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しんちゃん

三内丸山遺跡 (2017/05/05 訪問)

三内丸山遺跡は青森市大字三内字丸山にある大規模集落遺跡です。縄文時代の遺跡で約5900~4200年前のものとされており国の特別史跡および世界文化遺産に登録されています。大形竪穴建物や竪穴建物など多くの建物が再現されていて、象徴的な建物として三層の掘立柱建物が再現されていて、まるで後世の櫓のようです。物見ヤグラの様な物とすれば国内最古だと思いますが、研究者たちの間でも意見が分かれるようで中途半端な再現になってしまった感は否めません。個人的には朝日と夕陽を拝す宗教的な意味合いもあったのではないかと考えます。柱の影の数や長さで時間や季節を図るという使い方もできるかもしれませんね。

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しんちゃん

八甲田 第二大隊遭難記念碑 (2017/05/05 訪問)

八甲田山は5月でも雪が残っています。城びとのサイトになんちゅう写真を持って来るんだ!なんてお叱りの声も聞こえてくるようですが、申し訳ないです。私の趣味でございます。
明治35年(1902)1月、真冬の八甲田山にて陸軍の青森歩兵第5連隊第2大隊210人が遭難し、多くの犠牲者を出しました。銅像は捜索隊の目印になるよう仮死状態で立ち続けた後藤房之助伍長とされています。
悲壮感あふれる状況ですが、銅像の表情は決意がにじみ出ていて、まるで生きているかのようでした。

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しんちゃん

実はわたしも‥ (2024/02/24 訪問)

イオさん、佐味城 ついに登城しましたね。お見事でございます。
実はイオさんが訪問した次の週に私も登城していたんです。大阪、和歌山へ和泉砂岩を調べに向かっていたんですが雨に阻まれて、奈良のあたりをウロウロしていた所、佐味城の近くまで来たので偵察にきたんですね。
ぴーかるさんとイオさんのやり取りから周囲はフェンスで入れそうもないな‥じゃあ帰ってポチしようかな‥なんてズルいこと考えていたら、フェンスが開いているじゃないですか。かえれなくなっちゃったな‥とりあえず入っちゃいます。
ちなみに場所は、ある城郭サイトさんからの情報を参考にしてます。入ったのはいいけど酷いヤブです。帰ろうかな~と考えたのですが「城びとの呼吸」を使うと先に進めてしまうんですね。困ったことに。
その先の急斜面も前日の雨ですごく滑る。よじ登って山を直登で登っていって、ようやく城址にたどり着きました。佐味城はすごく良かったですね!またゆっくり投稿させていただきます。あとは大手道を下っていけば麓の郭を経てフェンスにたどり着きます。このフェンス‥良く見ると一つだけ両側を針金で繋いでる箇所が有るんですね。ちょうど大手道のすぐ前です。実はこうした簡易的な扉のある山城はけっこうあって、針金を片側外してやると扉のように簡単に開きます。地元の方に聞くと「その針金をあけて中に入るといいよ」と教えてくれるのですが、この場合は近くに誰もいないので、そっと開けさせていただいてから扉を元に戻しました。
あとはログハウスへ至る道を失礼ながら通らせていただき脱出です。行きは酷かったけど帰りは楽チンでしたね。これが私なりのアンサーになりますが、必ずしも正解とは限りません。正解は皆様の心の中にあります。

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半布里コミッティ

「にっぽん城まつり2024」に加治田城ブース出展します!

にっぽん城まつり2024 に加治田城ブース出展します!(2日・3日両日共)

今回の出展にあたり、加治田城と堂洞城の新しい御城印をご用意しました。
(加治田城縄張り図入の新バージョン、加治田城と堂洞城の堂洞軍記バージョン)
また、帆布を使用したトートバッグをコミッティメンバーで制作しました。
富加町にある文化財をデザインしたタグもついていて、色もそれぞれに異なる
唯一無二の仕上がりとなってます。
ひとつひとつ心を込めて作りましたので、お楽しみに!

当日はお城のスペシャリストによるお城話や武将隊による演武など
盛り沢山のイベントが予定されています。

開催日時 : 令和6年3月2日(土)・3日(日) 10:00~17:00

会場   : 名古屋市中小企業振興会館 吹上ホール

多くの方のご来場をお待ちしております。

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意地で畝状竪堀を探した (2024/02/24 訪問)

ぴーかるさんの登城の1ヶ月半後の登城。國重さんが「土塁の先の石積み。右側はとても急です。滑り落ちないように・・・」と書いてくれていた、Ⅴ郭の石垣。いいアングルを求めて、きっちり、滑り落ちました。その後、Ⅰ郭で、天守台の石垣がセットバックして二段になってるのに気付き、とても楽しい。
Ⅰ郭の背後の連続堀切を過ぎると採石場なのですが、妙に整った平坦場が出現。松の苗木が植えられてました。採石場の環境整備でしょう。その先は、戸宇川が作ったものすごい高低差の崖。背後の守りは固い。
帰路で、ぴーかるさんが見落としたと言う、杉の平の畝状竪堀を探しにいきました。上方の郭から斜面を下りつつ、ⅩⅢ郭と杉の平(ⅩⅣ郭)の間の畝状竪堀を発見しました。ⅩⅢ郭とⅩⅣ郭間は、30mほどの高低差があり斜面もけっこう長いです。畝状竪堀は、斜面の中程にあり、ⅩⅢ郭から見下ろしても、ⅩⅣ郭から見上げても見えません。ⅩⅢ郭に行くには、世直神社からの登城道の写真⑨の道標の矢印がない側の道を行って下さい。

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イオ

一応登城はできたものの… (2024/02/18 訪問)

金剛山から東にのびる台地状の尾根に築かれた城で、戦国中期に木沢長政が築いた琵琶尾城に、また戦国後期に筒井氏方の城として畠山氏や根来衆の攻撃を受けた幸田城にも比定されますが、詳細は不明です。

かなり特異な縄張の城ということで以前から注目はしていたんですが、近場でもありいつでも行けるから、と後回しにしているうちに、ぴーかるさんの投稿で防獣柵により登城口が閉ざされていると知り、大ショック…。行けるうちに行っておかないからこんなことに…と後悔しても始まらないので、新たな冒険者(人柱?)として何とか登城できないか挑戦してみました。

まずは余湖くんのホームページで紹介されている登城ルートを確認しましたが、ログハウス風建物の手前の墓石(ぴーかるさん投稿の写真2)付近が登城口のはずながら防獣柵にゲートらしきものは見当たりません。そのまま北に進み続けても入れそうな箇所はなく、柵は県道側に折れて行き止まりになっていました。県道から入った舗装道まで戻って今度は西へ。民家を過ぎたところに山側に続く小道が分岐していたので行ってみると、突き当りの防獣柵が外れていました。ゲートが設けられているのでも柵が「開いて」いるのでもなく「外れて」いたので、入って良いものかためらわれましたが、登城可能かを確認に来たんだから入らないわけにもいかないだろう、ということで、ここ(34.40838200326417, 135.70242557708718)から登城開始です。

柵の内側に入ってもその先の道は無く、墓石のあたりまで柵沿いに進んで登城道を探すのが無難かとも思いましたが、柵の内側も結構な藪になっていたので、直登するほうが楽かも、と北側の斜面を登って行くと削平地らしき平場に出ました。余湖さんの鳥瞰図に描かれている東麓の削平地と思われますが、平場と言っても竹と灌木の凄まじい密林状態で、突破するのに相当の気力と時間を要することに…。これなら山麓を回ったほうがよほど楽でした。急がば回れですね。削平地を抜けると墓石のあたりから続いている登城道が山上へとのびていて、木々に印された目印のテープをたどりながら登って行くと東側の虎口に着きました。ここからが城内です。

佐味城は南北200m 東西380mの広大な城域を縦横に走る通路により碁盤の目状に区画した特異な縄張で、西から東に緩やかに下る緩斜面を削平して土塁囲みの方形区画を多数設けています。さらに東側の虎口から西側奥の主郭まで一直線に幅広い大手道がのびていて、これら城郭としては不自然な縄張は山岳寺院の名残と考えられるようです。緩斜面に築かれた城だけに急傾斜の北辺を除いては周囲に横堀と土塁がめぐらされており、特に南東部の横堀は深く幅広く折れも設けられていて大いに見応えがありました。

中央を東西に走る大手道は土橋状になって主郭に接続し、主郭の東麓と南麓には障子堀状に区画された横堀が広がっています。これまたなかなかの規模です。主郭は南辺と西辺、北西辺を土塁で囲み、北半分は藪化していて探索は困難ですが、南辺の土塁上を西に進むと搦手にあたる虎口があり、横堀の間を土橋が西尾根へと続いています。西尾根にも遺構があるようなので行ってみると、自然地形のピークの先に虎口が設けられ、その先は両側の切り立った土橋になっていました。

聞き及んでいたとおりの特異な縄張に加えて、横堀や土塁はかなりの規模でなかなか見応えがありました。ただ、私が訪れた時はたまたま防獣柵が外れていたために中に入ることができましたが、西尾根探索中にぬた場を見かけるなど、イノシシなりシカなりが生息しているのは間違いなく、何らかの理由で防獣柵が外れたとしても、そのままにしておくとは考えにくいので、ここから登城できます! とはとても言えない状況です。この日に歩き回った範囲では、他に登城できそうなところも見付けられませんでしたし…。なお、「近畿の名城を歩く」では金剛山キャンプ場近くの伏見峠から下って行くルート(たぶん西尾根の虎口に至る)が案内されていますが、防獣柵は無いとしても、大幅に遠回りになる上に西尾根の状況から考えてほとんど整備されていないと思われますので、おすすめはいたしかねます。じゃあどうすればいいんだ、となると答えに窮してしまいますが…。役に立たないレポートですがご参考までに。
 

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todo94

元日の攻城⑦ (2024/01/01 訪問)

知らなければ、「おおどり」とは読めませんよね。本郭周りの土塁、空堀だけでも十分に満足できる素晴らしい城でした。広い城域を隈なく巡ることは大変ですが、にのまるさんも赴いた青鳥城跡板石塔婆は外せないですよね。二の郭と三の郭の間の土塁、空堀もなかなかのものでした。新年初日からこんな物件に出会えるなんて、今年も良い年になりそうです。

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フ・トッティ

No.004 (2023/06/04 訪問)

前日、中洲に呼ばれたけど、思いっ切り酷い目に遭った。
あの店には、二度と行かない‼️ と、誓いながら、スタンプ捺しに行きました。

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フ・トッティ

N o003 (2023/05/04 訪問)

2023おやじツアーで金沢駅解散後に寄りました。
この前日が輪島観光で前泊地和倉温泉であり、この翌日に0505の能登地震でした。
その後の能登半島が心配です。

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トク

佐賀城ひなまつりと歴史資料館 (2024/02/27 訪問)

佐賀城本丸御殿で開催されている「佐賀城ひなまつり」を見に行ってきました。300畳の本丸御殿大広間に、佐賀市内の子供たちが製作したおひなさま約1600体が並べられていました。見入っていると、何だか癒されてしまいました(笑)(写真③④)。

佐賀城本丸御殿は歴史資料館にもなっていて、幕末の藩主「鍋島直正」(写真⑥)の偉業を中心にわかりやすく展示解説されています。財政危機を乗り切るため質素倹約をしながら、一方では藩校弘道館を建てて人材を育成し、そこから大隈重信・江藤新平などを輩出しました(写真⑦)。西洋医学なども積極的に長崎を通じて学び天然痘の予防に成功。また長崎の警護中のフェートン号事件の失態から海軍伝習所を設立して海防論を説きます。そして長崎を通じて西洋の大砲の製造技術を習得し、反射炉を造って大砲の製造に成功!(写真⑧⑨)。これにより幕府より品川台場をはじめ全国の台場に設置する大砲を大量に受注して、財政改革と人材育成と幕府への貢献、すべてを一挙両立させた事などがわかりやすく解説されていました。

すばらしい藩主であるとともに、それを成し遂げた勤勉な佐賀の人たちは、まっこと「がばい」と思いました!(そういえば島田洋七は今どうしているのだろう?🤔)
 

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しんちゃん

水洗トイレを備えた古代城柵 (2017/05/06 訪問)

秋田城は古代城柵と呼ばれる古代の政庁で、中央からやや南西よりに政庁の建造物があり、周囲を築地塀で囲い、政庁東門から外郭東門まで幅12mの大路が続いています。少し残念な話をすると、羽州街道が政庁と城址をぶったぎってしまっていますね。
政庁の南西には歴史資料館があり秋田城の展示を詳しく見ることが出来ます。内容はほとんど秋田城に寄ったものなので続百名城のスタンプを押すだけでなく、じっくり見学することをお勧めします。政庁の北には秋田県護国神社が鎮座しておられます。他にもいろいろと建物が有り、いささかカオスではありますが時代の流れと割り切るしかなさそうです。

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しんちゃん

地元はありがたいねえ。 (2017/05/06 訪問)

湊城は湊安東氏の居城でした。自分はこの城には二回訪れていて、2017年の方が写真が多かったようです。城址碑の代わりに湊安東氏の顕彰碑が有ります。なかなか立派なものですね。慶長9年(1604)に廃城になってから城跡は湊町に溶け込んでいったのですが、こうして地元の人が覚えていてくれるのを見ると他人事ながら嬉しくもなったりします。

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しんちゃん

謎の武将・塩瀬氏の城 (2021/01/16 訪問)

塩瀬城は塩瀬氏の城とされています。城郭体系に記載のない城で、他サイトさんを参考にすれば1349年に中国より亡命してきた林さんが日本に帰化して塩瀬氏を名乗り、その長子・塩瀬資時がこの城を築いたとか。地元の方に聞いたら親切に道を教えてくれました。感謝です。
縄張りはよくわかりませんが、城址碑のあるあたりを本丸と考えたほうが良いのでしょうね。周囲は畑地化が進んでいますが眺めは良かったです。

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しんちゃん

桜のピークは過ぎたが (2017/05/05 訪問)

弘前城は言わずと知れた桜の名所です。かつてあった五重の天守は寛永4年に焼失し、文化8年(1811)に改修が施された本丸南東隅の辰巳櫓が事実上の天守として君臨しています。この三重天守、石垣のふくらみなどで傾き、2015年に天守を持ち上げる「揚屋」移動させる為の「曳屋」工事が行われ写真の場所に移動していました。内部には鉄で補強がしてありました。すごいことするもんですね。
桜は一部残っていましたが、すでにピークは過ぎていて堀にたまった桜の花びらは残念な感じになっていました。しかし弘前城の本当の魅力は当時のまま残された多くの遺構なんですね。二階建ての立派な門が5つもありますね。門5つと櫓3つ、そして天守が重要文化財に指定されています。個人的にはこの城そのものが国宝級だと思います。

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しんちゃん

鳥取城の写真の余り (2019/05/01 訪問)

鳥取城の山上の丸の写真を投稿したので余った麓の城の写真も投稿させていただきます。水彫りの手前には吉川経家公の銅像が建ち、再建された擬宝珠橋を渡れば麓の城にたどり着くことが出来ます。天球丸の下に二の丸、三の丸があり、かつては天球丸三階櫓と、麓の天守の代わりとなる御三階櫓がそびえ立っていたようです。御三階櫓は壮麗な層塔型の櫓で高さ18m近くもあったかなり大きな櫓だったようです。山上の丸のある久松山を借景とし、実に美しい城郭だったようですが明治10年に陸軍省によって一部の建造物を残し解体されてしまいました。
城郭のロマンのわからん連中め‥と思うのですが当時はどこもそんな状況だったようですね。松江城が国宝に指定されたのを見ると地元の方も残念に思っているのではないでしょうか。

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しんちゃん

出石城周辺散策 (2019/05/01 訪問)

出石城周辺にもいろいろと見どころは有りました。辰鼓楼は出石城の三の丸の大手門石垣を利用して明治4年に建設されました。高さ13m、内部は4階建てになっており明治14年に医師の池口氏が大時計を寄付してからは時計台となり同時期に造られた札幌の時計台と共に日本最古の時計台として親しまれてきたそうです。
出石城の北側、谷山川を登城橋を越えて内町通りから大手通りを北上して行くと辰鼓楼があります。大手前通りを左折し内堀通りを行くとすぐに出石家老屋敷が有ります。この家老屋敷は隠し二階などを備えてえおり、いろいろと楽しませてくれるので必見です。
周辺には出石そばの店もありますので、お時間に余裕があれば訪ねて見られると良いでしょう。

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しんちゃん

高台寺 伏見城遺構 (2015/06/21 訪問)

高台寺は京都市東山区にある寺院で北政所が豊臣秀吉を弔うために建立されたとされています。当時の方丈や茶室などは伏見城から移築されたと伝わります。城びとの特集で高台寺の「傘亭」「時雨亭」は伏見城から移築されたものと知り、さっそく古い写真を引っ張り出して来ました。方丈は大正元年に再建されましたが「傘亭」「時雨亭」は今でも健在で拝観が可能です。
大阪城落城の時に高台院(ねねさん)は時雨亭の2階から燃え落ちる大阪城の天守を見ていたと伝わります。京都から大阪城が見えるかどうか、いささか不明ではありますが心中は複雑だったと思います。

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刑部

中央自動車道により失われた城址 (2024/02/23 訪問)

遺構は見当たりません、小さな神社に案内板があります。その目の前に昔ながらの豆腐屋さんがあります、どこか懐かしい味の木綿豆腐と厚揚でした。

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フ・トッティ

No.002 (2022/10/08 訪問)

3年に一度開催の帯祭訪問の途中に視察しました。
夜は、広島の別宅でとくさんと一杯😊

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フ・トッティ

No.001 (2022/09/18 訪問)

2022年城研総会で視察しました。
スタンプ帳購入後、初視察‼️

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