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宗春

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその26 米本城 (2022/07/29 訪問)

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその26

コロナ感染者の急増により、急遽予定を変更して、久しぶりに県内のお城を自家用車で攻めました。
城址は申し訳程度の整備がされていて、ある程度進んで行けますが、狭い土橋の奥は倒木で進めませんでした(おそらくその先が主郭)。
城の中核部分は昭和42年頃の土取りで破壊されたとの事。入口の看板に「文化財を大切にしよう」とあるが、どの口が言うのであろうか!

御城印は、「ますごとしすい」で購入したたものに日付を入れました。

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カズサン

城郭模型が観たくて登城 (2007/05/05 訪問)

 吉田城は小田原征伐後、家康関東移封に成り、その地に豊臣家臣が入るが吉田城には池田輝政(照政)が15万2千石で入封し、現在見える縄張の石垣造りの織豊系城郭に大改修した、天守閣は作られなかったが、北に豊川が護り北堅固の城郭である、本丸の石垣、空堀、大手の枡形、北門枡形、東馬出を備え、二の丸、三の丸、総構えによる悌郭式縄張です。
 昭和29年3月には鉄櫓跡に模擬隅櫓が復元し、博覧会中に郷土資料館として公開、長らく非公開でしたが平成17年、模擬隅櫓の改装、下石垣の補強工事して一般公開された。 北の豊川越しに鉄櫓跡に建つ城戸博士設計の三層四階隅櫓は絶景の見所です。

 さて15年前の平成19年5月5日、浜松で賑わってる浜松まつり、凧合戦、夜の御殿屋台引き回しを尻目に、豊橋に在る吉田城に登城する、鉄櫓内の資料館に豊橋工業高校建築科制作の城郭模型吉田城が有るとの情報も有り、今回の登城と成った。
 
 城郭模型吉田城は本丸を復元してる、平成5年制作だそうです、ガラス越しにしか観察出来ず、写真にガラスの反射が映り少し見にくいのですが、この感動をお伝えします、古絵図も参考にして造ったのでしょうが良く出来ています、本丸の景観が良く分かり想像が膨らみます。
 千貫櫓台跡、辰巳櫓台跡、北御門石垣、資料館に成ってる模擬復元鉄櫓など投稿致します。

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トク

【熊本城と西南戦争の遺跡を歩く②】官軍と谷千城(後編) (2022/06/22 訪問)

「① 官軍と谷千城(前編)」からの続きです

熊本城天守を燃やしてしまった谷にとって唯一の誤算は、誤って備蓄していた米も一緒に燃えてなくなってしまった事でした。これにより、この先の籠城戦で食料に困窮する事になってしまいます。

しかし、熊本城には清正が最初から籠城戦を想定し、銀杏の木や120ケ所もある井戸や、壁や畳にカンピョウや里芋の茎が保存され数十日の籠城にも耐えられる作りになっていました。薩軍は城への突入を試みるも、官軍もよく抵抗、かつ高石垣や堀や川、連続する桝形や塀と狭間に囲まれた巧みな縄張りで、薩軍は城に近づく事もできません。(清正の考えた鉄壁の縄張りや籠城への備えが、築城から270年後に役に立ったという事ですね🤔!)。それでも官軍も籠城が長引くと、これだけではやはり食料がまた足りなくなり、最後は軍馬の肉まで食べたそうです。

【熊本名物「馬刺」】
加藤清正が蔚山で籠城の際、軍馬を食べたのが起源だそうで、官軍もそれを知って同じことをしたのかもしれません(写真②:天守3Fより)。そのせいかはわかりませんが、熊本では今でも馬肉をよく食べる習慣があるようで、「馬刺し」があちこちで売られています。私もおみやげに買って帰りました(写真③④)。何かちょっとコメントするのがむつかしい味でしたが・・・興味のある方はぜひどうぞ😊!

次回は、城下にある薩軍側の遺跡を歩きます(「③薩軍と西郷隆盛」へ続きます)。
 

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赤い城

見どころは本丸の背後に (2022/07/10 訪問)

八戸市博物館の駐車場に車を置きます。
博物館前に南部師行の像があり、入口に100名城スタンプが置いてあります。
八戸城東門から入城、すぐに空堀でテンションup。
東善寺跡から芝生を進んで行きます。
整備された公園ですね。
中館の手前にも堀があり菖蒲が植えられていていました。
木橋を渡り、本丸は有料エリアとなります。
主殿や番所、馬屋などが復元されていてこれはこれで良いのですが、西門の裏を覗くと深い堀が。
ここは歩きたい!
で足早に本丸を後にして北側から西に切岸沿いに進むとたどり着くことができました。
本丸を見上げ、深い堀を楽しむことができました。
折れもあり横矢がかかる部分もあります。
外側の土塁には切れ目もあり、虎口のようになっていました。
期待以上の城でした。
月曜日(第1と祝日除く)は本丸はお休みなので注意です。

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朝田 辰兵衛

電車~徒歩登城者にはストレス。 (2022/07/11 訪問)

加藤清正つながりで,田原坂から佐敷城へ。八代駅から肥薩おれんじ鉄道。JR田原坂駅も片側にしかICタッチ機が設置されていないローカルさ。八代駅も肥薩おれんじ鉄道からJRの乗り換えで,元気な女性2人が人力で改札するというアナログ感。ホッコリさせられました。
しかし,電車~徒歩登城者にはストレスでした。佐敷駅の入出場は,東側の佐敷城とは反対側の西側のみ。出場後,右側(北側)の跨線橋を渡ります。芦北町立図書館を過ぎると大通りに出ます。見上げると佐敷城の西側がチラッと見えます。このまま真っすぐに登れればいいのですが,登城ルートはありませんでした。大通りを左側(北側)へ。時計回りで進み,佐敷城の東側から登るというストレス。車での登城者には,このもどかしさはわからないと思います。

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おっちゃん

筒井城跡概要図、つつい歩いてマップ (2016/12/28 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

津和野城跡本丸周辺案内図 (2014/06/02 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

太閤ヶ平(秀吉本陣)および大防衛線 (2017/01/04 訪問)

現地案内板より抜粋

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桶狭間古戦場 (2022/07/28 訪問)

桶狭間の合戦における城や砦跡は散策していましたが、桶狭間古戦場には行った記憶がありません。もしかして昭和の頃行ったかもしれませんが、覚えていないということで行ってきました。ところが桶狭間古戦場跡というのは名古屋市緑区有松と豊明市栄町、2カ所あります。名鉄中京競馬場駅より徒歩3分のところに豊明市の桶狭間古戦場伝説地があります。そこから徒歩15分くらいの所に名古屋市の桶狭間古戦場公園があります。ネットを見ると理由はいろいろあるようです。
 昔のテレビなどでは狭間という谷間、湿地をイメージされる言葉から織田信長が坂を駆け下りて今川義元の本陣を急襲する場面がありました。昔から、「そんなところに布陣するかな」とは思っていました。この「城びと」の小和田哲男先生の連載講座「戦国10大合戦と城」に「実際は地名が桶狭間というだけで、義元本人は窪地で休憩したわけではないのである。『信長公記』にも「おけはざま山」とあり、山上ないし山の中腹に陣所を置いていたことがわかる。」と記載があり納得しました。実際にはよくわかっていないようですが、とにかく「おけはざま山」の今川義元本陣跡にも行ってみました。山の上にあり、この場所なら本陣としてわかる気がします。暑かったので、そこまでとして早々に退却しました。

 名古屋市の「桶狭間古戦場公園」へは名鉄有松駅からバスで行くことができます。有松は、有松絞りで有名なところですが、東海道沿いの町並みは、江戸時代の雰囲気を残していて、国から「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。

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たぬぬ

古墳が物見台として利用されました。 (2022/07/27 訪問)

案内板のある公園には遺構はありません。少し離れたところにある遠見山古墳が物見台として利用されました。古墳には登ることができました。また、総社城西木戸跡の石碑が建っています。

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カズサン

復元5年後盆帰省にチョイ寄り (2008/08/16 訪問)

 三日月藩乃井野陣屋館が平成15年(2003年)発掘調査の後、元の位置に物見櫓、長屋が修復戻され、中御門、通用門、中御門木橋、通用門木橋が復元され、陣屋館跡が整備保全されました。
 復元から5年経った14年前の平成20年(2008年)故郷に盆で帰った後、鳥取道、国道373号線経由佐用町の三日月藩乃井野陣屋を探訪しました。
 車は陣屋内側の駐車場に駐める。

 維新後小学校に移築されてた現存物見櫓が元の位置に戻され、水堀も整備され、護岸の石垣も綺麗に整備され、中御門、通用門、各木橋など復元され、往時の佇まいが戻って来ました、山間の中にひっそりと建ってる姿が美しい、時間と曜日のせいか見学者は少ない。
 御殿跡はまだ未調査の様ですが山手に数段の屋敷跡か曲輪跡?が有る様です、其れなりに草刈りはされてる様子。
 
 津山森藩は無嗣断絶し、分家の森氏が2万石で赤穂城へ、分家の分家森長俊が元禄10年(1697年)1万5千石で三日月藩乃井野陣屋に移る、以後森家9代治政し明治を迎える。

 

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橋吉

但馬と播磨に通じる街道の交点 (2022/07/17 訪問)

若桜町観光案内所で、続日本100名城スタンプを押し、パンフレットをもらい、行き方も教えてもらいました。
なお、クルマは若桜駅にとめました。

若桜鬼ヶ城は標高452mの鶴尾山山頂部から尾根部分に曲輪群を設けています。
徒歩だと登山口から約45分で山頂に着きます。
一方、クルマでは若桜駅から15分ほどで山頂馬場駐車場まで行くことができます。
私は、暑さに負けてクルマの方を選択してしまいました。
小学校の先生に「二つ道があるときは、あえて厳しい方を選びなさい。」と言われたのに・・・。
なお、徒歩で上がった場合のみ見られる遺構もあるようです。

駅から山に向かうと、ほどなく舗装された林道に入ります。
細い道ですが、退避スペースもあちらこちらにあり、勾配も緩やかなので、注意して運転すれば大丈夫です。
舗装路末端に駐車場あり、ここから砂利道になりますが150m先まで車で行けます。
馬場の跡が駐車場になっています。

熊鈴を用意して登城。
動物よけの電気柵に囲まれていますが、観光案内所の方によると、電気は流れておらず、扉は開けっ放しでよいとのことです。

本丸は駐車場から10分で到着
ここからは但馬と播磨に通じる街道の交点であることがよくわかります。
所要時間:35分(山頂馬場跡駐車場からの見学時間)

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にのまる

絶景 (2022/06/08 訪問)

岩屋城まで登ればあともう一息!と思っていたのですが、意外と遠くてさらに15分くらい登ってやっと県民の森入り口に到着しました。途中、太宰府口城門へ通じる道もありましたが寂しそうだったので最後まで林道を通りました。これは今思えば失敗です。標識が出ているということは行ってもいい!行くべきだ!ということなので行けばよかったです。
それでもだんだん空が近くなり山頂に近づいているのを感じると疲れも吹き飛び、着いた時には達成感でいっぱいになりました。

といってもやっと入口にたどり着いたわけで、まだ何も見ていません。
それなのに時間は間もなく午後3時。よい子はそろそろ下山のお時間です(;’∀’)
でもまあ夏だし、こっちは東京より30分くらい日没遅いし、下りも林道を通れば大丈夫だろうといろいろ言い訳を考えてゆっくりすることにしました(^^♪

10棟の建物跡の残る尾花地区。広々とした焼米ケ原に吹き渡る風の心地よさと開放感、そして最高所からの絶景に酔いしれているうちにあっという間に1時間経過。そろそろ下山しなければ。

しかし、城メグラーの端くれとして、いくら何でもここだけで終わりにするわけにはいかないので、増長天礎石群と鏡ケ池に行ってみました。内周の土塁がしっかりと確認できます。傾斜地にあるため石垣で上下二段に区切られている4棟の礎石建物跡。豊かに水を湛える鏡ケ池は城の井戸跡と考えられているそうです。1,000年以上前にこの場所で営まれていた暮らしや仕事を思い浮かべ、その歴史の先に在る自分は……など考えてみたりしました。

帰りは予定通り林道を通りました。さすがに下りは早かったです。登っているときは余裕がなくて全く見ていなかったのですが、道路脇の崖には先の災害の補修跡が何か所も見られました。

ほぼ“登っただけ”でほとんど何も見ていないのにこれだけの満足感を得られたので、全部まわったら卒倒してしまうかもしれません。
遊歩道が整備され登城口も見学コースもたくさんあるようなので、次回は一日かけてじっくり歩きたいです。

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スティクラ

利神城ガイドツアーに参加 (2022/07/25 訪問)

単独では入山禁止のためガイドツアーを申し込み参加。
これまでは三の丸までしか行けなかったが、今年から天守跡まで登れることを申し込みの後にわかり、期待が膨らむ。

ツアーの時間は10時~14時30分。昼食付で3,000円。
高いか安いかは個人の判断。私は復興のための寄付込みと思っています。

ガイドツアーは利神城だけでなく、平福全体を紹介しながら進む感じ。
全体で動くため、ガイドをし何回か休憩を挟みながら進むので、三の丸に着くまで1時間半ほど。(自分のペースなら40分くらいかな)
みんなで登るのが苦じゃない人ならいいが、自分のペースで動きたい人はおススメしません。


三の丸でガイドに城全体について説明をもらい、天守跡へ。
天守跡までは安全を考慮して一本道。天守からの360°見渡せる眺めは素晴らしかった。

城全体を自由に見てもらえるように整備はこれから行う予定とのことだが、崩れそうな石垣が多いため、なかなか進まないとのこと。ガイドの方も何年先になるかなとおっしゃっていた。

個人的な感想としては、行く価値は十二分にあるが、時期が悪かった。
夏場で暑いし、草が生い茂っているため肝心の石垣が隠れてしまっていた。
ガイドの人も来年は7月~8月はツアーをやめようかと考えているとのこと。
理想は春か秋。春は天守にある木が桜のためとてもきれいで、秋も紅葉が素晴らしいとのこと。
利神城にはもう一度行ってみたいが、ガイドツアーに参加するのは1回で十分と感じた。
今回のツアーとは別にリピート者のためのツアーができれば参加を検討するかも。

利神城ガイドツアー
https://sayoyamajiro.wordpress.com/

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赤い城

本丸は整備工事中 (2022/07/10 訪問)

三の丸が駐車場になっています。
九戸城ガイドハウスがあり、ここにスタンプが設置されています。
橋を渡り、本丸残っていました外周を歩き搦手から二の丸に入ります。
その手前に石沢館がありますが発掘調査中で立入禁止。
二の丸との間には深く広い堀があります。
二の丸から本丸へと思ったら整備工事中で入ることはできませんでした。
本丸と二の丸の間にも堀があり、石垣も残ります。
本丸の虎口は枡形。
九戸氏の城で九戸政実の乱の舞台となりました。
本丸に入れなかったのは残念ですが初めての岩手県を楽しむことができました。
今回の遠征は盛岡三大麺が目的でお昼にぴょんぴょん舎の冷麺、夜はわんこそばととりあえず2つ制覇。
お腹いっぱいで満足でした。

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トク

【熊本城と西南戦争の遺跡を歩く①】官軍と谷千城(前編) (2022/06/22 訪問)

現在の熊本城天守は鉄筋コンクリートで再建されたものですが、実は加藤清正の築城した天守が幕末まで細川家の居城として残っていました。そして1873(明治6)年に廃城令が発布されるも壊されず熊本鎮台として存在していました(明治初期(天守3F展示)と現在の比較写真③と④、⑤と⑥を参照して下さい)。

ではここで問題です😲! 
清正公の天守はその後いつどうやって無くなってしまったのか、皆さんは御存知でしょうか🤔?

1873(明治6)年、「征韓論」に敗れた西郷隆盛は失意の内に鹿児島に戻ります。そこで目にしたのは、明治になり行き場のなくなった若い士族たちでした。西郷は彼らのため私学校を設立し、世界の情勢など自分のこれまで政府で得た知識を教え、彼らが自立するための支援を行います。しかし、1876(明治9)年、明治政府は士族に対し、廃刀令や家禄の廃止などを発布しました。刀という武士の魂を奪われ家禄(給料)まで失くされた旧士族はこれでは生きては行けません。翌1877(明治10)年2月15日、これらへの撤回を明治政府へ訴えるべく私学校の生徒たちを中心に、旧軍人の「桐野利秋」「別府晋助」「村田新八」なども加わり西郷は上京することにしました。

21日「西郷隆盛」の薩軍13,000は、黙って熊本を通すよう要求しますがそうはさせてもらえません。よって、まず熊本城に籠城する「谷千城」(たにたてき)(写真①②)率いる鎮台の官軍3,300を包囲します。その時、包囲された谷は何を考えたのか、翌22日、自ら熊本城に火を放ち天守を焼いてしまいました。おそらく決死の覚悟を見せるためだったのか? それとも自分たちが負けた後にここを薩軍の拠点とされる事を恐れたのか? それとも天守が大砲の標的になりやすいと思ったのか? それとも武士のシンボルとも言える天守を焼く事で敵の戦意喪失を狙ったのか?(放火ではなく官軍の台所から誤って出火したという説もあります)(写真図⑦)。

それだけではなく、谷はさらに熊本城下にまで火を放ってしまいました(これは谷の命令に間違えないようです)。薩軍の隠れる場所を無くし城下全てを見渡せるようにしようと思ったのでしょうか?(写真⑧)

詳細は、「熊本城の天守3F」にて解説されています。焼けた落ちた瓦なども展示されていました(写真⑨)。

また熊本城東側(加藤神社前)の高橋公園(旧千葉城跡)には、「谷千城の銅像」が立てられています(写真①②)。

私は熊本城の天主最上階に立ち、西側の方向を眺めて見ました(写真⑩)。薩軍が陣を敷いた花岡山や激戦となった藤崎台・段山が見えました。当時同じくここに立ち、この眼下13,000の薩軍に取り囲まれてしまった谷千城は、もし放火説が本当なら、いったいなぜ薩軍を見たとたんこの天守を焼いてしまおうと思ったのでしょうか? そしてまたなぜ城下にまで火を放ってしまったのでしょうか?

「②官軍と谷千城(後編)」へ続きます。
 

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三浦の晃ちゃん

ちょっと、登りがキツかった。 (2022/07/27 訪問)

駐車場から、30分ぐらい歩きました。ちょっと、疲れます。
遺構はあまりありません。施設も模擬天守閣です。

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三浦の晃ちゃん

大河ドラマ館を、作るらしく、閉館中でした。 (2022/07/27 訪問)

天守閣は、来年の大河ドラマ館の関係で、閉館中でした。家康館や、駐車場は、今のところ、利用できましたが、近いうちに、改修されるそうです。しばらく、スタンプも、押せなくなるかもしれません。要注意です。

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三浦の晃ちゃん

天気が良かった (2022/07/17 訪問)

郡上まつりのときに、訪問しました。近くまで、車で登れるのがとても、ありがたいです。

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三浦の晃ちゃん

初めてが夜 (2022/07/18 訪問)

初めて登城しました。夜間に特別に公開しているとの情報を得たので、隙間時間に行くことができました。夜景が素晴らしかったです。

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