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しんちゃん

斎藤道三の隠居城。西側には畝状竪堀がある。 (2024/06/16 訪問)

鷺山城は斎藤道三の隠居城として有名な城です。城郭大系によると文治年間に新羅三郎義光四代の孫(原文まま)、佐竹常陸介隆義の子、秀義が美濃国山田郷に地頭職を与えられ居住したのが始まりとされています。戦国期には美濃国守護の弟・頼芸が居住し、頼芸が兄の頼政を追放し守護に納まってからは革手城に入り、天文3年(1534)大桑城に移ったようです。
頼芸の下で実験を握っていた斎藤道三は主君を追放し、天文17年に稲葉山城を嫡子・義竜に譲り鷺山城に隠居しました。鷺山城は周囲に対し独立した丘陵上に築かれ、小規模ながらも充実した遺構を備えています。鷺山公園の登城道は北に付いており、北の太子堂のある郭から尾根上に二手に郭が伸びています。
大堀切を隔てて南に主郭があり、西側には畝状竪堀があり、大堀切から道が続いています。この城に来るのは二回目ですが畝状竪堀が有るのは初めて知りました。来てみるもんですね。

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しんちゃん

ゴルフ場の雰囲気はあまりなし。 (2024/06/16 訪問)

堂洞城の周囲はゴルフ場になっているようです。でもあまり、気にせずに見学することが出来ました。城址に関してはあまり印象に残ってないです。主郭の南に浅い堀が有る以外は特に遺構は残っていないようです。
堂洞城は堂洞峠に築かれていたとされています。遺構はあっさりしていますが、なかなか激しい戦いのあった城のようで、永禄8年(1565)城主・岸勘解由信周は斎藤氏に従いこの城に籠って織田信長の軍勢と戦ったそうです。戦いは6時間に及び、長男信房は討死し、信周は妻と共に自害して果てたそうです。

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朝田 辰兵衛

赤い城さんへ~激ムズなクイズ~

ちょっと自信はないですが…彦根城の腰巻石垣かなと思います。同アングルの写真がないのでなんとも…なんですが,こんなキレイな腰巻石垣は数えるほどしかないと思います。石垣だけなら松代城の雰囲気を漂わせているのですが,写真の雰囲気から「腰巻石垣」と判断しました。
いかがでしょうか…?

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しんちゃん

比良城 佐々成政の城の物騒な伝説 (2024/06/16 訪問)

比良城は愛知県名古屋市西区比良の光通寺の一帯に築かれていたとされます。「信長公記」首巻には(小城では)比良城ほど良い城は無いと聞いていた織田信長が、その近くの蛇池に大蛇が住むという伝説を聞いて、確かめに赴いたついでに比良城にも寄る予定でいたと書かれているようです。
その際に佐々氏家臣・井口太郎左衛門が信長暗殺を企てますが、信長は比良城に寄らず清州城に帰ったために未遂に終わったとのことです。真偽のほどは定かではないのですが、成政の父・成宗の意図によるものなのか興味深いところです。
城址の遺構は残っていませんが、境内に「佐々成政城址」の立派な城址碑があり、脇に佐々成政の供養塔も立てられています。

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カズサン

南美濃未踏の城探訪1/7竹ヶ鼻城 (2024/10/14 訪問)

 秋日好天続きで急ぎ未踏の空エリア南美濃の城探訪へ、浜松より高速を飛ばし岐阜羽島ICを出て北に約2km程の竹ヶ鼻城へ初登城しスタートを切りました。

 駐車場:羽島市歴史民俗資料館駐車場を利用。
 参考資料:城郭放浪記さん古城盛衰記さんグーグルマップに依る。

 城郭風建物の羽島市歴史民俗資料館が故地に成り、西側の道側に案内解説板と「史蹟 竹鼻城本丸之趾」石碑が並んで立っている、西側には立派な東本願寺竹鼻別院が建ち、門前横にはお城地蔵菩薩立像が建立されている、この地蔵は竹鼻城玉砕の風雪忘れ去られた戦没者の供養をと、昭和に入り町内某氏が供養塔建立発起したが戦時下の情勢悪化で中断、戦後町内有志でこの意志を継ぎ昭和25年お城地蔵菩薩を建立したと案内板に記載されている。

 朝8時半に着きました、歴史民俗資料館は9時より開館でしたが係りの方が出勤しており早めの入館と成りました、入館料大人300円、丁度1階の企画展示室ではこれから訪ねる八神城の「八神城と毛利氏」題して企画展示が令和6年10月5日~12月15日まで開催中でした。
 清和源氏を祖とする名家毛利氏、当代の提供を受けてこの展示となった、八神城の江戸期絵図と立体模型、毛利氏系図では八幡太郎源義家からの系図が展示、古文書、古文書写真写し、菩提寺金寶寺に在る歴代城主の墓の写真など展示。
 尚展示の資料は「八神城と毛利氏」展示会の案内パンフレットとA4の配布資料のみ、係りの方に今回の展示の小冊子を訪ねましたが無いとの事で残念がって居ましたら、展示会が終了後に羽島市歴史民俗資料館のHPにアップするそうです。

 又2階の資料展示室の奥角に「竹ヶ鼻城」の展示がされて居ます、ここも秀吉の水攻めが小牧長久手の戦い時あった様で、一夜堤の跡地を示す石碑の写真展示3ヶ所(竹鼻町今町、市営斎場前、羽島郵便局前)。
 関ケ原の戦いでの前哨戦で東軍と戦い落城炎上した旨の解説がなされています。
 尚帰宅後に羽島市歴史民俗資料館のHPを開くと「竹ヶ鼻城」の解説説明がA4で4~5頁ほどの解説が掲載されいました。

 また、羽島市歴史民俗資料館には映画資料館も併設されて2階には懐かしい映画ポスターが貼られて美空ひばり、大川橋蔵などの人気俳優を久しぶりにポスターで眺めました、映写機などの機材も展示、視聴室も併設で鑑賞会も有る事でしょう、昭和の時代を内蔵してる異空間でした。

 行き帰りに竹鼻町の狭い道を通り抜けましたが古き良き時代を彷彿させる伝統的建物群が連なって居ました、良い街並み家並みです。
 
 この後は約1.4km程北西の一夜堤秀吉本陣の太閤山砦を目指します。
 

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朝田 辰兵衛

赤い城さんへ…

赤い城さん,勘違いさせてスミマセンm(__)m
東京コンプは来年を計画しており,まだ10城ぐらい残しております。
とりあえず,大島上陸4番目ということでした…。
来月,多摩エリアを散策するつもりです。
にのまるさんの庭荒らし…?
さらに,東京都立中央図書館で「江戸城で暮らす展―中奥・大奥―(10/26~11/10)」が開催されており,
行ってみようかと思ってます。入場無料です。

クイズの写真は,パッと見で思い当たりません。
水堀の中に…ですよね?
ちょっと考えてみます。

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赤い城

朝田さん、東京都クリアおめでとうございます😊

晴天の大島、気持ちよさそう!
三原山など見どころも多いので次行けるとしたらじっくり見学したいですね。

さて、通常ならにのまるさんからクイズがあると思うのですが最近拝見していないので僭越ながら。

東京の城ではありません。。。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)3日目:大留城 (2024/09/24 訪問)

高蔵寺駅北口バス停から徒歩30分くらいで、子安神明社入口(35.258599、137.027292)に着きました。

1546年(天文15年)将軍・足利義輝の家臣・村瀬氏が領地内に館を築いたのが始まりのようです。その子・村瀬作右衛門が城主といわれています。
1584年(天正12年)に起きた「小牧・長久手の戦い」では城主・村瀬作右衛門は羽柴秀吉側に味方しましたが、池田恒興、森長可らとともに討死したため、そのまま廃城となりました。
現在城址には子安神明社があり、城址碑が建てられています。

神社に入った正面に土塁、その上に祠と城址碑があります。東側と本殿裏側に空掘が残っているようですが、よくわかりませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=多治見国長邸を目指す為、電車で高蔵寺駅から多治見駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)3日目:大草城 (2024/09/24 訪問)

名鉄バスの大草北バス停から徒歩10分くらいで、白山神社参道入口/登城口(35.291040、136.989110)に着きました。

岩倉城主・織田伊勢守信安に仕えた西尾式部道永が、文安年間(1444年〜1449年)に築いたと云われています。
その後、岩倉織田氏の家督争いのために西尾氏がこの地を離れ美濃へ移ると、1548年(天文17年)頃に廃城となったようです。
大草城は白山神社一帯に築かれていたようです。

白山神社境内の石碑と案内板を確認しました。
土塁や空堀らしき遺構は見ましたが、確証はありません。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=大留城を目指す為、大草バス停から名鉄バスで高蔵寺駅北口バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)3日目:上末城 (2024/09/24 訪問)

名鉄バスの高根バス停から徒歩20分くらいで、石碑案内板前(35.298050、136.961380)に着きました。

足利将軍家の末裔と伝わる落合将監勝正によって、文明年間(1469年〜1487年)頃に築かれたと云われています。
勝正の子、落合安親は織田氏に仕え、1584年(天正12年)の小牧長久手合戦で秀吉方となり、池田恒興が率いた三河中入り隊の道案内をしていましたが、徳川家康に敗れ、廃城となりました。

現在城址には土塁や空堀が一部残っているそうですが、外から見てただの竹藪なので、中には入らず案内板と石碑、ちょこっと見える土塁を確認しました。
また城の南西にある陶昌院に安親の墓があるようですが、時間の都合で行ってません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=大草城を目指す為、上末バス停から名鉄バスで大草北バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)3日目:上条城 (2024/09/24 訪問)

春日井駅から徒歩10分弱で、石碑/屋敷跡碑付近(35.239248、136.984170)に着きました。

上条城は織田信長の家臣である小坂宗吉(小坂雄吉)の居城でした。
宗吉の前は林盛重が城主でしたが、盛重は領地を織田信長に献上して帰農しています。
1584年(天正12年)に起きた「小牧・長久手の戦い」では三河中入隊を率いる池田恒興が三河への足掛かりとして入城し、盛重の子の林重登が道案内をしています。
その後、休戦交渉の際に吉田城とともに破却されましたが、重登は秀吉からこの地の総代庄屋に指名され、城址に屋敷をかまえることを許され、代々大庄屋としてつとめました。現在城址は駐車場となっており、一部だけ土塁が残っています。

現在城址は、駐車場となって、柵やフェンスに囲まれています。
遺構として土塁と石垣、天守台跡が確認できますが、草とフェンスに覆われて隠れています。
上条城の説明が書かれたものはなく、石碑は明治に功績のあったこの地域の偉人のものでした。
城址だと分かっていないと、土塁もただの盛り土と思ってしまいます。
バスの時間が迫っている為、攻城時間は5分くらいで撤退しました。次の攻城先=上末城を目指す為、春日井駅バス停から名鉄バスで高根バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)3日目:日比津城 (2024/09/24 訪問)

本日は移動距離が長く&攻城数も多い為、朝食抜きで出発しました。
金山駅で荷物をコインロッカーに預け、金山駅から電車(名鉄➡名古屋市営)で本陣駅に向かいました。
本陣駅から15分くらい歩いて、大円寺入口(35.179739、136.858349)に着きました。

南北朝時代に野尻掃部が城主であったそうです。

大円寺を含む北側一帯が日比津城のあった所とされていますが遺構はありません。
大円寺にある石碑(日比津城主御菩提所)と野尻氏と伝えられる石塔二基の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=上条城を目指す為、本陣駅から電車(名古屋市営➡JR)で春日井駅に向かいました。

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しんちゃん

縄張りは単純ゆえに味わい深い。土塁ウォーク推奨の城。 (2024/06/16 訪問)

黒野城主・加藤氏は西美濃安藤家の一族で土岐氏の旧臣であったと城郭大系には記載があります。城主加藤貞泰の父、加藤光泰は土岐氏の次は斎藤氏に仕え豊臣秀吉→秀長に仕えた後、秀吉に召し返され甲斐国24万石を領するまでになりました。
文禄2年、文禄の役からの帰国の途中に急死し、子の貞安は幼少であったため黒野城主として4万石でここに入ったとされています。
黒野城は方形の郭の周囲を高土塁と水堀で囲まれています。土塁の上を周遊することが出来、今でも北西隅櫓と南東隅櫓はその形状を良く残しています。入り口は南西に付き桝形虎口であったと案内板には記載が有ります。

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とばつびしゃもん

佐渡島の城3 (2024/09/08 訪問)

台場都市農村公園の駐車場に車を駐車し登城開始。
幕末の砲台跡で、海に向かって大筒を配備した土塁が見られる。佐渡の海岸には60ヶ所もの台場があったらしく、国防上重要な地であったことがわかる。15分ほど海風を感じながら攻城。
小川台場から少し北上したところにある海小屋というカフェで遅い昼食。ロケーション良し。

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ぴーかる

千種城 (2024/09/23 訪問)

【千種城】
<駐車場他>駐車場あり。<35.033284,136.486738>狭い橋渡ります。
<交通手段>車

<見所>堀切・虎口・居館跡?
<感想>日帰り少し涼しくなったので伊勢湾ぐるり平山城行けるかな旅1城目。(だんだん旅のタイトル付けも絞り出す感じになってきた(自笑))
 現地説明板によると千種城は後醍醐天皇の近臣千種忠顕の四男顕経が南北朝時代に築城したとされます。城下の下に千草街道が通っていて街道の要所にありました。戦国期には三重郡24郷を領して威勢がありましたが、信長そして秀吉の軍勢に攻められ、最後の城主顕理は大坂夏の陣で戦死して廃城となりました。
 城跡は西の鈴鹿山脈から伸びる突起状の丘陵地にあり、現地説明板によると西側に本丸、東側に出丸の二つの曲輪で構成され、その間に空堀で仕切られているとあります。城跡碑のある公園化された曲輪が主郭跡とすると登城口前の南北に走る道路が空堀跡となり、その東の民家が出丸となります。城跡碑の曲輪が出丸とすると、その西にある遺構の大堀切が仕切り空堀で老人ホーム城山苑辺りが主郭となる。
 城跡碑のある曲輪は東に土橋のある空堀があり3方に高い土塁を備えています。曲輪の西南奥から西の大堀切に行けます。西の大堀切の南側に隅角部の石積み(後世のものか)があり大堀切の西側の曲輪壁にも石積みが見られます。城山苑周辺には切通し虎口のような遺構、曲輪壁の鋭角の段差、矢穴のある石が落ちていました。規模的にも城山苑一帯が主郭跡かなあと私には感じました。

<満足度>◆◆◇

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小城小次郎

東の丸と桜御門 (2024/02/17 訪問)

まだ見ていなかった東の丸の石垣や艮櫓台(今の艮櫓がもともとあった場所)や、新装なった桜御門を2024年2月にしっかり見てきた。そういえば桜御門は下見板張りで、全部の建物が真っ白だったわけではないのか。

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朝田 辰兵衛

源為朝館(東京都大島町) (2024/10/13 訪問)

元町港から徒歩1分。案内標識はイヤでも👀に飛び込んできます。大島は佐渡と並んで昔から流刑地。館跡や屋敷跡が遺っているなんて,珍しいかと思います。
ま,大島に来たらお約束の場所ということで…。

本土では,丸岡でイベントがあったのですが,こっちに来ちゃってスミマセンm(__)m

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しんちゃん

徳川家康最初の陣 関ヶ原町 (2024/03/31 訪問)

徳川家康最初の陣は国の史跡に指定されています。陣跡とされる「桃配山」は「壬申の乱」の際に大友皇子に勝利した大海人皇子が陣を敷いたという伝説があります。その際に村人から献上された桃を兵士に配り士気を高めたとされています。
おそらくこの桃配山、尾根沿いに南宮山と繋がっています。日清戦争の前年、陸軍参謀本部が発行した関ヶ原合戦図が今の毛利秀元や吉川広家の陣の配置の元になっていますが、参謀本部が参考にしたとされる神谷道一翁の「関ヶ原合戦図志」には毛利勢の布陣が南宮山の尾根上に展開していて、吉川と福原の手勢がそれを封じ込めるように布陣しています。
私としては日清戦争前夜の南宮山の戦略的有用性から参謀本部が「関ヶ原合戦図志」を利用し、江戸時代の都合の良い布陣図を流用して南宮山の主要部を軍用地として温存したと推測します。当然行政もグルになっていたわけで、それが今でも引き継がれているようです。

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朝田 辰兵衛

4番手で「東京レジェンド」の仲間入りか…❓ (2024/10/13 訪問)

8月に大島行きを断念したので,ここで再計画を立ててました。いちおう,前日に東京入りし,竹芝港の下見と予約を済ませました(この時,チェブさんとすれ違っているかも…)。すでに,ジェットフォイル増発便の出港が決まっており,往復増発便の座席が取れました。
当日は真夏のような天候で,しかも岡田港ではなく元町港という幸運に恵まれました。
《往路》竹芝港 8:30→元町港 10:15
《復路》元町港 14:45→竹芝港 16:30
当初は,岡田港と元町港のバス往復を想定していたのですが,時間もお金も浮きました。そこで,大島の観光ガイドブックを事前に立ち読みしていたことがさらに充実度をアップさせました。
元町港に上陸後,大島バス(波浮港ライン)に乗車。武田信道屋敷最寄りの野増(のまし)バス停をスルー。地層断面前バス停下車。330円。バスを降車してすぐ,三原山の噴火による地層の断面が,バウムクーヘン状になって現れます。なかなか絶景です。
ここで,戻りのバスが1時間待ちなので,野増(のまし)バス停まで徒歩移動。途中「カッパの水」があり,島に伝わる伝説にほっこりしました。武田信道屋敷を散策して,ちょうどよく野増(のまし)バス停にバスが到着。190円で元町港へ…。
この後は,お約束の源為朝館へ…。
にのまるさん,赤い城さん,チェブさんに続き4番手となりました。

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しんちゃん

徳川家康最後の陣(国指定史跡) 田中吉政陣 (2024/03/30 訪問)

いきなりですが関ヶ原古戦場の写真です。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦に於いて徳川家康が最後に陣を構えた場所とされ国の史跡に指定されています。家康公はここで討ち取った敵将の首実権を自ら行ったとされ、陣跡には床几場が設置されています。
この床几場は天保12年(1841)に幕府の命で領主・竹中重明(13代)が整備したとされ、中央に土檀、周囲に土塁が築かれ松が植えられています。わざわざ幕命で築かれていることに、徳川家が関ヶ原の合戦で勝利し天下人となったことを強調する意志を感じます。
個人的には、小早川の動向が不明(すでにかなり敵意を示していると判断)な段階で西軍が北国街道の守りを重視することに意義を見出せません。東軍がここを強行突破すれば追撃を受けるし、もしここを抜けても大津城を攻撃していた西軍に挟撃を受ける可能性があります。東軍としても小早川がはっきり裏切りの行動を起こすまでは眼前の西軍に集中するしかないからです。
国の史跡になんですが、笹尾山とこの家康最後の陣は、怪しい「国の史跡」だと考えます。

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