訪問でした。

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カズサン

水堀が残ってる亥山城跡 (2022/11/03 訪問)

 東郷槙山城を終えて東進、一乗谷城を横目に国道158号線を大野市へ、トンネルを抜けると天空の城とも言われてる越前大野城が見えて来る、チョット寄って行くか?と気持ちが動くが亀山公園北駐車場は車で一杯、表の駐車場も人と車で一杯、何かイベントが有る様です、諦めて目的地の亥山城の有る日吉神社を目指し、神社参拝者駐車場に駐める。参拝者駐車場が満車の場合は北に50m程の所に城下町東広場駐車場が有ります。

 皆さんが投稿されてる様に日吉神社境内が亥山城跡です。南西角に水堀が残って居ます、南側に東に向かって水堀、堀跡が在ったそうで、東側の山王公園も堀跡の名残、ひょっとして北側を走る国道476号線は堀跡かも?境内には日吉神社以外に分社も有り、東側の天守台の様な石段上に道祖神社等鎮座、天守台の様な基壇は丸い川原石による二段積の石垣、ふと金森長近の築いた飛騨の城跡が丸い川原石による石垣が多いので、金森氏の城跡改造の後かな?と思ったりしたり、素晴らしい丸い川原石の二段櫓台?基壇です。

 参拝と見学を終えて今回越前未踏の城廻りの主目的「イオさん」の投稿で長年の疑問が払拭した白山平泉寺城を目指します。
 

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ぴーかる

経ヶ端城 (2022/10/16 訪問)

【経ヶ端城】
<駐車場他>駐車場はなし。城跡入口にトイレあります。
<交通手段>車

<見所>櫓台
<感想>日帰り丹波の黒豆購入と城攻めの旅3城目。経ヶ端城の築城年・築城者は定かではありません。現地説明板に「丹波志」によると河合の谷(この川合地区)四ヶの城は樋口の持城なり。古城主樋口対馬守とあります。
 城跡は山地の突き出た先端を堀切で区切ってお城にしています。比高はそれほどなくすぐに城跡の堀切にたどり着きます。堀切の右手が岩場っぽい櫓台になっていて城跡の最高所となっています。その下段に小さい主郭があります。主郭の北方向の下段に2つ程段曲輪がありますが柵で入れなくなっています。主郭の両サイドに薄くなった竪堀があります。敷地面積が小さいので地区の砦といった感じでした。所要時間も30分程度で見れます。

<満足度>◆◆◇
<その他>昨年丹波市の高見城で投稿いたしました黒豆を購入するべく今回の旅を計画しました。10月の1ヵ月間くらいは黒豆の収穫時期で丹波市ではあちらこちらの黒豆畑の横で路上販売しています。紹介した以外の場所でも購入しましたが、昨年投稿した場所がやはりかなりお得でした。今回の旅はこの経ヶ端城を攻略したあと、黒豆を購入しに行って、そのあと未だ城びと未投稿の久下城(玉巻城)を攻略しに行きましたが山道が見当たらず、藪化していて攻略できませんでした。

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小荷駄

お寺? (2022/09/30 訪問)

駐車場とトイレは有るのかないのかわかりませんでした。東側の水堀北側のフェンス越しや西側からは土塁が見えたりしました。鐘楼の石垣は現在工場中です。外回りは一周歩いて20~30分程でした。境内には立派な本堂や経堂そして隅櫓のような鼓楼があります。前々から訪れたいと思っていたので櫓のような鼓楼が見えた時やフェンス越しからの土塁が見えた時はちょっと興奮していたかと思います。非常に楽しく散策出来ました。

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小荷駄

桑名城跡 (2022/09/27 訪問)

JR桑名駅から徒歩で30分程でした。城跡は九華公園になっていますので駐車場トイレはもちろん有り非常に散策しやすくなっています。遺構はあまり残っていないですが復元された蟠龍櫓や七里の渡少ないですがわずかに残っている石垣などを散策してから町の方に行き三崎見附跡から京町見附吉津屋見附と歩き七曲見附までのんびりと色々と想像をふくらませながら散策しました。城跡と合わせて二時間程でした。

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小城小次郎

とにかく広いのだ (2022/05/03 訪問)

「馬乗り場」とも「古館」とも呼ばれるエリアを見てきた。「内館」と呼ばれるいわゆる本城から500m離れているがここも脇本城内。周囲には「乍木地区」など合わせて五つのエリアがあって全部まとめて脇本城、なのだ。

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Tokyobay

三の丸土塁の一部とその上に植えられた「姥杉」が市役所に残る (2022/10/18 訪問)

三の丸土塁の一部とその上に植えられた「姥杉」が市役所に残る。黒門(冠木門)は一旦他所に移築されたものを戻したようであるが、当時の正確な場所は不明なようである。

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カズサン

リニューアル工事進行中 (2022/11/22 訪問)

 大河ドラマ「どうする家康」に合わせて浜松城天守閣リニューアル工事中です、昨日登城した折り工事関係者の方に尋ねましたら、天守閣の塗りは終わったようで明日以降覆ってるシート、仮設足場の撤去が始まる様な答え、12月20日工事完了が待たれます。
 また日本庭園のもみじの紅葉は同かなと訪れましたがまだまだ緑のまま、しかし日本庭園の水が抜かれて清掃整備中、初めて水が抜かれた日本庭園の池を見ました、底はコンクリートが打たれて居たのですね、初めて見ました、リニューアル工事に合わしたのか、池の桟橋と木橋が傷んだ所を修復、木部追加工作されて居ました、池の整備工事は終わり、明日以降に水を入れるとの事、ラッキーな体験でした。
 大河ドラマ館は建物関係は完成の様で工事足場は無く成って居ました、またドラマ館前庭の三つ葉葵の芝庭も完成の様、天守曲輪南東端より眺めてみました、紅葉のケヤキ並木は景観の為か本丸下、二の丸登城路辺り低く剪定されて居ました、また周辺の道の本丸東下、北下、大河ドラマ館との連絡散策路と成る辺りはドラマ館オープンまでに修復整備されるようです。
 どうする家康浜松大河ドラマ館のプレオープンは令和5年1月22日(日)、グランドオープンは令和5年3月18日(土)です、前売り入場券も購入済みです、後はネットで入場日を予約入れるだけ。
 既に「どうする家康浜松大河ドラマ館」のサイトはオープンして居ます。
 

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