山口城は幕末、毛利敬親らが維新(攘夷)を達成するための拠点として築き、背後に高嶺を
負い、水堀を要していました。藩内では山口屋形で通していましたが、藩外からは山口城と
呼ばれていたようです。この後、長州藩は下関戦争での敗戦と三条実美らの七卿落ちを経て、
元治元年7月、禁門の変を引き起こし、幕府による第一次長州征伐を受けることになります。
この一連の流れで、敬親父子は萩に退き山口城は一部破却を受けることになったとされます。
第二次長州征伐では長州側の拠点として機能し、明治維新後は山口藩庁と改称され、後に
県庁となり、その際に旧来の建造物はすべて解体され今では表門と堀の一部が残っています。
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