佐伯城から列車移動しました。
前回は卯寅櫓の方から入ったので今回は西の畳櫓の側から。
鎧坂の通路が落盤の危険があるということで安全のため防護壁を設置してくださっていました。
どこのお城も年月が経つにつれ傷みが生じてくるのは避けられないことで、整備してくださるありがたさを思うと同時に自分自身も充分に注意して歩かないとと思いました。
ちょうど日没の時間できれいな夕焼けを拝めました。
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2025/03/29 22:17
夕焼け小焼けで (2025/01/24 訪問)
佐伯城から列車移動しました。
前回は卯寅櫓の方から入ったので今回は西の畳櫓の側から。
鎧坂の通路が落盤の危険があるということで安全のため防護壁を設置してくださっていました。
どこのお城も年月が経つにつれ傷みが生じてくるのは避けられないことで、整備してくださるありがたさを思うと同時に自分自身も充分に注意して歩かないとと思いました。
ちょうど日没の時間できれいな夕焼けを拝めました。
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2025/03/29 16:36
登城御免 (2025/03/29 訪問)
微妙に言いにくい空気が有る中での投稿です。某サイトに複数 行き方が書いてあるので、それに習って訪問しました。
民家か管理人らしき建物の脇から車道が山中に伸びています。一声かけたかったのですが、誰もおらず、そのまま登っていくと城趾公園のようになっていて、北側の遺構はネットが張っており確認ができません。某サイトに記載のあった城池は健在で土橋がかかり、堀切に繋がっていました。少しハードルは高めですが、周囲は切り立った崖で他に登城の方法は無いようです。
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2025/03/29 16:28
2025/03/29 16:09
2025/03/29 14:45
2025/03/29 14:32
武田信玄 (2025/03/28 訪問)
武田信玄が北条氏康と上杉謙信が越相同盟を結んだときに、上野の備えとして築城したと伝わっています。山名城から約1.2Kmの距離にあり尾根道を、それほど高低差を感じることなく行くことができました。曲輪、空堀、竪堀、堀切などがよく残っています。北東側に展開している曲輪に降りて行くといくつかの竪堀を観ることができました。南の尾根を堀切等で防備して、北側を山裾へ向かって曲輪を展開していくという縄張りだと思います。空堀など雑草で見えにくい所もありますが、散策路は概ね整備されていて楽しむことができます。
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2025/03/29 14:05
山名(新田)義範 (2025/03/28 訪問)
上信電鉄西山名駅より徒歩で登城しました。山上碑、山上古墳を経由して20分くらいで行くことができました。比較的新しい標識があり迷うことなく登城することができます。曲輪、堀切、空堀などが残っています。一部藪になっている場所があり棘のある植物に注意が必要ですが、概ね散策は容易です。調子に乗って歩いていて痛い目に会いました。現在の姿は戦国時代により改修されたものです。
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2025/03/29 13:44
2025/03/29 13:32
北新波砦史跡公園 (2025/03/27 訪問)
15世紀後半から16世紀中頃に築かれたと推定される出枡状の突出を付属した75m四方のほぼ正方形をした砦跡です。発掘調査で堀や井戸、建物の跡などが発見されました。早瀬川と関端川に挟まれた場所にあり天然の堀としていたのでしょう。長野氏に関連する砦と考えられています。現在は北新波砦史跡公園として整備されています。桜の名所のようですが、開花の気配を感じません。一本だけしだれ桜?が咲きかけていました。
高崎駅から箕輪城方面に行くバスに乗り浜川十字路バス停下車、徒歩10分くらいで行くことができます。
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2025/03/29 12:23
尾根道をけっこう激しく登りました。 (2025/03/15 訪問)
城びと先達、ぴーかるさん、todo94 さんと同じルートで登城しました。ぴーかるさんの「ゲートを開けて右手の山尾根へ。左手には行かないように」「いったん左に約90度曲がり、東方向にさらに登る」などの指南は的確でした。尾根にケーブルが見え隠れしましたが、共同アンテナの名残で、ピークにアンテナの残骸あり。かつては、建設やメンテナンスで尾根道を行き来していたのでしょうね。
新保山城は、大きな造りで、主郭南に6段の郭があって、いったん高い切岸と堀切で遮断し、さらに下って3段の平削地と浅めの堀切があります。主郭北に大堀切を配します。
イオさん、お祝いおよびお気遣いのコメントをありがとうございます。滋賀からイオさんの地元の和歌山県に行くには、大阪府か奈良県を超えることになり、気持ちの敷居が高いです。まだ、和歌山市周辺、御坊市周辺、新宮市周辺を廻ったのみです。しかし、「行ってみたい」マークはたくさん付けています。特に、日高郡の赤松城が気になっています。播磨の赤松氏が、六波羅探題の命を受け、この地の一揆鎮圧のために築いたとか。イオさん投稿の登城道指南を頼りに近いうちに行きたいものです。
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2025/03/29 12:17
井伊直政 (2025/03/27 訪問)
久しぶりの箕輪城です。以前来た時は郭馬出西虎口門も本丸と蔵屋敷を結ぶ木橋もありません。それでも当時から深い空堀など見応えのある城址でした。大規模な空堀、堀切はこの城址の最大の見どころ、歩きどころです。今回登城したときは、木橋は工事中で渡ることができなかったのは、少し残念でした。駐車場のある搦手口から北側にある新曲輪、丸馬出方面をまわり御前曲輪北堀から堀の中を木橋付近まで歩きました。その後、三の丸、二の丸、御前曲輪、本丸、大堀切など主要な場所を散策しています。
現在の城跡は井伊直政在城当時のものですが、自分としては武田信玄の攻めを何度も退けた長野業正の城として印象が強いです。
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2025/03/29 11:23
長野尚業 (2025/03/27 訪問)
明応年間(1500年頃)、当地を支配する長野尚業によって築かれたと伝わってします。長野氏はその後、本拠地を箕輪城に移しますが、鷹留城は支城として機能していました。
宮坂武男先生の縄張図を参考に散策しました。曲輪、堀切、竪堀、土塁などがよく残っていて見応えがあります。主郭に鷹留城死没者慰霊碑や説明板などがありました。概ね整備されていて歩きやすい城址です。
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2025/03/29 07:24
また来たい。 (2025/02/02 訪問)
以前訪問した時は本丸周辺の堀切のみが印象的でしたが、久々に訪問してみると、二の丸・郭馬出周辺の遺構や木俣、稲荷曲輪、丸馬出など様々な見所が有ることに気づきます。確か丸馬出の周辺は調査中のようでしたが、気付かずに別方向から入ってしまいました。
申し訳ない・・入れる場所から入る悪い癖がついてますね。私は基本的に既に訪問している城は「行った」をクリックしていますが、出来るだけ再訪して鮮度の高い写真を載せるように努力はしているつもりです。でも古い写真を見てみると、それはそれで愛着が湧いてきます。年月や季節による微妙な変化が面白いですね。
今回の訪問では、再現された郭馬出西虎口門を見ることが出来たのが大きな収穫でした。城域がとても広くて全部を見切れていないので、何年かしたら、また再訪したいと思っています。
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2025/03/29 07:17
2025/03/29 07:01
不思議な世界が広がる。 (2025/03/16 訪問)
新田金山城は標高235.8mの金山(かなやま)の上に築かれています。古くは建武3年(1336)に佐野義綱が新田荘の新田城を攻め落としたとする記録が残っています。
応仁3年(1459)には新田一族である岩松家純が入りますが、享禄元年(1528)横瀬泰繁・成繁の父子が岩松氏を殺害し、後に由良氏に改姓、以後豊臣秀吉の小田原攻めで廃城になるまで由良氏によって金山城は支配されます。上杉、武田、北条の争奪戦が行われますが、天正12年に北条氏に降伏したとみられ、天正15年(1587)には今の状態に普請が行われたようです。
唐沢山城を除けば関東では珍しい石垣の城だと思います。高い石垣を築く技術が未発達なためか、どこかの国の遺跡のような段々の石垣が見られます。築城技術の発達した近世の総石垣の城とも雰囲気が異なり、石垣を多用したゴージャスな砦の様な感じです。
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2025/03/28 22:54
入口の空堀から圧倒される… (2024/03/30 訪問)
つくばエクスプレス・関東鉄道 守谷駅から徒歩20分(道中は一部、歩道が狭いので注意してください。)城址公園には駐車場・トイレも設置されています。
駐車場のそばに、空堀の断面図が展示されています。周辺は湿地帯で天然の要害となっています。駐車場側から湿地のある城跡西側に出ると城址の入り口があります。
城址の入り口に着くと、いきなり大規模な空堀の堀底になっています。城址公園内には、深い空堀や坂道桝形虎口などの遺構がかなり良好に残っており、見ごたえたっぷりです。
また城址北西側は、かつては古鬼怒湾という内海だった関係で、船着場跡もあります。現在も湿地が残っており、桜が植えられています。訪問した際は、河津桜がほぼ満開の状態で、お花見を楽しんでいる方も多くいらっしゃいました。桜の名所として、地元では知られているみたいです。河津桜以外にもソメイヨシノも植えられているので、ぜひ桜の時期に行ってみてください。
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2025/03/28 22:33
ここは河津桜のようですね (2024/03/30 訪問)
龍ヶ崎からJR取手駅に移動し、取手駅から関東鉄道常総線に乗り換え、ゆめみ野駅で下車。徒歩15分。
スーパーのある交差点を北に進み、住宅街を歩いたところに、高井城址公園の看板が立ち、坂を下り谷津を進むと城跡の入り口があります。
城跡は小高い所にあり、本郭が良好に残っています。
谷津からの登り坂を登り切った左手側には空堀があります。登城路の坂の部分も遠目に見ると堀のような雰囲気もあります。坂を登り切った本郭の虎口前に説明板が設置されています。
本郭跡には土塁も良好に残っていました。また本郭には河津桜が植えられています。訪問したときは残念ながら葉桜になっていました。(3月初め頃がベストですかね?)
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2025/03/28 22:25
歴史民俗資料館の裏 (2024/03/30 訪問)
龍ヶ崎城跡から徒歩30分ほどで到着。龍ヶ崎市歴史民俗資料館の裏手が城跡にあたります。資料館の駐車場奥に城址の入口があり、説明板が設置されています。
先の投稿の龍ヶ崎城は戦国期の土岐氏のお城でしたが、こちらは南北朝時代のお城跡です。
南朝の北畠親房の傘下であった春日顕国が大宝城(茨城・下妻)の陥落後、北朝の攻撃から逃れ、馴馬城を占拠。ここで北朝方に抵抗するも最終的には落城したとのことです。南朝方の城郭であったということで、戦前に県の史跡に指定されたようです。
説明板の入り口から城跡に入ると土橋と空堀の遺構を見ることができます。
空堀の中を南に進むと、城址の標柱が左側の木々の中にあります。(少し見つけにくかったです。)
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2025/03/28 22:23
2回の天守巡り (2008/09/10 訪問)
(2008年の天守閣訪問 当時つけていた日記より)
「金のしゃちほこ」で有名なこの城は、やはり造りが立派だった…。各階の展示も見て回り、資料展示、体験コーナー、3D映像などを味わってみた
展望エリアには土産店があり、「金のしゃちほこ」グッズが数多く並んでいた。マグネットを購入して、3D映像を見た。専用メガネをかけると文字が浮かび上がって見え、グラフィック技術の高さ、名古屋城天守閣のCG復元映像が紹介された
武家屋敷内部もあり、「昔はこれがオフィスだったのか…」と思った…。畳を敷いた和室に小さな机、和紙に墨、ろうそく…現代に比べると質素だが、当時はこれが仕事場だった…🏢
今みたいにショベルカーのない時代は、大きな石を男2,3人で網を引いて運んでもおり、「それを体験してみよう!」もあった。引いてみるとかなり重く、手が痛くなった。何とか目的地まで引くことはできたが、「江戸時代って肉体労働が多くて大変だ〜😖」みたいに感じた…
(2016年の天守巡り)
城内の食堂できしめんを食し、金の鯱を撮影。本丸御殿という建物が(まだ全部ではないが)復元されており、18畳の和室と、室内の襖に描かれた虎を見学しました。狩野一族の画家が描いたものであり、戦時中に消失したが、近年復元されたらしいです
天守閣🏯も入り、展望室からは名古屋市街地が見えました。4階あたりに篭があり、乗り心地を確かめるのも一興(スピード遅くて揺れるのでよくなさそうw)。
江戸時代のもてなし料理も展示されており、鯛・ご飯・煮物・小魚数匹という具合。肉もデザートもないが、それが当時のフルコースらしい…
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2025/03/28 22:14
龍ヶ峯 (2024/03/30 訪問)
JR常磐線 龍ヶ崎市駅から関東鉄道 竜ヶ崎線に乗り換え、竜ヶ崎駅で下車。徒歩15分ほど。主要部は龍ヶ崎二高の敷地になっていますが、龍ヶ崎市の文化財となっている鹿島神社の所までは入れるようだったので、鹿島神社を見学。神社の石仏の説明板をみると江戸時代の龍ヶ崎は仙台藩の飛び地であったということが書かれていて驚きました。
龍ヶ崎二高の周囲を散策すると南側に龍ヶ峯の石碑があり、戦国期の龍ヶ崎・土岐氏について記載されています。土岐氏は、江戸崎(茨城県稲敷市)と龍ヶ崎を拠点にしていた勢力で、美濃の守護の土岐氏の分流です。小田氏にしたがっていましたが小田氏の衰退後は、牛久の岡見氏らとともに北条氏に属し、佐竹氏ら反北条勢力と戦ったようです。
龍ヶ峯の碑から東に進むと御嶽神社があります。ここの神社の高台と龍ヶ崎二高の高台は、かつてはつながっており、御嶽神社の部分も城の一角だったようです。戦後の住宅地造成に伴い途中の台地部分は切り崩されてしまったようです。御嶽神社の方は、鳥居の前にロープが引っ張ってあり、立ち入りができない様子でした。
また龍ヶ崎城の北側の龍ヶ崎小学校は江戸時代の仙台藩の龍ヶ崎陣屋跡だったようで、校門脇に説明板が設置されています。
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