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小城小次郎

小原越防衛線の一角を担ったのだろう (2023/04/22 訪問)

一向一揆衆の城との見方もあるようだが付近の堅田館と同時期の13世紀と、更に16世紀には盛土による大規模造成がなされたことが発掘でわかっている。普通に考えれば小原越を睨んだ前田家による防衛線の一環としてのお城だろう。

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くうくう

七つの尾根に広がる戦国山城の威容が髣髴される名城

能登守護畠山満慶が正長年間(1428-29)に築く。最初は砦程度のものであったが政庁も移され天宮と称される程の威容を誇る拠点城郭となった。今では日本五大山城に数えられる。天正5年(1577)上杉謙信により落城。畠山氏の治世は終わり、その後織田信長の侵攻により、前田利家が入城するも、小丸山城築城により廃城した。曲輪・石垣など遺構は良好。散策コースが整備され、調度丸、遊佐屋敷、本丸、桜馬場、二の丸、温井屋敷、九尺石、三の丸、安寧寺、沓掛場、とよの水、寺屋敷、と主要部を見学できる。眺望も素晴らしい。七尾の市街と能登島が正面に見える。

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くうくう

巨石が混じる石垣と堀に郷土博物館の模擬天守が映える

天文12年(1453)神保長職が築く。最近の発掘調査では室町前期の遺構が見つかり創建は更に古いと考えられている。北陸街道と飛騨街道が交わる要衝の地で神通川を守りに利用した浮城だった。江戸期は加賀藩前田氏の分家が10万石で領した。
現在の天守は本丸鉄門跡の石垣上に複合連結式望楼型3重4階で昭和29年(1952)富山産業大博覧会時に建てられた模擬天守。郷土博物館として利用されている。また東側には移築されてきた現存の千歳御門がある。

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御殿場跡 東砦 (2024/01/04 訪問)

 山麓の御殿場跡は主に三段の曲輪からなり、伝大手門付近などに石垣が残っています。東砦には曲輪跡や堀切がみられますが、発掘調査が行われていないため詳細は不明とのことです。

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搦手方面、大手方面 (2024/01/04 訪問)

 今回は前回行っていない堀切、搦手道方面へ行くことが目的でした。堀切へ降りて行く道がなく難渋しましたが、堀切は大きく迫力がありました。大きくて自分のカメラでは収まりきれません。堀切を確認したら戻るつもりでしたが、ふと見ると搦手道の案内表示があました。導かれるように登って行くと小曲輪、また広い踊場と記載された案内板がある削平地がありました。この周辺が遺構なのか否かが記載されているものは見つけられなかったのですが、曲輪の跡なのでしょうか。道は荒れています。
 大手道は道も整備され歩きやすいです。

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小里光忠 (2024/01/04 訪問)

 久しぶりの登城です。小里光忠により築城されたともされていますが、「信長公記」によると武田氏が明知城を包囲した際に、織田信長の命により普請し池田恒興を番手としたと伝わっています。
 登城路は整備されていて案内標識もあり迷うことなく御殿場跡から大手道を通って本丸へ行くことができます。石垣が多く残されていて本丸にある天守台が目につきますが、そこ以外にも各所に残っていて楽しませてくれます。二の丸にある石垣もよかったですが、観るためには少し崖を降りる必要があります。

 瑞浪駅から東鉄バスに乗り山の田バス停にて下車。徒歩5分くらいで奥矢作さくら街道沿いにある登城口に行くことができます。

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肉球

住宅街の中の城址 (2023/12/25 訪問)

平安時代末期に加治氏によって築かれたようです。
その後新田義貞の家臣畑氏、管領上杉氏や北条氏に属した斎藤氏が
城主となっていたようですが滝川一益によって落城。
徳川家康が関東入府時に川窪信俊が陣屋を築き
元禄の頃まで使用していたようです。
城址中心部には金窪城公園があり車も止められます。
現地案内板には土塁が4箇所確認できるとされてますが
どれがそれにあたるのかは分かりません。

川窪信俊は武田信玄の甥で養母であった信玄夫人を
近くの陽雲寺に住まわせたようです。
陽雲寺には土塁らしきものとお墓が残っています。

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もも吉

櫓の内装仕上げが畳というビックリ仕上げ (2023/12/23 訪問)

ご自分の娘婿の為に作った櫓が再現されており、その内装が畳仕上げというビックリなお城でした。
建造した当時の城主の背景やその後の変遷を知って非常に関心をしたお城でした。

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イオ

沼沢地の沼城・其の弐 (2023/10/15 訪問)

戦国後期に宇喜多氏への備えとして三村家親が築いた城で、東隣の庭瀬城と一体として機能したとされます。羽柴秀吉の備中高松城水攻めでは毛利方の備中境目七城のひとつに数えられるも落城し、宇喜多氏の城となりました。関ケ原の戦いの功により戸川達安が入ると、庭瀬城跡に陣屋を構え撫川城は廃城となりました。江戸前期に戸川氏が無嗣断絶すると、弟の戸川逵冨が交代寄合旗本として5千石を知行し、撫川城跡に撫川陣屋を構えて明治まで8代続いています。

庭瀬城から徒歩で登城。四周を水堀に囲まれた主郭は撫川城址公園として整備され、南側からの土橋を渡ったところに撫川知行地の総門が移築されています。総門をくぐった先には撫川城跡の説明板があり、石組みの井戸跡が見られます。主郭の東半分は土塁で囲まれ、中央奥には三神社が鎮座しています。西半分には宇喜多期に岡利勝が改修したと伝わる野面積みの石垣が状態良く遺っており、北西隅には櫓台と思しき石垣の張出部が見られます。

主郭をひとめぐりすると、西側に回り込んで水堀越しに西辺の石垣を眺めつつ、北側に回り込もうとしましたが、外堀跡と思しき小川に架かる太鼓橋を渡ったところで、撫川城から離れつつあることに気付いて引き返しました。水堀がめぐらされて思うように進めない沼城を思いがけず体感した撫川城でした。
 

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如意ヶ嶽城 (2024/01/03 訪問)

ここ数年、三が日の恒例にしている、東山〜比叡山越え(滋賀県大津市→京都市)は、今年は、琵琶湖疎水沿いから、山科毘沙門堂辺りで、登山道に入り、如意ヶ嶽城へ。15時頃から雨の予報でもあり、Ⅰ郭にある、展望所の人は少なめでした。
Ⅱ郭、Ⅲ郭がある南東側及び北東側は緩斜面であり、土塁、堀が特にしっかり作り込まれています。Ⅱ郭の竪堀の一部が登山道になっているのが面白いです。
下りは、真西の鹿ヶ谷 霊鑑寺への道を降りました。谷筋の道です。途中に、俊寛僧都忠誠の碑や楼門の滝があり、そこから少し下ったところに、谷を塞ぐ土塁と虎口らしき造作に気がつきました(写真6)。

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todo94

学校を守る空堀 (2023/12/09 訪問)

実は、2021年11月に説明板はチェックしていたのですが、勝倉小学校周りの空堀を見ていなかったので、投稿は差し控えておりました。改めて確認してみましたが、しっかりと掘り込まれた立派な空堀でした。しかし手入れが施されていないため、写真撮影はしにくく見栄えの良くない空堀でした。空堀の外は延々とフェンスで囲まれており無理やり空堀内に立ち入ることも困難です。学校を不審者から守る装置としてはかなり優秀な空堀だと思いました。

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天守無しがアツい

一ノ堀のみ見学 (2024/01/02 訪問)

三島駅から8kmのところに山中城跡という史跡があり、今回はそこを訪問。まず駐車場内にある売店へ。店自体は(年末年始ということで)閉まっていたのですが、予め用意されてる小さいジップロックに名前と住所と電話番号と枚数と合計金額と訪問日を書いて、枚数分と送料の合計金額を袋の中に入れて、専用ポストに投函するシステム

私の場合は(1枚なので)300+(送料)200=500円を中に入れて投函。袋の表面にボールペンで必要な情報を書く際、インクが薄くて書きづらいという不便もありましたが、おそらく大丈夫と見なせる程度に書き上げ、何度も確認してから投函しました📮

画像1枚目はここの概要について紹介した案内板。紹介文をコピペすると…

山中城は、戦国時代末期の永禄年間(1560年代)に、小田原に本城をおいた後北条氏が築城しました。その後天正17年豊臣秀吉と不仲となった北条氏政は、秀吉の小田原攻めに備え、急遽堀や岱崎出丸(だいさきでまる)等の整備、増築を行ないました。

しかし翌天正18年(1590年)3月29日、増築が未完成のまま、4万の豊臣軍の総攻撃を受けました。北条軍は4千で、必死の防戦もかいなく鉄砲と圧倒的兵力の前にわずか半日で落城したと伝えられています。


2枚目は「史跡 山中城址」と彫られた石柱。こういうのを見ると文字から与えられる印象として、「ああ…やはり自分は山中城にいるんだな🏯」という気分にさせられますね

画像3枚目は出丸御馬場跡。漢字だけではイメージしづらいですが、画像から見えるその深い堀と急角度な坂…つまりここは敵軍の侵入を防ぐための強力なトラップと考えればいいと思います。一度堀に落ちたらなかなか這い上がれない…そして敵兵の矢を受けてジ・エンド💀…そういう姿が容易に想像できます

4枚目も同じく敵軍を防ぐための堀。3枚目の前にこの堀が存在しているため、ここを突破しても更にまた別の堀が待ち構えてるわけ。私が今まで見てきた城跡は、堀らしきものはあっても草木に埋もれていてあまりよく分からない…という場所が多かったので、これほど堀の深さと凄さが分かるのは初めてだと思えました🫢

5枚目は城跡の地図。御城印購入の手続きをした後、この地図を目にした時は(エリア全部を巡るのは無理そうなので)本丸だけにしようと思ったのですが、あまり時間に余裕が無かったので、サクッと行けそうな一ノ堀…つまり地図の左側だけを巡ることにしたのです

その行程で撮影したのが1枚目〜4枚目までの画像。30分程度でサクッと巡れる範囲でしたが、そこを見るだけでもこの城の防御力の高さ、攻略の難しさが伺えました

深い堀と急な坂…おそらくその上からは北条軍の矢の雨が敵軍を襲い、そこは修羅場と化した…それを秀吉は大軍を動員しての力攻め…ひたすら数で押してこの城を陥落させた…北条軍は防御側有利を活かして必死に奮戦するも、じわじわと突破され次々に兵士が倒されて、そして全滅…という姿が目に浮かびました😌

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天守無しがアツい

寒冷の 津久井に登る 我が身かな (2023/12/17 訪問)

(津久井城HP)http://www.kanagawa-park.or.jp/tsukuikoshiroyama/index.html

神奈川県相模原市のはずれに、津久井湖城址公園という施設があります。その名の通りここも城跡のある場所…とうとうここにも足を踏み入れることにしました🚶

根小屋パークセンターという建物にまず入り、そこのジオラマ(画像1枚目)を撮影。その中に小高い山が存在しており、どうやらそこに城跡が存在するようでした

同じくパークセンターには、甲冑および刀や火縄銃(画像2枚目)が展示されており、何と着付け体験もすることができました。偶然そこにスタッフがいたので着付けを依頼。すると具足から丁寧に私の手足に付けて紐を結んでくださいました

脛当て…股下当て…籠手…胴当て…と付けて、最後に兜を被せてもらった私🪖 それで一通りは完成なのですが、重さは大してありませんでした。これはあくまで手作りの…レプリカ的な鎧兜だそうです

実際の鎧は20kgくらいあり、素人では結べないほど複雑な造り…とスタッフは語ってました。まず甲冑姿のみで撮影してもらい、それから(鎧と同様、画像2枚目に存在している)刀を借りて…防犯用に鎖で固定されていたので、鎖が伸びる向きにして、刀を両手で少し抜いた状態で撮影してもらいました⚔️(少し重量はあったけど、この刀も本物ではなくおそらく模造刀)

最後に(画像2枚目に存在してる)火縄銃を握って撮影…これも防犯用の鎖が伸びる向きで…銃を両手で構えて狙いを定めるポーズをとりながら撮ってもらいました

城跡および御城印購入のための時間を作るために、撮影後はすぐに鎧を脱いで返却…具足は蝶々結びを解けばすぐに外せたので自分で解きスタッフに渡しました…そして礼を述べてからいよいよ城跡へと歩みを進めてみました🚶

ムササビの巣箱が右手にある小径を通り過ぎながら、湖の見えるエリアへ…この湖の名は津久井湖…かつてここは相模川の一部でしたが城山ダムを建設してからは湖となり、貯水湖としての役割を果たしているようです🚣‍♂️

分かれ道があり、右手がハイキングコースになっていました。山を登るような道ではあるけどとうやらここは山城…ここを進まないと城跡には辿り着けない…⛰️ なのでここを歩むことにしました

画像3枚目は(先述の通り)津久井湖…ハイキングコースの途中で撮影した気がします。今回この湖まで行くことはありませんでしたが、小高い山から湖を一望できる、ここの景色は絶好のビュースポットとも言えるものでした📷

山道は1kmほどあり、思ったより時間のかかるコースでした…ここは女坂というルートでなだらかだけど距離は長い…しかも場所によっては橋のような足場(しかも人一人分)しかなく、手すりも無い…だからもしそこから足を踏み外して横転したら数m下まで真っ逆さま…という危ない所もありました⚠️

画像4枚目の場所は、城が防御施設として現役だった頃…窪みの上に橋が掛けられていたと案内板にありました。戦が起きた場合だけその橋を壊し、少しでも敵の侵入を遅らせる

今回登ったのは本城曲輪(ほんじょうくるわ)⛰️ 他にも飯縄曲輪などの城跡はあるのですが、当初思っていたよりも城の規模が大きく、1日で巡るのは無理…観光センターで御城印を買うためにもキリのいい時間で引き上げなければ…と判断した私は、この場所だけに今回は専念することにしたのです🚶

別の場所で俳句用紙を1枚手にし、アイデアが思い浮かんだら書いてポストに投函しようと考えていた私…曲輪のほぼ山頂…画像5枚目の大きな地図がある場所の右手にそのポストがあります📮 この付近にテーブルが設置してあったのでそこでこう詠みました…

「寒冷の 津久井に登る 我が身かな」

寒冷が一応、12月の季語になります。ただ…もう少し捻りが欲しかった…季語の後が何か単調で、平凡な表現にさえなってしまった感あります。そう考えると、国語の教科書に載っている俳人ってすごいですね…どうして季語を交えた独特で絶妙な表現を五七五の中に表すことが出来るのか…と

6枚目を撮影してからポストに投函…これは別に俳句の大会に出されるわけではなく、あくまでパークセンター入口の「みなさんが詠まれた俳句」…つまり素人作品として紹介されるだけのようです

過去にも私は何回か…旅先…主に鎌倉で俳句を詠んで投函したことあります。住所欄もあったのでそこも記入して投函したのですが、一度も主催者から連絡が来たことはありません😅

その場合の俳句募集は、入賞者は表彰され何かしらプレゼントももらえるみたいな大会形式だった記憶があります。けれど私は投函した全ての回で落選したようです😭

所詮、私には…松尾芭蕉や正岡子規のような俳句の才能は無いようです…とりあえず季語っぽい言葉入れて五七五に近い文にして(ぴったし五七五じゃなくても…例えば五七六…字余りになっても近ければOK)出したに過ぎない…

私の今回詠んだ俳句がどう思われるかは分かりませんが、やがてパークセンターの掲示板に貼り出されて、「おお、この俳句面白いな😁」と思っていただけたら…詠んだ甲斐があるなとも思いますね

画像7枚目が山頂…見ての通り石碑がそこにあり、説明文があり何やら書いてありました。古事記についてだそうですが、私自身その作品には全然詳しくないし、小難しい文章にしか見えなかったので、軽く目を通して…「おそらくここに来るのは一期一会…ここまで辿り着けたことに感謝します😆」と呟きながら、石碑の一部に手をついて自分なりの別れをしました

帰りは男坂…(行きの)女坂とは異なる…急だけど短いルートを歩きました🚶 確かに急なため、爪先に負担がかかり、勢いよく進みすぎて転ばないようにバランスをとりながら…の下山。御城印の販売時間に間に合わせるためここを選択…確かに女坂よりも早く麓に戻ることができたので、こっちにして正解でした

パークセンターに戻り、それから観光センターに移動。調べたとおりここに御城印がありました。300円で購入し御城印帳に収納。画像8枚目の左側が今回の…津久井城の御城印なのです

ちなみにこの津久井城…最初は三浦氏の一族である津久井氏によって築城されたと(詳細は明らかではないが)伝承されており、それから(小田原を中心に一大勢力を誇っていた)北条氏の支配下に…1590年の秀吉による天下統一の後は徳川の支配下に入り、1664年に城としての役目を終えて廃城…になったようです

多分この城もあくまで小高い山の上に作られた防御施設…天守に該当するものは無かったと思われます。記録に詳細が出てくるのは15c末…当時の城には天守は無いのがスタンダードだったから当然と言えばそうですよね

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とばつびしゃもん

本丸跡に学校がある城 (2023/05/04 訪問)

勝龍寺城から芥川山城へ向かう途中に登城。高槻市立しろあと歴史館の駐車場に奇跡的に車を駐車できたのでここから登城開始。
というのも、この日は高槻JAZZ STREETのイベント真っ最中。高槻城公園や二の丸跡に2023年3月オープンした高槻城公園芸術文化劇場とその周辺には、音楽を楽しむ大勢の人だかり。その人波のなか城址を歩き、本丸があった現高校周辺を回って30分ほどで撤退。
歴史館では高槻城と芥川城の資料が展示されていて、キリシタン高山右近が城主だった高槻城だけに、発掘されたロザリオの展示に目を引きました。

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ゆーこ

中心部分 (2023/12/29 訪問)

何度か訪れているお城ですが、改めてじっくりと見学してみました。
この日お城巡りできる時間が午前中だけでしたので、中心部のみ。
小田原駅の反対側まで広がる、巨大な総構え全てを見ようとすると一日がかりでも忙しい気がいたします。

中世、後北条氏時代、江戸時代の大きく分けて3つの時代に築かれたお城です。
災害で崩れてしまったり、壊されてしまったりで有名な後北条氏時代の面影は失われています。
現在の姿は江戸時代の様子を復元したもの。

天守や門、桝形が綺麗に復元されていますので、見ごたえ十分。
天守の今の形はとても新しく、2016年に完成したものです。じっくり歴史を勉強されたい方は内部の博物館もお勧めです。


お隣には、二宮(金次郎)尊徳を祀る報徳二宮神社があります。
そちらにあるオープンカフェでは、縁起の良いコーヒーが頂けます。

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くうくう

上杉勢に攻め滅ぼされた越中国人轡田氏の居館

永正年間(1504-20)轡田氏が築城した。瑞円寺周囲には堀や土塁が見られるが、更に大規模な城と推定されている。天正6年(1578)上杉方河田長親に攻められ城主轡田雅正は討死、落城した。城の北を通る浜街道(旧北国街道)沿いに轡田氏をはじめとする戦死者を弔った精霊塚がある。

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くうくう

戦国末期の縄張が良好に残る越中の山田川上流部の山城

天正6年(1578)神保長住が上杉謙信の侵攻に備えて築城した。その後、織田信長の侵攻に備え、寺嶋牛之助、小嶋甚助が配されたが、佐々成政に敗れた。成政はこの城を支配。遺構は佐々氏のものとみていいだろう。主郭は約40m四方の削平地、南北両端に土塁、特に南側搦手は櫓台に内枡形虎口、空堀に土橋、井戸の窪みまでが強烈な防御の助けになっており圧巻だ。標高640mにもなるが道はあり、薮ってはいたが良好に遺構が見られる。尾根先北の門口の門は大道城の大手門跡と言われる。

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小城小次郎

一向一揆に敗れた唯一の守護 (2023/04/22 訪問)

民の力(一向一揆)によって滅ぼされた唯一の守護だと思われる富樫氏が守護所としていた館の跡は長くその場所が特定されずにいたが野々市市の丁寧な調査によって平成6年ついに堀の一部を検出し正確な位置がわかったのだという。

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ぴーかる

岩櫃城 (2023/11/25 訪問)

【続百名城64城目】
<駐車場他>平沢登山口駐車場無料80台程度あり
<交通手段>車

<見所>堀底道・主郭空堀・虎口跡
<感想>2泊3日松本・佐久・吾妻の山城攻めの旅3日目9城目。観光案内所が営業前だったので先に登城しました。中城跡⇒堀底道を上がり主郭跡⇒主郭虎口跡から天狗岩は行かず途中の尾根小曲輪まで行き⇒主郭北側の水曲輪跡⇒天狗の丸跡⇒案内所にてスタンプ押印・御城印を購入しました。登山道は良く整備されていますが、城跡内の曲輪は主郭の1部分しか整備されておらず主郭南側を走る長い空堀があるが、ほぼ山林に埋もれています。大曲輪群が雑草で埋もれてしまってはいますが所々に表面観察できる虎口跡・主郭虎口から北に落ちる竪堀・西山側の堀切等は見応えありました。

<満足度>★★☆

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姫街道

武田流山城の技巧的な縄張り (2023/12/31 訪問)

犬居城は東の登城路から登って頂きたい。
まず、①馬出し曲輪➕横堀→②土橋➕③枡形虎口の武田流縄張りが迎えてくれる。サイズ・歴史的背景からも勝頼期で間違いないだろう。
犬居城内を東海自然歩道が通っている。④本曲輪の土塁上を通って高見台に至るルートであり、
本曲輪は、その東海自然歩道の下にある削平地なのだが、残念な事に整備されておらず、草が生い茂っており気がつかない。
本曲輪の⑤北側は横堀が打たれており、⑥西側坂虎口にまわされる縄張りは見事。(ここも残念ながら未整備)
東海自然歩道のルートから、⑦高見台が主郭で土塁上がニノ曲輪の天野氏古城を感じて満足してしまうが、武田流山城の技巧的な縄張りが楽しめる事を伝えたい。

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