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Tokyobay

戊辰戦争の銃弾の穴がある寺 (2024/01/13 訪問)

戊辰戦争勃発の地から東軍の進軍ルートを逆行する形で旧道を南進し淀古城へ。この周辺も戊辰戦争の激戦地であり、銃弾の穴がある寺として度々TVで取り上げられるが、どこに痕跡があるのかは確認できず。

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Tokyobay

京都の竹田城(戊辰戦争勃発の地) (2024/01/13 訪問)

鳥羽離宮・城南宮の近辺には「竹田城」(室町時代築城)があったが、この辺は幕末時に西軍の陣地となり、戊辰戦争が勃発した地でもある。この場所から日本史上最大の「内戦」が始まったかと思うと感慨深いものがある。
尚、鳥羽離宮の遺構である「秋ノ山」は西軍が土塁代わりに活用した、というようなことをNHKの番組でやっていたような気がするのだが、100%の確信はない。

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朝田 辰兵衛

🌞のち🌥の予報だったので… (2024/02/11 訪問)

この日の天気予報は晴れのち曇りでした。しかも,昼ぐらいから曇りという…。スケジュールを見直し,🗻眺望をトップにシフトしました。全然効率良く散策できない一日となりましたが,世の中すべて思いどおりにいくワケがないし…ということで。
その代わり,素晴らしい🗻とご対面できました。
撮れ高が少ないのは,何枚か撮影に失敗してしまったためです…。しかし,🗻が成功してて安堵でした。

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姫街道

水瓶にもなっていた障子堀 (2024/02/24 訪問)

西の丸付近の障子堀は、今でも水が沸いて水瓶になっている箇所がある。これだけの規模と立地、水の確保面からも障子堀は有効だっただろう。先の台風19号などで、城内各所で崩落箇所復旧作業が行われている。ただし、崩落したのは戦後期以降に貼り付け盛土した法面等であり、実は戦国期の遺構は崩れてはないとの事。戦国期には水捌けも水確保も機能的であったのだ。城内を歩くと近代的な虎口や土橋の復元が点在する。最先端の山城であった事が理解出来る。

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T-Shionoya

坂本城 ロマンチックな琵琶湖の石垣 (2023/12/22 訪問)

湖中に沈む石垣が稀に姿を現す滋賀県大津市の坂本城。
その渇水期限定の石垣観賞を狙い、昨年12月に訪問。

西近江路が通る琵琶湖の南湖西岸、比叡山延暦寺の門前町や三津浜の湊が存在したエリア。
琵琶湖沿いの本丸を要に、二ノ丸と三ノ丸を扇状に配置。
大小2つの瓦葺き天守や船着き場を備え、安土城に次ぐ名城であったと伝わる城。

安土城より前の1571年に明智光秀が築城するも、1582年の本能寺の変・山崎の戦いの後に光秀家臣が火を放ち焼失。
その後、丹羽長秀や浅野長政らが城主となり、1586年ごろ大津城へ移転となりました。

現在は、本丸南の城外とされる部分に坂本城址公園があり、城域の大方は住宅地。
普段は湖中に沈む本丸石垣が数少ない遺構の城跡。

訪問時、琵琶湖の水位は-73cm。
畦道を歩き小さな浜へ下りると、L字に並ぶロマンチックな石の列。引き波の瞬間に見えるのは流木なのか胴木なのか?
二ノ丸エリアも散策した後、ひたすら歩き移築門のある聖衆来迎寺と西教寺へ。
トータル2時間半越えの、私の城郭巡りの168城目。

さて、昨年までは本丸以外の城郭遺構が出ない城でしたが、今月ついに三ノ丸と推定される石垣が出土。
ワクワクさせられる坂本城です。

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姫街道

三方からの守りも固い (2024/02/25 訪問)

車で城下を走る市道を西から東に走ると、
本城に対して、西の舌状段丘には根古屋と呼ばれる屋敷群が点在し、東は清水曲輪が存在していた事が地形からよくわかる。土塁や大堀切が残存している事は本当に嬉しいが、二ノ丸の三ケ月堀や土橋など是非是非復元して頂きたい。
北側も民地なのか荒れてしまっているが、堀や土橋があった面影が残る。天守台では石垣の発掘調査の最中であった。史跡公園化を心待ちにしたい。

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小城小次郎

よく考えられた整備状況 (2023/05/20 訪問)

2016年の訪問時と2023年訪問時を比べると旧墓地区画の撤去が進んでいる。一方で樹齢600年とも言われる土塁上のタブノキを歴史的景観構成物として保存している。よく考えてじっくり整備しているのがわかる。

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とばつびしゃもん

桶狭間の戦いで全滅した砦2 (2024/02/11 訪問)

丸根砦から徒歩10分。日没が迫るなか15分の高速攻城。
丸根砦同様.遺構は確認できず。

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とばつびしゃもん

桶狭間の戦いで全滅した砦 (2024/02/11 訪問)

大高城から徒歩20分、砦跡は住宅地の中にある。10分ほど高速攻城。
地形的には砦感があるが、遺構らしき設備は確認できなかった。
大高城が望める距離から、施設間でプレッシャーの掛け合いがあったことが想像できる。

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ぴーかる

久礼城 (2024/01/06 訪問)

【久礼城】
<駐車場他>駐車は中土佐町役場駐車場に駐車してくださいとのこと。
<交通手段>車

<見所>竪堀・横堀・堀切・土塁・石垣
<感想>1泊2日高知城攻めの旅1城目。土佐初入国、第23回 日本100名城、続日本100名城に負けない名城の久礼城に行ってきました。登城口は中土佐町立久礼保育所の駐車場奥から登ります。城跡は二郭北側の竪堀群を通り二郭の北虎口から進入します。二郭は三方を土塁で囲み、石積み遺構が良く残っています。曲輪の3分の1程で仕切り土塁があり曲輪を分けていたようです。二郭から西方向に進み、主郭(土佐では本丸の事を詰の段というみたい)南東部の石積み枡形虎口があり、3重の横堀と竪堀を組み合わせた堀が縦横無尽に配されています。堀の内側にも所々石積みが残ります。この枡形虎口から二郭東の2重堀切に行けます。主郭は東西に伸びた広い曲輪で南北の同じ位置に虎口があります。南北の虎口のあいだに石組の池のような窪地があります。主郭の東側奥に礎石遺構、西側奥が高土塁で段になっています。主郭北側虎口を少し降りると城跡最大級の石積み遺構があります。
 特集の写真では「詰め段南口の登城路直下の全面石垣」とありますが、詰め段北口の間違いです。北虎口から北に更に降りて行くと、土塀跡の石積み、深い切通しがあります。切通しにも石積みが残ります。その先に高さ3m程の片側高土塁がある曲輪があります。3郭は主郭と深い堀切で仕切っており、曲輪内部にジグザグに3か所石積みの土壇が設けています。西側が高土塁になっていて、内側壁に石垣が多く残されていて全面石垣だったように思います。3郭西側の畝状竪堀群は羊歯が多く遺構が見ずらい。主郭の南西部の5重堀切は城跡最大で1・2条目は圧巻の見応えです。
 あとから行った岡豊城より自分的には久礼城の方が見応えありました。整備力と知名度の関係で選出されなかったのかもしれませんが、逆に生々しく残る遺構の数々に圧倒される素晴らしい城跡でした。

<満足度>◆◆◆

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にのまる

202年城初め (2024/01/01 訪問)

城納め翌日の城初めです。
隣接する病院の面会時間の隙を見てダッシュ💨してきました。

高台によみがえった天守台はここが城跡であったことを教えてくれます。

海峡を見つめる鯨はここに水族館があったことを懐かしく思い出させてくれます。

海岸の波しぶきは源平の時代へと誘ってくれます。

大手口の野面積石垣は激動の時代を乗り越えてきた力強さを感じさせてくれます。

故郷はやっぱりいいなぁとしみじみ思い、また、今年一年穏やかに過ごせますようにと祈念しました。

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チェブ

城びと未登録のお城攻め「源為朝の館」。 (2024/02/24 訪問)

保元の乱で敗れ、伊豆大島に流罪になった 源 為朝さん。源 頼朝さんの叔父様です。
流罪になりましたが、伊豆諸島を従えてしまいました。
この為朝さん、弓の名人で身長2m。
1度、お父様からも九州に追放されました。そちらでも武勇伝がたくさんあります。

大島の元町港から歩いて5分弱、「源 為朝の館」は『ホテル赤門』の横にありました。
そのまんま、赤い板チョコみたいな門です。門横に説明板があります。遺構はありません。為朝さんは大島全体を従えているので、海が天然の堀かな?
ホテルの前を通り『為朝神社』へ。石垣と石畳が神秘的です。
元町港に戻り、『ゴジラ像』方向に散歩しました。横に『為朝の碑』がありました。

伊豆大島は学生時代に来た以来です。今回のメンバーも学生時代からの友人達。大島の思い出が一致しないので、もう一度、行ってみよう!と、船を予約しました。
竹芝から大型客船さるびあ丸で、夜10時に出港し、朝6時に到着します。寝ながら移動です。前と同じように2等和室を選びましたが、雑魚寝で背中はバキバキです。

早朝に到着しますが、島の飲食店は開いてます。
到着する元町港が岡田港に変更になったのが予定外でしたが、船の到着にあわせてバスが待ってくれてます。
今回、伊豆大島に来て感動したのは富士山が綺麗に大きく見えた事です。
源 為朝さんも見たことだと思います。

最後には自刃し亡くなった為朝さん。
なのに、満面の笑みで みんなで写真を写した『源 為朝の館』攻めでした。

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カズサン

二の丸櫓と二の丸 (2024/02/20 訪問)

 「桜門周辺」のつづきです。

 田原城の二の丸には二の丸虎口の南側角に二階隅櫓が昭和32年復興復元されて居り内部は無料の資料館(文化財収蔵庫)に成っております、一階は田原城の資料展示、立体模型、一色氏、戸田氏、三宅氏の系図、絵図、古写真などです、古写真によると隅櫓は下見板張りだった様です、復興隅櫓は白漆喰仕上げに成っていますが、二階は周辺古墳の発掘調査及び発掘遺物の展示でした。
 二の丸には田原市博物館(有料310円)があり、展示内容は幕末の偉人渡辺崋山を主体にしています、田原と言えば「渡辺崋山」ですよね、崋山が家老職の時は備蓄蔵を設けて飢饉の折り餓死者を出さなかった事でも有名な事です。その他は年代別の雛人形の展示室の有りました。
 二の丸南側には土塁が遺り下部には石垣で腰巻石垣の状態です。
 桜門に続き二の丸復興隅櫓も田原城のシンボルであり各角度での写真も投稿致します。

 続きます。
 

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とばつびしゃもん

3「大」3つ目の城 (2024/02/11 訪問)

名古屋市で開催された千田先生による大学連続講座。その3回目「家康の城の特色」の抽選に当選し聴講。千田先生は馬出の効果と名古屋城築城時の馬出を、佐賀大学宮武先生は石垣の積み方と進化を解説。興味深いお話しを聞くことができて満足の講座でした。
JR熱田駅から大高城へ、そこから歩いて10数分ほどで石碑のある城址入口へ到達。入口までの道は細く車の駐車場はなさそう。
城内ではいくつかの曲輪と思われる区域や空堀らしき設備が見られたが、遺構を示す案内板が見当たらない。おそらく城山八幡社のあるところが本丸か?もやもや感を残したまま下城。
気がつけば、昨日から尾張のこの地域の「大」で始まる3城を攻略。

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御土居周辺 (2024/02/24 訪問)

 吉香神社付近は藩主の居館(御土居)跡です。堀や石垣の一部が残っています。

連休中の土曜日で多くの観光客が訪れていました。

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石垣散歩 (2024/02/24 訪問)

 思ったより多くの石垣が残されていました。北の丸周辺に趣きのある石垣が多く存在しています。大釣井より曲輪を散策していると崩れた石垣と思われる場所に出ました。城域もかなり広いと思います。

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吉川広家 (2024/02/24 訪問)

 久しぶりの岩国城です。
この城の魅力は景色がいいことと石垣がよく残っていることだと思っています。北の丸周辺散歩道を散策すると多くの石垣に出会えます。
二の丸直下から山麓にかけて3条の竪堀があるとのことで探してみるとそれらしい地形がありました。ただ二の丸直下ではないので自信はありません。北西には登り石垣があるとパンフレットに記載されていることを知ったのは下山した後のことです。近くまでは行きましたが、全く気が付きませんでした。
 前にも来ているので油断していました。もっと下調べをしてから行けばよかったと反省しています。

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三本の矢 (2024/02/23 訪問)

 開山は其阿上人、開祖は陶弘政と伝わっている時宗寺院(現在は浄土宗)です。土塁と環濠を守られた寺院でした。土塁の一部が残っています。
 厳島の合戦後、一揆を鎮圧した際に毛利元就が本陣を置いたことも知られています。ここで3人の息子に14ヶ条の教訓状(3本の矢の教え)を書き残したといわれています。

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陶晴賢 (2024/02/23 訪問)

 大内氏の重臣陶氏の居城です。主郭北東部には畝状竪堀があり、山口県観光サイトには総数26条と記載されていました。実際には何条あるのかよくわかりません。西側の曲輪を散策していくと、西の丸に石積みがありました。さらに西へ行くと曲輪の下には浅くなっていますが堀切があります。陶の道と書かれた標識に従って北側へ歩いて行くと浅い堀切と思われる地形がありました。城郭放浪記さんの縄張りと見ると南側に砦のような遺構があるようですが、今回は散策していません。
 眺望はよく瀬戸内海がよく見えます。

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刑部

諏訪氏の城 (2024/02/21 訪問)

あいにくの雨の中、細い道を車で上がり城址入り口へ。入り口の案内板と城址の碑の前に駐車。整備されていて雨の中でも歩きやすい、かなり良好に遺構は残されてます。神社の所に石でできた小さな池みたいな場所は湧水がたんたんと出ています、当時からのものなのでしょうか? ここは想像以上に見応えあり良かった!

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