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麓の居館跡とセット (2024/02/24 訪問)

「城びと初投稿いただきます」(ぴーかるさん投稿からのぱくり、使うの久しぶり)。ついでがあり、岡山県寄りの広島県の中国山地内で城びと未投稿の城を探しましたが、広島県在住の織田晃司さん、まっつんさん、しーげさんらが、カバーし尽くしておられました。範囲を拡げて、鳥取県に、未投稿の湯谷城を発見。ちなみに、鳥取県西部海岸沿いは、カズサンさんに拾い尽くされてました。
最近ぴーかるさんが投稿された、五品嶽城から北上していきます。地元の方に道を聞くと、「ホームランド多里(たり)」を目指すと良いと。その裏手の多里地域振興センターに駐車しました。
城は、日野川とその支流の湯河川に侵食されて東、北、西の三方が急峻な斜面になった尾根の先端にあります。居館は、尾根先の比高5mほどの高まりに50m角ほどの方形で、土塁が設けられています。居館裏からの城域への道は途中で消えており、残りの40〜50mの急斜面を直登します。痩せ尾根なので迷うことはありません。
Ⅰ郭〜Ⅹ郭が尾根にほぼ一列に並んでいます。城域においても高低差はけっこうあり、各郭の切岸は、高さがあります。植林のため下草はなく、見学しやすいですが、Ⅰ、Ⅱ郭だけ、矢竹が密集しています。ここをつききって、背後の三重堀切を見てください。帰りにⅩ郭下の放射状の畝状竪堀を認めることができました。
城郭放浪記さんによると、西側斜面に四重堀切があるとのことですが、降りて行ける気がしない急斜面。城郭放浪記さん、やっぱり凄いなあ。

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todo94

元日の攻城⑥ (2024/01/01 訪問)

野本氏館からの転戦です。チェブさんがナビに導かれた集会所には説明板がありました。入口表示の付近は路肩にスペースがあったので路駐しそそくさと散策。ささやかですが、土塁・空堀は確認できました。主郭と思しき場所は藪、もしくは畑となっているようでした。

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トク

「謎のエリア」発掘調査現場を訪問 (2024/02/27 訪問)

今まで未発掘だった北面「謎のエリア」で発掘調査が進められており、昨年末に新たな青銅器の鋳型が発見されました。現在その鋳型が展示され、また発掘調査の様子が公開されているという事なので訪れてきました。歴史公園の周りには名物の菜の花が綺麗に咲いていました(写真②)。

今回も西口ゲートから入りました。まずJR神埼駅で降り駅前の「卑弥呼」様に拝礼!(写真①)。ちょっと怖そうな女性なので静かに前を通ります。そして卑弥呼様の指さす方向へ歩く事15分、西口ゲートに到着です。(注:100名城スタンプは東口ゲートにあります)

環濠集落が再現されている南内郭(写真③)、祭殿がある北内郭(写真④)、有力者たちが眠る北墳丘墓を通り、発掘中の北面「謎のエリア」に向かいます(写真⑤)。昨年ここでは石棺が発見されました。最大級の墳墓の中にある石棺なので、もしかして卑弥呼がこの中に! 世紀の大発見か!😯 と期待されましたが、中には何も無かったようです(写真⑥)。埋葬当時は誰か有力者の遺体があったものと思われますが、さすがに2000年も経っているので風化され泥水などが中に浸み込み流されてしまったようです(残念!)。

その代わり、青銅器の新たな銅剣の鋳型が発見されました。その鋳型が今月末まで展示されています(写真⑦⑧)。一昨年までに出土した鋳型は石英斑岩製で、昨年9月には蛇紋岩製が、さらに12月には角閃岩製が発見され、同じ場所で異なる石材による鋳型が発見されたという事は、青銅器製造の初期段階で鋳型に使う石材をここで試行錯誤していろいろと試していたのではないかと推測されるとの事です(なるほど~)。

最後にまた。東口ゲートにあるレストランで当時の食事を再現した定食を食べてきました(写真⑨)。古代米のおにぎりに有明海で採れた貝汁とムツゴロウの燻製です。特に燻製は珍味です(写真⑩)。2000年前からムツゴロウは有明海に生息していたのでしょうか? そして卑弥呼も、このムツゴロウを食べたのでしょうか? 私にとってはこちらも最大の謎です・・・🤔?
 

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Tokyobay

大坂の陣で家康が大砲を撃ち込んだ備前島から見える天守 (2024/01/14 訪問)

十数年ぶり2回目。大坂の陣で家康が大砲を撃ち込んだ備前島から天守がどのように見えるかを確認。距離約500mだが天守はくっきりと確認できる。厳密には豊臣の天守は徳川のものとは別物なんだが、それでもここから大砲撃って淀殿を脅かしたのかと思うと、感慨深いものがある。その他、石山本願寺跡や空襲で崩れた天守石垣や日本庭園から見える天守等々、前回訪問時には確認できなかったところを色々と確認。1回目と比べると城の見方もだいぶ成長したかなという感じ。

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にのまる

城友さんたちと3城めぐりの1 (2024/01/07 訪問)

6年ぶりの再訪です。
公園内に静態保存されている東武特急「きぬ」車内でしばし昭和にひたってから城址散策に繰り出しました。

新春の青空に映える八つ橋の朱色に目を奪われつつ、確かこのあたりに堀障子があったはず……と記憶をたどります。堀の中にある犬走りのような渡り板の上を歩いていると、嬉しい反面、見えない遺構を踏みつけているようで申しわけない気持ちになってしまいました。

深い堀の中を感動とともに歩き、鍛冶曲輪から住宅街に抜け出ました。
道路の両側に残る堀跡に歓喜し、ここが馬出なのかと確認しながら野球場へ。新曲輪の跡を生かして作られたのだろうなと思うと感慨深いものがあります。
裏門や黒門を鑑賞し終了としました。

大構えを実感しようと時の鐘や愛宕神社を目標にひたすら歩いた前回はかつての城域の広さや市街地化の現状を足で知りました。
今回は歩きは控えめでしたが、その分じっくりと観察し、楽しむことができました。
「きぬ」は公開曜日・時間が限られていますのでお気をつけください。

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朝田 辰兵衛

🌞のち🌥の優先順位2番目。 (2024/02/11 訪問)

中川城を優先順位2番目に選んだ理由は,トンネル出口の光が見えないと心もとないと判断したためです。グーグルマップを見ると,約150mあるし…。安全第一の選択をしました。
ということで,松田城を北西側に下山して,松田山入口バス停から,富士急湘南バスで中川橋バス停まで。1年前ににのまるさんが利用されたバスだと思います。この日は見事に「かながわ駅伝」とかち合いました。行きも帰りも約10分遅れ。玄倉バス停がタスキのリレーポイントにもなっており,ココでかなりの時間ロスとなりました。そして,このアトのスケジュールに大きく響きました…。

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しんちゃん

幸盛寺 山中鹿之介幸盛の墓所  鳥取市 (2019/05/02 訪問)

鳥取市鹿野町鹿野にある幸盛寺には鹿野城の城主である亀井茲矩の墓があります。そして茲矩の義理の父である山中鹿之介幸盛の墓もありました。なぜか坊主墓なんですね。
寺の名前も山中鹿之介幸盛からいただいており、茲矩さんが義父の菩提を弔うために当地に移転させたとされています。鹿野城の名前も鹿之介と似ていますね。

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しんちゃん

水堀と石垣が美しい (2019/05/02 訪問)

鹿野城は元は因幡の国人領主・鹿野氏の居城でしたが、天正8年(1580)羽柴秀吉の鳥取城攻めの際に尼子家の旧臣・亀井茲矩(これのり)が入り城代を務めました。関ヶ原の合戦の際には東軍に付き3万8千石に加増され、鹿野城を近世城郭として改装したとされています。
詰めの城の頂部の郭に天守台を頂き、下の郭には城山神社が鎮座しています。麓の鹿野中学校グラウンド部分が本丸とされ、北側の中学校周辺が二の丸(または出丸)とされ周囲を水堀が囲っています。麓の近世城郭の部分は石垣と水堀の景観が美しく春には桜が咲き誇るそうです。
さぞかし見ごたえがあるだろうと思いますが、やはり中学校の周辺なので寝っころがって花見で一杯というわけにはいかないのでしょうか?

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小城小次郎

規則正しい石の列 (2023/05/20 訪問)

山上部分の曲輪の中には柱状の石材が規則正しく並べられているのに気付く。正確な用途は誰かにご教示頂きたいが控え塀の柱の下部と見ておけばよいのだろうか。これだけ綺麗に残る例もあまり見ないような気がする。

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ぴーかる

岡豊城 (2024/01/06 訪問)

【続百名城66城目】
<駐車場他>高知県立民俗資料館駐車場
<交通手段>車

<見所>礎石建物跡・横堀・堀切・竪堀・石積み・馬出し
<感想>1泊2日高知城攻めの旅2城目。先に資料館1Fの案内所にてスタンプを押印することをお勧めします。岡豊城の遺構を巡るスタンプラリーを開催していて御城印か缶バッチの好きな方がもらえます。スタンプラリーのポイントを巡ると城跡をほぼ一巡りできますが、他に遊歩道から逸れて山道を進んだ主郭から真南にあたる場所に円形の馬出しがあります。深い空堀で取り巻き土橋や斜面に井戸跡も見られます。馬出しの主郭側に主郭から落ちてくる竪堀も大きく見応えあります。他には主要部北西側にある長大な横堀とその先にある2重堀切も見応えあります。城跡内は石積み遺構が多く残り、特に曲輪土塁の内側や帯曲輪の壁側に腰巻石垣となっている遺構が多く見られ城跡内を散策するのが楽しいです。主郭から南側に流れる国分川と土佐平野が望め眺望も良かった。

<満足度>★★☆

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しんちゃん

主郭の写真無しでのトンデモ投稿 (2024/02/23 訪問)

この日は朝から雨です。ヤホオの天気予報では曇りのはずだったのですがですが、またやられました。しょうがない、濡れながら行くか‥
福住城はこの地方では有力な豪族(国人)で筒井氏の一族である福住氏の城です。
福住順弘の子・定慶は弟・慶之とともに筒井順慶の養子になったとされ、同じ養子で順慶のあとを継いだ定次が家臣の讒言で改易になると(後に切腹)定慶は筒井氏を名乗り1万石で郡山城代に任じられました。大阪夏の陣の際に大野治房の軍2千の夜襲を受け、敵を大軍と見誤った定慶は郡山城から福住に逃げ延び、福住城に籠ったそうです。そして大阪城落城の2日後、敵前逃亡を恥じ自刃したとのことです。また、この定慶を福住順弘の孫・正次と同一視する資料もあるようです。
主郭の周囲には堀を巡らし、主郭の北側には土塁が残っています。周囲の堀は通路を兼ねていて、一部は竪堀とつながっています。主郭の南側に堀を挟んで出丸があり社が建っています。出丸の社の背後にも土塁が残っていました。ちなみに筒井城の写真がクラッシュした際に本丸周辺の写真がいっしょにクラッシュしてしましました。再訪も考えましたがメンドいので投稿してしまいます。
主郭の写真は、あさんやぴーかるさんの投稿を参考にしてください。(こいつ、いいかげんに‥)

※「しまいました」が「しましました」になってますね。なんか面白いので、このまま残しておきます。しましました‥しましましましました‥  失礼しましました。おおっ!日本語って面白い♪

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いのさん

琵琶湖の渇水 坂本城だけではなく、膳所城もこんなんでした (2023/12/14 訪問)

昨年の12月、琵琶湖渇水時に話題になる坂本城の帰り、5年ぶりに膳所城に寄りました。5年前は水面に頭だけ出ていたものが、渇水のため水位が下がり、全体が現れていました。

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小田原城 (2023/12/26 訪問)

日本百名城

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ぴーかる

桂浜 (2024/01/06 訪問)

【桂浜・浦戸台場跡】
<駐車場他>桂浜公園駐車場500円を利用しました。
<交通手段>車

<感想>1泊2日高知城攻めの旅。初めての高知県、高知に行くときには桂浜は絶対プランに入れようと思っていたので感無量です。偶然に発見した坂本龍馬像のある山の途中に浦戸台場跡がありました。説明板に土佐藩が1638年に外国船を監視する遠見番所が置かれ1808年に大筒を配備、1863年に本格的な台場を建造したとあります。説明板のある場所に石垣が少し残されており、弾薬の貯蔵庫だったようです。
 坂本龍馬像⇒本浜⇒龍王岬⇒アイスクリンを食べました。辰年(龍年)にふさわしい新年の訪問地になりました。

<グルメ>かつおのたたきが食べたかったので「くじらのいっぷく」<33.509603, 133.574550>に行きシラスとのハーフ丼ぶりをいただきました。「タタキ道場」という実演藁焼きのお店や土産売店もあります。かつおのたたきの味の概念が崩され、土佐のかつおのたたき以外食べれなくなります。美味い!

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徳島城 (2023/11/23 訪問)

日本百名城

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飯盛城 (2024/02/23 訪問)

続日本百名城

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しんちゃん

ホリえもん (2024/02/23 訪問)

筒井城は松永久秀のライバルで大河ドラマにも度々登場する筒井順慶の居城です。主郭はレンコン畑になっていて案内板や看板が建っています。城域の北端には光専寺が建っていて、その北側の細い道路には外堀の跡が残っています。
主郭の南側にある水路は内堀の名残のようですね。主要部や看板などの写真を撮り、周辺の堀跡も写真に撮ったのですが、データをパソコンにに移している最中にPCの電源が落ち、堀以外の写真が破損してしましました。この状態で破損するとリカバリーソフトも役に立たないようです。筒井城の写真データがクラッシュするのはこれで2度目で、自分は筒井城に呪われているのかな?と考えたりもしますが、面白くないので堀の写真だけでも投稿してしまいます。なんか自分の首を絞めただけのような気がしますが、その他の写真はぴーかるさんの投稿を参考にしてください。(人任せかよ‥)
筒井順慶は郡山城に移り、筒井城は廃城になりました。順慶さんは大和国の所領18万石持で亡くなりますが、養子の定次が跡を継ぎ伊賀上野に20万石で転封されます。定次さんもなかなかの人物だったようなのですが幕府とグルになった家臣・中坊秀祐に貶められ改易になってしまいます(伝承では)。その後、大阪冬の陣で大坂方への内通を疑われ嫡男とともに自害を命じられ、大名としての筒井氏は滅亡してしまいます。酷い話ですが、定次さんが徳川・豊臣のどちらに付くともはっきりしない立ち位置にいたこと、上野城が大阪城を護る立地に築かれていたこと、彼自身が敬虔なキリシタンであったことが改易の理由につながったようです。
徳川家はキリスト教を禁教にする機会を狙っていて、キリシタンに寛容になった豊臣側に付く可能性もあった筒井氏を排除したかったのではないでしょうか。

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芥川城 (2024/02/23 訪問)

続日本百名城

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山中城 (2023/12/26 訪問)

日本百名城

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八幡山城 (2024/01/28 訪問)

続日本百名城

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