小田野城は北浅川の西の丘陵上に築かれており北に練馬街道が通っています。八王子城の出城とされ、頂部には主郭が広がり、南側には土塁が残り、北側には高地になっている場所があり、見晴らしは良さそうです。周囲にもいくつか曲輪が有るようでした。南の城山霊園から西に進むと、城に入る道が有るので、そこから訪問しています。ちなみに車はポリに捕まらない場所に停めてあります。
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2024/07/08 19:02
2024/07/08 18:38
2024/07/08 15:12
丘陵南東端の小代氏館 (2024/06/08 訪問)
高坂氏館を終えて、昼食を近くのピオニウォーク東松山店で摂り、高坂氏館からは南東に約1.3km程、ピオニウォーク東松山店からは南に約0.8km程の所に在る、小代氏館(正代館)を初登城。今回の源範頼館、野本氏館、高坂氏館に次4城目でラストに成ります。
駐車場:小代氏館跡地の青蓮寺北門柱西横の参拝者駐車場を利用。
参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。
北の門柱より入り南行、西行し青蓮寺本堂参拝、西横に弘安4年銘板石塔婆が祀られている、石板塔婆が屋根付き建物で覆われて、標柱、建物には小代重俊供養塔の表示看板、解説板が設置されて、小代氏の系譜、経歴なども記されている。
弘安4年と言うと2度目の元寇の弘安の役の年に成り、小代氏は地頭職が肥後(現在は熊本県荒尾市)であり参陣したのでしょう。
本殿の南に山門が有り、2段に成って南の川方面に落ちている、南から見ると郭の切岸が連なってるように見える、南を沼、河川で守り北、西、東は堀土塁で防ぐ城館で有った様ですが、堀跡、土塁跡は確認できていません。
南側の見通しは非常に良い。東の都幾川、南の九十九川、越辺川に囲まれてる丘陵先端部、この丘陵には北西部先端に高坂氏館が構えてる。川は最終的には荒川に注がれているようです。
4城を終え、高坂氏館の土塁と深い堀に感動し浜松に帰路を取り、順調な高速道路走行でした。
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2024/07/08 06:42
原田しろあと館 (2024/06/21 訪問)
阪急曽根駅から西に徒歩7分くらい。
周囲は住宅地となっています。
原田しろあと館が城趾で説明板も立っています。
皆さんのレポートにあるように平日は閉館、やむなく外周を回るのみの登城となりました。
(とは言っても1周はできません。)
土塁が残りますが外から見上げるのみ。
少し西に行くと原田井の洗い場がありました。
かつては水路が巡っていたようです。
原田城は北城と南城で構成されますがしろあと館がある所は北城。
南城の跡にも向かいましたが更地となっていて遺構は残りません。
このしろあと館ですが開館日の土日にはイベントも催され、地元の皆さんの憩いの場になっているようです。
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2024/07/08 00:05
丸亀城の石垣 (2018/01/03 訪問)
日本百名城の丸亀城は標高66mの亀山を利用して築かれた総石垣の渦郭式の平山城です。三の丸から右回りに回りながら登っていけば本丸にたどり着きます。三の丸には麻生にあった丸亀藩京極家の江戸藩邸の一部が移築されており「延寿閣別館」の案内板が立っています。
本丸の北側には三の丸井戸という花崗岩製の立派な井戸があり、深さは31間(約56m)もあるそうです。城外への抜け穴伝説もある不思議な井戸です。
丸亀城の石垣は総高60mもあり、単体で一番高い部分は三の丸で22mにもなるそうです。全体の高さだけならユルい山城に匹敵すると思います。ふもとの方には野面積の石垣が残り、やや古い時代のものと思われます。
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2024/07/07 23:40
鬼ノ城 屏風折れの石垣 (2013/12/15 訪問)
鬼ノ城の「西門」に並ぶもう一つの見どころが「屏風折れの石垣」だと思います。1300年前に築かれた山城ですが、詳細は不明で案内板には温羅(うら)と呼ばれる一族が朝鮮より渡来し居住したと言われていると書かれています。平安時代には山上仏教が栄え、大規模な伽藍が多数建っていたとも記載があるので密教仏教がここで隆盛を誇っていたとも考えられます。
これだけ不明な点が多いにもかかわらず、鬼ノ城が百名城に登録されているのもすごい話ですが、訪問して見ると、そのスケールと雰囲気に圧倒されました。少し異世界訪問の感覚が入ってますね。
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2024/07/07 20:02
大草城 (2024/05/11 訪問)
【大草城】
<駐車場他>大草公園駐車場5台程あり。知多市観光協会にて御城印販売・パンフレット・城カードもらえます。
<交通手段>車
<見所>水堀・土塁
<感想>岡崎平野・知多半島ちょこ城巡りの旅8城目。現地説明板によると大草城は、織田信長の弟で織田長益(有楽斎)が知多郡南部の大野谷を拝領し大草の地に築城し始めましたが、本能寺の変により築城途中で断念した幻の城である。織田長益は小牧長久手の戦いの後に秀吉から摂津国へ転封になり廃城となりました。
城跡は平山城となっていますが丘城といった感じで小山の周囲を水堀で取り囲み小山に大きく主郭と2郭を配しています。小山とはいえ、空堀はよくありますが、切り立った崖の際に水堀が残る中世の城跡は珍しいのでなかなかの見応えがあります。山頂の主要部はだいぶ大きく削平しており、全体を高土塁で囲んでいて主郭と2郭の間に仕切り土塁があります。主郭はグラウンドになってしまっているので、そこにある古い模擬天守も遺構を邪魔した感はなく味があります。周囲の土塁は高土塁で土塁上が散策できるようになっています。なかなか楽しめました。
<満足度>◆◆◇
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2024/07/07 18:53
へいっ (2024/02/24 訪問)
畠中城は奈良時代には神前氏の先祖となる渡来人の館で、平安時代には当主・神前清実が源行家を匿ったとされています。戦国時代には根来衆の城として築造され、元亀元年(1570)の野田城・福島城の戦いで織田信長に敵対し落城、天正13年(1585)の豊臣秀吉の根来攻めの際にも攻撃を受け落城したとのこと。江戸時代には本丸跡が要家の庄屋屋敷となり、要家は岸和田藩より七人大庄屋の一人として列せられたそうです。
今でも誰か住んでいるようですが、要氏の子孫の方かどうかはわかりません。長屋門(南側)の写真を取り損ねたので、別の写真で代用します。北側の壁が少し倒れかかっているようです。江戸時代から使われているのであれば維持は大変だと思います。
「壁が倒れるぞー」「へー ほうかい」 などと言ってはいけません。
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2024/07/07 18:14
青蓮寺城から虹を見上げる (2024/02/18 訪問)
三重県名張市青蓮寺に存在した青蓮寺城は青木城とも呼ばれ、地蔵院の周辺が城址になっています。地蔵院まで車で行けば楽なのですが、今回は南側の麓から登っています。こちらからだとなかなか比高があり、角度も急でかなり急峻です。途中にいくつか曲輪跡かもしれない扁平地がありました。南側には遺構はありませんが、北側三方を囲っている土塁はかなりの高さがあるようで、外側を堀切が巡っています。案内板によると天正9年9月の第二次天正伊賀の乱の際に織田信長が4万の軍を率い伊賀国に攻め込んできて、青蓮寺城は上出城、雪岡城、愛宕山砦らとともに焼き払われてしまったとあります。実際の総大将は織田信雄とされていますが、この周辺でも激しい戦闘が行われたのだと思います。
この日は城址から虹がキレイに見え、帰途に就いた先でも良く見えていました。というより、かなり明るいですね。ふもとの方が照らされて明るくなってます。
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2024/07/07 17:33
主郭石碑までは到着 (2022/11/20 訪問)
林道突き当たりの駐車場から比高90m程度に主郭はあります。主郭の石碑迄の往復は35分程度でした。残念ながら雑草が生い茂り主郭全体と派生尾根にある馬場跡などには進入しませんでした。それでも主郭に辿り着くまでには片側スロープ通路脇には段曲輪があり、堀切・土塁も付いており、部分的に石積も見る事が出来ます。一部自然石の斜面を登る場所さえ気を付けると気軽に訪問できる城跡だと思います。
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2024/07/07 16:31
高土塁と深い堀が残って居ます (2024/06/08 訪問)
野本氏館を終えて南南西約1.7km程に在る高坂氏館初登城、以前より訪ねたいと願って居た今回メインの城館です。
駐車場:高済寺山門横の参拝者駐車場を利用。
参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。
東から入ったので小高い丘にある様な地理的状態、車を駐めると西に土塁が見える、見学を望んでいた高坂氏館の土塁、実際の大きさに圧倒される、南土塁の断面辺りに解説板、西側に廻り込んで西正面の土塁の高さを実感、堀も深い、山門から本堂に廻り参拝、土塁の北西頂部登る、加賀爪氏累代の墓所に成っている、頂部より南、西、北を眺めて土塁、堀の深さを実感する。
皆さんの投稿写真などで残存の高土塁、堀を観たいと願って居た高坂氏館探訪実感しました。
昼近くでしたので東に降りた近くのスーパーモール・ビオニウォーク東松山で昼食を摂りました。
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2024/07/07 15:35
無量寿寺北裏手に土塁が残って居ます (2024/06/08 訪問)
源範頼館を終えて、南西に約5km程に在る野本氏館を初登城。
駐車場:館跡である無量寿寺南の山門前参拝者駐車場利用。
参考資料:余湖図コレクションさん東松山市HPグーグルマップに依る。
参拝者駐車場に駐めて、山門の脇板塀に野本館跡解説板が有り確認、山門前の参道南に野本館跡標柱あり、本堂参拝、丁度法要中でした、表に出られたご住職にことわり北裏手の土塁を見学させて頂く、土塁の残存、浅い堀跡を少しですが見る事が出来ます。
無量寿寺の南には野本将軍塚古墳が大きく聳えています、長軸115mの前方後円墳で古墳時代前期、後円墳頂部に利仁神社が鎮座、915年鎮守府将軍藤原利仁が祀られている。
野本館は野本基員を初代とする野本氏一族の館跡です。詳細は投稿写真でご確認ください。
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2024/07/07 14:56
移築門 (2024/07/04 訪問)
狭山陣屋の大手門は本願寺堺別院に移築されています。堺の街散歩をしているときに立ち寄りました。
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2024/07/07 13:05
住宅地の近くの山城 (2024/01/28 訪問)
初沢城は初沢川の東にある丘陵の頂部に築かれています。片倉城主の長井氏によって築かれたとされていますが、江戸時代に記された「新編武蔵風土記稿」によれば横山党の一族・椚田氏の居城と推測されています。
比高100mほどの標高294mの地点に本丸が有りますが、近くまで住宅地が迫っているので、車はポリコウに捕まらない所に置いて遊歩道を登って行けば、さほど苦労せずにたどり着くことが出来ます。水タンクのある周辺が二の丸跡とされ、本丸の周辺には腰曲輪も残っているようです。本丸からは周囲を見渡すことが出来(木々が生い茂っていますが)南側には堀切があり、その先は二の丸跡に繋がっています。
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2024/07/07 12:44
滅んじゃいねーぜ (2024/01/28 訪問)
八幡八雲神社が横山党の根拠地とされており、境内に横山党始祖・横山義孝を祭る横山神社が建てられ、近くに案板板が立っています。横山党は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて存在した武蔵国の武士団「武蔵七党」の一つであり、その中でも70余りの氏族を含む最大規模の勢力を持っていたようです。
鎌倉時代、梶原氏の失脚後、北条氏の勢力が拡大し「和田義盛の乱」の際には一族の棟梁・横山右馬介太郎時兼は和田氏に味方し、一族ともども討ち果たされてしまいました。しかし時兼の子・野内小名犬房重時は生かされ、その子孫は全国に散らばっていったそうです。
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2024/07/07 11:29
聖地巡礼 (2024/07/06 訪問)
江戸時代の後半にはすでに観光地化していたといいます。川中島古戦場(長野市)。遡ること16世紀中頃、領土拡大を目指した武田信玄と、その被害を訴えた豪族を助けに赴いた上杉謙信が何度か衝突した地としてあまりに有名ですね。
風林火山ブームというのは、徳川幕府が甲州軍学を教育現場で採用した頃にもあったようです。家康が武田の旧臣を多く召し抱えたことと無関係ではないでしょう。この頃編纂されたのが軍記「甲陽軍鑑」。幕臣をはじめ、広く庶民に読まれた物語で、そのクライマックスの信玄vs謙信の一騎打ちのシーンは浮世絵などで描かれ、講談でも派手に語られたといいます。わくわくの止まらなかった人々はその足で当地を訪れたのだと思います。今で言う「聖地巡礼」ですかね。
軍鑑の史料的価値については、これまで何度か触れたので割愛しますが、そこに描かれた両雄の一騎打ち(川中島第4次。八幡原の戦い。1561)の信憑性についても疑いが残っていますので、付け加えておきます。
というわけで、すっかり“巡礼者”の仲間入りを果たした小生。大会戦におけるひとつひとつの場面の真偽はともかく、決戦の地の空気感や距離感、高低差、そして海津城(現在は松代城。真田の本拠ですね)はしっかり味わってから帰ります。
*隣接する長野市立博物館内に「川中島の戦い」の常設展示あり。入館料一般300円。
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2024/07/07 10:21
頑張ろう 東北。頑張ろう 日本。 (2024/05/05 訪問)
石碑を探すのに苦労した「下野郷館」です。
「若林城」がある仙台市から車で30分位で「下野郷館」近辺に到達しました。
『何もない所だなぁ。』
不快に思われると思いますが、この辺りの第一印象です。
写真⑤を見つけ、諦めようとすると東日本大震災の津波到達点のプレートがありました。
ショックでした。海は見えません。こんな所まで、津波の被害があったなんて、と呆然としました。
何もない、じゃなく、なくなってしまった場所です。
石碑を整備していただいたのだったら、絶対に「下野郷館」を探します。
『お城を探す』の「下野郷館」の近くに駐在所と消防団のポンプ置場があります。
その奥に集会所がありました。建物の左側に「矢野目足軽城」の石碑と「下野郷館」の標柱があります。
18人1組の10組で構成された足軽の方々。
足軽とはいえ、伊達家直参として政宗公の信望厚く、と石碑は語ってます。
「矢野目足軽城」、足軽の方々にとって誉れなお城です。
東日本大震災から13年経ちました。
忘れてはいけないと思っていたのに、忘れてました。
父は宮城県石巻市出身で、親戚が津波の被害にあい、泣いた日々があったにもかかわらずです。
石碑と標柱を整備してくれた地元の方々に感謝です。
東京の端っこは37℃予報です。籠城して、東北の頑張ってきた歴史を読んでみようと思います。
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2024/07/07 09:44
茶臼山城 (2018/01/03 訪問)
香川県さぬき市の富田茶臼山古墳は四国最大の前方後円墳で国の史跡に登録されているのですが、戦国時代には城郭として改造され、使用されています。石積みがいつの時代のものかは解りませんが、角度を変えてみると城郭にしか見えません。
城主は寒川右馬允とされ、築城時期は不明です。戦国時代の武将が古墳を何だと考えていたかは不明ですが、忍城攻めの際に石田三成が埼玉古墳群の一つを陣所として使用しています。古墳ファンには申し訳ないのですが、思わずニヤッとしてしまいますね。
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2024/07/07 08:37
高知城の御殿・天守閣 (2013/12/14 訪問)
現存天守である高知城の外壁には土佐漆喰と呼ばれる特殊な漆喰が使用されています。石灰石に塩を加えて焼いた地灰とネズサという発酵処理した藁スサを混ぜて水ごねしたもののとされています。キメが細かく厚塗りが可能で雨に強いという特徴があります。
土佐は台風の常襲地域とされ、土佐漆喰や水切り瓦を伝統的に使用しているようです。塗り立て直後はクリーム色ですが、時間経過と共に白色に落ち着いていくようです。天守閣そのものは、それほど大きくは有りませんが、高知城は平山城で高所に築かれているので、周囲の眺望は素晴らしいです。
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2024/07/07 08:24
愛洲氏の里 (2024/05/04 訪問)
南北朝期に南朝方として活躍した愛洲氏が、北から西を五ヶ所川が流れる断崖上に築いた城で、室町中期には一之瀬城から五ヶ所城に居城を移しましたが、北畠信意(織田信雄)に攻められて愛洲氏は滅亡。五ヶ所城も廃城となりました。
西麓の愛洲の館の駐車場から登城開始。鍛錬の段と銘打った階段から主郭へ向かいましたが、比高30mの断崖を一気に登るため、急であるばかりか一段一段の奥行が狭く、足元に注意しつつ手すりを掴んで昇り降りするのが無難です。鍛錬の段を上り切ったところに主郭に南接する曲輪があり、南の曲輪を東に抜けて南側からの登城道に合流し、北に進むと主郭に至ります。
主郭は東辺から南辺にかけて横堀を二重にめぐらせ、それぞれ南辺は竹藪と化していますが、東辺は竹が刈られて見やすく整備されていました。主郭内には城趾碑と説明板に加えて、愛洲公顕彰碑、剣祖愛洲移香斎生誕之里の石碑が立てられています。主郭の南東辺や北辺には土塁がめぐり、北辺の土塁を越えて下りたところには堀切が北西方向への小尾根を断ち切っています。堀切の東側の主郭切岸には石積も見られました。
主郭に南接する曲輪は農地として改変されていて、西辺に土塁と堀らしきものが見られるくらいです。果樹園の中の登城道を南に下って行くと、西側に愛洲氏館と呼ばれる居館跡が広がっています。北辺から北西辺にかけて土塁をめぐらせ、南側に開口部があり、登城道から開口部へ続く道は堀切跡のようです。石積もあるようですが、草木が茂っていてよくわかりませんでした。愛洲氏館からさらに南に下って突き当りを東へ、そして案内表示に従って民家の間の路地を進むと塔頭と呼ばれる愛洲氏一族の墓所がありました。ひとつひとつは小さいものの20数基の五輪塔が建ち並ぶ様子には、この地に刻まれた愛洲氏の歴史を重みを感じました。そして最後に愛洲の館で五ヶ所城のジオラマや愛洲移香斎に関する展示を見学して…と思っていたんですが、閉館間際だったため断念…。最初に行っておくべきでした。
…ということで、周辺の史跡も含めてひとめぐりしたものの、愛洲の館だけでなく古井戸も見落とすなど、どうも要領の悪いルートでした。主郭だけしか行かないというのでなければ鍛錬の段なんぞ通らずに、愛洲の館(見学) → 塔頭 → 愛洲氏館 → 主郭 → 古井戸 → 愛洲の館とめぐったほうが良かったように思います。ともあれ、二重横堀や堀切などの遺構はなかなか見応えがありました。
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