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WEST

上ノ国勝山館探訪 (2023/05/16 訪問)

上ノ国勝山館を訪問しました。
ます、勝山館跡ガイダンス施設に立ち寄りパンフレットを入手するとともに、模型やパネルにて概要を確認しました。
見学は散策おすすめコースに従い、夷王山山頂から勝山館跡中心部と回りました。幸い天気が良く山頂からの眺めは良かったです。
また、館跡中心部では、全面で下草がきれいに刈ってあり、よく整備されていました。歩き易いし、建物跡の様子が分かり易かっと思います。空堀跡等も復元されており、イメージが掴めました。
散策後は、麓の旧笹浪家住宅、上之國八幡宮、上國寺に立ち寄りました。旧笹浪家住宅に付属する建物で円空仏を見ることができました。時間があれば見学することをお勧めします。

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WEST

松前城(福山城)探訪 (2023/05/16 訪問)

5月の北海道お城探訪の最初に松前城を訪れました。
既に桜の季節が終わり、来訪者も少ないのでしょう。その分、ゆっくりと見学ができました。
天守は戦争で焼失してしまいましたが、それまでは国宝に指定されていたとのこと 残念ですね。
しかし、今の天守は戦後の復元天守ですが、本丸御門と並ぶと絵になると思います。
城内には唯一建物が残る表御殿の玄関があります。木の陰で気づきにくいですので、もう少しスポットライトを当たると良いですね。
別名「福山城」とのこと 散策中に城碑を見つけました。
お城の後は、松前神社、松前藩屋敷を訪問し、松前を後にしました。

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モト

住宅の横にある城跡の碑に目がハート (2023/01/29 訪問)

住宅の横に城跡の碑が建っておりました。
周辺の公園に土塁などが僅かに残っています。
冒頭の碑ですが、結構な勾配のある丘の上にあります。
徒歩で向かったのですが坂は登るのになかなか疲れました。
碑は住宅の敷地という感じの所にひっそりと建っているのですが、自分の家にこんな碑が建っていたらと考えると、城好きとしては羨ましいなと思ってしまう私でした。

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美夢

【かるた】二条城の読み札

二の丸の 豪華絢爛 二条城

「時代」という 大きな転換 二条城


読み札のみの投稿です
寛永から現存する二の丸御殿と
大政奉還という時代の転換を詠んでみました

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)7日目:百足城(城びと未登録 岐阜県飛騨市) (2023/04/24 訪問)

古川城からの転戦です。高野公園入口(36.230442、137.179432)に路駐しました。

詳細は不明のようですが、谷を挟んで南方に古川城があり、その北方を守る出城と考えられているようです。
姉小路高綱の隠居城とも云われています。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りはここがラストで宿泊先のホテルに向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)7日目:古川城 (2023/04/24 訪問)

広瀬城からの転戦です。県道路肩(36.223366、137.185788)に路駐し、登城口(36.222565、137.183540)に向かいました。

築城年代は定かではないようです。
応永年間(1394年~1428年)末期に藤原師言が築いたとの伝承もあるようですが、天文年間(1532~1555年)に古川二郎による築城とも云われます。
1564年(永禄7年)に武田家重臣山県昌景から逃れた上杉家家臣・塩屋秋貞が入りました。
しかし、秋貞は謙信死後に織田信長に仕え、信長死後の1583年(天正11年)に討死しました。その後は一時三木氏の勢力にありました。
1585年(天正13年)第二代金森家当主金森可重は、養父である金森家初代金森長近と共に飛騨平定戦で活躍し、戦国大名姉小路(三木)氏を滅ぼすと古川城に入ります。
1586年(天正14年)に宮川対岸の平城である増島城が完成すると、可重は古川城から移って城主となったため、古川城は廃城となりました。
この城は「蛤城(はまぐりじょう)」とも呼ばれていますが、これは飛騨へ入国した金森氏がこの城へきたとき、城内に蛤石があったため、以後蛤城と呼ばれるようになったそうです。

主郭は西端が一段高くなっています。主郭の東西に曲輪があり、南側には帯曲輪があります。
主郭の西面と東側から登る虎口付近に石積みの残石があります。
蛤城の由来となった蛤石は三郭に存在し、ちょうどそこに標柱も立っています。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=百足城(城びと未登録 岐阜県飛騨市)に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)7日目:広瀬城 (2023/04/24 訪問)

広瀬氏居館(城びと未登録 岐阜県高山市)からの転戦です。文化財保護センター飛騨駐在事務所(36.201915、137.217233)を左折し200m行くとフェンス手前のカーブに駐車可能です。

築城年代は定かではないようですが、広瀬氏によって築かれたと云われています。 広瀬氏の家臣田中与左衛門が城主であったそうです。
広瀬氏ははじめ三木氏に協力していましたが、後に武田氏に通じて三木氏と対立するようになりました。
1582年(天正10年)武田氏が織田信長によって滅ぼされると、翌1583年(天正11年)三木自綱が広瀬氏を攻め高堂城と広瀬城は落城し、城主広瀬宗城は討死しました。
広瀬宗城の子で広瀬兵庫頭宗直は、飛騨を脱して越前国大野城主の金森長近の元に身を寄せました。
その後、三木自綱は家督を二男秀綱に譲り、隠居して高堂城と広瀬城を居城としました。 この三木自綱の時代に城は大きく改修されたそうです。
1585年(天正13年)羽柴秀吉の命により金森長近が飛騨へ侵攻するとその先導役として活躍し、高堂城・広瀬城に籠もった三木自綱を降伏させています。

広瀬氏の居城高堂城とは尾根続きに位置します。(中間あたりに城びと未登録の寺洞砦があります)
本丸から堀切を越えて西へ向かうと三の丸になります。 三の丸周辺で畝掘り見れます。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=古川城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)7日目:広瀬氏居館(城びと未登録 岐阜県高山市) (2023/04/24 訪問)

高堂城からの転戦です。城碑前(36.192202、137.207749)に路駐しました。

高堂城を詰城とした広瀬氏の居館です。

辺りは宅地や田畑となっていて遺構らしきものはなく、石碑があるだけです。
一応ここからも高堂城に登れます。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=広瀬城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)7日目:高堂城 (2023/04/24 訪問)

松倉城からの転戦です。城碑説明板前(36.195048、137.212278)から林道へ、ゲートを開けて進んで、林道終点に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、天文年間(1532年〜1555年)に広瀬左近将監利治によって築かれたとも云われますが、それ以前の寛正3年(1462年)頃とも考えられていまする。
広瀬氏累代の居城であったが、1583年(天正11年)広瀬山城守宗城のとき、三木自綱によって攻められ落城、宗城は討死しました。
広瀬宗城の子で広瀬兵庫頭宗直は、飛騨を脱して越前国大野城主の金森長近の元に身を寄せました。
その後、三木自綱は家督を二男秀綱に譲り、隠居して高堂城と広瀬城を居城としました。 この三木自綱の時代に城は大きく改修されたそうです。
1585年(天正13年)羽柴秀吉の命により金森長近が飛騨へ侵攻するとその先導役として活躍し、高堂城・広瀬城に籠もった三木自綱を降伏させ、その後、高堂城も廃城となったようです。

麓の公民館左の城碑・説明板前から主郭まで約2Kmくらいだと思います。
距離はありますが「馬止場」から主郭までの最後200mを除いて比較的歩き易いです。
主郭は山頂にあり、主郭部付近には土塁や堀切などはありませんが、高い切岸はあります。
麓の外気温9℃でしたが、山頂の主郭は風があり、体感で5~6℃。とにかく寒かった。
攻城時間は80分くらいでした。次の攻城先=広瀬氏居館(城びと未登録 岐阜県高山市)に向かいます。

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赤い城

茨木小学校 (2023/05/19 訪問)

帰りの新幹線まで少し時間があったので高槻から茨木に移動。
阪急茨木市駅から徒歩で10分くらい、住宅地の中にある茨木小学校が城跡です。
小学校には模擬門があり、その後ろ側に石碑があるはず。
明らかに不審者の挙動、中を覗くと職員の方?がいらしたので声を掛けて入れてもらいました。
「城好きの人は門は見向きもせず石碑の写真を撮りに来るね」と快く。
無事に石碑の写真を撮り、移築搦手門のある茨木神社へ向かいました。
移築門の他、この神社の石垣には城の石垣が移築されたものもあるのだとか。
後で知りました。

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にのまる

【かるた】高松城の読み札

・内堀に おさかなスイスイ 高松城

・天守台 唐造待つ 高松城

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にのまる

この城とこの地の歴史を伝えたいと願う方々の思いが伝わってきます。 (2023/04/08 訪問)

18きっぷ最後の一日は中央本線で長野へ。
久しぶりに降り立った茅野駅は……寒い(*_*)
諏訪大社上社前宮までは徒歩約30分。
道標をいくつも設置してくださっているので迷うことも不安になることもなく山登り。(そんなに高くないです。)
登りきると空堀の左手に三郭・四郭。右手に二郭・一郭。それだけでなく、帯郭がいくつも巡っていて、美しいとさえ思ってしまいました。

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カズサン

新緑に浮かぶ掛川城とカサブランカ (2023/05/24 訪問)

 天守閣がリニューアルオープンする前に、掛川桜の時期、染井吉野桜の時期には桜と土佐漆喰新たになった天守閣は遠くより眺めていたのですがリニューアルオープン前で天守閣には登閣出来ていませんでしたので雨上がり晴天の本日、掛川城に出かけました。
 駐車場は大手門駐車場(有料)を利用。

 大手門を潜って大手橋から天守閣を眺めると新緑に浮かぶように復元天守閣、現存太鼓櫓、復元四足門が輝いて居る、外堀代わりの逆川の土手法面には百合の仲間「カサブランカ」が植栽されてちらほら咲き、6月1日から「ゆり祭り」が開催される様です、少し時期は早すぎましたが咲いてるものも有り、写真投稿致します。
 天守閣登閣前の情景です。

 

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なお

山城の特徴がてんこ盛りです。 (2023/05/12 訪問)

畝状竪堀群、空堀、土塁、堀切・・・と山城の特徴が
てんこ盛りの城でした。
本丸近くは急勾配なので、きちんとした靴で行くのがベストです。

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ryu

築山跡探訪 (2023/05/20 訪問)

午前中に高嶺城、山口城訪城後、訪問。西側に土塁が残る。

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ryu

大内氏館跡探訪 (2023/05/20 訪問)

午前中に鴻ノ峰に登り、高嶺城を探訪した後、昼食後、訪問。
大内氏館跡の龍福寺に参拝、資料館を拝観する。境内もきれいで、大内氏館跡も土塁、庭園などよく復元整備されているが、土曜日というのに観光客は少なかった。

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ryu

高嶺城から山口城へ (2023/05/20 訪問)

高嶺城から下山後、訪城。旧山口藩庁門の背後に高嶺城がある鴻ノ峰がそびえている。

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なお

観桜会の夜桜 (2023/04/03 訪問)

夜の高田城は初めてでしたが、夜桜と高田城三重櫓の風景を眺めながら
散歩するのは最高でした。

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ryu

高嶺城(鴻ノ峰)に登る (2023/05/20 訪問)

JR山口駅前でレンタサイクルを借り、山口市歴史民俗資料館に立ち寄り、資料をもらう。資料館の方は山口大神宮からの登山道は分かりづらくイノシシも出るからと木戸神社から車道伝いのコースを勧められたが、当初計画どおり山口大神宮から登る。
急な登りだが、テープを頼りにメインの踏み跡をたどれば迷うことはない。
電波塔までの急登の後は、尾根伝いに主郭のある山頂まで曲輪跡や石垣が連続して見応えがある。

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ぴーかる

直登してしまったばっかりに‥‥ (2023/04/08 訪問)

【与谷城】
<駐車場他>駐車場はなし。赤い橋を渡った左手<34.685981, 132.492369>に駐車した方が良い。
<交通手段>車

<見所>堀切・眺望
<感想>第2弾安芸高田・北広島の山城攻めの旅5城目。初投稿いただきます。与谷城の築城は定かではありませんが、現地説明板を要約すると、1336年毛利元就の祖毛利親衡が反足利の旗をこの城にて挙げ、1350年寺原時規はこの城に拠り吉野朝(南朝)に味方した。1532年からは吉川氏の家臣粟屋氏が3代続いて3代目の1600年栗屋元信の時移封とされています。
 今年の第1弾の2月に来た時には途中まで進みましたが雪がすごくて断念しました。今回は登城は出来ましたので初投稿詳細に、といきたいところですが、タイトル通り直登したので登城路を通っていません。一応途中まで案内を。上記ポイントの赤い橋の脇に城跡の説明板があります。個人サイトの方に車で行ける所まで行けるように掲載されていますが現在は道は途中で悪路になっているので上記の場所に駐車した方が良いです。赤い橋から進むと分かれ道はありますが道なりにずっと直進していくと川を右手にして進むようになります。倒木があったりしてかなり進みにくいです。丸太橋がある場所の右手の山頂が主郭になります。私はこの場所から直登して主郭に一騎攻めしました。登城路は丸太橋から更に川を遡って十二段滝まで行って過ぎたあたりに方向の案内版があるようです。登城路はどんな感じになっているかは分かりません。
 城跡はなかなか荒れていて入り込めない曲輪があったりして明瞭ではありません。最南に主郭があり三方が超急斜面になっています。大堀切があり北方向に尾根曲輪が伸びています。主郭から東方向にだけ眺望がひらけている箇所があり絶景です。城跡説明板には色々な遺構曲輪が書かれてありましたがよく分かりませんでした。
 ここから直登話で、とりあえずこの直登は禁止で。直登してしまったばっかりに、登りは這いつくばって、降りはほぼ尻もちと転がりながらなんとか降りれた状態でした。カメラは一部壊れるわ、ストックの石突ゴムはなくなるわ、ズボンは泥だらけになるわでえらい目にあいました。いい事が1つだけ。斜面の中間に巨石がバランスよく落ちそうで落ちない状態のを発見できました。

<満足度>◆◆◇

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