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健吾

出張先で朝一小田原城 (2023/05/16 訪問)

出張で神奈川にいき、朝時間がありましたので小田原城を訪問しました。

馬出門、銅門、常盤木門。
天守閣より少し手前あたりにサルがいます。
天守の高さは全国第7位
最上階には摩利支天が祀られています。
城主は稲葉氏と大久保氏
ここを本拠地としたのは小田原北条氏

総構(そうがまえ)といわれる堅固な守りを誇っていた小田原城であったが、豊臣秀吉軍の圧倒的な数に耐えきれず陥落した

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todo94

天気予報通り (2023/04/15 訪問)

ついつい、「いみじの」と言ってしまう私にとっては高レベルの難読地名、「いじみの」城、かなり昔から狙っていた城ですが、ついに攻略にこぎつけました。中学校に隣接する小山の頂上に立派な城址碑が建っていました。天気予報通り、雨が落ちてきましたが、サクッと攻城できる城で事なきを得ました。この日の城めぐりはこれにて終了。予約時刻にはかなり早くなってしまいますが、献血ルームばんだいゆとりろへと向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)7日目:松倉城 (2023/04/24 訪問)

高山城からの転戦です。シンボル広場(36.126489、137.231168)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、1579年(天正7年)頃に三木自綱によって築かれたとも、永禄年間(1558年〜1570年)に自綱の父良頼の頃に築かれたとも云われています。
三木氏は1411年(応永18年)京極高員の代官として三木正頼が益田郡竹原郷に下向したことに始まると云われています。四代三木直頼のときに益田郡の大半を横領して桜洞城を築いて居城としました。
五代良頼の時代になると大野郡へ進出して飛騨国司の姉小路家を滅ぼし、六代自綱のときには高原諏訪城主の江馬氏などを降して飛騨大半を平定しました。
1585年(天正13年)三木氏は秀吉と対立する越中の佐々成政と結んだことから、秀吉の命を受けた越前国大野城主金森長近の侵攻を受けました。
このとき自綱は広瀬城におり、松倉城には秀綱が籠城して金森軍と戦ったが内応者が現れ落城し、秀綱は城を脱して信濃へ逃れる途中に土民に襲われ死んだそうです。
三木氏の後に飛騨に入封した金森氏は高山城を居城として築き、松倉城は廃城となったと云われています。
現在残る主郭部の石垣などの遺構は、他の三木氏に関係する城から高石垣などの遺構が確認できないこともあり、金森氏など織豊系の武将によって改修されたものとも考えられているそうです。

城址に向かう途中に堀切がありますが、ほとんど埋まっています。
石垣が素晴らしいです。一部ブルーシートがかかっています。
北アルプスが見える眺望は絶景です。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=高堂城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)7日目:高山城 (2023/04/24 訪問)

高山陣屋からの転戦です。城山公園駐車場(36.139798、137.263359)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、永正年間(1504〜1521年)に高山外記によって築かれた天神山城が前身だそうです。高山氏は飛騨国守護京極氏の家臣で守護代をつとめた多賀出雲守の一族だそうです。
1558年(永禄元年)桜洞城主三木自綱と高堂城主広瀬宗城によって高山氏は滅ぼされると、自綱は叔父の三木久綱を天神山城主とし、1575年(天正7年)松倉城を築いて居城としました。
1585年(天正13年)三木自綱は越中の佐々成政と結んで羽柴秀吉と対立すると、羽柴秀吉の命によって越前国大野城主金森長近が飛騨国へ侵攻し、自綱は高堂城と広瀬城が落城すると降伏、最後に残った三木秀綱の籠る松倉城も落城して三木氏は没落しました。
飛騨へ入部した金森長近ははじめ鍋山城を居城としていたが、1588年(天正16年)天神山城を改修して高山城と改称し居城としました。
1692年(元禄5年)金森氏六代金森頼時は出羽国上山へ転封となり、以後飛騨国は江戸幕府直轄領となって高山陣屋によって治められ、高山城は廃城となりました。

現在は城山公園として整備されています。
高山城は山頂の本丸、北山腹に二ノ丸、北麓の護国神社の所が三ノ丸のようです。
本丸にある使者之間の石垣は復元されたものだそうで、本丸周辺には所々石垣が残っています。
二ノ丸は公園となっており金森長近像があります。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=松倉城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)7日目:高山陣屋 (2023/04/24 訪問)

桜洞城からの転戦です。プラザ陣屋駐車場(36.139162、137.257336)に駐車しました。

高山陣屋の前身は金森氏の下屋敷であったといわれています。
1692年(永禄5年)高山城主金森頼時は出羽国上山へ転封となり、飛騨は江戸幕府直轄領となりました。
関東郡代伊奈忠篤が飛騨代官の兼任を命ぜられ、1695年(永禄8年)金森氏の下屋敷を代官所と定めたのが高山陣屋の始まりとされています。
飛騨が幕府の天領となったことで、高山城は廃城となり、三の丸の米蔵等が高山陣屋へ移築され、これは今も現存しています。

全国で唯一現存している代官所で、古い町並みとともに飛騨を代表する観光名所です。
たくさんの観光客がいました。外国の方も多かったです。
高山陣屋内部の撮影もOKでした。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=高山城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)7日目:桜洞城 (2023/04/24 訪問)

萩原諏訪城からの転戦です。桜谷公園入口(35.881730、137.211201)から進入し、先にある駐車場に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、永正年間(1504年〜1521年)に三木直頼によって築かれたと云われています。一説には直頼の祖父久頼によって築かれたとも云われています。
三木氏は1411年(応永18年)姉小路尹綱の乱を鎮圧した功によって、京極高員(高数)が足利幕府より飛騨国竹原郷を得ると、三木正頼が京極氏の代官として竹原郷に入部したことにはじまります。
二代三木久頼の代に主家の没落に乗じて竹原郷を横領し、四代三木直頼は三木氏中興の祖といわれ、北飛騨の江馬氏や姉小路氏などと接触して三木氏の勢力を拡張します。
六代三木自綱の代に全盛を極め、1579年(天正7年)に松倉城を築城して居城を移すまでの間、三木家の居城でしたが、それ以後は松倉城の支城となって自綱の子信綱が城主となります。
なお、三木自綱は夏を松倉城、冬を桜洞城に居城とするようになり、それぞれ夏城、冬城と呼ばれたそうです。
1582年(天正10年)江馬輝盛が南飛騨へ侵攻すると、吉城郡荒城川で迎え撃ち大将江馬輝盛を討ち取って江馬氏の本城高原諏訪城を落とし、飛騨の大半を支配下に置きましたが、 信長死後、越中の佐々成政に与して羽柴秀吉と対立することとなります。
1585年(天正13年)羽柴秀吉の命によって飛騨に侵攻した越前国大野城主金森長近を自綱は高堂城、広瀬城で迎え撃ったが敗れ降伏しました。
自綱の次男秀綱の籠る松倉城も落城して三木氏は没落し、萩原諏訪城が築かれると桜洞城は廃城になりました。

桜谷公園にある地図(一番はじめの橋の近く)を確認すると桜洞城への道が書いてあり、そこの橋を渡って右側奥に階段があり、それを登って西へ進むと城址です。
現在高台の上は畑として開墾され、荒廃しています。
高台の西側に桜洞城の標柱が建ち、土塁・空堀・石積の遺構がわずかに確認できる程度です。
攻城時間は25分くらいでした。
次の攻城先=牛臥山城(城びと未登録 岐阜県高山市)、山下城居館(城びと未登録 岐阜県高山市)、飯山城(城びと未登録 岐阜県高山市)を経由して高山陣屋に向かう予定でしたが、予定時間の遅れにより、直接、高山陣屋に向かいます。

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赤い城

民家の前の石碑 (2023/05/19 訪問)

高槻駅から徒歩で10分ちょっと。
この日は高槻城から歩きました。
JTの大きな工場の前の道を進み、スイミングスクールのとなりの道に入ると皆さんの投稿にもある民家に。
綺麗に手入れされた植栽の中に石碑が立っていました。
前の道は堀跡かなぁ?なんて思いながら周辺を歩いてみましたがやはり遺構はなさそうです。
石碑だけですがあること自体が有り難いです。

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美夢

【かるた】和歌山城の読み札

和歌山城 御三家気分の ウエディング

和歌山城 ジューンブライド 手毬花


読み札のみの投稿です
城びとさんの記事を見て
お城で結婚式が出来るのは素敵だなぁ~と
憧れの気持ちで詠んでみました
続いて、鶴の渓の紫陽花の記事を見て
紫陽花→6月、ジューンブライド! と
丸くまとまった形がブーケのようだなと思い
季節を入れて詠んでみました

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小城小次郎

薮に隠れた正木氏の要害 (2023/01/03 訪問)

安房の山奥の薮に隠れた山之城は道案内なくして迷わず辿り着くのは至難なのだと実感した。古くは小田喜(大多喜)に拠点を移す前の正木氏の本拠地であったともされる由緒正しき要害だかいかんせん道がわからなさすぎる。

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にのまる

【かるた】徳島城の読み札

・阿波の青石 城山覆う 徳島城

・草陰に 舌石見つけた 徳島城

・牟岐線の 灯りに浮かぶ 徳島城

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にのまる

【かるた】萩城の読み札

・過ぎし時代(とき) 潮風はこぶ 萩城址

・山海の 珍味も満喫 萩城址

・水鏡 揺れる石垣  萩城址

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チェブ

本当は裏側も、、、。 (2023/05/06 訪問)

1237年、宇都宮家5代目の次男 頼業さんが横田を名乗り「横田城」を築きました。
「横田城」は五稜形だったようですが、戦に不向きと言う事で、「上三川城」を築き移りました。
子孫の宗孝さんは「横田城」を利用し帰農したそうです。

「横田城」は周辺の住宅地と児童公園でした。公園に石碑があります。
前に自転車が数台 停めてあり、石碑の写真を写したいと、伝えると移動してくれました。
人が写り込まないように、かがんでパチッ。
まさか、自分だけ写ってしまいましたヽ(´Д`;)
裏側に「横田城」の由来と系図もありますが、またしても自転車の移動が必要。もう、いいやと お礼を言って退陣です。

今でも、子孫の方が近くにお住まいのようです。
元気な子供達と、 見守る親御さん達が集合していた「横田城」でした。

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WEST

津城探訪 (2023/05/04 訪問)

津城を訪問しました。
近鉄津新駅を降りて徒歩10分程度で着きます。
最初に藤堂高虎を祭神とした高山神社を参拝しました。次に、天守台、藤堂高虎像を経て、戦後復興シンボルの三重隅櫓を見学しました。
見どころは石垣ですが、一部に城壁の切れ目が観察でき、是非見てみてください。

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WEST

松坂城探訪 (2023/05/04 訪問)

JR松阪駅(ICカードが使えず)から徒歩で訪問しました。所要時間は約10分です。
駅内の松阪駅観光情報センターで行き方案内図を入手するとスムーズに行けます。
途中、三井家発祥地(近くにライオン像あり)、旧長谷川治郎兵衛家に立ち寄るのも良いですよ。
見どころは、やはり石垣ですね。階段状に石垣がそびえ圧倒されます。
二の丸、隠居丸、本丸(下段、上段)と散策しながら、石垣を堪能できます。
なお、パンフレットは、本丸下の松阪市立歴史民俗資料館で入手しました。
近くには、本居宣長記念館、御城番屋敷があります。
帰りは近鉄を利用しましたが、ICカードが使用できました。

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WEST

大垣城探訪 (2023/05/03 訪問)

大垣城を訪問しました。
JR大垣駅から徒歩で約10分で着くことができます。アクセスし易いです。
現在の天守は戦後に再建された外観復元天守ですが、戦前は国宝に指定されていたようです。残念ですね。
天守の他、櫓も一部再建されており、コンパクトながらも見ごたえがあるかと思います。
天守訪問後は、外堀沿いを散策し、奥の細道むすびの地、住吉燈台と船町港跡にも足を延ばしました。

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WEST

小牧山城探訪 (2023/05/03 訪問)

徳川家康ブームで人気のある小牧山城を訪問しました。
名鉄小牧駅から歩いても行けるようですが、こまき巡回バス「こまくる」を利用しました。
料金は一日当たり大人200円で随分とお得です。(2023年5月時点)
ゴールデンウィーク中のこともあり、大勢の人がいました。比較的アクセスし易いお城であるかもしれません。
城内には、土塁、堀、石垣が残っており、楽しむことができました。
山頂の小牧市歴史館、麓の小牧山城史跡情報館では「小牧・長久手の戦い」等戦国時代の歴史をわかりやすく説明をしていますので、是非寄ってみたら良いと思います。
また、麓は広い史跡公園となっており、ピクニックがてら訪問するのも良いかもしれません。おすすめですね。

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WEST

美濃金山城探訪 (2023/05/02 訪問)

犬山城探訪に併せて、近隣にある美濃金山城を訪問しました。
名鉄明智駅(ICカードが使えません)にてYOAバスに乗り換え、城戸坂のバス停で降りて登城しました。
(電車・バスとも本数が少ないので、乗り換え案内等で行き返りの時間を検索して行ったほうがアクセスにスムーズです)
本丸跡には城戸坂バス停から、蘭丸広場、出丸、三の丸、二の丸をそれぞれ見学しながら徒歩で約40分程度で着きます。建物はありませんが、途中には石垣があります。
登城者は、犬山城とは打って変わって数組しかいませんでした。
帰りは搦手道から降りて、米蔵跡を見学しました。ここも石垣を見ることができます。
パンフレット・登城案内図は可児市観光交流館にあります。事前に入手してからの登城も良いかもしれません。

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todo94

城カード (2023/04/15 訪問)

スタンプラリーではなく城カード目的の攻城です。城に赴く前に白壁兵舎に立ち寄っていきましたが、白壁兵舎の二階から三匹の鯱を拝むことができました。城カードは安兵衛茶屋で売っていましたが、350円に値上げしていました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)7日目:萩原諏訪城 (2023/04/24 訪問)

宮地城からの転戦です。諏訪会館入口付近(35.873769、137.211438)に駐車し、諏訪神社入口(35.874270、137.211447)に向かいました。

1585年(天正13年)佐藤秀方によって築かれました。
1585年(天正13年)越前国大野城主金森長近は羽柴秀吉に命によって飛騨へ侵攻し、三木自綱を敗って飛騨を平定します。
これによって金森氏は飛騨を与えられ高山城を築城して居城とし、姉婿の佐藤秀方に命じて桜洞城を廃して諏訪城を築かせこの地方を治めさせました。
1615年(元和5年)元和の一国一城令によって廃城となりましたが、その後も「金森旅館」という名称の陣屋として存続します。
しかし、1692年(元禄5年)金森氏が出羽国上山へ転封となると破却されました。
その後、1709年(宝永6年)に諏訪神社が戻ってきて現在に至るようです。

城は現在の諏訪神社を本丸とし、南中学校付近を三の丸、その間に二の丸を配した平城です。
石垣、堀などが確認できます。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=桜洞城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)7日目:宮地城 (2023/04/24 訪問)

大洞城からの転戦です。登城口付近の空スペース(35.767350、137.292254)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、応永年間(1394年〜1428年)に三木正頼によって築かれたようです。
三木氏は1411年(応永18年)姉小路尹綱の乱を鎮圧した功によって、京極高員(高数)が足利幕府より飛騨国竹原郷を得ると、三木正頼が京極氏の代官として竹原郷に入部したことにはじまるようです。
三木氏は二代三木久頼の代に竹原郷を横領し、その後も勢力を拡大して三木自綱の時代には松倉城と桜洞城をそれぞれ夏と冬の居城として飛騨に君臨しました。
宮地城は三木氏が居城を移した後も一族が城主をつとめ、天正年間(1573年〜1592年)頃には三木良頼の弟三木頼一が城主でした。

大洞城から向かう途中、工事による通行止めや片側通行等で到着時間が遅れました。
外堀跡を過ぎ、内堀跡のある主郭に辿り着きます。現在、主郭には御嶽神社が奉られています。
攻城時間は30分くらいでした。
次の攻城先=下呂森城(城びと未登録 岐阜県下呂市)を経由して萩原諏訪城に向かう予定でしたが、到着時間の遅れにより、直接、萩原諏訪城に向かいます。

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