城下町の遺構がまた一つ・・・
(2024/11/12 訪問)
昨年秋ですが佐和山城を訪れました(昨年春以来3度目です)。今回は搦手側の龍潭寺からではなく、大手側の大手門があった場所(大手口)を目指しました。彦根駅から近江鉄道に乗り(写真①)1駅目の「鳥居本」で下車しそこから歩きました。
昨年8月に、工事中に石田三成時代の遺構が見つかったというニュースで気になっていたので、イオさんに続き私も遅ればせながら訪れてみると、イオさんの投稿の写真の時からさらに工事は進んだようで、遺構が見つかった付近だけではなく、内堀からその外側のほとんどは埋立られていました。三成時代の城下町があったと思われるこの一帯は、国道8号バイパス工事がすでに大規模に行われていて、重機やダンプがたくさん入り立入禁止でした(写真⑤⑥⑦:写真②の地図に撮影場所を書いています)。
こんな大きな道路ができてしまえば、沿線には必ず商業施設やマンションや工場などが立ち並んで行くので、わずかに残っている外堀跡などの遺構(写真⑧の小野川付近)も、あと数年後にはだんだんと無くなっていくかもしれませんね。三成時代の城下町の全貌が解き明かされる事も、今後は難しくなりそうな気がします。
大手口(大手門跡)前がちょうどダンプの出入口になっていて、工事の方がいたので断って入りました(写真③)。三成の時代はここがメインの登城路で、ここに大手門が建っていて、その前の場所には侍屋敷があったようです。大手口のこの橋から先は龍潭寺の私有地なのでこの写真③の光景は、今後も残り続けると思います(たぶん)。そしてこの右側、内堀から外堀までの一帯が商人や足軽などが住む城下町で、鳥居本駅から国道の向かい側一帯が江戸時代の宿場町であったと思われます。東海道「鳥居本宿」の跡碑もありました(写真⑨)。
関ケ原で戦いがあった翌日、三成の父正継と兄正澄の2,800の軍勢が守るも、小早川秀秋ら15,000の大軍に攻められ、佐和山城と侍屋敷とこの城下町一帯は全て焼き払われてしまいます。ならばその後に入った井伊直政は、いったいどこで政務を執っていたのか🤔? それはよくわかりませんでした。
城下町の遺構が、また一つ解明されないまま消えて行く・・・、これも時代の流れで仕方ないのかな。帰りに近江鉄道のドアに描かれていた「ひこにゃん」に癒されたのが、せめてもの救いでした(写真⑩)。
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