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じゅんじん

辛垣山 (2024/02/17 訪問)

枡形山城経由でいきました。主郭部分は削り取られていますが雰囲気は伝わります。

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しんちゃん

関ヶ原古戦場 大谷吉継陣・大谷吉継墓 (2024/04/14 訪問)

関ヶ原古戦場の大谷吉継陣は若宮八幡社の北側の丘陵上に築かれていたとされており、その北側の丘陵上に藤堂家によって建立されたとされる大谷吉継の墓があります。その傍らには吉継を介錯した湯浅五助隆貞の墓もあり、新しい花が添えられています。
陣所の東の道路わきに藤川台の案内板があり、そこから大谷吉継の墓に行くことが出来ます。道中は広い平地が広がり、北側の一段下がった丘陵もかなりの広さがあり、大部隊を駐留することが可能だと感じました。
大谷吉継らの墓に参拝したあとは南の陣所には向かわず、北の尾根上を目指します。白峰氏の説に石田方の主力諸将の陣が山中の陣にあったと呉座氏の著書にもあるので確認をしたかったのです。山中とは「さんちゅう」ではなく「やまなか」村、もしくは山中という地名を指すようで尾根上に何らかの遺構が有るのではないかと考えました。

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ぴーかる

尼子十砦4城目 (2024/02/23 訪問)

【安田要害山城】
<駐車場他>西南にある長台寺前に10台程駐車できます。登城口になります。
<交通手段>車

<感想>1泊2日尼子十砦の旅4城目。初投稿いただきます(久々!(≧▽≦))。登城口である長台寺が城跡のサポートをしています。本殿の左手から登山道が伸びており、かつての大手道だったようです。
 現地説明板によると安田要害山城は出雲側では「安田要害」、伯耆側では「新山要害」と呼ばれていたそうです。古代は祭祀の場であり、城ができる前から狼煙場でもあったといわれています。戦国時代、尼子経久の家臣、安井光照が出雲伯耆の国境警備のために城塞を築きました。その後、福山源五郎が城主のとき、1565年毛利勢の杉原盛重によって攻められ落城しました。
 上記登山口から北東方向にほぼ真っすぐ約1200m登って行きます。登山道は道があるので迷う事はありません。かつて、登山口の長台寺が500m程奥にあったそうで、登城途中に鐘突堂跡の坊跡があります。また登城途中には武者溜まり・八幡成の曲輪・太平成の曲輪や堡塁・七曲という道をジグザグにして通りにくくしたりしている遺構があり、登山が結構楽しめます。主要部は木々が伐採整備されています。広い主郭に小さな曲輪が数段、連段となっています。眺望がほぼ全方位見えて絶景と思いますが、ちょうど主郭に着いた時に霰が降ってきて視界が悪かったです。主郭から北東方向に整備道があり北東側の麓からも登れそうでしたが、遺構のある長台寺から登山を楽しむのが良いでしょう。

<満足度>◆◆◇

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朝田 辰兵衛

雨男ぶり健在です…☂ (2024/02/25 訪問)

雨男ぶり健在です。朝は小雨でしたが,だんだん本降りとなりました…☂
駅近の平場物件ということで,ここに流れ着きました。

CFですが,残り日数とこの伸びでは,かなり雲行きが怪しい気配がしています。スタッフに新たなPR策を期待します。

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城好きのメガネ

「伊予西条陣屋」 (2024/04/06 訪問)

<オススメ>★★★★★
伊予西条藩陣屋は、一柳氏が3代30年治めた後に、徳川御三家の紀州より松平頼純(徳川頼宣の次男・8代将軍吉宗の叔父・徳川家光や徳川光圀の従弟)が入り、幕末まで松平氏が治めた。現在、曲輪、石垣、土塁、横堀、大手門など遺構が点在している。

<アクセス>
JR伊予西条駅 徒歩30分

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城好きのメガネ

「多度津陣屋」 (2024/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
多度津陣屋は、江戸時代に丸亀藩の後見人・京極高通が立藩した。幕末には新政府軍に属した。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
JR多度津駅 徒歩10分

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城好きのメガネ

「毛呂氏館」 (2024/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
毛呂氏館は、源頼朝からの信任も厚かった毛呂季光が築いたとされる。戦国時代には、後北条氏の傘下に入る。小田原征伐では八王子城に入り、一族の多くが討ち死にし、毛呂氏は滅亡した。現在、土塁等が遺されている。

<アクセス>
JR毛呂駅 徒歩25分

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城好きのメガネ

「勝山城」 (2024/04/06 訪問)

<オススメ>★★★★★
勝山城は戦国時代に当地を治めていた小山田氏の詰城として築かれた。武田氏が滅亡した後は後北条氏や浅野氏(豊臣家)などが改修する。交通の要衝であったため浅野氏時代に大規模に改修された。江戸時代には秋元氏が麓に陣屋を築いた。現在、土塁、曲輪等が遺されている。

<アクセス>
富士急行線 谷村町駅 徒歩25分

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城好きのメガネ

「谷村陣屋」 (2024/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
谷村城は戦国時代に当地を治めた小山田氏が築いたとされる。武田氏が滅亡した後は後北条氏や浅野家(豊臣家)などが改修する。江戸時代には鳥居氏、秋元氏など徳川譜代が治める。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
富士急行線 谷村町駅 徒歩 10分

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城好きのメガネ

「久留里城」 (2024/04/06 訪問)

<オススメ>★★★★★
久留里城は、上総武田氏の武田信長によって築かれたとされる。以後真里谷氏が代々支配する。戦国時代には安房の里見氏が真里谷氏を滅ぼし、里見氏の拠点となる。小田原征伐まで後北条氏の最前線として改修が繰り返された。江戸時代には里見氏の転封に伴い、大須賀家、土屋家を経て譜代大名・黒田家が幕末まで治める。戊辰戦争では新政府側に属する。廃藩置県に伴い廃城となる。現在、曲輪、土塁、堀切などが遺されている。

<アクセス>
JR久留里駅 徒歩25分

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私も行って参りました (2024/04/20 訪問)

佐味城の少し北の櫛羅陣屋まで訪問してましたが、「佐味城は、入口が分かりにくい、藪が酷い」との情報に、行くのをためらっておりました。2月半ばからの短期間の城びと猛者たちの活躍を踏まえ、私も行って参りました。感謝、感謝です。
道の曲がり具合、池の配置から、登り口の当たりがつきました。投稿にあるログハウス様の建物、墓石様の石碑をすぐに発見。向かいのフェンスの四ヶ所の針金止めも認知。フェンスのすぐ内側の密集アオキは道幅になぎ倒されてました。道には真新しいクローラー(キャタピラー)跡も。城域まで道はしっかりありました。佐味城の特異な遺構を見つつ、主郭まで到達。北は、小川が侵食した崖。西は尾根を断ち切る堀切+土橋。東は、急斜面と切岸。緩斜面の南側は、どう処理しているのか見に行くと、土木量が大きな、横堀+土塁+横堀。良いなあ。
城は、金剛山の中腹とまではいかないですが、御所市、五條市からかなり高い所にあります。御所と五條を繋ぐ狭い平野を見下ろす位置でもあります。山岳寺院でも街道を押さえる城でも有用かと思います。

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城好きのメガネ

「長島高城」 (2024/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
長島高城は、築城時期等は不明だが、後北条氏の支配下にあったとされる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
東京メトロ東西線 葛西駅 徒歩25分

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しんちゃん

あの頃の君は白かった (2017/05/16 訪問)

今日はわけありリモートDAYです。昼休みの時間を使って投稿させていただきます。土曜日に久しぶりに姫路城に行ってきました。実に7年ぶりの訪問です。前回訪問した際は2017年の5月ごろで、ちょうど平成の大修理が終わって白漆喰も塗りあがったばっかりの時でした。
外観だけなら、ほぼ新築同前です。大天守だけね。
最新の写真の投稿の前に2017年の写真を投稿させていただきたいと思います。大天守だけ異様に白いですね。「白すぎ城」と言われていたころの姿です。いまでは白漆喰もすっかり黒ずんできてますが、このころはこんなに白かったんですよ。見てるだけで不思議な気分になってきます。老人会の集団がこの城を見て走り出した時は、何が起こっているのかと焦りましたね。お年寄りの集団が走り出すくらい、白くてキラキラしてましたね。

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刑部

城と桜 2024 (2024/04/15 訪問)

住宅地の中の公園ですが遺構がしっかり遺り桜がとても綺麗でした! 穴場的存在。

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赤い城

香西氏の詰城 (2024/04/14 訪問)

県道33号線に小さな案内板があり、そこから登って行きます、が途中から農作業用の細い道となり軽自動車もしくはコンパクトカーでないと厳しそうです。
ただ駐車スペースはあります。

登城路は保存会の方により整備されていて急峻ながらも歩きやすいです。感謝。
登っていくと猫の額と呼ばれる削平地に、さらに猫の背と案内板がある尾根道を経て急な坂を登ります。

登るとすぐに虎口が見え、その上が主郭部分です。
虎口の先には浅いながらも折れのある堀底道。
正面には方形曲輪が並んでいます。
これの役割は不明だそうです。

主郭は広く、まだ桜も残っていました。
ちょうど保存会の方が整備作業をされていました。
この方、お話好きなようで丁寧に説明、案内もして頂けました。
香西氏の歴史などもお話頂き勉強になります。
主郭には市指定遺跡の碑がありますが国指定になったので近々立て替えられるとのこと、レアです!

主郭東側の虎口から出て方形曲輪、石積を見学しながら北側にある竪土塁へ。
讃岐では珍しい遺構でしかも巨石で補強されたものです。

さらに北側には曲輪が並んでいて先端部からの眺望は良く屋島や高松市内を一望できます。

満足したので下山、と思っていたら先ほどの保存会の方がいらっしゃって西側帯曲輪にある石列も案内して頂けました。
この下の方にも遺構があるようで今後整備したい、とのことでした。

本当に満足したので主郭の喰い違い虎口を最後に見学して下山しました。

保存会のはほぼボランティアで高齢者がほとんどとのこと。
最近は色々な城で整備が進んでいますが、当たり前のことと思わず感謝しながら攻めないと、ですね。
行政も予算を検討してほしいです。

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todo94

近江の城めぐり⑩ (2024/03/09 訪問)

この日最後の攻城です。お城EXPOでリーフレットをいただいていたのでかなり期待を持って登城しました。住宅街の中の細い道を上っていかなくてはならないのですが、丁寧に行き先表示が掲げられていて迷う心配はありません。この城は地元の皆さんに愛されていて大切にされているんだなあと感じました。枡形の石垣など、期待以上の素晴らしい城でした。2024年初攻城の城、ベスト3に入ると思います。すべての郭をめぐって眺望も楽しんだ後の下城は落ちそうで落ちないという八丈岩を経由。炭治郎が割った岩とやらも見てくることができました。この日の泊は三雲にとりました。

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しんちゃん

城主は牛久藩の初代藩主 (2024/03/10 訪問)

大野城は蟹江城の支城で、小牧・長久手の戦いの時の城主は後の常陸国・牛久藩の初代城主山口重政公です。城址には立派な城址碑が立ち、案内板が設置されています。重政公は母を人質に取られながらも羽柴方に与せず敵を撃破したと案内板にはありますが。オカンはどうなったんだろう?
その後、大久保忠隣の養女と嫡男が勝手に縁組した咎で改易になりますが、大阪夏の陣での一族の奮戦により再び牛久・1万5千石に復帰したとのことです。この戦いで次男(長男?)・重信は木村重成に討ち取られ、弟の重克も戦死したとありますが、重成の子孫は牛久藩に召し抱えられたとされる伝説があるそうです(小川氏に改姓)。
池田輝政の件も有りますが、身内を討ち取った相手を疎かにしないことが供養につながるのかもしれません。

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しんちゃん

鳴海城を囲む三砦の一つ。 (2024/03/09 訪問)

中島砦は織田信長が今川方の鳴海城を囲むように築いた三つの砦の一つで、主将は梶川高秀が務めたとされています。扇川と手越川の合流地点の先端に築かれていて個人宅の庭の中に石碑が有りますが、所有者のご厚意で鍵がかかっておらず、見学することができました。
ありがとうございました。(ペコリ)

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まにまに

桜田門周辺 (2024/04/21 訪問)

近くまで行ったので、ぶらぶらと時間つぶしを兼ねて桜田門付近を散歩してきた。

高層ビルと濠・石垣が同時に見られる風景は江戸城ならではかも。
二重橋という洋風構造物と純和風の櫓が同時に見られるのもここしか無い。
更には“はつり”が施されていたり、切込接の乱積という豪華な造りの石垣をしげしげと見る。
桜田門の桝形は高麗門と櫓門以外が多門櫓ではなく濠になってるところが不思議。が、濠の向こうに腰巻石垣と鉢巻石垣があって、その上から攻撃出来るのかな。

桜田門を出るとそこから国会議事堂が見える。江戸の政治の中心と現代の政治の中心は意外と近い。

何気なく通る道の横に土塁があったりとよくよく見れば基本的な城の構造は今でも残ってる。

楠木正成の銅像があったが、何故彼を選んでここに銅像を建てたのか理由がよくわからない。住友家が所有する銅山を記念して作ったらしいが。

あまりに巨大な城域なのでとても散歩気分では回りきれない。またゆっくりと見に来られるといいなぁ。

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刑部

城と桜 2024 (2024/04/15 訪問)

桜咲く時期に一度は来たいと思って念願かないました! さすが桜の日本三大名所でした、そしてソースかつ丼! 少食なので小さめのかつ丼にしました。

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