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朝田 辰兵衛

あさん,正解です👍 (2024/03/30 訪問)

あさん,瞬殺ありがとうございます!
ご指摘のとおり,土塁と堀で固め,眺望の良い城です。残念ながら,戊辰戦争で自焼しています。
私の攻城時は,西側の三日月堀エリアで立入禁止措置が取られ,散策不能。しばらく続きそうな気配がしましたのでご注意ください。

さて,ここを出題したきっかけは…
たまたま,埼玉県の本庄城を投稿した際に,「しりとりだったら,本庄城⇔本荘城のリレーができるゾ!」と思い,“変換ミス”という表現をしたタイミングで,あさんの奈良県コンプリートが投稿されたのです。ちょっとしたアソビ心の出題ですので,笑ってスルーしてかまいません。

CFですが,「博●ちゃん」や「最●の城」なんかで取り上げてPRしてもらえると,裾野が拡大しそうな気がしています。スタッフのみなさん,ご検討願いますm(__)m

ということで,次はにのまるさんにバトンタッチします。GWに突入しますが,大丈夫でしょうか…?
私は遠征三昧となります。

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最古の城跡 高城 (宇陀市) (2024/04/20 訪問)

東吉野小川城から北上 兎田に向かう道沿いに、「最古の城跡」の看板あり。薄暗くなってましたが、行かざるをえません。神武天皇の東征の際の陣跡と。
道標に導かれ、登り口までバイクで。舗装道→土道の階段を経て、10分強でピークの高城に到着。激しい登山にならずによかった。石碑が作られたのは明治32年 治外法権撤廃の改正条約実施記念とこれまた歴史が。

朝田辰兵衛さん、お祝いクイズをありがとうございます。未訪問であり、遠慮なく検索しました。由利本荘市の本荘城ですね。解説を見てると、土塁の名城とか。さっそく、行きたい城に、ノミネートしました。
東京単身赴任時に、関東の城廻りを楽しみにしてましたが、北は勿来の関を少し越えたところまで。完全リタイアしたら、東北はじめ、全国、行きまくりたいなあ。

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刑部

城址は温泉宿 (2024/04/15 訪問)

宿と神社辺りが城址のようです、遺構はほとんどありませんがよく見れば面影があります。

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カズサン

勅使小学校北側に遺構復元展示 (2024/04/19 訪問)

 蓮如上人の吉崎御坊を終えて北陸路5番目東北東に約12km程の勅使館を初登城しました。

 駐車場:勅使小の東に在る勅使地区会館駐車場、または北の草原(36°18'14"N 136°23'23"E)
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 勅使小学校の北側、体育館とプールの間に遺構が地表復元展示されている、掘立柱建物跡に短い柱が埋められて建物跡を表示してる、前に掘立柱建物の解説板と石盤表示、内郭北堀がロープで囲まれて地表展示しかし叢状態。
 ぐるっと周り又見渡すが城郭放浪記さんの写真館に有る勅使館跡の解説板が見当たらない、見つけられませんでした。
 城郭放浪さんの解説によると、勅使小学校建設にあたり発掘調査した結果発見された。現在は埋め戻され体育館辺りからプールの間に発掘結果の一部を復元地表展示されていると。
 
 西側に諏訪神社があり一本桜が満開で奇麗でしたので神社に参拝し桜撮影、校庭の西にも八重桜が満開、その横の染井吉野桜は散って居ました。
 

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城とマスク

箱根から小田原城 (2024/02/26 訪問)

箱根神社に参拝した帰りに小田原城に寄りました。前回来たときは夜だったので今回はお城の中にも入りました。

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しんちゃん

大谷吉継陣の北側 山中の城山(仮)② 関ヶ原の要塞化 (2024/04/14 訪問)

大谷吉継の陣の続きになります。関ヶ原を散策するにあたって、地形図とにらめっこし「ここは怪しいな」と思った場所をいくつかあたりを付けて訪問してみました。
①朝倉山→南宮山
②大谷吉継陣の北側の山(尾根上に北上)
③松尾山と大谷吉継陣の間の小山
今回は大谷吉継陣の続きになりますが、ここも竪堀が連続して存在していたりと、なかなか怪しいです。この連続した竪堀の上の扁平地が誰かの陣所であった可能性があると思います。関ヶ原はもともと大軍を引き込んで殲滅戦を行うにはうってつけの地形をしており、その際には、この城山、松尾山、南宮山(朝倉山含む)は重要な役割りを果たしていたと想定します。
敵が西から襲来した場合には完全に関ヶ原に引き入れてから山中の城山(仮)と松尾山で退路を遮断し南宮山北側に展開した主力の軍で敵を迎え撃つ戦法です。南宮山からは地理的に全周囲を俯瞰でき、ある意味で司令塔的な役割を担うことが出来ると思います。その場合重要な個所は△392地点でそこから観測や烽火での連絡も容易にとることが出来たと考えます。
関ヶ原のように敵の大軍が東から来た場合は山中の城山(仮)と松尾山で上方への敵の侵入を阻止します。その際の南宮山の役割ですが標高が高いので短時間での軍の移動は難しいです。敵を引き付ける役割を担ったり、夜中に軍を移動して敵の背後を脅かしたりとトリックスター的な戦法を取ることは可能ですが、臨機応変に対応する判断力が必要になってくると思います。
(ちなみに南宮山自体に大軍を駐留することは可能です。かなりのスペースがあります。朝倉山にもかなりの数の部隊を配属することは可能だと想定します。)
これらの山に陣を敷くメリットとして尾根上の移動が容易なので関ヶ原の反対側からの補給を受けることができ、退路も確保できます。敵を関ヶ原に封じることが出来れば、補給を絶つことが出来るので有利な状況で持久戦を展開することも可能です。
おそらく蒙古や明の大軍が関ヶ原に侵入してきた際にはモスクワの焦土作戦に似たような戦法を取ったのではないでしょうか。

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じゅんじん

平山城 (2024/02/17 訪問)

平山季重神社があります。

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しんちゃん

あで始まる城 あさん奈良県コンプおめでとうございます。 (2024/04/21 訪問)

あさん、奈良県コンプおめでとうございます。私は東海コンプを目指して東海の城をリピートで回りまくっています。新規の城もまだ38ほど残っており、正直いつになることやら。
安威城は土豪の安威氏によって鎌倉時代の終わりごろに築かれたと考えられています。安威小学校の東側あたりに内郭(主郭)があったとされ、外郭は竹林となりその形状を残しているようです。外郭にそって堀を思わせる側溝があり、竹林の中には土塁が残っているようです。

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朝田 辰兵衛

あさん,奈良県コンプ,おめでとうございます!

あさん,奈良県コンプリート,おめでとうございます!
恒例のおめでとうクイズ,いきたいと思います。

関西の城ではありません。あさん,未攻城の城です。
ですが,昨日の私の投稿に絶妙なヒントが隠されています。
特徴のある画像をアップしますので,検索すれば瞬殺可能だと思います。

私のあとはにのまるさんにお願いしたいですが,大丈夫でしょうか…?

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香西元長 (2024/04/25 訪問)

 室町幕府管領細川政元の家臣で山城国守護代香西元長の城と伝わっています。嵐山の標識がある主郭から尾根に曲輪が展開しています。藪になっている所もありますが、曲輪の雰囲気はわかりました。南東の虎口で石積みが確認できます。下山後、資料で確認すると竪堀があったようですが、見ていません。遺構はあまりないという先入観があり、予習を怠りました。(いつものことですが)
 阪急嵐山線嵐山駅より京都一周トレイルコース入口(西山26)まで徒歩3分、そこから嵐山城への分岐点(西山33)まで約25分、さらに城址まで約25分かかりました。道は概ね整備されていますが、途中に低い岩場が1ヵ所ありました。途中の尾根から渡月橋等を見ることができます。

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カズサン

蓮如上人の里 (2024/04/19 訪問)

 梶台場・丸岡藩砲台を終えて北陸路4番目北東に約10.4km程と通過点に吉崎御坊が在り10数年ぶりに再登城、今回の企画には入って居なかったのですが、国道305号線上に道の駅「蓮如の里あわら」が目に入り急遽立寄り登城。

 駐車場:道の駅蓮如の里あわら専用駐車場。

 道の駅から西本願寺別院と東本願寺別院の間の石垣に挟まれた狭い階段を登って約5分程で比高約40mの吉崎御坊跡地に到着。東本願寺別院には三重櫓を思わせる太鼓櫓?小型の天守閣風建物であるが江戸期からの現存。
 御坊跡地は当日、八重桜が満開で広場一杯に咲き誇っており、高村光雲作の蓮如上人像が八重桜に浮かんでいるように見えました、現在建物は有りませんが、本堂跡、蓮如上人腰掛石が残って居ます、南側西側は北潟湖に囲まれて大きな濠、北側には大聖寺川が流れて水堀の役目を果たしている、西に突出た丘陵を御坊、城郭寺院に構えた事がよく理解できます。
 丁度草刈のボランティア活動されてた方にお話を伺いパンフレットも頂きました、現在は八重桜が咲き、その以前には染井吉野桜、その前には寒緋桜が三本、三度桜を楽しめるようです。解説とパンフレットありがとうございました。
 
 蓮如上人は比叡山勢力に京都を追われて、滋賀の堅田、金森、そして北陸越前吉崎で御坊を建てて布教活動、越前、加賀、越中が真宗王国に成り約100年中世戦国期を浄土真宗の国として勢力を競った。蓮如上人も在地の守護との抗争を避けて吉崎を去り、山科本願寺更に石山本願寺へと移り、本願寺勢力はついには信長との長い10年抗争と成り、石山本願寺は信長の手に、石山本願寺跡地は秀吉により大坂城へと移り変わり。
 吉崎御坊は本願寺発展への礎、本願寺の聖地でもあります。

 11時ちょっと過ぎでしたが、道の駅で昼食「おろし越前そば」を頂きました。金曜日ですが参拝と観光で結構混んでいました。
 帰りがけに西本願寺別院に参拝して次の城郭へ移動。
 
 
 

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後南朝の神璽を奪い返した立役者だったのか (2024/04/20 訪問)

城びと先達の投稿を見て行きたい城にノミネート。吉野町方面からアプローチしました。道路がかろうじて川のそばを走り、両岸は切り立った山の状況が続きます。不安の中、目印の東吉野町役場がある、ほんの少し開けた場所が現れました。
イオさん投稿の案内が分かりやすく、登城口はすぐに見つかりました。佐味城と言い、ありがとうございます!しんしんちゃんさんにも感謝です。
山深いところながら、城域は広く、先達のレポート通り、連郭式で堀切で守られています。小川氏は、勢力があったのでしょうね。石垣の片麻岩に中央構造線近くを感じます。
碑文を見ると、小川氏は、後南朝から神璽を奪い返した立役者だったのですね。赤松氏の浪人らが奪い返したと言われますが。小川城は、後南朝が置かれた、吉野や川上町に近く、様子をうかがい易いでしょうが、反撃も受けやすいだろうに。
この日は、佐味城、今井城、二見城、秋津城、小川城と巡り、城びと登録の奈良県の城を全部訪れることができました。

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カズサン

別称梶台場 (2024/04/19 訪問)

 堀江館を終えて北陸路3番目北西約6.4km程と近いので丸岡藩砲台に10数年ぶりの再登城、以前は梶砲台の名称が脳裏には残って居ます。

 駐車場:専用駐車場(36°15'06"N 136°09'15"E)、県道7号線(三国東尋坊芦原線)沿い北側に10台位?バス1台は可能、古びていますがトイレ完備。
 参考資料:城びと各投稿、グーグルマップに依る。

 10数年前の初登城は夕暮れ太陽が沈み西のあかねに砲台の砲眼影が判る状態で懐中電灯も無く海岸は危険が有りますので上部から眺めるだけで撤退。
 今回は昼10時頃、案内解説板横の登城口より進行、海の見える海岸際を通って砲台東側より観察、内部、西側、海側と5ヶ所の砲眼、内側の石垣、砲眼の石垣、海側の土砂土塁、西側の土塁上からと眺め尽くしました。良くここまで残り保存されたなと感謝しか有りません。充分堪能しました。
 潮の匂いがムンムン、久しぶりに潮の香りを満喫しました、西側の海岸は越前松島海岸で遠目で柱状節理の岩が良く分かり、更に西には名勝の東尋坊が控えて居ます。

 ペリー来航の前年寛永5年(1852年)には砲台を築いています、石垣で5砲座を築き海側は土塁で砲弾着弾の衝撃を吸収する知恵もしっかりと施されて居り、幕末の緊張の中、学問を納めて丸岡藩、各藩が頑張った証でしょう。
 
 黄砂は酷かったですが新緑、かすみの陽光で素晴らしい日和でした。
 
 

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トク

福岡城天守論争議論に思う(作家コラム記事から) (2024/04/24 訪問)

この間から、天守論争の記事を何度か投稿させていただいてすいません。今回はまた地元新聞に、作家「澤宮優」さんの、福岡城天守議論に対する感想のコラムが掲載されていたので御紹介します。この方の著書に「天守のない城をゆく:城の楽しみ方、活かし方」という本があり、私もまだ読んではいませんが、天守のある城は天守に目が行きがちだが、天守は城の一要素に過ぎず他の部分も見て欲しい、また天守のない城にも魅力はありますと、彦根城や金沢城などを例に上げ、縄張りや石垣や現存櫓などにも目を向ける事の大切さや、それを活かした事例などが記事に語られていました(写真⑩)。なるほどな~と思い、今度その本を読んでみたいと思いました。


ここからは私の個人的意見ですいません。

福岡城は100名城なので、今まで訪れた事がある城びと諸氏はたくさんいると思います。その方々にお尋ねします。皆さんは福岡城を訪れて、その時どう思われたでしょうか? この広大な敷地に再建された下之橋御門と現存の天守台と多聞櫓、城の東側(打込接)と西側(長政時代の野面積)で異なる石垣、ぐるりと取り囲む広大な堀には梅・桜・水仙・蓮・花菖蒲などの季節の花々が咲き(現在の花写真⑤⑥)、遣唐使時代の接待施設「鴻臚館」、官兵衛隠居の地「御鷹屋敷跡」、移築中の潮見櫓などと見所はたくさんあります。しかし、どこに何があるのかわかりにくく、歴史的な品々が展示されているところもなく、確かに大きなお城に来たという実感は湧いても、何かちょっと物足りなさを感じたのではないでしょうか? 城内には「むかし探訪館」(100名城スタンプ場所)がありますが、小さな小屋に模型があるだけ(え!たったこれだけ?)という感じです(写真⑦)。城の説明や見所のパンフレットすら充実していません。だから観光客も来ては天守台に登っただけで、わけがわからないまますぐに帰り、結局は大宰府の方が喜ばれる人気スポットになっています。

福岡城から北西に2km離れた福岡タワーのそばに、「福岡市博物館」という立派な市の施設があります。ここを訪れると、福岡の歴史(金印発見や山笠の歴史など)から、福岡城の歴史や黒田家所有の数々の貴重な品々など、多くを見て学ぶ事ができます(写真⑧⑨)。ここはオススメですので是非来られたら立ち寄って下さい。しかし今までは、福岡城を訪れても博物館がある事を知っている人は、ほとんどいないのではないかと思います。また知っていてもこんなに離れていては、時間的にもなかなか行けないでしょう。

市の中心部である天神から多くの方々が徒歩で通る登城ルート、上之橋から天守台までの登城路沿いには、裁判所跡地・平和台球場跡地・少年ラクビーやテニスのグランドなどがあり、城の中でもあまり見栄えがいい場所とは言えませんでした。ここは当時「東出丸」と呼ばれたエリアで、最近「セントラルパーク構想」という福岡市の開発計画が始まって整備が少しずつ進んでいます。

その中で、先月新たに上之橋御門跡の登城路が整備され、福岡城の玄関口としてのイメージアップが計られています(写真①)。また平和台球場跡地には鴻臚館の復元整備計画も策定されています。それはそれでうれしいのですが、裁判所跡地はインバウント観光客用の数十台分の大型バスの大駐車場が現在整備され、さらに高層ホテルの建設まで予定されているようです(写真②)。

私はこのあたり一帯には、福岡市博物館を移転し、そして見所パンフレットを充実させ、その見所をめぐる遊歩道を歩きやすいよう整備して、歴史を正しく学んでかつ楽しめる博物館と一体化した城址公園にしてほしいなと思っていました。幻の天守再建や高層ホテルの建設を急ぐより、既存の見所をうまく活かす方が日本人観光客や福岡市民は喜ぶのではないかと思ったからです。しかし私の考え方とセントラルパーク構想は少し異なっていて、現在増え続けるインバウンド観光客への対応を中心に考えられているようです。福岡城はこれからいったいどう変わって行くのでしょうか? この先も見守り続けていきたいと思います。

幻の天守とライトアップイベントも5月31日まで延長されます。また5月3-4日は「博多どんたく」も開催され福岡の街はお祭りムード一色に変わります。もしお時間あれば是非訪れて、福岡城の新しい部分と現存する遺構部分を見比べて、ライトアップなどの幻想を楽しんで、できれば博物館まで足を延ばし、福岡城や黒田家の歴史を知ってほしいなと思います。そしてこれを機に、お城の楽しみ方を再度考えるきっかけになればと思っています。

また勝手な意見を長々とつぶやいてしまい、すいませんでした。
 

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赤い城

黄峰城 香川県高松市 (2024/04/14 訪問)

高松市の西側にある五色台、陰陽五行説に由来する地名です。
紅ノ峰・黄ノ峰・青峰・黒峰・白峰山という五色の名がついた峰がある台地形の山です。
休暇村讃岐五色台からは瀬戸大橋や瀬戸内の島と海を望めるビュースポットでもあります。

で、この黄峰城、黄ノ峰山頂部に築かれています。
ちなみに白峰山には白峰寺、青峰には根香寺と四国八十八霊場のお寺があります。

さぬき浜街道沿いの蓮如上人堂から登城します。
ここに説明板も立っています。
香西氏の家臣によって築かれ、勝賀城の北側を守る城だったようです。
登城路は整備されているわけではありませんが道はわかります。
しばらく登ると削平地へ、ここが三郭のようです。
二郭への虎口や基壇と思われる石積もありました。

この城、単純な造りではありますが郭部周囲を犬走りが巡り、牛蒡積みの石塁が施されています。
これにはびっくりでした。
西側と東側は切れ目無く石積が続いていました。
単純に積んでいるだけのように見えますが、良く残っていたな、と思わせるレベルでした。
これ、必見です。

主郭部は特に整備されてはいないですが喰い違い虎口や土塁が残っています。
こちらは薄くなっていて写真では表現しにくいですね。

高松にはこのような中世山城の他近世の高松城、古代山城の屋嶋城と色々な時代の城趾が残っています。
このようなエリアも珍しいとのことです。
城廻りにうどん巡り、飽きることはありません!

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todo94

近江の城めぐり⑬ (2024/03/24 訪問)

近江八幡城の北の丸からのアプローチです。降雨降雪後の足元があまり芳しくないコンディションでの攻城でしたが、近江八幡城北の丸からのろし展望台まで14分ほどの所要でした。土橋、堀切など見ごたえのある遺構が目白押しです。各展望台や七つ池などの現地表示はあるのですが、城のカラーイラストにはのろし展望台以外の展望台表記がなく、現地とイラストの照合が難しいというか結局よくわからずじまいでした。くまなく城内をめぐれたとも思えませんでしたので、整備の手が入れられることを期待しつつ、再訪を期したいと思います。

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しんちゃん

さすがに中に入るのは無理。 (2024/04/21 訪問)

郡山城は浪速少年院あたりに築かれていたとされ、門の近くに石碑と案内板、石垣石(らしい)があります。場所が場所だけに写真の掲載が出来ないので石碑と案内板の写真だけ掲載させていただきます。いろいろな意味でご容赦願います(まじめに)。
「郡氏由緒記」によると、高利(郡)平太夫が郡山城および近郷七か村を治め、高槻城にいた和田惟政に仕えていたそうです(現地案内板による)。元亀2年(1571)に和田惟政が、荒木村重や中川清秀らの池田勢と戦った際に平太夫は一人で時間稼ぎを試み、それが失敗した後は惟政に兵力差の不利から退却を進言したが聞き入れられず、やむなく奮戦するも戦死したとのことです。

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しんちゃん

戸田氏鉄によって築かれる。 (2024/04/21 訪問)

尼崎城は元和3年(1617)に戸田氏鉄が5万石で転封し築いたとされています。本丸の周囲に堀を築き、その周囲に堀を幾重にも配していたようです。本丸の北東には2重の付櫓を二棟連結した複合式の4重天守があり、他の隅部には3基の3重櫓が据えられ本丸の構造的には戸田氏にも縁の深い三河吉田城に似ている気がします。現在は西三の丸の北部分が尼崎城址公園として整備され、外観復元の復興天守が建てられています。
戸田氏鉄公は私の地元・豊橋にも縁の深い人物で、膳所城、尼崎城、大垣城と地味に名城を任され続けた人物です。天草の乱では副将として貢献し、最後の居城・大垣城には騎馬像が建てられています。地味に有名だとは思いますが、TVで大垣城を紹介していた時には「誰?」と言われていました。

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しんちゃん

まさにヒメイジング (2024/04/20 訪問)

久しぶりに姫路城に行ってきました。前回は修復工事が終わったばかりだったので大天守は屋根まで白く輝いていましたが、だいぶ貫禄が出てきましたね!これはこれで良いです。まさに「お城」って感じで貫禄たっぷりです。
これだけ多くの建築物が残っている近世城郭は国内には、ほぼ存在せず明治の廃城令や昭和の空襲を生き延びた姫路城はまさに奇跡の城です。明治時代には民間に23円50銭で払い下げられたりもしましたが、いつの間にか国有化され陸軍の中村大佐やドイツのブラント公使らの働きかけで名古屋城とともに保存が決定され、国費9万3千円で「明治の大修理」が行われています。明治の時代から令和の今に至るまで洋の東西を問わず(いろんな国の人がたくさん来てる)多くの人を魅了する城です。
まさにアメイジング、いや姫路だけにヒメイジングです。(言ってしまった‥)

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カズサン

堀江公番田館は田園の中 (2024/04/19 訪問)

 丸岡城を終えて北陸路2番目北西約8.7km程の堀江館に初登城する、えちぜん鉄道三国芦原線番田駅の近くです。
 
 駐車場:有りません、竹内農園西標柱の前のジャリ農道路駐、竹内農園東100m程の幅広道路駐(36°12'46"N 136°12'19"E)交通量は少ない
 参考資料:余湖図コレクションさん、グーグルマップに依る

 竹内農園の西、水路の西に標柱「堀江公番田館跡 南に100m」が有りジャリ農道を南へ幅は5m程ありましたので直接乗りつける事も出来ます。
 現地の堀江館は堀江公番田館跡と称されています。跡地には館名石碑、解説石盤、祠が祀られ建っています。田園、田圃の中にポツンと残されています、草も刈られて地元の方々に大事にされて居るようです。
 観察時丁度、えちぜん鉄道の電車が番田駅に入って来ました、ブルーとクリームのツートンカラーで奇麗な電車でした。
 石盤、石碑、標柱のみ観察して短時間の探訪でした。

 解説石盤によると、この史跡は中世の頃坂井郡一帯を支配した堀江公一族の居館跡、系譜は藤原鎌足の流れ、鎮守府将軍藤原利仁の子孫で堀江の地に住み、堀江を姓とした。
 代々斯波氏、朝倉氏に属して武功を以て鳴る。(石盤抜粋)
 

 

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