【熊本城と西南戦争の遺跡を歩く①】官軍と谷千城(前編)
(2022/06/22 訪問)
現在の熊本城天守は鉄筋コンクリートで再建されたものですが、実は加藤清正の築城した天守が幕末まで細川家の居城として残っていました。そして1873(明治6)年に廃城令が発布されるも壊されず熊本鎮台として存在していました(明治初期(天守3F展示)と現在の比較写真③と④、⑤と⑥を参照して下さい)。
ではここで問題です😲!
清正公の天守はその後いつどうやって無くなってしまったのか、皆さんは御存知でしょうか🤔?
1873(明治6)年、「征韓論」に敗れた西郷隆盛は失意の内に鹿児島に戻ります。そこで目にしたのは、明治になり行き場のなくなった若い士族たちでした。西郷は彼らのため私学校を設立し、世界の情勢など自分のこれまで政府で得た知識を教え、彼らが自立するための支援を行います。しかし、1876(明治9)年、明治政府は士族に対し、廃刀令や家禄の廃止などを発布しました。刀という武士の魂を奪われ家禄(給料)まで失くされた旧士族はこれでは生きては行けません。翌1877(明治10)年2月15日、これらへの撤回を明治政府へ訴えるべく私学校の生徒たちを中心に、旧軍人の「桐野利秋」「別府晋助」「村田新八」なども加わり西郷は上京することにしました。
21日「西郷隆盛」の薩軍13,000は、黙って熊本を通すよう要求しますがそうはさせてもらえません。よって、まず熊本城に籠城する「谷千城」(たにたてき)(写真①②)率いる鎮台の官軍3,300を包囲します。その時、包囲された谷は何を考えたのか、翌22日、自ら熊本城に火を放ち天守を焼いてしまいました。おそらく決死の覚悟を見せるためだったのか? それとも自分たちが負けた後にここを薩軍の拠点とされる事を恐れたのか? それとも天守が大砲の標的になりやすいと思ったのか? それとも武士のシンボルとも言える天守を焼く事で敵の戦意喪失を狙ったのか?(放火ではなく官軍の台所から誤って出火したという説もあります)(写真図⑦)。
それだけではなく、谷はさらに熊本城下にまで火を放ってしまいました(これは谷の命令に間違えないようです)。薩軍の隠れる場所を無くし城下全てを見渡せるようにしようと思ったのでしょうか?(写真⑧)
詳細は、「熊本城の天守3F」にて解説されています。焼けた落ちた瓦なども展示されていました(写真⑨)。
また熊本城東側(加藤神社前)の高橋公園(旧千葉城跡)には、「谷千城の銅像」が立てられています(写真①②)。
私は熊本城の天主最上階に立ち、西側の方向を眺めて見ました(写真⑩)。薩軍が陣を敷いた花岡山や激戦となった藤崎台・段山が見えました。当時同じくここに立ち、この眼下13,000の薩軍に取り囲まれてしまった谷千城は、もし放火説が本当なら、いったいなぜ薩軍を見たとたんこの天守を焼いてしまおうと思ったのでしょうか? そしてまたなぜ城下にまで火を放ってしまったのでしょうか?
「②官軍と谷千城(後編)」へ続きます。
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