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トク

福岡城天守論争続きです(読売新聞の記事から思う)

またまたこの件の投稿ですいません。今度は読売新聞(5月9日)に、この件について取り上げられた記事がありましたので、またお伝えさせていただきます。

この記事の中に千田先生のコメントがあり、先生は「今の状況で天守を建てるのはハードルが高い。文化庁の許可を得るのも難しい。城の魅力は天守だけではない。資料が残る櫓を復元したり立派な石垣を生かしていくことが、市民が誇りに思える城になる近道だ。」と述べて下さいました。まさに福岡市民である私の今まで言ってきた事を代弁していただいたので・・・今ちょっと感動しています。

どうやら、天守を是が非でも建てようと福岡市長や市の行政を最も後押ししているのは、福岡商工会議所のようです。よって福岡城になぜ天守が必要なのか? その理由を9月を目途に福岡商工会議所が提言としてまとめるとの事です。その提言を基に福岡市長が文化庁へ陳情する形となり、つまりその提言がたたき台となって、いよいよ本格的な議論がスタートするという事になると思います。

いったいどんな提言が出てくるのか楽しみです。そもそもなぜこんな論争が始まったのか? だんだんと構図が見えてきました。この先どんな展開になっていくのか! 何だかおもしろい事になりそうな、そんな予感がしてきました。


詳しくは、以下にその記事がありますので、もしよければ読まれて下さい。
htpps://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/news/20240509-OYTNT50090/
 

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リュウノスケ

いいとこ (2024/04/15 訪問)

海綺麗食べ物美味しい険しすぎる城跡難攻不落やった

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しんちゃん

当時、最も先進的だった平山城。 (2023/07/16 訪問)

多聞山城は松永久秀によって標高115m、比高30mの多聞山(眉間寺山)の山頂に築かれました。大和支配に適した立地にあり、石垣や贅を尽くした建築物に四重の天守まで備えた近代的な平山城で、西の丸は聖武天皇や光明皇后の陵墓がある佐保山に築かれていたそうです。
さすがに見学は難しいですが城址の主要部を占めている若草中学校の校門の隙間から城址碑を確認することが出来ます。
また中学校校舎と体育館の間にある道路は、かつての堀跡だったみたいです。

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しんちゃん

地元の民の力で建設・運営された国の史跡の台場跡 (2019/05/03 訪問)

淀江台場は文久3年(1863)に鳥取藩の命で地元の郷士・松波宏年(徹翁)によって築かれました。設計は徹翁の長男・宏元によるもので長崎で蘭学や築城法を学んだ人物とのことです。敷地に関しても徹翁が無償で提供し、松波父子と地元の民の尽力によって台場を完成させ「防禦隊」を組織し台場を守護しました。この防禦隊は農兵隊であったと思われます。
現在でも長さ65m、高さ5mの土塁が残っており、台場はかつては最大で大砲8門を備え、土塁の高さも今の3倍ぐらいあったとのことです。

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まさお

群馬太田 金山城 (2024/05/09 訪問)

SUBARU群馬製作所の裏山にこんなすごい城跡があるとは驚きました。
足利市から30分のドライブで西城の展望台がある駐車場に到着。
そこから尾根伝いに本丸跡までウォーキングしました。
途中には数々の遺跡が復元されていました。
城跡だけでなく素晴らしい眺望を楽しむことができました。

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甚右衛門

ずいぶん前‥ (2013/06/24 訪問)

本丸御殿第一期に行ったきり。また行きたいな。

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甚右衛門

新幹線の車窓から (2022/02/03 訪問)

以前に登城したけど、たまたま車窓から撮った写真。

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甚右衛門

上杉景虎を偲ぶ (2024/05/11 訪問)

中々登りがいのある山城跡。本丸からの景色は最高。

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まさお

鑁阿寺・足利氏館跡 (2024/05/09 訪問)

足利市の鑁阿寺を訪問しました。
境内には国宝の本堂をはじめ歴史がありそうな建物を見ることができました。
また、県天然記念物の見事な大イチョウと正面山門下の堀には大きな鯉が
悠然と泳ぐ姿を見ることができました。
近所には足利学校跡があり、多くの中国人観光客で賑わっていました。
森高千里の歌で有名な渡良瀬橋を渡って太田市に向かいました。

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甚右衛門

二回目の高田城 (2024/05/11 訪問)

春日山城に続き二回目。下手なりに綺麗に撮れた気がする。

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甚右衛門

二回目の春日山城 (2024/05/11 訪問)

五月晴れに誘われて久々にやってきました。やっぱり規模がすごい。今度はもう少し上まで行きたい。

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しんちゃん

お万の方の生まれた城 (2019/01/04 訪問)

勝浦城は勝浦湾に突き出した天然の要衝に築かれている海城で、大永元年(1521)に上総武田氏の一族、真里谷信興によって築かれたという説が有るようです。本丸の位地ははっきりしませんが地元の案内板には子供の広場あたりとされており、先端部の展望広場は物見のエリアとされているようです。(ひょっとするとここが本丸かも) なんにせよ陸側から攻められたら逃げ場のない文字通りの背水の陣です。
紀州徳川家の祖・徳川頼宣および水戸徳川家の祖・徳川頼房の母となる養珠院(おまんの方)にまつわる逸話があり、父の正木頼忠が同族の正木憲時の攻撃を受けた時に布を垂らして逃げ延びたとされる「お万の布晒し」の伝承が残っています。
この伝承は豊臣秀吉の北条成敗の時とする説もあるようです。

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しんちゃん

稲葉一鉄 (2024/04/14 訪問)

曽根城は稲葉氏によって築かれたとされます。曽根城は後に廃城になりますが本丸跡には稲葉一鉄が母の菩提を弔うために建立した華溪寺が移築されていると案内板に記載が有ります。縄張り図を見ると本丸を中心に幾重にも堀を巡らし(少なくても三重)周囲に家臣の屋敷や町家が並んでいたようです。近くを流れる平野井川も縄張りに取り込んでいますが、切所池(追堀)はどういう扱いになるのでしょうか? 北にある曽根城公園には大島堤が連なり梁川星巌紅蘭像があります。
せっかくだから稲葉一鉄の像もあると良かったんだけど‥梁川星巌は曽根村の漢詩人で、奥さんの紅蘭さんも漢詩人で結婚後に二人で岡山、下関、長崎を旅したそうです。坂本龍馬も新婚旅行をしたそうですが、それよりも早いですね。

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しんちゃん

かつての守護館あと (2024/04/14 訪問)

川手城は革手城とも呼ばれ斉美高校の敷地内の道沿いの一角にひっそりと城址碑が立っています。最初はその存在になかなか気づかず、周囲を二周してようやく解りました。すでに不審者予備軍になりかけているので、すぐに退散です。
川手城は美濃守護となる土岐氏3代・頼康によって築かれて以後11代まで歴代守護職土岐氏の居城となったようです。近くには正法寺跡と守護代館である加納城があり、これらはセットになっているイメージです。

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金魚にも出会えます (2024/03/22 訪問)

行政の職員さん?が整備中のようで数名おられたお陰で勇気をもらいいざ侵入。ぼっち女子で初見だと昼間でも薄暗く怖かったです。
神社まで上がった先に「甚五郎抜け道(犬戻り猿戻り)」という、軍艦横田甚五郎が落城を知らせるため尾根伝いに甲州の武田勝頼まで馬を走らせた難所の入口もあります。
石段も多いですが、堀切や抜け道辺りは雨天時足元要注意です。

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甚右衛門

房総旅行にて (2024/04/29 訪問)

偶然のショットが撮れました。

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甚右衛門

初の会津旅行にて (2022/11/25 訪問)

初登城の写真。天守閣は工事中で干飯櫓だけにしか入れず、残念。それにしても赤瓦が映える城だと思う。

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甚右衛門

最上義光ファンにはたまらない (2023/11/01 訪問)

そばの最上義光記念館から必見ですよ。

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まさお

栃木佐野 唐沢山城跡 (2024/05/09 訪問)

自宅から関越道・圏央道・東北道・北関東道経由で1時間半くらいで到着しました。
田沼の街を抜け、つづら折りの山道を登ったところで、猫ちゃんがお出むかいしてくれました。
神社に向けて参道を登っていくと、曲輪跡や堀切跡が見られ、神社の周りには立派な石垣が残っていました。
この周辺のゴルフ場でプレーしたことがありましたが、こんな立派なお城跡が近辺にあるとは知りませんでした。
また違う季節にお邪魔したいお城です。

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しんちゃん

歴史は深い (2024/04/19 訪問)

二条古城は織田信長が足利義昭のために永禄12年(1569)に約70日の短期間で築き上げた城郭造りの居館で二条御所とも呼ばれます。かつては義昭の兄、義輝の御所があり、それ以前には武衛職にあった斯波氏の居館が有ったようです。工期を短くするため本圀寺から多くの建物を移築しており、本圀寺やその宗徒にとってはとんだとばっちりだったようです。
義昭が槇島城での戦いで敗れ毛利氏を頼って逃れた後に必要性が無くなり破壊され、地元の衆が持ち去ったり、安土城に運ばれたりで御所跡は後肩も無くなったそうです。いまでは平安女学院敷地内に城址碑と案内板が立てられています。
わずかな時間で斯波武衛陣跡と足利兄弟二代の御所を見学できるチョコ城(ぴーかるさん拝借します)の鑑です。あたたたたたっ

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