以前に登城したけど、たまたま車窓から撮った写真。
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2024/05/11 19:13
新幹線の車窓から (2022/02/03 訪問)
以前に登城したけど、たまたま車窓から撮った写真。
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2024/05/11 19:07
2024/05/11 19:03
2024/05/11 19:03
二回目の高田城 (2024/05/11 訪問)
春日山城に続き二回目。下手なりに綺麗に撮れた気がする。
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2024/05/11 18:59
二回目の春日山城 (2024/05/11 訪問)
五月晴れに誘われて久々にやってきました。やっぱり規模がすごい。今度はもう少し上まで行きたい。
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2024/05/11 17:59
お万の方の生まれた城 (2019/01/04 訪問)
勝浦城は勝浦湾に突き出した天然の要衝に築かれている海城で、大永元年(1521)に上総武田氏の一族、真里谷信興によって築かれたという説が有るようです。本丸の位地ははっきりしませんが地元の案内板には子供の広場あたりとされており、先端部の展望広場は物見のエリアとされているようです。(ひょっとするとここが本丸かも) なんにせよ陸側から攻められたら逃げ場のない文字通りの背水の陣です。
紀州徳川家の祖・徳川頼宣および水戸徳川家の祖・徳川頼房の母となる養珠院(おまんの方)にまつわる逸話があり、父の正木頼忠が同族の正木憲時の攻撃を受けた時に布を垂らして逃げ延びたとされる「お万の布晒し」の伝承が残っています。
この伝承は豊臣秀吉の北条成敗の時とする説もあるようです。
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2024/05/11 15:32
稲葉一鉄 (2024/04/14 訪問)
曽根城は稲葉氏によって築かれたとされます。曽根城は後に廃城になりますが本丸跡には稲葉一鉄が母の菩提を弔うために建立した華溪寺が移築されていると案内板に記載が有ります。縄張り図を見ると本丸を中心に幾重にも堀を巡らし(少なくても三重)周囲に家臣の屋敷や町家が並んでいたようです。近くを流れる平野井川も縄張りに取り込んでいますが、切所池(追堀)はどういう扱いになるのでしょうか? 北にある曽根城公園には大島堤が連なり梁川星巌紅蘭像があります。
せっかくだから稲葉一鉄の像もあると良かったんだけど‥梁川星巌は曽根村の漢詩人で、奥さんの紅蘭さんも漢詩人で結婚後に二人で岡山、下関、長崎を旅したそうです。坂本龍馬も新婚旅行をしたそうですが、それよりも早いですね。
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2024/05/11 13:13
かつての守護館あと (2024/04/14 訪問)
川手城は革手城とも呼ばれ斉美高校の敷地内の道沿いの一角にひっそりと城址碑が立っています。最初はその存在になかなか気づかず、周囲を二周してようやく解りました。すでに不審者予備軍になりかけているので、すぐに退散です。
川手城は美濃守護となる土岐氏3代・頼康によって築かれて以後11代まで歴代守護職土岐氏の居城となったようです。近くには正法寺跡と守護代館である加納城があり、これらはセットになっているイメージです。
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2024/05/11 11:08
2024/05/11 10:57
房総旅行にて (2024/04/29 訪問)
偶然のショットが撮れました。
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2024/05/11 10:55
2024/05/11 10:48
2024/05/11 10:20
栃木佐野 唐沢山城跡 (2024/05/09 訪問)
自宅から関越道・圏央道・東北道・北関東道経由で1時間半くらいで到着しました。
田沼の街を抜け、つづら折りの山道を登ったところで、猫ちゃんがお出むかいしてくれました。
神社に向けて参道を登っていくと、曲輪跡や堀切跡が見られ、神社の周りには立派な石垣が残っていました。
この周辺のゴルフ場でプレーしたことがありましたが、こんな立派なお城跡が近辺にあるとは知りませんでした。
また違う季節にお邪魔したいお城です。
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2024/05/11 09:42
歴史は深い (2024/04/19 訪問)
二条古城は織田信長が足利義昭のために永禄12年(1569)に約70日の短期間で築き上げた城郭造りの居館で二条御所とも呼ばれます。かつては義昭の兄、義輝の御所があり、それ以前には武衛職にあった斯波氏の居館が有ったようです。工期を短くするため本圀寺から多くの建物を移築しており、本圀寺やその宗徒にとってはとんだとばっちりだったようです。
義昭が槇島城での戦いで敗れ毛利氏を頼って逃れた後に必要性が無くなり破壊され、地元の衆が持ち去ったり、安土城に運ばれたりで御所跡は後肩も無くなったそうです。いまでは平安女学院敷地内に城址碑と案内板が立てられています。
わずかな時間で斯波武衛陣跡と足利兄弟二代の御所を見学できるチョコ城(ぴーかるさん拝借します)の鑑です。あたたたたたっ
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2024/05/11 09:22
生沼家住宅の巻。 (2024/04/13 訪問)
「上三川城」を右手に見て、城址公園通りを歩くと大きな道に出ます。
手前にコインランドリー。道を渡った斜向かいに「生沼家住宅」がありました。
道路沿いに「生沼家住宅」の説明板。格子戸に桜のくす玉がいくつも飾られていて、可愛らしくなっています。
調べてみたら季節ごとに、くす玉 飾りが変わり、格子戸が華やかになるようです。
とても大きな「生沼家住宅」。主屋、土蔵、店舗が国登録有形文化財なんだそうです。
生沼家の初代は1698年生まれ。このお宅は、明治~大正時代に活躍しました。
現在、一般公開はしてないらしく、外から威風堂々とした佇まいを眺めるだけです。
バリアフリーの歩道と、黒漆喰の建物。とても融合していました。
「上三川城」周辺は、古い物と 新しい物が 一緒に、街を彩っている印象でした。
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2024/05/11 08:38
「ジョアン内藤飛騨守忠俊ゆかり之地」 (2019/10/27 訪問)
八木城は戦国時代の有名なキリシタン武将である内藤如安ゆかりの城で丹波国では八上城、黒井城に並ぶ規模の大きい山城です。本丸を中心に四方に張り出した尾根上に郭が設けられており、私は本丸を中心に付近の郭をいくつか散策したのみに留まっています。
付近には「ジョアン内藤飛騨守忠俊ゆかり之地」の石碑や園部城の太鼓櫓を移築した安楽寺も有ります。情報が不足していて石垣の部分を見ていませんが主郭からの眺望は素晴らしかったです。
私は元々ヒザが弱いうえに最近は仕事で体力オバケのオッサンに引っ張られてGW中は膝がガクガクの状態でした。開き直って神奈川・東京・埼玉のユルめの城(あたた系 ぴーかるさんいわくチョコ城(笑))を多く含むルートを周ったら4日で56城いっちゃいました。
もちろんキツい城もあったし箱根関所や新撰組ゆかりの地・斎藤別当ゆかりの地も訪問していますが、この数です。相模・武蔵恐るべし‥。さらにストックが増えてイッペイさん状態です(例えが悪い)。
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2024/05/11 08:07
京都市内のあちこちに点在している。 (2024/04/19 訪問)
御土居は天下人となった豊臣秀吉公が京都の防衛のために天正19年(1591)に京都を囲うように築いた防塁です。かつては総延長22.5kmにも及んだそうで現在は9か所が指定地になっており、廬山寺や北野天満宮にも残っています。私は以前7か所ほどを周っていますが途中で飽きて長らく御土居訪問はストップしていました。O型あるあるというやつですが久々に鷹ヶ峯・北区旧土居町の御土居を訪問してきました。
道路沿いに石積みが続いていて石段から上に上がって行けます。二段構造になっていて後世に公園として改変されているようです。
最上部にはベンチや石碑が置かれていて、そのあたりが古い御土居の雰囲気を残しているようです。今さら全部の御土居を周りたいというエネルギーは湧いてきませんが大宮と北野天満宮の御土居は一見の価値があると思います。
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2024/05/11 03:55
2024/05/10 20:39
雑賀崎台場 (2024/03/02 訪問)
【雑賀崎台場】
<駐車場他>駐車場有<34.191880,135.141961>縦列駐車で3台程
<交通手段>車
<見所>石積み・土塁
<感想>日帰り和歌山山城攻めラスト5城目。現地説明板によると雑賀崎台場は紀伊水道に突出したトンガの鼻と呼ばれる舌状丘陵に紀州藩が1854年10月~翌年の9月までに築造したとされます。現地から元番所台場跡(城びと未登録)も見えることから2つの台場が連携していたことをうかがわせます。
駐車場から段々と下って行って台場跡があります。駐車場から一つ下って畑地、畑地の削平地を通り、舌状の削平地があります。ここから和歌山城がカメラの望遠で見えます。一つ下って算木積みの一文字石積み土塁があります。一つ下って広い削平地があり、先に丘陵状の小丘に砲台跡と思われる土塁囲みの削平地があります。丘陵全体を石積みで囲み、脇の方形区画の曲輪も石積みで囲んでいます。この石積みがなかなか見応えありました。舌状の削平地が段々となっていたり、砲台跡の土塁が石積囲みの主郭のようでもあり、中世山城のようにも見える台場跡でした。これにて日帰り山城攻め終了、280㎞無事走破。
<満足度>◆◆◇
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2024/05/10 20:11
地元の方の立ててくれた案内板がある。 (2024/02/23 訪問)
小泉城はかつて大乗院宗徒であった小泉氏によって築かれた城で、小泉館と記録には有りますが、実際には城郭としての機能を持っていたようです。長禄3年(1495)に筒井順永に攻められ一族の多くが切腹して果て、城は焼却され、その際に大和中の郷民が動員されたことで城郭としての規模を持っていたと推測されています。文明7年(1475)にも落城し、破却の憂き目に会いますが、元和9年(1623)片桐貞隆が陣屋を構えて入ります。これも陣屋とされていますが、内堀と外堀を備えた城郭に近い陣屋だったようです。ただし石垣造りではなく塀囲いだったようです。
住宅地に囲まれた主郭の東部に城址碑が立てられ、この東側に内堀があったようです。城址碑の周辺には地元の方が立ててくれた案内板があり、かつての城域や移築された建築物についての情報が記されています。城址碑の南西にある小泉神社には陣屋の追手門が移築されていました。貴重な情報ありがとうございます。
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