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イタさん

女渕城 群馬県前橋市粕川町 (2024/02/28 訪問)

案内を大まかに読むと、築城時期など不明だが、戦国期には散見される。武田・上杉・北条に侵攻され城主は目まぐるしく変わるが、小田原攻めの際に落城している。

城址公園と二の丸に駐車場がある。前には幅広な水堀が目に入いる。本丸北東隅に説明板と城址標柱、女渕城・本丸跡の石碑が建つ。本丸を東に出ると、南北に細い曲輪になり、東は深い小川程度の川で区画している。北曲輪は民家で入口前に北曲輪の石碑が建つ。北に下る堀跡があり先で丁字に、堀底の数カ所に「ホタル生息中・保護区間」の立札があるが、現在水がなく、幼虫や餌のカワニナはいるのだろうか。堀底を西へ行き上に出ると西曲輪境の水堀で、北に魔住田ヶ淵があり水が落ち南に流れ、幅広な水堀になる。堀には橋が架かり西曲輪へ渡る。西曲輪も民家地はあるものの、周囲を堀が巡っている。二の丸の南に御霊神社の建つ三の丸がある。北に土塁が見られ、社殿裏(西)には堀が残っている。

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イタさん

毒島城(ぶすじま) 群馬県伊勢崎市赤堀今井町 (2024/02/28 訪問)

案内板の概略は、周囲は沼・湿地に囲まれ、主郛は東西150mの楕円形をしており、周囲に腰曲輪を設け、虎口は西南面一カ所になる。毒島城には大蛇にまつわる伝説があり、攻め手は石臼で毒をつくり沼に投げ入れ、大蛇を追い出し落城させた、と。

沼などは水田になっている。南から農道を北に行くと、いかにも虎口風な場所になり、案内板も立っている。主格に入るまでに二段の腰曲輪が見られる。主郛・南側の腰曲輪は畑になっている。東・西・北の腰曲輪は篠竹等が多く確認しなかった。主郛の西寄りにも虎口風なものがあり、こちらが案内板に載る西南面の唯一の虎口跡なのか。南の入口は農道から畑に通うためのものだろうか。

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イタさん

山崎城 埼玉県比企郡滑川町 (2024/02/27 訪問)

山田城の北600m程に花木園(梅林)があり、その一帯が山崎城跡になる。こちらには案内板等は見当たらず。下調べをせず、先人達の記録を参考にさせて戴くと、主郭となる部分があるようだが、梅林ではなく森になり、ロープが張られた先は篠竹が密生し、梅林から先は躊躇してしまった。梅林内には土塁・堀が各所に残り、長いものが多い。トイレ前は虎口を思わせる。公園南口・山田城から続く古鎌倉街道が通り、舗装された散策路の脇にある。

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イタさん

森林公園の片隅に存在 (2024/02/27 訪問)

郭内の説明板に、伝承だが築城年代は不明、忍の成田氏の被官、小高大和守親子及び贄(にえ)田摂津守等が入り、整えた思えわれる。小田原攻めの際に前田利家により落城したと伝わる、と載る。

広い国営森林公園の南口から見て、右斜め前方の小高い丘が城址になる。台地末端の狭い場所に横堀で囲み、土塁を巡らせただけのようだ。縄張図のように、郭内を土塁・堀で仕切った跡がある。郭内への入口は数ヶ所あるが、南東の丸太階段部は、本来の登城道なのか分からず。東に土橋風な箇所があり、堀外にも土塁らしき高さが見える。

方角が不明なため、画像などの方角は説明板の上が北として書いています。

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T-Shionoya

にっぽん城まつり 2024 (2024/03/02 訪問)

昨年から横浜が遠くなり、昨日は名古屋で開催された「にっぽん城まつり」へ。
1枚目写真右上の「田村淳」の御城印(?)は、「鬼滅の刃」の書体とのこと。

初めての「にっぽん城まつり」。
さすがに横浜と比べると東海エリア以外の色が薄く、半分から1/3くらいの規模の印象でしたが、先生方の講演を無料で聴ける点が嬉しいところ。
個人的なメインは、加藤先生の「家康が改修した三河の城」。
訪れたい三河の城の情報整理が進みました。
三浦先生の講演は初。三ノ丸石垣に続いて坂本城御天主の図が新発見?
は三浦先生が「麒麟がくる」用に書いたものでした。

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トク

坂本城と明智光秀「最期の30日」プレイバック

坂本城の石垣の話、ずいぶん盛り上っているようですね! 私も見に行きたかったな~。私が2年前に訪れた時は、水中に没していたので、今回見られた方々がうらやましいです。是非いつかまた見に行きたいと思っていますので、完全保存される事を願っています。坂本城から対岸の安土城は見えましたか? またお時間があれば、ぜひ坂本城から北西3kmの所にある西教寺にも足を延ばされて下さい。そこには坂本城から移築された門と、光秀と妻煕子(ひろこ)の墓があります。

2年前に私は、光秀の安土城での接待事件から自刃するまでの、最期の30日間を追って投稿させていただきました。その時の事を今回思い出しました。以下はそのダイジェストです。皆さんもこれを機に、もし坂本城から後の光秀の足跡をたどられたなら、その様子をぜひお聞かせ願えればうれしいです。私も気づかなかった皆様の新たな発見も期待しております😊。


【写真①】安土城での饗応膳(信長の館)
信長はどの魚が臭かったのか?
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【写真②】坂本城から見た安土城
光秀は毎晩ここから眺め、謀反への葛藤が・・・
  ↓
【写真③】丹波亀山城
我が敵は本能寺にあり!
  ↓
【写真④】本能寺
燃え落ちる本能寺、信長の首を探せ!
  ↓
【写真⑤】勝龍寺城
天下分目の天王山!
秀吉が迫る光秀の決戦前夜の心境は?
  ↓
【写真⑥】山崎古戦場(光秀本陣)
まさかの敗北!細川軍はなぜ来なかったのか
  ↓
【写真⑦】小栗栖の竹藪
落ち武者狩りに竹槍で、無念万事休す。
  ↓
【写真⑧】醍醐の胴塚
光秀自刃の地(もはやこれまで)
  ↓
【写真⑨⑩】西教寺
光秀と煕子の墓
西教寺にある麒麟


私は昨年から、光秀の孫たちが九州で活躍した場所(城)などを訪れている所です。機会があれば、関ケ原の26人の後に、これらもお伝えできればと思っていますので、その時はまたよろしくお願いします。
 

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しんちゃん

お城EXPO の戦利品 (2024/03/02 訪問)

恥ずかしながら、私もお城EXPO in 愛知に行ってまいりました。土曜日のコースに行ってきたのですが、間違ってウインクあいちの方に行ってしまい慌てて会場に向かった次第であります。
加藤先生の講演に少し遅れてしまいましたが(またか‥)、内容はほぼ把握できたと思います。久々に岩略寺城や日近城に行ってみたくなりました。家康公の改修した部分を良く確認してみたいですね。名古屋おもてなし武将隊の皆様、いつもにまして動きがキレッキレでございます。私も槍をクルクル回してみたい。でも自分の後頭部にぶつけるのがオチだと思いますが。
村井さんや三浦先生のお話も楽しく拝聴させていただきました。三浦先生、広島城天守再建応援しています。名古屋城‥(涙)
いい歳して無料でせしめた兜を合体させたりして遊んでいます。両手がふさがっているときは、これをかぶっているのですが気にしたら負けです(?)。あと、無料でいただいたものといえば田村淳さんのご城印ですね。会場内のクイズ5つに正解するといただけるんですが、おそらく非売品ですよね‥コレ? にっぽん城まつり2024来城記念って書いてあるし、やった!来た甲斐があった。
ちなみに会場の駐車場は当日上限なしで料金は2400円でした。会場の料金より高いじゃない!

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ろっし

お城探訪 (2024/02/24 訪問)

当時の物かは分かりませんが、石垣が加工しやすい石で作られているのが特徴❗
お城は現在持珠院と言うお寺かな❓️に変わっています。

堀切や曲輪もあるみたいですが確認できませんでした。

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しんちゃん

ラブリー石の世界 (2024/02/25 訪問)

先日、蒲郡市の名古屋城の石(採石跡)にかかわる投稿をさせていただきました。天下普請で築かれた巨城ですので、各大名ごとに石切り場の分担がなされていたようで、蒲郡周辺は毛利氏の担当になっていたようです。いずれも幡豆石と呼ばれる花崗閃緑岩やトーナル岩を使っているようです。アルカリ長石の多い順に花崗岩、花崗閃緑岩、トーナル岩となるようですが、日本で産出される花崗岩は、ほぼ花崗閃緑岩だそうでみんなひっくるめて花崗岩と呼ばれることが多いようです。正直見た目じゃ区別はつきづらいですね。誰か見分け方を教えていただけると助かります。
3連休(ほぼ雨でした)で和泉砂岩が使われている城郭を見に行ってきたのですが、和歌山城は面白かったですね。大手門から入っていって本丸下に至る周辺に異なる3種類の石が使用されていました。地元ボランティアの方に教えていただいたんですが、実に良くご存じなんですね。古い石垣、本丸や天守周辺の石垣は緑色片岩(紀州青石)が使われていて、中御門周辺やそこに至るまでの石垣には和泉砂岩が使われているようです。和泉砂岩を使った石垣の到達点の一つともいえる石垣(私見です)で、砂岩の切込接の石垣を見ることができます。花崗斑岩(ボランティアさんいわく)の切込接とうまいぐあいに接合している箇所もありますが、良く見ると砂岩は表面が剥離しているのでわかります。色合いもうまく合わせてあり、石垣積の妙技を堪能することができました。
ちなみに私の好きな岩は和泉砂岩です。正確には石垣として積まれている和泉砂岩が好きなんですね。なぜメジャーな花崗岩でないかというと、砂岩って崩れやすいんですよ。あっちこっち表面が剥離していたりします。元が白亜紀の砂なんだから仕方が無いのですが、正直あまり石垣に向いていないんですね。岩としてはひ弱なのに岸和田城や和歌山城みたいな大きな城をがんばって支えている姿がいじらしく感じます。
ロンブーの淳さんじゃないけど、ついつい労わってあげたくなるんですね。「大丈夫?」とか「無理しなくていいんだよ」とか声をかけたくなるんですが崩れてしまっては困るわけです。

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しろりん

名城松本城 (2023/10/16 訪問)

松本市のシンボルにしてランドマーク。国宝五城の一つです。松本城は戦うための城だということがよくわかります。天守五階、六階の階段は狭くて急勾配で対面通行なので、上るにしても下りるにしてもどうしても渋滞ができます。平日の月曜日で待ち時間ゼロで入れましたが、観光客も多く(インバウンドもメチャ多い)、天守上階は渋滞でした。それぞれの階にはたくさん火縄銃関連の展示があり、火縄銃の種類や発展の歴史がじっくりと学べます。耐震性の問題から乾小天守と塗替え中の月見櫓は見学不可でした。かなり昔に訪れた時は今の黒門からではなく、埋橋を渡って入城できました。今は埋橋も通行禁止になっています。松本市内にはあちこちに湧水井戸がありますが、お城のお堀の水も湧水です。

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ヒロケン

久しぶりの関東 (2024/03/02 訪問)

箕輪城は榛名山東南麓の丘陵上を中心に北東と南西の平坦地を含んだ戦国時代の平山城です。東西約500m、南北約1,100mにも及ぶ西上野の中核的な城郭です。北西から東南方向にのびる尾根上に主要な御前曲輪・本丸・二の丸・三の丸・郭馬出・木俣を配置し、各曲輪を最大幅約40m・深さ10mの堀を巡らせています。この城、最大の見所「これ本当に、人が掘ったの?」と思わせるほどの堀が随所に巡らされています。

築城されたのは、1500年頃に長野氏が築城し、4代にわたって長野氏の本拠としています。長野業政公は武田信玄公西上野侵攻に際し、最後まで抵抗しましたが1566年に敗れ、箕輪城は武田氏の城となり、その後は、織田氏、北条氏、徳川氏と主が変っています。
特に最後の城主徳川氏の井伊直政公は石高12万石で封じられ、8年間在城後に高崎に城を移して、箕輪城は廃城となっています。

10年振り2回目の訪問で、午前2時に豊橋を出発し8時30分頃箕輪城着(途中、高速道路事故渋滞の為、30分位ロス)往復12時間で、久しぶりの関東訪問の滞在時間は5時間"(-""-)"、この5時間で、箕輪城、平井城、平井金山城を攻略し、日帰りで帰宅する計画でした。
投稿日の3月3日、桃の節句で56歳の誕生日を迎えた自分には少々きつい計画でしたが、久しぶりの箕輪城を堪能し十分リフレッシュできました。
100名城のスタンプは高崎市美郷支所受付窓口と高崎市美郷公民館に設置されており、箕輪城のパンフレットもいただけます。一つ残念だったことは、本丸と蔵屋敷を結ぶ木橋を通行することが出来ませんでした。箕輪城環境整備の一環で、令和6年3月中旬まで通行止だそうです。10年前の訪問の際は、この木橋も郭馬出西虎口門も無かったので、楽しみにしていたのですが残念です。

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にっぽん城まつり2024 feat.出張!お城EXPO in 愛知 (2024/03/03 訪問)

 名古屋で開催されている「にっぽん城まつり2024 feat.出張!お城EXPO in 愛知」へ行って来ました。主に愛知県、岐阜県、三重県の城が中心でしたが多くのブースがあり情報収集をしてきました。
 日曜日ということもあると思いますが、多くの人が来場されていました。

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しろりん

焼失前と焼失直後、再建中 (2023/08/14 訪問)

首里城は日本の城の中で一番好きな城。沖縄を訪れる度に行ってます。首里城復興寄付が約55億円集まりました。城内では誰でも参加できるボランティアをする観光客の皆さんの姿があります。瓦の漆喰を剥がす作業、粉々になった瓦礫をさらに細かい粉末にすりつぶす作業などで、それらは再利用されたり、別製品に生まれ変わるそうです。2028年の復興を目指して現在復元作業が続けられていますが、令和の復元は名実ともに沖縄の象徴を取り戻すとともに、沖縄の枠を超えて世界遺産となった遺跡保護の意義も加わっています。

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カズサン

未踏だった見張台をやっと探訪 (2024/03/01 訪問)

 昨年5月25日2度目の登城時西の丸高天神社社務所辺りで見張台への道を探したのですが案内板、指示板も無くそのまま下城しましたがずうっと気に成っており冬枯れの時期にと思いやっと初探訪しました。

 駐車場:高天神城南口駐車場(34°41'50"N 138°02'14"E h=80m)小型車10台程可、トイレ有。

 ルートは追手口登城を進行、追手門跡、着到櫓跡、通行止めの本丸と二の丸分岐点、三の丸下、本丸下、的場曲輪下、搦手口登城路合流点踊り場、井戸曲輪の高天神社灯籠階段、井戸跡、西の丸高天神社階段下鳥居下の左手にある道を進んで社務所東下から細い尾根道を約100m程南へ、モチツツジの灌木が伸びてますがかき分けて進み、左右の崖は急峻落ち込んでおり怖い位、狭い平場の見張台、見張り台下は広く深い北堀切、解説書によると幅10m、深さ8mとある、覗き込むと恐怖心を感じる、見張り台南横からの降りる斜め道が有るが虎ロープも設置して無く、怖くて堀底探訪は断念、解説書によると更に南50m程の所に更に規模の大きい南堀切が有るらしい。
 取り敢えず見張台にはたどり着け北堀切も上から覗き良しとします。
 危険な個所で西の丸社務所辺り、高天神社鳥居辺りに案内板、指示板が無いのかなと、一般には危険不可で案内無しに成っているのかなと理解しました。
 約10か月ぶりに気掛かりだった見張台を探訪する事が出来ました。花粉症の私としては杉が多く植栽されてる高天神城は苦難行軍、花粉が舞ってぼんやりとし見張台付近は樹木で覆われています。

 追手口登城路を進行しましたので三の丸跡、追手門跡と着到櫓跡、追手登城路編を続きます。
 

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しろりん

最古の模擬天守 (2023/12/27 訪問)

洲本市の三熊山山頂にある城跡。石垣が国指定史跡ですが、天守はコンクリート製の模擬天守です。模擬天守としては最も古く、昭和3年に昭和天皇の即位を記念して展望台として建てられました。お城に似せた展望台として見れば問題ないのでしょうが(今は入れませんが、二股に空いた石垣の中から登ることができた)、天守台の上にさらに二股に空いた天守台がある形は模擬天守としてもこの姿には違和感があります。
また、城内は石垣も崩れているところが何箇所かあり、ブルーシートで覆われていました。確かにここから洲本市が一望できて見晴らしが素晴らしいです。桜がたくさん植えられているので花見の季節はさぞ綺麗だと思います。馬屋跡(月見台)の駐車場まで車で行けます。10台くらいは駐められます。

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しろりん

彦根城とひこにゃん (2023/06/04 訪問)

中学校3年生の時、遠足で初めて訪れました。皆で写生した時にじっくり見て綺麗なお城だな、と興味を持ちました。
唐破風が美しいです。一つの天守で破風が18個もあるのは全国でも珍しいです。また、天秤櫓の石垣は江戸時代の修復工事で石垣の積み方が半分が谷積み(落積み)になっており、築城当時のごぼう積みとの対比が面白いです。この日は休日ということもあって、ひこにゃんが来てました。

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しんちゃん

隠れ築城名人・明智光秀さん (2024/02/10 訪問)

POYO58さん、坂本城の石垣の保存の件、私もうれしい限りです。キンヤさん、イオさん、枡形ともきさん達 城びとの皆さんのみならず多くの城好きの情熱が伝わったものと思います。なんでも2000人もの人が来城されたとののこと、さすが明智光秀の城。大人気ですね。
大津市文化財保護課の岡田さんに、白くて美しい石垣が気になって尋ねたところ延暦寺でも同じような石が使われているとのことでした。
であれば、やはり白川石を使っているのだと思います。白川石は京都の北白川あたりで採取される黒雲母花崗岩とネットで調べると出てきますが、比叡山は白川石の岩山なんだそうです。比叡山の焼討後、信長が延暦寺の石垣を壊そうとしたところ、地元坂本の穴太衆の積んだ石垣は簡単には崩せず逆に賞賛したそうです。と‥すれば今回見つかった石垣は比叡山の石切り場で採取した石を穴太衆に運ばせ築かせたものかもしれません。(少し積み方が荒い気がするが、そう思いたい)
基本、石垣の石は現地調達で、石垣の採取・運搬・築造に長けた集団が地元にいるわけで、条件は整っていると思います。
安土城や坂本城以前から石垣の城はありますが、高い御術力を持った集団をシステム化して各地に普及させた信長、光秀の功績は大きいと思いますね。明智光秀の城は他にも黒井城、福地山城、周山城、丹波亀山城と続百名城や、それに匹敵する凄い城が幾つもあります。私の中では明智光秀の城と言えば坂本城なのですが、遺構に乏しく、いささか残念な思いではありました。
しかし、このたびの石垣の発見で、他の名城に引けを取らぬ箔がついた気がします。いずれは国の史跡になるかもしれません。
まさしく「やべーな!」という状況です。あえて他の言葉を使うとしたら「ブラボー!」ですよ!

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Tokyobay

大村益次郎と細川ガラシャ終焉の地 (2024/01/14 訪問)

大村益次郎って襲撃された京都で死亡したと思ってたが、大坂の病院まで運ばれてたなんて。しかも、適塾ルーツの病院ってのも何の因果なのか。終焉の地の碑としては物凄く立派なんだが、皇紀2600年事業ということで合点。ただし、像まで造っていたらどうなっていたか。靖国神社の像は無傷だが。
そこから西へ向かい、難波宮越しに大坂城を見るが、一等地での広大な更地に驚く。後から調べると軍の土地だったのが、遺跡発見でそのまま保存になったらしい。ということは明治以前は屋敷が建っていたということになるんだろうか。
そして玉造教会へ。教会内の撮影は個人使用ならOKとのこと。内部はさすがに荘厳な雰囲気。ガラシャと同等の扱いで右近の画と像もあるのが意外な発見。さらに西に進み、玉造神社で秀頼の像と阪神淡路大震災で損傷した鳥居を見学。こんなになってしまうんだということに驚き。
そこから東へ戻る途中で、玉造小学校の下校途中の少年少女たちと遭遇。天気はいいのになぜかみんな傘をさしているので「なんで傘さしてるの?」と尋ねたら、「風よけだよ~!」との返答。う~ん、その発想はなかった。関西人小学生恐るべし。これって関西ではスタンダード?。城下町散策では下校時の学生たちとの交流が結構あって、歴史探訪の面白味のひとつではある。
で、細川ガラシャ終焉の地へ。映画・ドラマでは定番的に描かれるシーンではあるが「ここだったのかあ」と思うと感慨深い。意外と大坂城に近い場所であるのもあらたな発見。

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朝田 辰兵衛

すでに🗻は🌥の中… (2024/02/11 訪問)

ここもひょっこりはん的な🗻を眺望できるスポットですが,すでに晴れのち曇りの天候は曇りにシフトしました。しかし,ここは🗻が見どころなスポットではなく,ステキな障子堀を堪能できる数少ない場所です。
🗻を眺望できる場所は,北郭張出となります。簡単に主郭を中心にY字の城域と考えると,茶臼郭(右上端),北郭張出(左上端),大庭郭張出(下端)とおぼえると宜しいかと思います。
そろそろ本来雨男の私のハレ運も,陰りが見えはじめました。
この後,箱根か湯河原か大雄山か…と目論んでいましたが,山北駅発の富士急湘南バスに20分間に合わず。JR御殿場線を26分待つハメになりました。結局,小田急線沿線を目指すことにしました…。

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ぴーかる

高知城 (2024/01/07 訪問)

【百名城68城目】
<駐車場他>高知公園駐車場(有料)に駐車しました。日・祝日なら高知城すべり山の北東面の道路脇が無料Pになります。左記駐車場、最大料金が無く、半日以上駐車していたら結構な値段(1300円代)になりました。長時間なら他を探された方がよいかと。
<交通手段>車

<見所>石垣・追手門・本丸内の建造物全て
<感想>1泊2日高知城攻めの旅5城目。追手門⇒杉の段から三の丸石垣を眺めつつ反時計に回り、南の県庁前の水堀を確認⇒御台所屋敷跡⇒鉄門跡から上の段へ⇒三の丸⇒三の丸から二の丸石垣を眺めつつ反時計に回り、水ノ手門跡⇒梅の段⇒本丸南東側下段⇒鉄門跡から二の丸跡内部へ⇒二の丸跡を一巡りして⇒詰門2Fを通り本丸・天守へ。
 やはり本丸は土塀を含めて全部の建造物が現存なのがすごい見応えで感動しました。現存の追手門も迫力ある見応えですが、定常は中に入れないのが残念。また石垣も一日中眺めていたい程の見応えでした。
 これにて百・続百名城の土佐国制覇の四国制覇、現存天守も残り弘前城のみとなりました、しかし大阪からだと片道1000㎞以上 (>_<) 遠いなあ。

<満足度>★★★★★

<観光・グルメ>日曜日でしたので高知城下で日曜市を巡り、いも天を食べました。昼食にまた鰹のたたきを食べようと、ひろめ市場に行きましたが大混雑、商店街にある「明神丸」帯屋町店の方が空いていました。

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