非常に大規模な城跡ながら、文献には一切載っていないという謎多き古代の山城。
復元された立派な西門や土壁、高石垣、水門など見どころ満載!
所々にある展望台から見える景色はまさに絶景!平野を一望し、遥か遠くまで見渡せることができる。
近世城郭とはまた違う魅力がいっぱい詰まった城跡。
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2024/05/11 03:55
2024/05/10 20:39
雑賀崎台場 (2024/03/02 訪問)
【雑賀崎台場】
<駐車場他>駐車場有<34.191880,135.141961>縦列駐車で3台程
<交通手段>車
<見所>石積み・土塁
<感想>日帰り和歌山山城攻めラスト5城目。現地説明板によると雑賀崎台場は紀伊水道に突出したトンガの鼻と呼ばれる舌状丘陵に紀州藩が1854年10月~翌年の9月までに築造したとされます。現地から元番所台場跡(城びと未登録)も見えることから2つの台場が連携していたことをうかがわせます。
駐車場から段々と下って行って台場跡があります。駐車場から一つ下って畑地、畑地の削平地を通り、舌状の削平地があります。ここから和歌山城がカメラの望遠で見えます。一つ下って算木積みの一文字石積み土塁があります。一つ下って広い削平地があり、先に丘陵状の小丘に砲台跡と思われる土塁囲みの削平地があります。丘陵全体を石積みで囲み、脇の方形区画の曲輪も石積みで囲んでいます。この石積みがなかなか見応えありました。舌状の削平地が段々となっていたり、砲台跡の土塁が石積囲みの主郭のようでもあり、中世山城のようにも見える台場跡でした。これにて日帰り山城攻め終了、280㎞無事走破。
<満足度>◆◆◇
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2024/05/10 20:11
地元の方の立ててくれた案内板がある。 (2024/02/23 訪問)
小泉城はかつて大乗院宗徒であった小泉氏によって築かれた城で、小泉館と記録には有りますが、実際には城郭としての機能を持っていたようです。長禄3年(1495)に筒井順永に攻められ一族の多くが切腹して果て、城は焼却され、その際に大和中の郷民が動員されたことで城郭としての規模を持っていたと推測されています。文明7年(1475)にも落城し、破却の憂き目に会いますが、元和9年(1623)片桐貞隆が陣屋を構えて入ります。これも陣屋とされていますが、内堀と外堀を備えた城郭に近い陣屋だったようです。ただし石垣造りではなく塀囲いだったようです。
住宅地に囲まれた主郭の東部に城址碑が立てられ、この東側に内堀があったようです。城址碑の周辺には地元の方が立ててくれた案内板があり、かつての城域や移築された建築物についての情報が記されています。城址碑の南西にある小泉神社には陣屋の追手門が移築されていました。貴重な情報ありがとうございます。
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2024/05/10 19:36
2024/05/10 07:02
金谷城特別公開前日の城めぐり② (2024/04/13 訪問)
磯部城からの転戦です。相模線入谷駅から徒歩にてアプローチしました。後背の小高い丘も城址なのかもしれませんが写真は撮りませんでした。グーグルマップでは「白井織部是房館跡」と表示される路傍の石碑だけ撮影して撤収しました。海老名へは小田急線座間駅を利用しました。
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2024/05/10 00:07
今でも残る環濠集落 (2024/02/23 訪問)
若槻環濠は今でも残る環濠集落で天満神社や西融寺を含む周囲に水路や堀が巡らされています。文正元年(1466)ごろには東端の庄屋屋敷と西端の宮地を繋いで東西に細長い環濠が形成されていたようです。現在の環濠の範囲は東西およそ200m、南北およそ70mになるそうです。車で来られる方は、周辺の道は狭いので置きやすい場所に車を置いて、あとは歩いていくしかなさそうです。
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2024/05/09 23:53
天守台跡に土盛りが残る。 (2024/02/17 訪問)
松ヶ島城は天正8年(1580)に織田信雄が入り、かつては五層の天守がそびえ立っていたそうです。後に蒲生氏郷が入りますが、天正16年(1588)に新たに松坂城を築いて城下の住民ごと強制的に移住したので、松ヶ島は元の漁村に戻ったと伝えられています。
かつては伊勢湾に面した海陸の要衝に築かれた城でしたが、今では本丸天守台跡に土盛りが残り、周囲の住宅地に堀跡が残っている程度です。天守台跡に登れば、かつての城址周辺を見渡すことが出来ます。
城郭放浪記さんの情報によると松坂市愛宕町の竜泉寺には松ヶ島城の裏門が移築されているとのことです。
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2024/05/09 22:24
紀伊田辺藩庁なのだ。最後は。 (2024/11/03 訪問)
水門が有名だが水門しか残っていないという言い方もできる。築いたのは浅野氏重だが紀州徳川家の附家老であった安藤氏代々が居住するところとなり、安藤氏が土壇場で独立大名になったので最後の最後に紀伊田辺藩庁となった。
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2024/05/09 21:58
鳥屋城 (2024/03/02 訪問)
【鳥屋城】
<駐車場他>鳥屋城山公園公衆トイレ前に3台程駐車できる。<34.063573,135.260068>から狭いが西へ入る。
<交通手段>車
<見所>石垣・堀切・眺望
<感想>日帰り和歌山山城攻め4城目。現地説明板によると鳥屋城の築城年代は明らかではないが、1379年に山名義理が南朝征伐のために石垣城(鳥屋城の別名)を攻めたとあり、南北朝時代には南朝方の城であったことがうかがわれます。室町時代には紀伊国守護の畠山氏が入国し畠山氏や城代の神保氏が治めました。1585年に秀吉の紀州攻めに際して神保氏が内通して城は落城したとあります。
鳥屋城山公園に城跡碑・説明板・展望台・遊具があります。公園から山頂の城跡まで1300mの登山ですがハイキングコースになっているので苦はなく登れます。登城距離は長いのにもかかわらず現在は登城途中に表面観察できる遺構は特には見られず、いきなり山頂部の城跡に着きます。城跡は東西に長い細尾根を削平しています。登った所の左手が段になって虎口・門跡のようにも見えます。その先の西端に広めの曲輪、尾根の南側全体に帯曲輪(帯曲輪が曲輪で尾根を背後の土塁としている見方もできる)を通しています。城跡の中心部の尾根に堀切を設けていて、堀切から東側の曲輪にはかつて後世に社(現在は倒壊している)があった曲輪壁に石垣、その下の帯曲輪に石列、帯曲輪の斜面に石垣が残されています。ここら一帯が東端になり、その東側は切岸・堀切跡になっています。
東端の石垣・石列の残る一帯が主要部のようですが比較的に細めの尾根上の削平地で戦国期以降によくみられる広い主郭をもつ城跡ではない。南北朝時代以前に詰め城として築城されて以降、地形の改修を行わず廃城となったのだとしたら、古い縄張り遺構がみれて見所はあった。
<満足度>◆◆◇
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2024/05/09 21:25
2024/05/09 21:16
2024/05/09 19:02
樅の木は残ってた! (2024/05/04 訪問)
前回 の「中村城」と、こちらの「船岡城」は大河ドラマ『樅の木は残った』繋がりで投稿します。
『樅の木は残った』は仙台藩の伊達騒動を描いてます。
「船岡城」は伊達 政宗さんの家臣 原田 宗資さんの居城です。宗資さんの息子 原田 宗輔さんが『樅の木は残った』の中心人物です。
この方、悪人のイメージだったのに、ドラマでは悪人を演じて伊達家を救ったヒーローに画かれました。最後は殺されてしまいます。
「船岡城」は桜で有名な城址公園です。
大きな駐車場は、桜の季節が過ぎた5月でも いっぱいでした。案内板には「船岡城」の遺構は記載されてません。三ノ丸広場があるので、そちらを目指して歩きました。
因みに、「船岡城」は伊達騒動の事件後、幕府の命令で建物は壊されました。土も掘削され棄てられたんだとか。この事が影響しているかは分かりませんが、遺構は見当たりません。
でも、たくさんの草花が植えられていてます。
途中に『樅の木は残った 展望デッキ』があります。
樅の木は残ってました。
デッキからは遠くの山々が見えます。
下を覗くと『しばた千桜橋』が見え、東北本線の電車をカメラに納めようと、大勢の人がカメラを構えてました。
「船岡城」に行くまで『樅の木は残った』を知りませんでした。
実は、『樅』も『モミ』と読めませんでした。
何の木が残ったのか、後から知った「船岡城」攻めでした。
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2024/05/09 17:54
平岩茂直 (2024/05/09 訪問)
平岩茂直が楠氏挙兵に応じて築いた城です。
山頂部の曲輪と帯曲輪が確認できます。その場所だけでは狭いのですが、説明板によると周囲の山で平らになっている所が出丸の跡と書いてありました。
河南町平石地区の大阪府道704号竹内河南線沿いに平石城を示す標柱があります。その道を入って行くと左手に草に埋もれていますが平石城への標識があります。その一本奥の道の側に石碑があり、そこからも行くことができます。両方の道は合流し10分くらいで城址へ行くことができます。
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2024/05/09 17:44
2024/05/09 17:33
嶽山合戦 (2024/05/09 訪問)
南北朝時代に楠木正成によって築かれた城ですが、室町時代中期には足利義政に家督を奪われた畠山義就が籠り、応仁の乱の前哨戦嶽山合戦の舞台となりました。
亀の井ホテル富田林の裏にあるテニスコート横の小径が登城路です。石碑と説明板がありました。昭和58年から行われた発掘調査で遺構は発見されていないとの情報もあったので山の中の散策はしていません。
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2024/05/09 07:07
金谷城特別公開前日の城めぐり① (2024/04/13 訪問)
4月14日の金谷城特別公開の予約が取れたため、新年度最初の城めぐりの行き先は首都圏に定めました。まだ献血をしたことのない海老名献血ルームに向かって城めぐりを進めます。とある煩悩の登城目録さんと同様、下溝駅より徒歩にて登城しました。「上磯部の土塁」の奥がグーグルマップのポイントになっていますが、私有地のため立入禁止です。献血の予約時刻の関係で能徳寺や御嶽神社へも脚を伸ばしませんでした。
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2024/05/08 23:09
ぶらり田原城 愛知県田原市 (2024/04/28 訪問)
この日はちょっとした用事があって、ふらりと田原城に行ってきました。近世城郭の跡なのに人が少ない‥GW中なのに。せっかくなのでゆっくり散策してみます。城址正面の桜門の表側はイチョウの木、裏側はもみじの木が植わっています。いずれも今は青モミジの状態ですが、これはこれで良いと思います。かつての蓮池跡は駐車場になっており、そこから続く堀跡にはアジサイが植樹されているようです。
イベントをやったり、企画展を開けばもっと人は集まると思いますが、マイペースなのも田原城らしいとも言えます。紫陽花の季節、紅葉の季節に散歩がてら寄ってみるのも悪くないと思いました。
なんといっても田原城は渥美半島一の有名人、渡辺崋山ゆかりの城であります。歴史の教科書にも載っていましたし(美術だったかな?)。
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2024/05/08 22:32
北条氏照の居城 (2024/05/06 訪問)
(八王子市HPより)https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/002/005/p003412.html
JR八王子駅からバスで20分の所にある滝山城址🚌 バス停からファミマが見えるのですが、それとは反対方向に進み、案内板に従って竹の茂った坂道を進みます(というかもうそこからが城址の敷地内なんだけど)
三の丸→二の丸→と進みます🚶♂️ 途中、封鎖されてる道および場所が3箇所(そこは脇道なのでそのまま進む分には支障は無いけど)ありました。中丸に着くとトイレがあり、レジャーシート敷いたファミリーがおり、そして城址というか滝山公園という名前で案内板(1枚目)がありました
北条氏照(小田原北条氏3代目氏康の次男、4代目氏政の弟)がこの城を居城としており、永禄十二年(1569年)には小田原城に攻め込んだ武田信玄がここを包囲…周辺の村々を焼き払い(城こそ落ちなかったものの)甚大な被害を受けた模様🔥🏠
(本能寺の変が起きた)天正十年(1582年)ごろから、ここより更に堅固な天然の要塞である八王子城の築城工事が始められ、天正十五年(1587年)には拠点はそこへ移り、滝山城は廃城になってしまったそう
中丸にはかつて宿泊所となっていた建物(2枚目)もあり、そこに日本100名城スタンプ(画像右下)が設置されてました。今の私にとってスタンプは御城印と同じくらいの価値と達成感のある存在なため、スルーなどあり得ません…
郵送販売用の用紙が備え付けられており、念の為にそれを取って、その捺印欄に試し押し…文字が薄らとしてる箇所はありましたが、及第点には色が写っていたので、それに続きスタンプ帳にも押しました
3枚目は本丸の中心地。この側に霞神社…金刀比羅神社…と言った神社があり、まずそこにお参り。規模が小さく無人の施設だったので御朱印の類はおそらく無いと思われます。日露戦争および満州事変や太平洋戦争における戦没者を慰霊する文章が彫られた石碑(慰霊碑と思われる)もそこにありました🪨
それから階段を降りて空堀を歩き、中丸と本丸を繋ぐ橋の下を通る…そして本丸に戻り、滝山城址の石碑…その歴史が短めに紹介された石碑を眺めたわけです。北条氏照が当主で八王子城に移転する前までは、この辺りに何らかの屋敷がおそらくあったのでしょう🏠
本丸の端から眺めた光景(4枚目)川…そしてマンションがズラリと並んだ街並みが見渡せます。これを一目見て「撮影してSNSに挙げる価値あり」と直感した私は迷わずスマホの撮影機能を立ち上げてシャッターを押しました
ここの城が現役だった頃にはどんな風景が映っていた…のでしょうか
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2024/05/08 22:00
コンパクトだが遺構はなかなか充実している。 (2024/04/21 訪問)
端谷城は衣笠氏によって築かれたとされています。三木合戦の際には城主、衣笠範景は別所氏に味方しますが三木城落城後の天正8年(1580)2月に織田方に攻められ落城したとのことです。
城址はコンパクトな構造で訪問もし易いのですが、遺構はなかなか充実しています。三の丸である満福寺の脇から登城道が伸びていて、大きな堀切に土橋がかかっており、そこから先に登って行くと二の丸に至り、すぐ近くに本丸が迫っています。本丸の北西部には物見台があり、本丸の背後(北側)には大規模な堀が周回しています。雑木が生い茂っていて堀の全容は把握しづらいですが、この城址の見どころとなっているようです。
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2024/05/08 21:08
荒木村重が最後に籠った城 (2024/04/21 訪問)
花隈城は織田信長が荒木村重に命じて築かせた城で築城時期については諸説あるようです。築城の際には穴太衆を用い、かなりの量の石垣を使用したようです。天正6年に荒木村重が信長に反旗を翻すと、有岡城の支城として戦い、有岡城・尼崎城から撤退してきた村重が最後に籠った城とされています。花隈城はその後、池田恒興らに攻められ天正8年(1580)に落城し、村重は高野山を経て毛利氏の下に亡命したとされています。
本丸跡地にある駐車場には模擬石垣が積まれ、石垣の上は公園になっています。模擬天守台の上からは周囲の街並みを見ることができます。
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