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虎の子

西小天守特別公開に行ってきました (2024/02/23 訪問)

今月のみ初公開している西小天守を見るために三連休を利用して姫路城へ。大天守はもちろん、イの渡櫓→東小天守→ロの渡櫓→乾小天守→ハの渡櫓→西小天守、と回ることができ、ニの渡櫓は西小天守から中を見るだけでしたが、そこから大天守への扉も見ることができました。連立式の天守、櫓をほぼぐるりと楽しめました。
西小天守からは水の五門内側枡形が良く見えるし、水の四門から水の五門への道もよく見えました。敵を上から攻撃で来たんでしょうね。
連立天守の内側エリアは思ったよりは狭く感じました。台所櫓があるせいかもしれません。
天守以外も官兵衛石垣や搦手門などお堀の周りも散策。いろんな顔があるのが姫路城ですね。

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カズサン

本丸と三の丸 (2024/02/20 訪問)

 「二の丸櫓と二の丸」のつづきです。

 田原城の本丸には現在巴江神社、三の丸には現在護国神社が鎮座しています、南側の土橋の東は三の丸と本丸間に空堀、また二の丸と本丸間には大空堀が在り北に向かって入ると本丸へ巴江神社の鳥居、巴江神社石碑を潜り境内へ拝殿本殿が北奥に鎮座、西側には奉納灯籠が並び奥側には土塁が残存しています。三の丸は南側に復元白土塀、折れて東にも白土塀が建っています。
 
 巴江神社には三宅氏の遠祖児島高徳と初代三宅安貞が祀られています、久々に「児島高徳」の名前が記憶から甦って来ました、二の丸櫓資料館展示の三宅氏系譜に三宅児島三郎高徳の名が有り、田原城パンフレットの巴江神社説明に児島高徳が載っておりびっくり。
 私の「児島高徳」は小学生低学年の時代、叔父、兄の学んだ戦前の絵本日本の歴史で後醍醐天皇の隠岐の島配流への途中に美作院庄の庭先の桜の木を削って「天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず」と漢詩を書き記し後醍醐天皇に奪回の意思を示した故事「太平記」でも有名で、今でもその当時の読み下し文を覚えて居り、懐かしい南朝忠臣児島高徳の名前でした。

 続きます。
  
 

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虎の子

醤油と素麺の町にある龍野城跡 (2024/02/23 訪問)

中世に赤松村秀により築かれたといわれる城で、当時は鶏籠山山頂にあり、脇坂入城時には麓に城郭が移され、現在は麓に本丸御殿や多門櫓、鍜坂門、隅櫓などが再建されていました。城内には今は歴史文化資料館やこども園、醬油の郷大正ロマン館が建てられています。
ただ古地図にも「埋門」と書かれているが、再建されたのは櫓門にしか見えないのが残念でした(元々櫓門だったかもしれませんが)

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天守無しがアツい

川越城の変遷 (2024/02/23 訪問)

(川越本丸御殿の紹介URL)https://www.city.kawagoe.saitama.jp/smph/welcome/kankospot/hommarugotenzone/hommarugoten.html

川越駅から徒歩15-20分…近くに神社および球場のある場所に位置する屋敷…それが川越城(川越本丸御殿)🏯

その正面には唐門を意識したような入口が来場者を待ち構え(画像1枚目)、履物を玄関で脱いで用意されてるビニール袋にしまってから中に入ります

建物内には無料Wi-Fiも用意されており、パスワードさえ入力すれば自由にそれを使えます。ただ…部屋の場所によって電波の入り具合がバラバラ…入口付近は問題なく使えるのですが、少し離れた展示室はもうダメ…でした

ここに入館したのは16時…閉館時間の17時まで滞在…つまりここで過ごしたのは1時間ほどですが、そのうち15分くらいはWi-Fiの安定した部屋にてトリマのゲージ消費に励みました📱

本丸御殿の左側にあるのが(2枚目の)地図。見ての通り、かつてこの辺りには二の丸…三の丸…と数多くの設備があり、大規模な城郭であったことが伺えます

(これは他の城にも言えること…明治以降の日本各地の城の宿命とも言えるのですが)現在は本丸のみが当時を偲ぶ建物として残り、周辺の城域は宅地と化してしまってる…防御施設としてかつて存在していた堀も埋め立てられ…

本丸御殿は最初から観光用として公開されたのではなく、煙草工場…学校の武道場…中学校の仮校舎・屋内運動場という使用履歴を経て、昭和42年に大規模な修理工事をおこない、屋根の修理や間取りの復元を経て現在の公開施設になった…と案内文にありました

ということは、工場や学校の一部だった頃は、それほど入念にメンテナンスされていたとは思えないから、割と雑に扱われていたのではないですかね…🏭🏫

「あ…材料を床に落としちゃった😜」「生徒が備品で器物破損しちゃった…😅」「あそこの天井、穴空いてね?」「壁に亀裂入ってる…ま…これくらいなら別にいっか…もう見慣れてるし…いわゆる一つの経年劣化?😁」みたいに

入館料は大人100円…入館と同時に忘れずに御城印を注文。1人2枚まで購入可能だったので(いざと言う時のスペア、もしくは同僚で入手希望の方がいた場合に備えて先着1名にあげられる用)2枚買うことにしました

左側が川越城の御城印…飛鳥山公園(東京都北区)のお土産館にも、実は取り扱いがあったのですが、それには本丸御殿の絵はなく、ただ…「川越城」と書かれているだけでした

「現地でも販売されてるなら、そっちで買ったほうがいい」「その方が達成感がある✌️」と思ったので、そこでは買わずにここで買ったわけですが、こうして見ると本丸御殿付きのこのデザイン…

「こっちのデザインのほうがイカしてる✨」自分のあの時の判断…やはり正解でしたね😏

この日は雪予報も出るほどの低気温…幸い、雪が降って電車が止まるというほどのアクシデントは無かったのですが、御殿の床が冷たかったですね…靴下で歩き回るのはしんどいくらいに☃️

玄関や広間のある本殿の廊下を渡り、スノコの上を歩く形で家老詰所という離れも見学できました🏠 本殿と同じくここも畳の敷いた部屋が幾つも集まっており、一番奥の家老詰所には人形3体による当時の雰囲気再現がおこなわれてました(4枚目)

説明書きを読むと、幕末にこの辺りを治めていた川越藩は、東京湾のあたりにも領地を持っており(←飛び地?)、そのためペリー来航の際には江戸警固の担当につく必要に迫られたそう。その際の作戦…防御を固めるための会議をおこなってる様子を再現したものとありました

詰所の中は大変寒く、ここでも足元が冷えました。戸や襖を開放してるからもあるでしょうが、襖は木の枠と和紙…つまり薄い壁。暖房器具は火鉢くらいしか無い当時(江戸時代あたり)…冬の生活はまさに寒さとの闘いだったのが簡単に頭に浮かびますね🧊

本殿に戻り、「もう一枚くらい…添付画像のための写真撮ろうかな」と廊下を歩く…閉館2-3分前になって目に入った場所が5枚目の広間

鎧兜が2体…見えると思いますが、これは昭和中期に手作りで再現されたものだそうです。サイズは小さめでしたが、見た目は違和感なく作られており、この作者に真に感心しました

現代人にとってはまず着ることの無い鎧兜…自衛隊を含めた世界中の軍隊は今や迷彩服を軍服として着用しており、鎧兜の出番は無い…ロストテクノロジーと化してるんじゃないかとさえ思えてしまいますが、その伝統は一応現代にまで受け継がれているようであることが、この展示物を見て伺えました

ちなみに展示文やパンフレットに書いてある「川越城の歴史」から、ざっと概要を紹介させてもらうと…

「扇谷上杉氏の命を受けた太田道真・道灌親子によって1457年に築城→後北条氏により1537年に攻め落とされる→扇谷上杉氏と後北条氏の間で争奪戦も、1546年の川越合戦で後北条氏が大勝し、北武蔵(川越一帯)の支配を固める」

「豊臣秀吉の関東攻略において降伏(1590年)(天下統一の最終段階は小田原城陥落のはずなので、その前に降伏したのでしょう🏳️)→同年八月に徳川家康が江戸城に入ると、そこに近い川越城には酒井重忠が担当→3代将軍家光の代に城主となった松平信綱は城の拡張整備を行い、本丸・二の丸・三の丸・追手曲輪などの各曲輪…3つの櫓に13の門からなる総面積99000坪余りの規模を持つ巨大な城郭となった」

そうです…閉館後、駅まで歩く途中に堀を見つけたのですが、それは信綱の命により軍事用として造られたもの…当時は戦国の世が終わりを迎え、幕府の支配がほぼ磐石になり島原の乱以外に内乱らしい戦は無かった時代…

それでも…「平和だからこそ…浮かれる事無かれ…」という方針のもとに掘られたのでしょうか?まぁ…実際にこれが戦で使用されることはなかったと思いますがね🏯

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todo94

元日の攻城④ (2024/01/01 訪問)

高済寺がその故地となっています。先達の皆さんがおっしゃる通り、館のイメージを大きく超える空堀と土塁に魅了されました。こういう不意打ちは何度喰らってもうれしいものです。

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Tokyobay

「裏切りの城」として悪名高い? (2024/01/13 訪問)

8年ぶりに訪問。当時は淀古城の存在を知らず、ここに淀殿が居たのかと勘違い。戊辰戦争では「裏切りの城」として悪名高い?が、最近は周辺開発により保存する気があるのかないのかよくわからない、手入れもイマイチでやる気のなさが何とも言えない城でもある。こういう時代の流れに逆らわずに朽ち果てて?いく城というのはキライではないが。
ちなみに前回来たときは中年カップルがチラホラしてて観光・撮影のし難さを感じたが、今回は外観のみだったので確認できず。城って地元の人はあまり来ないから、きっといい「隠れ家」になるんだろうなと感じた第一号の城でもある。

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Tokyobay

戊辰戦争の銃弾の穴がある寺 (2024/01/13 訪問)

戊辰戦争勃発の地から東軍の進軍ルートを逆行する形で旧道を南進し淀古城へ。この周辺も戊辰戦争の激戦地であり、銃弾の穴がある寺として度々TVで取り上げられるが、どこに痕跡があるのかは確認できず。

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Tokyobay

京都の竹田城(戊辰戦争勃発の地) (2024/01/13 訪問)

鳥羽離宮・城南宮の近辺には「竹田城」(室町時代築城)があったが、この辺は幕末時に西軍の陣地となり、戊辰戦争が勃発した地でもある。この場所から日本史上最大の「内戦」が始まったかと思うと感慨深いものがある。
尚、鳥羽離宮の遺構である「秋ノ山」は西軍が土塁代わりに活用した、というようなことをNHKの番組でやっていたような気がするのだが、100%の確信はない。

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朝田 辰兵衛

🌞のち🌥の予報だったので… (2024/02/11 訪問)

この日の天気予報は晴れのち曇りでした。しかも,昼ぐらいから曇りという…。スケジュールを見直し,🗻眺望をトップにシフトしました。全然効率良く散策できない一日となりましたが,世の中すべて思いどおりにいくワケがないし…ということで。
その代わり,素晴らしい🗻とご対面できました。
撮れ高が少ないのは,何枚か撮影に失敗してしまったためです…。しかし,🗻が成功してて安堵でした。

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姫街道

水瓶にもなっていた障子堀 (2024/02/24 訪問)

西の丸付近の障子堀は、今でも水が沸いて水瓶になっている箇所がある。これだけの規模と立地、水の確保面からも障子堀は有効だっただろう。先の台風19号などで、城内各所で崩落箇所復旧作業が行われている。ただし、崩落したのは戦後期以降に貼り付け盛土した法面等であり、実は戦国期の遺構は崩れてはないとの事。戦国期には水捌けも水確保も機能的であったのだ。城内を歩くと近代的な虎口や土橋の復元が点在する。最先端の山城であった事が理解出来る。

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T-Shionoya

坂本城 ロマンチックな琵琶湖の石垣 (2023/12/22 訪問)

湖中に沈む石垣が稀に姿を現す滋賀県大津市の坂本城。
その渇水期限定の石垣観賞を狙い、昨年12月に訪問。

西近江路が通る琵琶湖の南湖西岸、比叡山延暦寺の門前町や三津浜の湊が存在したエリア。
琵琶湖沿いの本丸を要に、二ノ丸と三ノ丸を扇状に配置。
大小2つの瓦葺き天守や船着き場を備え、安土城に次ぐ名城であったと伝わる城。

安土城より前の1571年に明智光秀が築城するも、1582年の本能寺の変・山崎の戦いの後に光秀家臣が火を放ち焼失。
その後、丹羽長秀や浅野長政らが城主となり、1586年ごろ大津城へ移転となりました。

現在は、本丸南の城外とされる部分に坂本城址公園があり、城域の大方は住宅地。
普段は湖中に沈む本丸石垣が数少ない遺構の城跡。

訪問時、琵琶湖の水位は-73cm。
畦道を歩き小さな浜へ下りると、L字に並ぶロマンチックな石の列。引き波の瞬間に見えるのは流木なのか胴木なのか?
二ノ丸エリアも散策した後、ひたすら歩き移築門のある聖衆来迎寺と西教寺へ。
トータル2時間半越えの、私の城郭巡りの168城目。

さて、昨年までは本丸以外の城郭遺構が出ない城でしたが、今月ついに三ノ丸と推定される石垣が出土。
ワクワクさせられる坂本城です。

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姫街道

三方からの守りも固い (2024/02/25 訪問)

車で城下を走る市道を西から東に走ると、
本城に対して、西の舌状段丘には根古屋と呼ばれる屋敷群が点在し、東は清水曲輪が存在していた事が地形からよくわかる。土塁や大堀切が残存している事は本当に嬉しいが、二ノ丸の三ケ月堀や土橋など是非是非復元して頂きたい。
北側も民地なのか荒れてしまっているが、堀や土橋があった面影が残る。天守台では石垣の発掘調査の最中であった。史跡公園化を心待ちにしたい。

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小城小次郎

よく考えられた整備状況 (2023/05/20 訪問)

2016年の訪問時と2023年訪問時を比べると旧墓地区画の撤去が進んでいる。一方で樹齢600年とも言われる土塁上のタブノキを歴史的景観構成物として保存している。よく考えてじっくり整備しているのがわかる。

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とばつびしゃもん

桶狭間の戦いで全滅した砦2 (2024/02/11 訪問)

丸根砦から徒歩10分。日没が迫るなか15分の高速攻城。
丸根砦同様.遺構は確認できず。

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とばつびしゃもん

桶狭間の戦いで全滅した砦 (2024/02/11 訪問)

大高城から徒歩20分、砦跡は住宅地の中にある。10分ほど高速攻城。
地形的には砦感があるが、遺構らしき設備は確認できなかった。
大高城が望める距離から、施設間でプレッシャーの掛け合いがあったことが想像できる。

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ぴーかる

久礼城 (2024/01/06 訪問)

【久礼城】
<駐車場他>駐車は中土佐町役場駐車場に駐車してくださいとのこと。
<交通手段>車

<見所>竪堀・横堀・堀切・土塁・石垣
<感想>1泊2日高知城攻めの旅1城目。土佐初入国、第23回 日本100名城、続日本100名城に負けない名城の久礼城に行ってきました。登城口は中土佐町立久礼保育所の駐車場奥から登ります。城跡は二郭北側の竪堀群を通り二郭の北虎口から進入します。二郭は三方を土塁で囲み、石積み遺構が良く残っています。曲輪の3分の1程で仕切り土塁があり曲輪を分けていたようです。二郭から西方向に進み、主郭(土佐では本丸の事を詰の段というみたい)南東部の石積み枡形虎口があり、3重の横堀と竪堀を組み合わせた堀が縦横無尽に配されています。堀の内側にも所々石積みが残ります。この枡形虎口から二郭東の2重堀切に行けます。主郭は東西に伸びた広い曲輪で南北の同じ位置に虎口があります。南北の虎口のあいだに石組の池のような窪地があります。主郭の東側奥に礎石遺構、西側奥が高土塁で段になっています。主郭北側虎口を少し降りると城跡最大級の石積み遺構があります。
 特集の写真では「詰め段南口の登城路直下の全面石垣」とありますが、詰め段北口の間違いです。北虎口から北に更に降りて行くと、土塀跡の石積み、深い切通しがあります。切通しにも石積みが残ります。その先に高さ3m程の片側高土塁がある曲輪があります。3郭は主郭と深い堀切で仕切っており、曲輪内部にジグザグに3か所石積みの土壇が設けています。西側が高土塁になっていて、内側壁に石垣が多く残されていて全面石垣だったように思います。3郭西側の畝状竪堀群は羊歯が多く遺構が見ずらい。主郭の南西部の5重堀切は城跡最大で1・2条目は圧巻の見応えです。
 あとから行った岡豊城より自分的には久礼城の方が見応えありました。整備力と知名度の関係で選出されなかったのかもしれませんが、逆に生々しく残る遺構の数々に圧倒される素晴らしい城跡でした。

<満足度>◆◆◆

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にのまる

202年城初め (2024/01/01 訪問)

城納め翌日の城初めです。
隣接する病院の面会時間の隙を見てダッシュ💨してきました。

高台によみがえった天守台はここが城跡であったことを教えてくれます。

海峡を見つめる鯨はここに水族館があったことを懐かしく思い出させてくれます。

海岸の波しぶきは源平の時代へと誘ってくれます。

大手口の野面積石垣は激動の時代を乗り越えてきた力強さを感じさせてくれます。

故郷はやっぱりいいなぁとしみじみ思い、また、今年一年穏やかに過ごせますようにと祈念しました。

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チェブ

城びと未登録のお城攻め「源為朝の館」。 (2024/02/24 訪問)

保元の乱で敗れ、伊豆大島に流罪になった 源 為朝さん。源 頼朝さんの叔父様です。
流罪になりましたが、伊豆諸島を従えてしまいました。
この為朝さん、弓の名人で身長2m。
1度、お父様からも九州に追放されました。そちらでも武勇伝がたくさんあります。

大島の元町港から歩いて5分弱、「源 為朝の館」は『ホテル赤門』の横にありました。
そのまんま、赤い板チョコみたいな門です。門横に説明板があります。遺構はありません。為朝さんは大島全体を従えているので、海が天然の堀かな?
ホテルの前を通り『為朝神社』へ。石垣と石畳が神秘的です。
元町港に戻り、『ゴジラ像』方向に散歩しました。横に『為朝の碑』がありました。

伊豆大島は学生時代に来た以来です。今回のメンバーも学生時代からの友人達。大島の思い出が一致しないので、もう一度、行ってみよう!と、船を予約しました。
竹芝から大型客船さるびあ丸で、夜10時に出港し、朝6時に到着します。寝ながら移動です。前と同じように2等和室を選びましたが、雑魚寝で背中はバキバキです。

早朝に到着しますが、島の飲食店は開いてます。
到着する元町港が岡田港に変更になったのが予定外でしたが、船の到着にあわせてバスが待ってくれてます。
今回、伊豆大島に来て感動したのは富士山が綺麗に大きく見えた事です。
源 為朝さんも見たことだと思います。

最後には自刃し亡くなった為朝さん。
なのに、満面の笑みで みんなで写真を写した『源 為朝の館』攻めでした。

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カズサン

二の丸櫓と二の丸 (2024/02/20 訪問)

 「桜門周辺」のつづきです。

 田原城の二の丸には二の丸虎口の南側角に二階隅櫓が昭和32年復興復元されて居り内部は無料の資料館(文化財収蔵庫)に成っております、一階は田原城の資料展示、立体模型、一色氏、戸田氏、三宅氏の系図、絵図、古写真などです、古写真によると隅櫓は下見板張りだった様です、復興隅櫓は白漆喰仕上げに成っていますが、二階は周辺古墳の発掘調査及び発掘遺物の展示でした。
 二の丸には田原市博物館(有料310円)があり、展示内容は幕末の偉人渡辺崋山を主体にしています、田原と言えば「渡辺崋山」ですよね、崋山が家老職の時は備蓄蔵を設けて飢饉の折り餓死者を出さなかった事でも有名な事です。その他は年代別の雛人形の展示室の有りました。
 二の丸南側には土塁が遺り下部には石垣で腰巻石垣の状態です。
 桜門に続き二の丸復興隅櫓も田原城のシンボルであり各角度での写真も投稿致します。

 続きます。
 

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とばつびしゃもん

3「大」3つ目の城 (2024/02/11 訪問)

名古屋市で開催された千田先生による大学連続講座。その3回目「家康の城の特色」の抽選に当選し聴講。千田先生は馬出の効果と名古屋城築城時の馬出を、佐賀大学宮武先生は石垣の積み方と進化を解説。興味深いお話しを聞くことができて満足の講座でした。
JR熱田駅から大高城へ、そこから歩いて10数分ほどで石碑のある城址入口へ到達。入口までの道は細く車の駐車場はなさそう。
城内ではいくつかの曲輪と思われる区域や空堀らしき設備が見られたが、遺構を示す案内板が見当たらない。おそらく城山八幡社のあるところが本丸か?もやもや感を残したまま下城。
気がつけば、昨日から尾張のこの地域の「大」で始まる3城を攻略。

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