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しんちゃん

一色城と今川義元公胴塚 (2024/09/22 訪問)

一色城は愛知県豊川市牛久保町に築かれていたとされ、牛久保城とは200mほども離れていません。永享11年(1439)三河守護職一色氏の同族・一色刑部少輔時家によって築かれたとされています。時家は後に家臣・波多野全慶に討たれますが、全慶は時家の重臣・牧野古白(成時)に討たれ、一色城には瀬木城を次男・成勝に譲った古白が入ります。
古白は永正2年(1505)に今橋城を築いて移りますが、翌年今川氏との戦いで討死、永享2年(1529)一色城主の牧野成勝が牛久保城を築いて移ると、ほどなくして一色城は廃城になったようです。
境内には桶狭間の合戦で織田信長に討ち取られた今川義元の胴塚と、一色刑部少輔時家の墓があります。義元公の胴塚には、今川家の家臣が首を失った主の躰を急いで隠し、近くにあった手水鉢を目印に置いていったという伝承が残っています。当時の物かは不明ですが、義元公の胴塚の基部は確かに手水鉢の形状をしています。また城址とされる大聖寺には土塁が残っています。
この日は一色城と合わせて、牛久保城も訪問しています。

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しんちゃん

猪苗代湖と中秋の名月 (2024/09/17 訪問)

福島をひとしきり回って、とりあえず見ておきたいものは見て来たけど、求めていた答えにはなかなかたどり着かない‥。またじっくり行きますか。帰りに猪苗代湖に寄ったら、すでに暗くなって月が出ていました。この日は月が綺麗でした。あとでこの月が中秋の名月だと知って、なるほどな‥と納得。磐梯山は始終お隠れだったけど、良い名月に会えました。
久しぶりに会津に行ってみたけど、やはりここは東北の中でも屈指の良い所です。平野がとても広くて土地は豊か、猪苗代湖が水を大量に蓄えていて、まるで京都に対する琵琶湖のような役割を持っています。
中秋の名月(十五夜)は旧暦の8月15日とされ、今年は9月17日がそれにあたります。旧暦は1年が354日しかないので(月の周期29.5日×12)3年に一回、月が加算されます。かなり大雑把な暦になっているので、年ごとに中秋の名月が早かったり、遅かったりするわけです。
そのためかは知りませんが旧暦の9月13日(十三夜)にも月見の日があり、年に二回楽しめるようになっていたようです。
昔の人の名月と月見に対する執念を感じますが、もし二回とも雨で月が見えなくても残念会で結局、盛り上がったのではないでしょうか。この場合は「月より団子」といったノリですね。

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赤い城

姫田城 徳島県鳴門市 (2024/09/16 訪問)

城びと未登録、勝瑞城の外城で三好家家臣の姫田藤家の居城です。
中富川の戦いで落城しました。

県道12号線から少し入った葛城神社に車を停めさせていただき、背後の道を進みます。
住宅地を抜けると祠と石碑がありました。
遺構はなさそうですが道路は堀跡かな〜と。

城とは関係ないですが、四国八十八ヶ所霊場は鳴門市から始まります。
ここから西にある霊山寺が1番札所、外国人のお遍路さんもいらっしゃいました。
さらに西に少し進むと2番札所の極楽寺。
ここには空海お手植えと云われる杉の巨木があります。

今のところ城めぐり優先ですがせっかく四国に住むことになったのでもう少し歳をとったら挑戦してみようか、とも思います。

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ヒロケン

福山城ライトアップ (2024/08/14 訪問)

福山城は備後国の陸海路の要衝に位置し、江戸幕府開府以来、西日本で最初の譜代大名となった水野勝成公により1620年に築城された輪郭式の平山城です。天守は天守建築の完成期に築かれた五重五階地下一階の層塔型複合式で、全国唯一の天守北側に鉄板張りを有しています。(現在は、鉄筋コンクリートで外観復元)
更に、伏見城から移築されたといわれる国重要文化財の伏見櫓と筋鉄御門。鐘櫓、御湯殿、鏡櫓、月見櫓が外観復元されています。また、二の丸南側の石垣、鬼門櫓台の石垣、本丸・二の丸を囲う石垣等々、大変見所の多い城跡です。

今回、熊本県の城跡(4城)・福岡県の城跡(2城)・大宰府天満宮・鍋ケ滝・阿蘇神社・阿蘇大観峰等を巡り最終日に目指したのが、この広島県の福山城(*^▽^*)皆さんの投稿で知り得た鉄板張りとシャンシャンさんの投稿でライトアップされた神々しい天守が見たく最終の予定地としました。
皆さんの投稿通り、北面の鉄板張り何とも格好が良い(*^▽^*)また、黒と白のコントラストがライトアップされ何とも素晴らしい(*^▽^*)
熊本から関門海峡を越え、6時間半の運転で少々お疲れ気味ではありましたが、頑張って良かったと思っています。
ライトアップされる期間の終了日は未定で、日没から24時まで毎日ライトアップされているとの事なので、是非、行かれてみてはと思っております。

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朝田 辰兵衛

山科中央公園にチョイ寄り🚊 (2024/06/24 訪問)

JR相生駅から新快速で移動してきました。イイ加減退屈になったので,公園で約6mの土塁に登ってポチっていうのも悪くないな…と。
戦国時代には「寺中広大無辺にして荘厳,さながら仏国の如し」と,その威容を謳われたそうです。寺域は,南北約1㎞,東西約800mにおよんだとされています。

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しんちゃん

玩駄無選手権・福島 「へたれガンダム」 (2024/09/16 訪問)

そこには不思議な世界が広がっています。福島県福島市の田園風景の中に「手作り感」満載のガンダムが自立しています。
実は結構有名で、癒し系満載のフェイスに緩い感じの直立スタイルはニュースなどでご存じの方も多いと思います。こう見えて多い日には400~500人ほどの人が訪れる、なかなか隅に置けない観光名所なのです。製作された佐々木さんは、このガンダムを寄贈された翌年に他界されており、このガンダムが遺作となっております。2020年5月にガンダムが手にしていたビームライフルが盗難にあいました。これまたニュースにもなったので、ご存じの方も多いと思います。このニュースに心を痛めたファンからモデルガンなどの武器が次々と寄贈されました。いまガンダムが手にしているのは福島工業高校の生徒と教諭が1週間かけて製作した金属製のビームライフルです。
横浜の「動くガンダム」や福岡のニューガンダムは、ほぼ等身大の巨大なものですが、この「へたれガンダム」の身長は成人と同じくらいで、その分近親感も湧いてきます。福島ののどかな田園風景の中で地元の方々やファンから愛されている「へたれガンダム」。これからも末永く人々を見守ってほしいです。
ガンダム選手権、個人的には「へたれガンダム」と横浜の「歩くガンダム」が同率一位です。
惜しくも次点は、ららぽーとの「ニューガンダム」です。個人的に自らの二本の足でしっかり自立出来てる「へたれガンダム」は好感度が高いのです。やはり「ガンダム」は大地に立ってナンボですよ。

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駿府の街散策 (2024/09/21 訪問)

 駿府城周辺の街を彷徨っていると城下町であった頃の建物などを示す石碑や説明板があります。幕末に西郷隆盛と山岡鉄舟の会見の地などもありました。静岡駅から徒歩3~4分の場所にある懐石料理で有名な浮月楼は最後の将軍 徳川慶喜公が大政奉還の後、約20 年過ごした屋敷跡です。
 最後にhug coffee 静岡市歴史博物館店さんで家康抹茶ラテをいただきました。

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堀周辺散歩 (2024/09/21 訪問)

 本丸堀は埋め立てられていましたが、発掘調査により一部を見ることができます。二の丸堀はよく残っています。三の丸堀は東側と南側の一部が埋め立てられていますが、全体の四分の三が現存し石垣も観ることができます。久しぶりに外堀の散歩道を散策しました。県庁所在地にあってこれだけ堀と石垣が残っているのはありがたいことです。外堀の散歩道を歩いていると当時の城の大きさが実感できます。

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御門めぐりなど (2024/09/21 訪問)

 城内、城周辺を散策していると各地に門の跡の説明板があり石垣がある程度残っています。二の丸御門は塞がれていて約70m東側に出入口が設けられています。

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徳川家康 (2024/09/21 訪問)

 今年も駿府城へ行って来ました。
縄張りは三重の堀を備えた輪郭式の典型的な城で、外側から三の丸、二の丸、本丸となっていました。二の丸の東御門、巽櫓、坤櫓が復元され雰囲気を醸し出しています。以前に見学したことがあったので、前回登城時はスルーしましたが、今回は久しぶりに櫓内など見学しました。本丸と二の丸をつなぐ二の丸水路は興味深い構造です。天守台発掘調査の現場は天正期と慶長期の石垣に表示がありわかりやすくなっています。

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しんちゃん

玩駄無選手権・横浜 動くガンダム (2023/05/07 訪問)

横浜・山下埠頭の「GUNDAM FACTORY YOKOHAMA」の動くガンダムは2024年3月31日に最終日を迎えました。元々は2020年12月19日から22年3月31日までの期間限定で公開がされる予定だったのですが、コロナ禍もあり2年間の延長がされたようです。おかげで私も関東に城めぐりに行った際に拝観することが出来ました。サイズはほぼ原寸大で、通常TVなどで目にするガンダムとは細部の詳細が異なります。
とはいえガンダムは様々なバリエーションが存在し、アムロの乗っていたガンダムであるRX-78-2でも何十というバージョンがあるようです。プラモデルだと決定版と言える PG(パーフェクトグレード)UNLEASHEDはネットだと4万円近い値が付いていたりします。とはいえ定価でも3万はするのでお金持ちかよっぽどのマニア用のアイテムと言えるでしょう。
最近だとRG(リアルグレード)のVer.2.0 が発売されておりネットでは8千円~1万円で取引がされています。私はあるルートを通じて定価で購入しております。
動くガンダムは動きは少々緩慢で完全に自立出来ているわけではありませんが、目の前で動いているのを見るとやはり感動します。大阪万博で動かない状態で展示されるという話があるようで、アムロばりに「こいつ‥動かないぞ‥!」などと言わずに見守ってあげたいと思います。実際に大阪万博に行くかどうかは、すごく微妙な所ではありますが‥。

実はガンダムは戦国時代と密接な関わりが有ります。SD戦国伝シリーズは30年以上前から展開されており、関連する商品は300を超えるのではないでしょうか。私も押入れをさばくれば、かなりの数のSDガンダムが出てくると思います。
一番人気は何と言っても武者頑駄無で、モデルはRX-78-2ガンダムです。MG(マスターグレード)でもリアルタイプが商品化されています。

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しんちゃん

頑駄無選手権・福岡 ららぽーと (2022/12/31 訪問)

勝手にガンダム選手権・九州代表・福岡県ららぽーとのニューガンダムの原寸大立像です。ニューガンダムは通常は背中にフィン・ファンネルという放熱板のような形状をした遠隔攻撃兵器を6基搭載しているのですが、このニューガンダムは代わりにロングレンジ・フィン・ファンネルという大型の武装を背中にしょいこんだ形で直立しています。ニューガンダムは歴代のガンダムの中でも特に大型で、この立像も頭頂高20.5m、最高部で24.8mとかなりの大きさを誇っています。重量はなんと80tもあるそうです。
実際のニューガンダムは頭頂高22mで全備重量が63tなので、設定より1.5m小さく、重量は17t重いわけです。実際にこの大きさで金属製のロボットがあったら数百トンは行くはずですが、モビルスーツは全体的に軽量に設定がなされているようです。
このニューガンダムも横浜の動くガンダム程ではないにしろ、右肩と首が動くようで、一時間間隔でパフォーマンスが行われているようです。お城とガンダムの関連付けはなかなかハードルが高いですが、どこかで伏線の回収を行いたいと考えております。
ちなみに風車に変形するガンダムはいます。Gガンダムに出演していたネーデルガンダムです。
私はGガンダムだとマンダラガンダムとマーメイドガンダムが好きですね。

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とばつびしゃもん

諏訪頼重最期の城 (2024/05/05 訪問)

国道20号から四賀の交差点を山側に曲がり、右手に大きな桑原城の立看板があるところが普門寺口登城口。そこに数台駐車可能なスペースがあり、ここから登城開始。
登城道は整備されていて緩やかな登りが続く。10分ほどで分岐点へ到達。右手に折れ東曲輪を通って本丸へ向かう途中、空堀や誰のものかわからない首塚が見られる。20分で本丸へ到達。
本丸東側にはわずかに残る土塁が確認できる。本丸西側の二の丸からは諏訪湖がきれいに望める。

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しんちゃん

小鹿館 今川家家督継承に執念を燃やした小鹿範満の末路 (2022/01/01 訪問)

静岡市駿河区小鹿にある小鹿館は今川氏の支流・小鹿氏の館跡です。小鹿氏の始まりは今川範政の子・小五郎範頼とされ、小鹿館は駿河の街並みを一望でき、街道の押えとして駿府の今川本家を守る役目を与えられていたと思います。
文明8年(1476)今川家当主義忠が横地士郎兵衛と勝間田修理亮を討伐した帰途に一揆により落命し、今川家中に跡目争いが勃発します。小鹿範満は義忠の子、竜王丸(氏親)の陣代として府中(駿河)館に入りますが、氏親が今川家八代目を継承しても家督を返さず、長享元年(1487)伊勢新九郎盛時率いる竜王丸派の軍勢に府中館を攻撃され壮絶な市街戦となりますが、敗れ自害して果てたそうです。
また今川氏親の母・北川殿(今川義忠室)は盛時の姉にあたるようです。

小鹿館は竜雲寺から伊勢神明宮の一帯に築かれていたとされ、竜雲寺境内には土塁状のものが若干残っているそうです。

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歴史案内活動のご案内【9月23日(月祝)10:00~12:00】 (2024/09/23 訪問)

こんにちは。躑躅ヶ崎歴史案内隊のEこと上田絵馬之助です。

9月もいつの間にか半ばを過ぎましたが、
夏の名残というには厳しい猛暑日になったりする中で、
シルバーウイークと言えるかどうかですが、三連休が続きますね。
連休の楽しみになるようにと、
武田神社では当隊による歴史案内活動を行います。

日時:9月23日(土)10:00頃~12:00頃
場所:武田神社(史跡武田氏館跡・山梨県甲府市)
ガイド:局長・大塚與左衛門

❖境内に眠る戦国の史跡を、個性豊かな甲冑ガイドがご案内。
❖時間、コースはご都合・興味にあわせて自由に設定可能。
❖宝物殿、ミュージアムの展示施設も案内可能。
❖ガイドは原則無料(展示施設の入館料等は別途負担ください)。
❖雨天延期の場合あり(Twitter(現✗:@KoufuSamurais)で告知します)。

今回のガイドも前回14日に続いて局長・大塚與左衛門が行います。
前回も多くの方のご案内をできたことから、
今回も新たな方、もちろんリピーターのご来訪も楽しみにしています。
(E)

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小城小次郎

本堂の裏に天守が見える (2024/08/02 訪問)

織田信長と争って信長に謀殺された織田信行(信勝)が何かに備えて龍泉寺境内に構えたとされるお城。何に備えてどんな普請をしたのかは信行に聞いてみないとわからなさそう。本堂の裏に模擬天守が見える風景はかなり独創的。

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トク

宗像大社大宮司の居城 (2024/09/15 訪問)

片脇城は宗像大社の大宮司「宗像(むなかた)氏」の居城とされています。神社の宮司がなぜ城を持っているのだろうか?🤔と思って調べたら、この宗像氏は宮司でもありますが、この地方を古くから治めていた領主でもあり、宗像水軍という水軍まで持っていた戦国武将でもあったようです。その宗像水軍は、古くは壇ノ浦の戦いでは平家側についていたという記録もあります。そして最も有名なのは「宗像氏貞」です。前回お伝えした「門司城の戦い」の時は毛利側に付きましたが、毛利が撤退すると今度は大友側に寝返ります。しかし島津氏が北上すると今度は島津に寝返り、大友方の立花山城を攻めたようです。しかしその後に島津が豊臣秀吉に敗れると、氏貞は秀吉から宮司以外は全て奪われて宗像氏は取り潰され、ここで武将としての宗像氏の名前は歴史上から消えてしまいます。

JR鹿児島本線「東郷駅」からバスで10分「宗像大社前」で下車しました。せっかくなので先に宗像大社にお参りしました(写真⑥)。ここは日本神話にも登場する皇室に大変ゆかりのある神社です。今では航海の安全を守る神としても有名です。門にはその天皇家のゆかりを示す菊の紋章がありました(写真⑦)。

宗像大社から南に歩いて10分、宗像氏の菩提寺とされる「興聖禅寺」があり、その背後の山が「片脇城」とされています(写真①)。お寺の横の道(写真②)を5分程登った中腹に、歴代宗像大宮司の墓所がありました(写真③)。この墓所の左には秋葉社(出城)がありました。私の調べでは山の頂上が片脇城で削平された曲輪があるはずなので、そこを見たいと思い行ける道を探すと右側に道があったので(写真④)、ここかな?と思って入ってみましたが、竹藪だらけで倒竹があまりにも多く前へ進めません(写真⑤)。蚊の大群にも囲まれてきたのでとりあえず引き返し、墓所を清掃されている方がいたので聞いてみると、

「こん先は道らし道はなかけん竹藪だらけじゃごて慣れんもん(者)は無理せん方がよか」

なるほど~🤔(私はよく理解できました)。それを聞いたら無理して行くのはあっさりとあきらめました(笑)。

そこで目標を変え、ここから戻ってバスで30分、福間経由で津屋崎橋まで行き、そこから30分程歩いた丘の上に「東郷神社」という所があるので行ってみました(写真⑧)。ここには日露戦争で日本海海戦の英雄「東郷平八郎」が祀られている場所で、その記念碑がありました(写真⑨)。ドラマ(坂の上の雲)でも中盤から登場します(渡哲也さんかっこいいです)。

丘の上からは日本海が一望できました。とても気持ちのいい眺めでした(写真⑩)。あの水平線の左から右へ北上するバルチック艦隊を、右前方の神が宿る島と言われる沖ノ島にいた宗像大社の宮司が発見し「敵艦見ゆ」と通報します。そして砲身が指す先の海で、日本海海戦は行われたようです。
 

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赤い城

詫間城 香川県三豊市 (2024/09/04 訪問)

住宅地の中にあります。
近くの交差点には「城下」の地名、その背後が城跡です。
石段を登ると畑がありその奥は藪、私有地でもありそうなのでここで断念しました。

道路から見上げると削平されているようにも見えましたがなんとも。

詫間氏が城主を務めた後には山地氏が入城、その後香川氏が入り三野、豊田、多度の三郡を領しました。

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しんちゃん

赤べこ軍団 (2024/09/19 訪問)

会津若松に行ってきました。3日くらいいたけど、結構朝晩は涼しくて、車中泊もさほど苦にはなりませんでした。朝は東海や関東より5度くらい涼しいと思いますが、陽が照っている日中は軽く30度を越えます。でも小雨が降っている日は涼しいので、やはり温暖化の影響が有ると思います。本来だったら日中でももっと涼しいはずです。
福島県はどこにいっても「赤べこ」が目につきます。民芸品にしてもマスコット的なものでも「赤べこ」ばっかりなんですね。だから、福島にいると、やたら「赤べこ」が欲しくなります。一種のトランス状態のようなものだと理解した上で買いまくって来ました。「赤べこ」は民芸品としてだけではなく、マスコットとしても驚異的な進化を遂げています。もともとは牛なんだけど、豚のようにもイノシシのようにも見えます。ちょっとズルいですね。
「赤べこ」の体の両側に付いている「眼」のような模様は天然痘などの「痘」を意味しているようです。体の赤色は「魔除け」の意味合いもあるらしく、子供に送る風習もあったようです。福島県の猪苗代町は有名な細菌学者の野口英世の出身地であり「野口英世記念館」にも寄らせていただきました。「赤べこ」と野口英世氏には、そんな繋がりもあるようです。
まだまだコロナ禍は続いており、最近有名になった「アマビエ」に並んで「赤べこ」も今の時代に相応しいキャラクターだと思います。
ちなみにこれらの情報は後で知ったもので、購入する際には、本能のままに買いあさっています。

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源義朝終焉の地を訪ねて (2024/09/19 訪問)

 愛知県知多郡美浜町野間に源頼朝の父である源義朝の終焉の地があります。
 1159年(平治元年)12月27日、平治の乱で平清盛に敗れた源義朝は東国へ向かう途中に尾張国野間に立ち寄ります。長田忠致、景致父子を頼りますが、裏切られ入浴中に殺されました。
 頼朝の時代となり長田父子は鎌倉に参上して謝罪します。頼朝は身命を惜しまず抜群の軍功をあげるならば、罪を許した上、美濃・尾張を宛て行うと告げ、長田父子はその後数度の合戦に大いなる軍功をあげました。天下を平定した頼朝は、義朝の墓前において、約束の通り「美濃・尾張(身の終わり)」を賜うとして、長田父子を磔にしたと伝わります。
そんな義朝ゆかりの地を散策してきました。

 時代は違いますが、近くには羽柴秀吉に敗れた織田信孝が自害した安養院(今回は行っていません)があります。墓は源義朝の墓の側にありました。
夏の海水浴シーズン以外は、あまり観光客は来ないところだとおもいますが、歴史的には興味深い場所です。

 それぞれの地は名鉄野間駅より徒歩15分以内で行けます。

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