みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

しんちゃん

毛利敬親の山口移鎮後の山口県の中心。 (2019/12/30 訪問)

山口城は幕末、毛利敬親らが維新(攘夷)を達成するための拠点として築き、背後に高嶺を
負い、水堀を要していました。藩内では山口屋形で通していましたが、藩外からは山口城と
呼ばれていたようです。この後、長州藩は下関戦争での敗戦と三条実美らの七卿落ちを経て、
元治元年7月、禁門の変を引き起こし、幕府による第一次長州征伐を受けることになります。
この一連の流れで、敬親父子は萩に退き山口城は一部破却を受けることになったとされます。
第二次長州征伐では長州側の拠点として機能し、明治維新後は山口藩庁と改称され、後に
県庁となり、その際に旧来の建造物はすべて解体され今では表門と堀の一部が残っています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

織田晃司

前川水源に (2023/09/16 訪問)

車を停め、湧き水を汲んで飲み水確保して登城。
復元ながら備前堀は見事。

+ 続きを読む

イタさん

武士城(群馬県伊勢崎市境上武士) (2023/09/25 訪問)

 伊勢崎市境町関連のHPを見ると、岩松氏の陣僧・松蔭が残した文献[松蔭私語]の内容に多く拠るらしい。岩松明純(岩松家純の子)が拠った城である。文明9年(1477)長尾景春の乱の際、山内上杉勢の籠もる五十子陣は景春の軍勢に包囲され陣を撤退する。岩松明純は上杉勢として戦うが、金山城に退く時に一時武士城に入る。利根川を挟んだ南5㎞ほどに五十子陣はあり、乱の際に取り立てられた陣城であったものといわれる。北条氏時代は金山城主由良氏の家臣根岸三河守の居城だったが、豊臣秀吉の北条攻めにより、金山城は落城し武士城も廃城となる。保育所の西にある堀は堀跡で、元は北に延びており、水遊びや魚捕りをしたらしい。今も御嶽山の東に[舛形]という小字名が名残りである、と記されている。
 広瀬川と粕川の合流点にある高台。地元では御嶽山(オンタケサン)と呼ばれているらしい。福祉センター・特養ホームの間に、境御嶽山自然の森公園の駐車場が設けられている。公園内は2段程の段差があり、郭として機能していたのだろうか。遺構と分かる明確なものは見当たらない。南の斜面に虎口跡を思わせる地形があるが不明。保育所の西に堀跡・・云々とあったが、訪問時情報が無く確認していない。訪問時園内はほぼ全域に曼珠沙華が咲いており、見学者が多く散策していた。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

松永氏の勢力に組み込まれた十市氏の城 (2021/04/04 訪問)

龍王山城は大和の五大豪族・十市氏の城で、後に十市氏が松永久秀に降った際には松永方の
戦力として組み込まれ、信貴山城で松永一族が滅んだ際に龍王山城も破却されたとされます。
異なる頂に南城と北城の二つの城が築かれ、南城の方が早く築かれたとされます。
南城、北城と呼ばれますが実際には北城からやや南東側300mあたりに南城が存在し、南城の
郭は最北の郭から南東側に直列に配されていて、最高部に本丸が築かれ北城より眺望に優れています。
周囲にも郭があるようで、西側の馬ヒヤシと呼ばれる場所には柳本龍王社が祀られ、小さな
ため池があります。城郭としての完成度は北城の方が高く、最高部を本丸とし山腹部や尾根上に
多くの郭が配されています。北側は尾根が多く枝分かれしており、南北の城を俯瞰で見ると
南城の南東端を人体の肘に例えるのなら北城は北西に開いた掌に近い形状をしています。
南城を北城の出城として機能させれば、より強固な山城となることは間違いなく、松永氏の
勢力下にて信貴山城に次ぐ重要な城であったとされるのは得心のいくところです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イタさん

主郭部の復元石垣が見事 (2023/09/25 訪問)

 太田市のHPには、文明元年(1469)に新田(岩松)家純の命により築城。その後、岩松氏の重臣であった横瀬氏(後の由良氏)が実質上の城主となる。金山城下は10数回もの攻撃を受けるが、一度も中枢にまで攻め込まれずその堅固さを誇る。天正18年(1590)豊臣秀吉の北条氏討伐により廃城となる。
 築城は四期に分けられると考えられ、第一期は実城・二 ノ丸・三ノ丸程度の規模と考えられる。第二期は山城と日常空間とが一体化し、本城として拡張されていく時期、明応4年(1495)に起こった明応の乱では『松陰私語』の記事に[真城](実城)と[中城]の存在が明記されている。[中城]は馬場曲輪、馬場下周辺と考えられている。この頃の縄張りは、南方に御台所曲輪、南曲輪とその帯曲輪、西方が馬場曲輪・馬場下を含め物見台下堀切まで広がったと考えられる。第三期は有力大名の攻撃を頻繁に受け、修築がしばしば行われ、永禄9年(1566)から天正12年(1584)の北条氏に城を明け渡すまでと考えられています。 第四期は北条氏支配時代と考えられ、西城域西端の見附出丸や八王子山ノ砦から尾根伝いに延びる二重土塁と堀切などに北条氏特有の縄張りが顕著に見られる、等々と載る。
 北城・八王子山ノ砦は行けなかったが、一般の散策コースの駐車場から実城までを見学する。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

人取橋古戦場 (2023/09/30 訪問)

 伊達政宗が蘆名、佐竹、相馬等の連合軍と戦った古戦場です。佐竹氏の撤退により命拾いをしたと思っていますが、政宗にとっては厳しい戦いでした。石碑と説明板が立っています。

+ 続きを読む

丹羽光重 (2023/09/29 訪問)

 石垣が見事な城址ですが、他にも興味深い場所があります。井戸や空堀なども残っていています。
二本松駅へ歩いて行くと途中に大手門跡があります。本格的な櫓門であったと伝わっています。かなり三の丸から離れていますが、両側が丘陵となっていて谷の地域も城域であったということでしょう。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

畠山満泰 (2023/09/29 訪問)

 久しぶりの二本松城です。以前に行ったのが東日本大震災の年でしたので約12年ぶりです。当時は立入禁止区域もあったと記憶しています。今回はのんびりと散策してきました。各所にある石垣は見ごたえがあります。
 帰って来てあらためて資料を見ると、まだまだ見てみたい場所がありました。機会があれば、1日かけてゆっくり二本松城付近を散策してもいいかなと思っています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小城小次郎

門がたくさん (2023/02/11 訪問)

大きな大手門がやたらと目立つので現存の薬医門(本丸橋詰門?)のほか、北柵御門、柵町坂下門、杉山門もまとめて紹介してみた。薬医門は佐竹時代に遡るのだそうだがなんでまた国指定重要文化財になってないのだろう?

+ 続きを読む

安子島祐高 (2023/09/30 訪問)

磐越西線の安子ヶ島駅の近くに石碑があります。遺構はないと思われます。

+ 続きを読む

人取橋合戦 (2023/09/30 訪問)

瀬戸川氏の館跡です。人取橋合戦の時には伊達成実の陣地となったと伝えられています。小さな公園に石碑と説明板があります。

+ 続きを読む

畠山高国 (2023/09/29 訪問)

 1340年室町幕府より奥州探題に任ぜられた畠山高国が塩沢・田地ヶ岡に最初に居を構え、白旗の峰(現在の二本松城)に移るまで居城としました。石碑と説明板は確認しましたが、塩沢小学校の北側の土塁と空堀を確認していません。小心者で平日に小学校周辺をうろつくのはいかがなものかと退散しました。

+ 続きを読む

大波氏の城 (2023/09/29 訪問)

 「南北朝時代吉野朝廷に仕え北畠顕家に従えた大忠臣代々に拠る所の城」と説明板にありました。主郭部が公園になっていて遊具が置かれています。石碑がありますが、遺構はよくわかりません。東西にそれぞれ道から見えるように大波城址の大きな看板があります。

 福島駅よりバスに乗り水戸内バス停下車。目の前に大波城の案内があり5分くらいで主郭に行くことができます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

佐藤継信忠信兄弟生誕の地 (2023/09/29 訪問)

 舘ノ山公園として整備されています。源義経に仕えた佐藤継信、忠信兄弟の父、佐藤基治が築いたとされています。西尾根に矢庫の跡という曲輪があり、東尾根に一の砦、二の砦、三の砦がありますが、二の砦は標柱がわかりません。さらに下って行くと四の砦の標柱を見つけました。

福島交通飯坂線花水坂駅から徒歩20分くらいで登城口に着くことができます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

伊達輝宗 (2023/09/29 訪問)

 大内氏の城で、宮森城を上館、小浜城を下館というようです。
この城が有名なのは伊達輝宗の拉致事件だと思います。大内氏が去った後、伊達政宗の父輝宗がここに在城していましたが、和議の御礼のために訪れた二本松城主畠山義継に拉致され、阿武隈河畔粟の須で最期を遂げました。輝宗の死に関しては自分が読んだ小説などでは、拉致された現場にかけつけた政宗が鉄砲を撃たせ敵方とともに撃ち殺したことになっていましたが、畠山が輝宗を刺殺したなどの説もあるようです。

 主郭周辺に曲輪を思われる曲輪を思わせる削平地がありますが、どこまで当時の地形かわかりません。また藪になっていて散策はしませんでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

大内定綱 (2023/09/29 訪問)

  大内氏の居城で主郭は公園として整備されています。吉川弘文館から発売されている「続・東北の名城を歩く」を見ると18の郭があるようですが、主郭からざっと見渡すとそれらしい地形を見ることができます。ただ整備もされていなく私有地のような感じでしたので散策はしていません。
 ここの城主であった大内定綱は紆余曲折あり、最終的には伊達政宗の重臣となるのですが、興味のある武将のひとりです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

政宗の撫で斬り (2023/09/29 訪問)

 天正13年、伊達政宗がこの城を落とした時に、兵のみならず城にこもっていた老若男女を含め800人(1000人という説も)を撫で斬りにしたと伝わっています。最上義光宛ての書状には人のみならず犬までも撫で斬りにしたとあります。主郭と思われる愛宕神社までは登城口から少し急な坂ですが、一直線の道があり迷うことはありません。説明板には「今なお残る石塁」とありましたが、どこのことでしょうか。神社周囲にそれらしいものはありましたが、当時のものか否かはわかりません。

 二本松駅からバスに乗り宮の平バス停下車。徒歩約10分で登城口に行くことができます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

本庄繁長 (2023/09/28 訪問)

県庁周辺が城址です。土塁の一部が県庁裏に残っていました。阿武隈川と荒川を天然の堀とする城です。縄張り図を見ていると在りし日の姿を観たかったなと思いますが、遺構はあまり残っていません。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

伊達成実 (2023/09/28 訪問)

 伊達政宗の重臣伊達成実生誕の城と伝わっています。大森城山公園として整備されています。遺構はあまりないと思われますが、空堀が一部残っています。物見櫓がありますが、入口にある看板に「この建物は時代考証により復元したものではありません」と書かれていました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

伊達氏発祥の地 (2023/09/28 訪問)

 初代、伊達朝宗の居城で、この地は伊達氏発祥の地と伝わっています。登城口から一直線に亀岡八幡宮への道があり、容易に主郭と思われる場所に行くことができます。他にも曲輪を思わせる削平地はありますが、遺構か否かはわかりません。

 ところで、頂上へ行くと「高子二十鏡 丹露盤」の標柱があります。調べてみると伊達市のHPに「『高子二十境』は、江戸時代中ごろの高子村の文人、熊阪覇陵(はりょう)が、高子村を中心に景勝地を選び、漢詩を読んで楽しんだことに始まるといわれており、高子二十境の名称を中国の当時の都『長安』の東にあった『網川二十境(もうかわにじゅっきょう)』にならって名づけたと考えられています。」と記載されていました。確かに頂上からの眺めはいいです。

 阿武隈急行高子駅から徒歩約5分で登城口に行くことができます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ458