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しんちゃん

貴船城 別府のあやしいお城 (2014/01/14 訪問)

貴船城は平安時代の武将・源為朝が砦を築いたとされる場所に建てられている観光用のお城です。お城‥でいいんだろうか? ちえぞーさんのサイトにも記載がありますよ。展望は最高で別府湾、別府の街並みを見下ろすことが出来ます。別府の街からは湯けむりが上がっていましたね。西側には鶴見岳や由布岳が見えたかな?よく覚えてない。
城内では白蛇神を祭っていて、五代目金城龍王が存命らしく、触ることができるそうな。怪しさ満載ですがそこが良い。ぜひ別府を訪れた際には寄って見てください。源為朝は乱暴が過ぎて、父・為義に九州に追放されたことが有るそうです。案外ここが気に入って居を構えた可能性も無きにしも有らずです。

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todo94

ゴールデンウイーク前半・献血前の攻城 (2024/04/27 訪問)

ゴールデンウイーク前半は昼寝城と4月27日の献血を最大の目的としていました。4月27日は今まで献血をしたことがない特別な日だったのです。本来ならば徳島か香川で献血したかったのですが、予約が埋まっていて断念せざるを得ませんでした。広島の献血ルームの予約が取れたので前夜に家を出て、名神の渋滞情報が入るとSAで仮眠をとったりしてうまく立ち回ったため、ゴールデンウイークの渋滞には全く引っかからずに広島市内にアクセスすることができました。黄金山の頂上が仁保島城の一の丸跡で、広い展望台が整備されていました。あいにくの天気で眺望を楽しむわけにはいきませんでしたけれども。二の丸跡には広島エフエム放送黄金山送信所が建っています。

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しんちゃん

山形城 本丸周辺 (2019/08/13 訪問)

山形城の本丸の周辺には空堀が配され、高麗門の先は枡形になっています。かつては本丸、二の丸ともに複数の門と枡形、櫓が配されていたようです。複雑な構造ではありませんが、セオリーには沿っています。
本丸一文字門や御殿の復元計画が有るようですが史料に乏しく目途が立っていない模様、やはり見所は二ノ丸東大手門の周辺に集約されているようです。広いだけに現状は中がスカスカの状態ですが、本丸周辺の石垣や堀は素晴らしいので、城びとは満足できるのではないでしょうか。一番最後の写真は私の以前の愛車です。アルファロメオの中古ですが結局3年しか持ちませんでした。いろいろ手間がかかって大変でしたが懐かしい思い出です。いまはハイブリッドのフリードスパイクに乗ってますが、全然壊れません。やはり日本車はいいですなあ。

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しんちゃん

入ってすぐに見どころ多し (2019/08/13 訪問)

山形城は東北でも屈指の規模を持つ、輪郭式の近世城郭です。最上義光によって三の丸を含む城域に拡張され、鳥居忠政の時代にいまの形に整備されたそうです。二の丸の外堀は広大で木造の橋を渡って二の丸東大手門から城内に入ります。門の先は枡形になっていて東大手門櫓は木造再建され公開されています。大手門櫓の西側には最上義光の騎馬像があり、皇居の楠正成像に匹敵する格好良さです。
本丸の周囲には空堀が巡らされており、本丸高麗門の先も枡形になっています。

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もりちゃん

駅チカです❗ (2024/05/18 訪問)

土塁ってお城の内部から見ると足元までで、その上に壁があったりするものだと思っていましたが、このお城の土塁は壁のようにそそり立っていて、お城の内部は一段低く、本丸は土塁に足を掛けるような造りだったとのことで、何か不思議な感覚です。
景色を見渡すことはできませんが、地図を見ながら町を歩き、当時の城下に想いを馳せました❗
陸軍が使用していたという、トイレや飛び下り訓練用階段も面白かったです。
近くには麻賀多神社があり、もちろん御朱印好きにもお勧め‼️

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しんちゃん

龍潭寺 庭園のサツキが見頃で今が旬 (2024/05/18 訪問)

浜松市浜名区にある龍潭寺は井伊氏の菩提寺で、大河ドラマで活躍した井伊直虎や井伊直政と深いかかわりがあります。池泉鑑賞式庭園は小堀遠州の作とされ、国の名勝に指定されています。小堀遠州は近江国小室藩の初代藩主であり、茶道や建築(築城も含む)、華道にも優れた才能を発揮したマルチな人物ですが、作庭も素晴らしく龍潭寺の庭園は彼の代表作の一つではないかと思います。
ちょうど季節も夏に移りつつありますが、鶯がさえずり、蜻蛉がとびかい、サツキや蓮の花がさきみだれ、池の鯉が蓮の葉をつついています。季節的に最高の状態で、龍潭寺庭園はまさに今が見頃です。
中央の大きな石(守護石)は本尊を表しており、左右の大きな石は仁王様の阿吽を表しています。三角の石が張り出した箇所は亀の頭を表し、二つの丸い石は亀の目だということです。
井伊直虎の晩年は龍潭寺の松岳院(もしくは自耕庵)で過ごしたとされ、龍潭寺の井伊家墓所にはかつての許嫁の直親の墓と隣り合って直虎の墓が、ひっそりと佇んでいます。

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住吉神社 (2024/05/18 訪問)

 飯島バス停から登城しました。説明板、正覚寺、住吉神社などを散策しました。遺構はよくわかりません。
近くには六角の井、現存する我が国最古の築港遺跡である和賀江嶋があります。
 天候に恵まれ富士山、江ノ島を見ることができました。海もきれいです。多くの方がマリンスポーツを楽しんでみえました。

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旗立山 (2024/05/18 訪問)

 鐙摺バス停より登城しました。登城口に旗立山、山上には伊藤祐親入道供養塚の説明板があります。遺構はわかりません。
 遠くには富士山と江ノ島を見ることができます。

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大楠小学校 (2024/05/18 訪問)

 逗子駅からバスに乗り芦名バス停下車。城址と伝わる大楠小学校へは徒歩3分くらいで行けます。途中、降りて行く階段があり、芦名城址庚申塔へ行くことができます。土曜日でしたが、小学校のグランドには児童がいましたのでネームプレートだけ撮影しました。

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金沢氏の城 (2024/05/18 訪問)

 金沢文庫駅よりバスにて釜利谷高校バス停下車、周囲を散策しました。釜利谷東4丁目付近にあったらしいが、今一つ明確に場所が記載されている資料をみつけられませんでした。というわけでグーグルマップに青ヶ台城址と表示されている場所に行きましたが住宅地となっています。写真は撮りましたが、住宅しか写っていないので投稿することは遠慮しました。にのまるさんと同じように釜利谷赤坂公園と階段の写真を投稿させていただきました。

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朝田 辰兵衛

山形県最高難所の予感… (2024/04/13 訪問)

「城びと」の山形県登録城コンプまで残り24城となっており,とりあえず残り24城の机上事前調査を済ませました。そのうえで,この嘉門館が山形県最高難所の予感がしました。
北側に登城口(鳥居が目印)があり,神社までは難なく行けます。そこから尾根(北の郭)に取り付くまでが難渋します。山城攻城の個性が現れる瞬間でもあります。ロープや鎖など一切ありません。「岩場を直登するストレートコース」がスタンダードと思います(古城盛衰記さんは2度目の攻城でここを選択されていました)。他に「西側の岩場斜面を廻るコース(滑落したら重傷か死亡。城郭放浪記さんは麓からこの斜面をよじり登ったのであろうか…😲)」と,「東側の土の斜面を廻るコース」がありました。とくに道があるわけではありませんので,私なりの表現ととらえてください。
私は1年前にギックリ腰になり,さらに股関節のハマリが悪いことから,岩場を避けることのできる「東側の土の斜面を廻るコース」で尾根(北の郭)を目指しました。真下まで見下ろすことができ,「滑落しても死なないし,這い上がってくればいい」と…。この土の斜面ですが,全くエッジが効かない。落ち葉の層がかなり深い。「熊の足の爪が欲しい…」とマジで思いました。2足歩行では心もとない状況となり,4足歩行に切り換えました。爪を立てる感覚で…。
見どころは,主郭南西部の3重堀切です。これを目にした瞬間,野獣のように遠吠えをしたくなりました…<笑>。

山形県,河島山遺跡以北は攻城済です。そのうえで,嘉門館を超える難所はありませんでした。気になっているのが,沼平館,畑谷城ですが,地元のボランティアの方が整備されているみたいです…。ただ,すでに山城オフシーズンなので,来シーズン以降のレポートになるかと思います。
他の方のレポートも,とても気になります…。

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AJ

飛ぶ家風 (2018/05/13 訪問)

上州言葉では「走る」を「飛ぶ」というのだそうです。

安政遠足。えんそくではなく、「とおあし」と読みます。江戸末期に行われた、安中城(現在の群馬県安中市)から碓氷峠頂上までの七里余(約30キロ)、高低差1,000メートルの競走で、「日本最古のマラソン大会」と表現されることもあります。そんな藩士鍛錬の行事に想いを馳せ、1975年に始まった「侍マラソン」。つい先日、50回目の記念大会が行われました(*山道が荒れているとの理由から、城址から峠関所・坂本宿までの約20キロで開催)。

武術の真髄は刀槍弓馬にあると言われますが、戦場に参じるのも、いざという時に逃げるのも脚あっての話。動乱期に関所を預かった藩主・板倉氏の家祖は徳川家康の信任篤かった京都所司代・勝重。同家の武勇専一たる気性はこのイベントにも見て取れますね。

実は数年前、筆者も知人と参加させていただきました。中年侍ふたりは無事完走。もともと参加者が思い思いの仮装で走ることで有名な大会ですが、いわゆるFun Runは関所まで。20キロ過ぎから山中に分け入る「峠コース」はガチのトレイルランで、沿道の声援は野生動物の鳴き声に変わります。それでも仮装で挑む強者はいて、岩に腰掛けて休憩する信玄公や亀仙人を目撃するのは一興でした。

ゴールは長野県境にある熊野神社。そこで美味しくいただけるのが「力餅」。中山道を踏破した参勤交代一行を支えた炭水化物、ぜひ一度ご賞味ください。現代版は上品なひと口サイズ。かつてはきな粉が主流だったようですだが、今はあんこ、おろし、ずんだとバリエーションも豊富。これを飯や蕎麦と一緒に掻き込んで糖質チャージ。峠越えに臨んだわけです。

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しんちゃん

吉野ヶ里遺跡 支配と葬送 (2014/01/01 訪問)

吉野ヶ里遺跡の周辺には縄文時代から人が住みはじめ、紀元前4世紀ごろには集落が形成されたようです。3世紀ごろには最盛期をむかえ、この周辺だけでも千人以上いたと推測されています。
吉野ヶ里の丘のいろいろな場所に甕棺がまとまって埋葬されていて、想定では15000を超す甕棺が埋められているとのことです。甕棺に葬られた遺骨の中には刀傷があったり、首が無いものも含まれており、倭国大乱とかかわりがあるのではないかと考えられています。
北墳丘墓は歴代の王が埋葬されている特別な墳墓と考えられており、異なる種類の土を南層にも突き固めた人工的に造られてた丘です。墳丘墓の内部はは展示用に公開されており、ここからは14基の甕棺が見つかっています。
主祭殿は周辺の王たちが集まって決議を行ったり、祭祀を行い信託を受ける場所として吉野ヶ里遺跡でも最も重要な建造物であったようです。

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しんちゃん

本丸南側の堀が見所。芭蕉ゆかりの地。 (2016/01/01 訪問)

黒羽城は天正4年に大関高増が白旗城から当地に本拠を移したことが始まりとされています。慶長5年の関ヶ原の合戦では徳川家康に味方し、上杉景勝への備えとして城の改修を行っています。江戸時代は黒羽藩主大関氏の本拠となり、かつては南北1.5km東西250mという規模の大きな山城でしたが、現在では本丸周辺が城址公園として整備されています。かつて三の丸には桃雪邸がありましたが、現在は黒羽芭蕉の館が建てられています。芭蕉は奥の細道の道中14日をここで過ごしており、居心地は良かったものと思われます。
本丸から南の三の丸(黒羽芭蕉の館)の間には二重の堀切があり、特に最初の堀は規模が大きく橋が架かっています。本丸周辺の土塁と南側の堀は特に遺構が良好に残っています。

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しんちゃん

吉野ヶ里遺跡 南内郭と北内郭 (2014/01/07 訪問)

南内郭には「大人」の家やら「王」の家やらありますが、何人いるんだろう偉い人。家の造りに関しては大人も王も一般の人の竪穴住居とそんなに変わりが無いように見えます。南内郭は周囲を堀で囲まれ、特に防御が厚く、王やリーダー層(大人)の住まうセレブなエリアだったようです。当時としては非常に貴重な鉄製品が多く見つかっていることから、そのように考えられています。
北内郭には主祭殿があり、その存在感は圧倒的です。まるでこの時代の宮殿のようでした。北内郭の周囲は二重の堀と柵に囲まれており北東から回り込むように進入路が設けられ、喰違い虎口のように入口が折れ曲がっています。この集落で最も守りが厚いエリアです。

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しんちゃん

かなりの規模を持った弥生時代の環濠集落 (2014/01/07 訪問)

少し古い写真ですが、しばらく九州には行けそうもないので吉野ヶ里遺跡の投稿をさせていただきます。集落の東を田手川が流れており、西には二本松川が流れています。集落内にも水路が流れており大規模な環濠集落になっています。入口付近にも堀や逆茂木(乱杭)が設置されており、かなりの防御力を持っていることが伺えます。
邪馬台国論争はいまだ決着がつかずですが、九州にかなりの先進的文明があったことは間違いなさそうです。私の知っている他の弥生時代の集落とは比べようがないほど広いです。最近は「謎の発掘エリア」という場所もあるようなので10年以内にはもう一度訪れたいと思っています。

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トク

曳馬城(引間城) (2024/02/13 訪問)

曳馬城((引間城)=浜松城)を訪れてきました。曳馬城は元々は今川領の城でしたが、1568年に家康が今川氏から奪い、1570年には信長の命で家康は岡崎から移りここを居城としました。その時、曳馬(馬を曳く)は負けを意味し縁起が悪いので浜松と名を改めた・・・というのが私が浜松を訪れる前までの予備知識でしたが・・・

浜松を訪れたのは初めてで、実は私はここに来るまで勘違いをしていました。上記の内容から推測して、浜松城は別名曳馬城とも言われている事から、曳馬城と同じ位置で同じ場所に浜松城は建てられたものだとばかり思っていました。しかし、浜松城と曳馬城は近くではあるものの別の場所の城であった事を、訪れて初めて知りました。曳馬城は浜松城の東に約300m程行った駐車場と道路を挟んだ地にありました(曳馬城全景写真①と曳馬城の説明④)(浜松城の天守から見た曳馬城の写真②と位置図③)。

これはあくまで私の推測ですが、家康は曳馬城に入った時、いったん引間城と名を改めて、すぐ近くの丘陵地に浜松城の築城を開始し、完成と同時に町の名も浜松と改め、そして江戸時代に入り一国一城令の時、当時の藩主が引間城は浜松城の一部に含まれるように絵図に記述し合わせて一城として幕府へ申告、それから引間城の名は消えて行ったのではないかと推測しました。

現在の引間城は元城町東照宮になっていて(写真⑤⑥)、神社の前には家康が暮らした居館の跡がありました(写真⑦⑧)。家康は岡崎城を出て引間城に入った時、おそらく手狭であったため、より広く強固な浜松城をすぐ西の丘陵地に築城しようと考え、完成するまでの間、ここにあった引間城の居館で暮らしていたようです。

神社には家康と若き日の秀吉(藤吉郎)の銅像がありました(写真⑨⑩)。今川時代の若き日の藤吉郎は仕えていた城主とここを訪れた事があるらしく、その後両者とも出世した事にあやかり、現在の引間城は出世を祈願する神社になっていました。出世にあやかりたい方は、ぜひ二人の像と一緒に写真を撮られてみてはいかかでしょうか?(笑)(写真⑩)。

しかし、ここでふと疑問が🤔? 家康がこの引間城に入ってから、わずか2年後に三方ヶ原の戦いは起きています。負けて浜松城に逃げ帰ったとありますが、もうこの時に浜松城はどこまで完成していたのでしょうか? あの有名なかがり火を焚いてわざと城門を開いたという「空城計」の策は、もしかして浜松城ではなく、この引間城で行われたのではなでしょうか? と思いながら説明板(写真④)を家に帰った後で読み返していたら、何と答えが書いてありました。やはりこの時はまだ、浜松城は完成していなかったようです。よって家康が逃げ帰ったのは、やはりこの引間城だったようです。よって空城計の策は、引間城の玄黙口で行われたようです。「玄黙口を見逃してしまった~!」という事に後で気づいてしましました~!(😩もう遅い)。

次は、その三方ヶ原古戦場をちょっと見てきます。
  

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シェル

亀山公園編 能登半島地震の爪痕 (2024/02/25 訪問)

 朝倉義景墓所から移動し、いよいよ城内へ。模擬門のある南の登り口から登城開始。本丸までは30分程度です。  
 坂道を進むと、やや草が生えており見づらいですが堀切の遺構があります。
 堀切のそばの階段を登ると土井利忠の銅像のある曲輪に着き、その曲輪から本丸の東側の遊歩道を進むと、城址碑のある本丸北西側・長屋門跡に出ます。長屋門跡の近くには金森長近の銅像もあります。
 長屋門跡からいよいよ本丸へ
 本丸には野面積みの石垣と、その上に模擬天守が鎮座しており、圧巻でした。
 正午ごろに本丸を散策したのですが、正午のサイレンが天守のそばのスピーカーから爆音で流れて、とてもびっくりしました。お昼ごろ散策する際はくれぐれもご注意ください。
 本丸を見学後は北側のルートで下山。北側の道中には 亀山観音が鎮座しています。
 ニュースでも報道されていましたが、2024年1月の能登半島地震の余震の影響で、本丸南側 武具蔵跡の石垣が崩落しており、南から最短の階段ルートの一部と武具蔵跡そばの模擬門周辺は立ち入り禁止になっていました。一日も早い復興を切に願っています。

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シェル

城下・麓編 移築鳩門&朝倉義景墓所 (2024/02/25 訪問)

 一乗谷城から転戦。一乗谷の下城戸から徒歩5分ほど歩いた「安波賀」のバス停から京福バス 越前大野行に乗車し、約45分。越前大野駅の手前の「大橋」のバス停で下車。(京福バスの休日フリーきっぷを利用)
 亀山公園へ向かう前に「大橋」のバス停から少し歩いたところの光明寺へ移動。光明寺には、大野城の二の丸鳩門が移築されています。二階部分は改修されているらしいです。
 移築鳩門からはスタンプ設置場所の武家屋敷旧内山家まで、徒歩10分ほど。内山家で続日本100名城スタンプを押印。(冬季期間のみ設置とのことです。)
 鳩門と内山家の道中には、武家屋敷旧田村家があり、そこには土居が残っています。
 内山家の道の向かい側は、越前大野城の二の丸跡にあたり、学びのさと「めいりん」に沿って百間堀が復元されています。南東側は大手門広場になっており、案内板も設置されています。
 このまま登城したいところでしたが、一旦、亀山公園(大野城)を横目に南下し、義景公園へ。
 義景公園には、朝倉義景の墓所があります。朝倉義景は織田信長の越前侵攻の際、朝倉義鏡を頼って大野へ落ち延びたようですが、朝倉義鏡も信長に内通しており、義景は大野で自害したということです。義景墓所周辺は名水百選の御清水もあり、水の町としても有名らしいです。

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小城小次郎

湯浅城とともに国史跡となった (2023/11/04 訪問)

一次史料はないと言うが、湯浅党の中で高いポジションを占めていた藤並氏が居住していた館であることは間違いない。16世紀まで使われたが鎌倉時代まで遡れることと残存状況が良いのとで湯浅城ともども国史跡の指定を受けた。

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