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天守無しがアツい

北条氏照の居城 (2024/05/06 訪問)

(八王子市HPより)https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/002/005/p003412.html

JR八王子駅からバスで20分の所にある滝山城址🚌 バス停からファミマが見えるのですが、それとは反対方向に進み、案内板に従って竹の茂った坂道を進みます(というかもうそこからが城址の敷地内なんだけど)

三の丸→二の丸→と進みます🚶‍♂️ 途中、封鎖されてる道および場所が3箇所(そこは脇道なのでそのまま進む分には支障は無いけど)ありました。中丸に着くとトイレがあり、レジャーシート敷いたファミリーがおり、そして城址というか滝山公園という名前で案内板(1枚目)がありました

北条氏照(小田原北条氏3代目氏康の次男、4代目氏政の弟)がこの城を居城としており、永禄十二年(1569年)には小田原城に攻め込んだ武田信玄がここを包囲…周辺の村々を焼き払い(城こそ落ちなかったものの)甚大な被害を受けた模様🔥🏠

(本能寺の変が起きた)天正十年(1582年)ごろから、ここより更に堅固な天然の要塞である八王子城の築城工事が始められ、天正十五年(1587年)には拠点はそこへ移り、滝山城は廃城になってしまったそう

中丸にはかつて宿泊所となっていた建物(2枚目)もあり、そこに日本100名城スタンプ(画像右下)が設置されてました。今の私にとってスタンプは御城印と同じくらいの価値と達成感のある存在なため、スルーなどあり得ません…

郵送販売用の用紙が備え付けられており、念の為にそれを取って、その捺印欄に試し押し…文字が薄らとしてる箇所はありましたが、及第点には色が写っていたので、それに続きスタンプ帳にも押しました

3枚目は本丸の中心地。この側に霞神社…金刀比羅神社…と言った神社があり、まずそこにお参り。規模が小さく無人の施設だったので御朱印の類はおそらく無いと思われます。日露戦争および満州事変や太平洋戦争における戦没者を慰霊する文章が彫られた石碑(慰霊碑と思われる)もそこにありました🪨

それから階段を降りて空堀を歩き、中丸と本丸を繋ぐ橋の下を通る…そして本丸に戻り、滝山城址の石碑…その歴史が短めに紹介された石碑を眺めたわけです。北条氏照が当主で八王子城に移転する前までは、この辺りに何らかの屋敷がおそらくあったのでしょう🏠

本丸の端から眺めた光景(4枚目)川…そしてマンションがズラリと並んだ街並みが見渡せます。これを一目見て「撮影してSNSに挙げる価値あり」と直感した私は迷わずスマホの撮影機能を立ち上げてシャッターを押しました

ここの城が現役だった頃にはどんな風景が映っていた…のでしょうか

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しんちゃん

コンパクトだが遺構はなかなか充実している。 (2024/04/21 訪問)

端谷城は衣笠氏によって築かれたとされています。三木合戦の際には城主、衣笠範景は別所氏に味方しますが三木城落城後の天正8年(1580)2月に織田方に攻められ落城したとのことです。
城址はコンパクトな構造で訪問もし易いのですが、遺構はなかなか充実しています。三の丸である満福寺の脇から登城道が伸びていて、大きな堀切に土橋がかかっており、そこから先に登って行くと二の丸に至り、すぐ近くに本丸が迫っています。本丸の北西部には物見台があり、本丸の背後(北側)には大規模な堀が周回しています。雑木が生い茂っていて堀の全容は把握しづらいですが、この城址の見どころとなっているようです。

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しんちゃん

荒木村重が最後に籠った城 (2024/04/21 訪問)

花隈城は織田信長が荒木村重に命じて築かせた城で築城時期については諸説あるようです。築城の際には穴太衆を用い、かなりの量の石垣を使用したようです。天正6年に荒木村重が信長に反旗を翻すと、有岡城の支城として戦い、有岡城・尼崎城から撤退してきた村重が最後に籠った城とされています。花隈城はその後、池田恒興らに攻められ天正8年(1580)に落城し、村重は高野山を経て毛利氏の下に亡命したとされています。
本丸跡地にある駐車場には模擬石垣が積まれ、石垣の上は公園になっています。模擬天守台の上からは周囲の街並みを見ることができます。

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bono

とても良かった

一度は行きたいと思っていました。GWだったため駐車場は資料館のところまで満車で、一番下のバス停前になんとか置いて行きました。巨岩が多く、非常に見ごたえあります。途中落ち葉などで足元が不安定なところもあるため、気を付けてください。的場跡がありましたが、安土も残っていて嬉しかったです。

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チェブ

かやの木は残った? (2024/04/13 訪問)

中村 朝宗さんが築いた「中村城」。
中村 朝宗さんは、源 頼朝さんの奥州討伐に従い戦功を挙げた方です。恩賞に伊達郡を貰います。つまりは、伊達家の初代に当たる方です。
ん?茨城県の「伊佐城」でも伊達家の祖の方がいらっしゃったような、、、。
写真⑦の説明板によると、朝宗さんの息子さんが伊佐領を塀領したようです。

遍照寺周辺が「中村城」です。
遍照寺に駐車場があるようですが、土塁に平行に路駐しました。そこから歩くと土塁は二重になっているのが確認できます。
この二重土塁を内側から見ようと、お社の後ろあたりをうろうろしました。
少し歩くと『中村城主 藤原 日向 入道 玄角終焉の地』の石碑がありました。この方は14代目です。
玄角さんと共に「中村城」は廃城しました。

「中村城」をWikipediaで調べたら、NHK大河ドラマ『樅の木は残った』のモデルになった古木がある。とありました。
『樅の木は残った』は仙台藩の伊達騒動を描いてます。
中村家が、伊達郡に赴く際に植樹したんだとか。
因みに、遍照寺の古木は、樅ではなくカヤです。
少し前に『樅の木は残った』の総集編を観たばかりだったのでビックリしました。ドラマ内で映った古木が、こちらのカヤだったのかもしれません。

でも一番ビックリしたのは、カヤの古木の写真を写していない事だった「中村城」攻めでした。

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ぴーかる

日方城 (2024/03/02 訪問)

【日方城】
<駐車場他>駐車場はなし。市民の森まで車で行け、停めれなくはないがきちんとした駐車場はない。手前の分岐<34.165153,135.220083>に2台程度停めれるので、ここから歩くほうがいい。
<交通手段>車

<感想>日帰り和歌山山城攻め3城目。日方城の城郭情報は少ない(現地説明板が錆びて読めぬ)のでよく分からないが、築城主:山名氏、築城年:南北朝時代となっていることから、紀伊国守護に任ぜらた山名義理が大野城に本拠を移した前後に支城として築城したと考えます。
 市民の森から傾斜面を数百m登ると虎口的な薄い段、正面に切岸が見えます。曲輪進入口左手斜面には竪堀のような跡、進入口右手の土塁は明瞭に残っています。進入口から入った曲輪は副郭のようで平坦地になっています。その曲輪に錆びて読めない説明板が木に立てかけてあります。そこから西へ緩傾斜に登っていき山頂になっています。なんせ、城跡の南半分しか藪が伐採されていなく、北半分は背丈以上の笹薮となっていて様子がよく分かりません。緩傾斜の南側斜面と曲輪の切岸は明瞭で山頂手前には横堀とみられる遺構もあります。山頂部分が少ししか整備されていなくて、広い主郭が北方向に広がっていそうなのですが‥‥‥。

<満足度>◆◇◇

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朝田 辰兵衛

母のガイドついでに… (2024/03/18 訪問)

齢80を超えている母に「スカイツリーで同級会やるから連れてって…」と嘆願され,ガイドとして同行しました。さすがに集まったのは,5名(私を除く)。当然,カメラマンも頼まれ,ホテル手配,チケット購入なども引き受けました。
待ち合わせ時間をランチタイムに合わせていたため,ホテルの朝食からチェックアウトまでの間,数時間の余裕ができました。
東武を使って押上駅から西新井駅まで。西新井駅からは,徒歩約20分。天気は良かったのですが,強い風が吹いた日でした。
中曽根城(中曽根神社)の前はゴミステーションとなっており,地元の方々が朝の挨拶を交わしているところにおじゃました形となりました。
単発ですが,久々に東京ポチです。

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うさ

小里城 (2024/05/08 訪問)

麓にも山頂にも素敵な石垣が見られます。
まあまあの山登りですが、見る価値ありです。

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うさ

久々利城 (2024/05/08 訪問)

手軽に見学できる平山城です。
ほぼ目の前の久々利地区センターで御城印あります。
下から見ると丸い曲輪が段になっていてかわいいです。

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chiroru

再訪 (2024/05/05 訪問)

前回の登城は二年前の同じ日で、晴天で今回もありがたいことに晴天でした。
まだ続100名城巡りを本格的にやっていなくて、今回はスタンプもしっかりと押印。

知り合いとかとお城巡りの話になり、どこかおすすめのお城は?と聞かれたら必ずこの「苗木城」と
答える自分があります。その時点で自分も一度しか登城していなかったのですが、記憶にしっかりと植えつけられる
素晴らしい石垣と景色を見てもらえるように薦めてるんです。

今回も素晴らしい石垣と景色を満喫してきました。おまけに郷土菓子「からすみ」もお土産に。

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カズサン

樹木伐採景観整備中 (2024/04/20 訪問)

 放生津台場、元海王丸探訪見学を終えて北陸路18番目に今回城廻り探訪の締めとして高岡城に登城、前回は平成15年8月で今回3度目となります。初回は50数年前でJR周遊券で北陸路を廻った時かと?

 駐車場:高岡城北東に在る、小竹藪駐車場(無料)を利用。混んでいて入れ替えで駐車出来ました。

 20数年振りです、城郭は大きく広く全域は廻れませんので、御城外の小竹藪に南から登り、高岡古城公園案内板の資料箱で案内パンフレットを入手し、朝暘橋から本丸へと狙いましたが4月23日まで工事中なのか通行禁止、三の丸に廻り内濠を廻って、明丸へ、丁度本丸の東の角が樹木伐採されて築城当時の本丸土塁が明瞭に見る事が出来ます、大変ラッキーでありがたい。本丸東側の内濠と明丸の動物園を通ってお子さん、家族で賑わっていました、本丸土橋の東面の石垣を明丸と鍛冶丸の間辺りで眺め高岡城唯一の石垣を確認、大手口で高山右近の像を眺めて、南外濠を廻り込んで駐春橋から二の丸へ入る、護国神社横を通って、本丸土橋上へ、此処も景観整備で二の丸護国神社側の内濠土塁面が樹木伐採されて土法面がよく確認できます。ここに景観整備の案内板が有り今年の7月30日までと注記されていました。本丸の射水神社鳥居で拝礼して本丸広場へ、前田利長騎馬像を拝見、朝暘橋が通行止めで又来た道を通って小竹藪駐車場へ。
 今回外周は廻って居ません、西側の外濠、東側の外濠が気になるのですが、3時過ぎから1時間半も掛かり足の裏、膝も痛くなりまだ陽は残って居ましたがここで今回の城探訪は終了です。
 
 今回は切山城主目的で充分堪能、能美市の和田山城、白山市の舟岡山城は予期せぬ大収穫で目の保養をさせて頂きました。
 長々と18城の投稿ご覧頂きありがとうございました。
 
 
 

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ゾウさん

日本海側で現存する砲台の代表格! (2023/02/24 訪問)

規模は大きくないが、5基の砲台があり、ペリー来航の1年前(嘉永2年)に設置されたことから、そのころの丸岡藩のお家事情はもちろん、幕府の様子も大変興味深い

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畝状竪堀パラダイス (2024/05/01 訪問)

todo94さんが、「畝状竪堀パラダイス」と投稿されているのを見て、行きたい城にノミネート。城域は、植林+手入れにより、下草がなく、遺構がとても見やすいです。また、堀が風化しておらず、todo94さん指摘のように、写真でも畝状がくっきり写ります。
鎌倉時代築城ながら、織豊期の縄張りが加えられており、大規模、複雑です。畝状竪堀パラダイスのⅠ郭南西は、その先にピークがあり、また緩斜面の守りを担っています。Ⅱ郭周りは急峻で、帯郭Ⅴがはるか下方に見えました。
登城口はいくつもあるようですが、写真10の所に説明板があります。国道沿いに道標があり、その前の広場にバイクを停めて登城しました。帰りに地元の方が声をかけてこられました。

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イオ

大手口多聞櫓と千貫櫓 (2024/05/03 訪問)

大手口多聞櫓と千貫櫓は5年前の特別公開に行っているので、今回は乾櫓だけでもよかったんですが、乾櫓のみ公開の日には行けそうにないため、ゴールデンウイーク中の3櫓の公開日に訪れました。

大手口多聞櫓の渡櫓の槍落とし、続櫓の笠石銃眼や武者溜などは前回にも見た記憶があるものの、続櫓の東面に設けられた謎の扉(高さ5.7mの石垣上の扉の外には何もない)などは全く覚えがなく、石垣の刻印の展示パネルにより多聞櫓北方塀(渡櫓と千貫櫓の間)の笠石銃眼の刻印を認識できたり、再訪なりの発見がありました。

千貫櫓も同様で、狭間や石落としは見覚えがあり(大手土橋に横矢掛け放題)、二階は今回も非公開でしたが、放映されていた案内VTRで二階の様子を観ることができました。そこで紹介されていた二階への荷揚げ用の格子扉は今回初めて認識した…ように思います。

…ということで、乾櫓のついでに再訪した大手口多聞櫓と千貫櫓でしたが、一度訪れただけでは気付かなかったこともいろいろとあって、これはこれで来た甲斐がありました。それでも、帰宅してから改めて調べてみるとまだまだ見落としもあるようなので、またいつかの機会には再訪したいものです。あとは一番櫓や六番櫓、金蔵にも入ってみたいところですが…公開されることはあるのかなぁ?
 

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todo94

福岡城さくらまつりとPIKMIN BLOOM TOUR FUKUOKA 2024 (2024/03/30 訪問)

前日は、黒島にて佐世保鎮守府周遊ラリーを完遂し、特急みどりで博多へむかいました。そして博多港からフェリー太古の船中泊で奈留島へと渡りました。世界遺産の「奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)」が目的です。レンタサイクルでササっと回って福江港経由で長崎大波止へ。長崎駅まで走って長崎新幹線に乗り、リレーかもめと福岡市営地下鉄で赤坂駅に到着した時刻は17:27。18時には終了してしまうPIKMIN BLOOM TOUR FUKUOKA 2024に30分ほどでしたが、参加してまいりました。折しも、福岡城ではさくらまつりが開催されていましたが、今年は桜の開花が遅く漸く咲きそろってきたという感じでした。天守台にはイルミネーションの天守が組みあがっていました。まだ点灯はしていませんでしたが。この後は、福岡空港に向かい株主優待の航空券で帰路へと着きました。

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うさ

神奈川台場 (2024/05/05 訪問)

公園があり、その近くの民家の隙間に石垣が残っています。

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にのまる

甲武国境越えと杉田屋敷 (城びと未登録・東京都西多摩郡奥多摩町) (2024/04/14 訪問)

春もうららな行楽日和の日曜日、中央線と青梅線を乗り継いで奥多摩へ出かけました。
山小屋風の駅舎がとても素敵なJR奥多摩駅は東京都最西端の駅です。
駅前の観光案内所で散策マップを数種類いただき西東京バスに乗り込みます。臨時便も出るほどの混雑ぶりでしたが奥多摩の大自然に吸い込まれるようにみなさん下車していかれました。ハイキングコースや観光スポットが沿線にはいくつもあるようです。

車窓を彩る雄大な自然や奥多摩湖を眺めながら約30分間のバス旅を楽しみ、奥多摩駅から36駅目の「留浦(とずら)」停留所で下車しました。
「留浦」は東京都最西端のバス停です。終点ではないので次のバス停は山梨県。県境越えのバスなんて太川さん大喜びしそう(*^▽^*)

ここまで来たらもちろん歩いて“ぴょ~ん”と都県境越えをしたいところですが、その前に湖畔に下りてみました。「秩父多摩甲斐国立公園」の構成要素である奥多摩湖は正式名称を小河内貯水池という戦前から戦後にかけて造られた人造湖です。
お目当てのひとつだった留浦浮橋(麦山浮橋も)は水位低下のため通行止めで橋も外されていましたが、周辺には渇水によって湖底から姿を現したか上流から流れついたかと思われる年代物の“ママレモン”の容器や動物の頭骨(熊かも?)など、人々の暮らしや自然界の生き物たちの痕跡が見られました。

いつか水位が戻ったら浮橋を渡りにまた来ることとし、鴨沢橋を渡って山梨県丹波山村にぴょ~んと入りました。城びとらしく言うと甲武国境越えです。青梅街道が塩山や甲府まで通じていますが、境目に立つとなかなかディープな場所に来たものだと感慨深かったです。

ここからが本題なのですが、国境における戦国時代末期の甲州側の守将は小菅の川久保に館をもつ武田氏の家臣小菅遠江守信景、武州側は小河内の川野に館を構える杉田入道重長とその一党で、表題の【杉田屋敷】は杉田入道重長の屋敷跡のことのようです。城びとには未登録ですが、“ニッポン城めぐり”に登録されていたので今回レポートさせていただきました。しかし、屋敷跡と推定される場所は奥多摩湖の湖底。ダム建設の際に小河内村と共に沈んでしまっています。
※帰りに寄った「水と緑のふれあい館」に戦国期の資料や解説、中世文書の展示があり、私の乏しい知識を補ってくれました。

街道沿いの雲取山登山口に向かうあたり(山梨県)でお食事できるところをさがしたのですがあいにく開いていなかったので、東京都に戻って深山橋の手打ち蕎麦「陣屋」さんへ行きました。いただいたのは「そば定食(ご飯なし)」。この素朴さが最高の贅沢なんだなーと思いながらおいしくいただきました。

その後再びバスに乗って、小河内ダムの見学に行きました。
どこを切り取っても美しい、いつまでも見ていたい(でも夜は怖いかな)景色が目の前に広がります。都心の桜は既に見頃を過ぎていましたがここでは山桜がまだ山々を彩っています。都会のアスファルトに散る花びらには花のいのちの儚さを思いますが、風に吹かれ空を舞う花びらに寂しさなどは少しもありませんでした。
今でも鮮やかにそれらの景色が目に浮かんでくるのですが、合わせて読んだ『日蔭の村』(石川達三著)を思い返すと、山の中腹に立つ民家はダム建設にあたって高台に移転を余儀なくされた人たちの家なのかもしれませんし、観光客としての視点では見えてこない歴史があることを思います。
ダムに沈んだ村のこと、家や仕事や将来の希望も失った人のこと、建設工事で命を落とした人たちのことも記憶していたいと思いました。

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シェル

雨の一乗谷 (2024/02/25 訪問)

 福井駅東口の京福バスの窓口にて「休日フリーきっぷ」を購入して、福井駅西口6番バスのりば から乗車。約40分で「復原町並」のバス停に到着し、攻城開始!!
(休日フリーきっぷは、京福バスの路線(福井・一乗谷・越前大野・丸岡など)が乗り降り自由になるので、かなりお得です!!)
 雨模様であったため、山城には行かず谷を 朝倉館跡→中御殿跡→諏訪御殿跡→復原町並み→朝倉景鏡屋敷跡→下城戸の順で見学。
 日本100名城のスタンプは復原町並南側の入り口で押印。
 復原町並では、雨模様であったということもあり、ほぼ貸し切り状態で見学させていただきました。建造物内は当時の様子の再現が展示されており、なかなか興味深かったです!!
 また一乗谷北側の下城戸の土塁と水堀、さらに巨石で構成された虎口は迫力満点でした!!
 
 雨の一乗谷の醸し出す幻想的な雰囲気もなかなか味があり良かったです!!

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しんちゃん

石垣や土塁、堀切などの土塁も楽しめる。 (2023/12/30 訪問)

楯岩城を主郭から西側に降って行って周囲に巨岩があるあたり、少しわかりにくい場所に石垣が有ります。右手に回り込んで下から見上げると、向かって北側に石垣がついていました。ぴーかるさんの投稿にある二の丸虎口の周辺です。西の少し広い郭(三の丸?)には土塁が残っています。ある程度まで降りて行って、ひとしきり遺構を見たら、主郭に引き返します。改めてこの城址は岩の多いところです。主郭の北側にも堀をいくつか配して背後の守りを固めています。
どうも東の小高いピークも城山と呼ばれているようです。楯岩城の支城かな? と思いましたが訪問はしませんでした。先は長いので体力温存です。
楯岩城は標高250mの大山の山頂部に築かれており鎌倉時代末期に三浦大輔が居城したとされますが、詳細は不明です。現在の楯岩城を築いたのは赤松範資の子則弘(広岡氏の祖とされる)で嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱の際に落城しています。広岡氏の一族がその後も在城し、その後 浦上氏と結んで置塩城の赤松惣領家(屋形)や龍野赤松家と争ったとの話もありますが、羽柴秀吉に攻められ落城したことだけは確かなようです。

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モト

中世の宇土城は土の城 (2024/05/03 訪問)

曲輪や空堀が本郭を守る中世の城が味わえました。
近くにある宇土城には石垣が、ココ古城は丘陵を利用した土の城の縄張りを味わえます。

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