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しんちゃん

赤松氏の築いた山城 (2023/12/30 訪問)

楯岩城は去年の年末に訪問した山城です。西側から登山道が続いているようですが、私は東側より途中まで林道を車で進み、そこから徒歩で進みました。入口はチェーンで封鎖されていますが、山ライダー三人組が狭い隙間から出てきました。マジですか‥。
しばらく林道を歩きますが、搦め手からの訪問なのでいきなり主郭です。風情に欠けるなあ‥そこから下に降って遺構を見に行きます。

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しんちゃん

永源寺 東近江屈指の紅葉の名所 (2019/11/23 訪問)

永源寺は近江守護の佐々木氏頼(六角氏頼)が寂室元光禅師に帰依し寂室元光を開山として創建したとされています。東近江の紅葉の名所で多くの観光客で賑わっていました。京都などは外国の観光客でごった返してましたが、東近江の紅葉の名所は、ほとんどが日本の観光客でした。まだコロナ禍に入る前で、なんか懐かしいですね。
永源寺も戦国時代には二度も戦火に見舞われ全山が焼失し衰亡しています。これに関しては織田信長の焼き討ちとは無関係のようですが、三重県いなべ市にある永源寺の寺院は滝川一益の軍勢によって放火され焼失してしまったようです。

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しんちゃん

長浜市石田町周辺 石田三成ゆかりの地 (2019/11/24 訪問)

石田町周辺には石田会館以外にも石田三成ゆかりの場所やパネルなどが豊富にあり、彼が地元の人にどれだけ愛されているかが良く伝わってきます。観音寺は石田三成と羽柴秀吉の出会いの場所とされ、秀吉のために三成がお茶の水を汲んだとされる古井戸(池)が残っています。
また観音寺は秀吉が城主を務めたとされる横山城に繋がるルートにもなっています。
石田八幡神社には石田三成一族とその家臣の供養塔が有ります。関ヶ原の合戦後に村人が秘かに埋めて隠していた五輪塔や宝篋印塔が昭和16年に発掘され、昭和48年に整備されたものです。境内には三成の詠んだ歌や辞世の句の句碑などが立てられています。

石田八幡神社‥滋賀県長浜市石田町576
観音寺‥米原市朝日1342
石田三成産湯井戸‥長浜市石田町644

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朝田 辰兵衛

「青天を衝け」聖地巡り✨ (2024/02/25 訪問)

高島秋帆幽閉の地にやってきました。初回放送ながら,みなさん印象深いシーンとして心に残っているようで,自分自身も人並みであると安堵しました…<笑>。
雨風が強まり,何度も傘があおられたので,ここで越後に引き返しました。ホテルから借りた☂だし…。

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もも

白河小峰城と桜 (2024/04/13 訪問)

綺麗な石垣と櫓門!公園になっていて常に賑やかです!

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もも

二本松霞ヶ城の桜宴 (2024/04/13 訪問)

憧れの二本松霞ヶ城と桜と宴!周辺には桜回廊や菜の花

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もも

弘前城桜 (2024/04/21 訪問)

久々の弘前城にて夜桜みてきました!

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海軍舞鶴鎮守府 舞鶴要塞 建部山保塁砲台 (2024/05/05 訪問)

「城びと初投稿いただきます」(ぴーかるさん投稿からのぱくり)。急峻な斜面と広い山頂部をもつ、いかにもな山体。標高(ほぼ比高)316m。登山口の説明板が退色して読めません(^^; 他サイトの10年前の写真を拝見すると、「南北朝時代に、丹後国守 一色氏の守護所の背後に築かれた。明治に、海軍舞鶴鎮守府 舞鶴要塞 建部山保塁砲台が建設された。丹後富士とも呼ばれ、八合目に小池がある」由。
砲台建設時に作られたと思われる緩やかな幅広の道が山頂まで続きます。馬車で資材を運んだのでしょうか。緩やかな分、距離があり(3km)、行きも帰りも同じくらい(45分ほど)かかりました。途中に、水が染みだしている箇所があり、小池の水源でしょうか。
山頂の保塁の保存状況は良く、内部にも入れます。舞鶴湾入口に砲台がいくつか作られましたが、湾の奥のこの砲台は、敵に湾へ侵入されたり、上陸された際の守りを担うのだと。
木がだいぶん繁っていて、眺望の写真を撮るのに木々をかき分けかき分け。山城の遺構は、保塁建設で、なくなっていると。登山口表示が道路から入った所にあり、ちと分かりにくいです。

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カズサン

【越中 放生津台場】富山県射水市 台場は放生津八幡宮裏北側? (2024/04/20 訪問)

 放生津城を終えて北陸路17番目北に約700m程の放生津台場を初登城しました。

 駐車場:特に無し、放生津八幡宮鳥居前の空エリアに路駐
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。
 住所:富山県射水市八幡町2丁目2-27

 先ず鳥居を潜り参拝し境内を一巡するが台場跡の案内板、指示板が無く、スマホのグーグルマップを起動して放生津台場跡を確認、案内板は無し、神社裏手の丸石垣で高まったあたりに「奈呉乃浦」石碑が立つ辺りが放生津台場跡の様です。
 砲台場に関しては唯一八幡宮鳥居の前に在る「放生津八幡宮の由来」に三行の文章に記載されてるのみ。
 記載文章は「江戸時代には歴代加賀藩主に崇拝され、嘉永3年(1850年)13代藩主前田斎泰が参拝した際には、当宮裏手に砲台場を設けるため視察した。」と有りました。

 宮司さんにお聞きした処、古老の話として戦前までは砲台跡の痕跡が在ったそうです。幕末か日清、日露か?良く分からないそうです。

 ここは新湊、富山新港が近く旧海王丸が係留されていますので見学に行きました。
 
 今回の北陸路城廻の締めは何年かぶりの高岡城へ。
 

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カズサン

神保氏の居城 (2024/04/20 訪問)

 安養寺城(勝興寺の安養寺御坊跡)を終えて北陸路16番目北東に約28km程の放生津城を初登城しました。

 駐車場:特に無し、放生津小学校正門前の空きスペースに路駐(36°46'32"N 137°05'21"E)
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 登城日は土曜日で小学校は休み、校門は開いていましたのでグランド西側を進み、遺構の有る北側へ北側東西約100mが公園の様に成っていて、城址と刻まれた自然石碑、隣に放生津城跡案内解説板が立っている、土塁よ様な土盛りが北側一帯と少し低い土盛りが東側に在りますが、遺構の土塁ではないようです、案内板によると遺構はグランド土の下に在りと記載されています。

 案内解説板によると。
 放生津城は越中守護の畠山氏の重臣で守護代神保氏の居城である。明応2年(1493年)室町幕府将軍足利義材(義稙)が京都の政変を避けて越中に逃れた。義材は放生津城主神保長誠に支えられて放生津に幕府政権を樹立し、京都の幕府重臣細川政元と対峙した。
 義材のもとへ公家、大名、禅僧、歌人ら多くの文化人も訪れ放生津は北陸の政治・経済・文化の中心地として栄えた。その後の長尾氏上杉氏、織田氏、佐々氏、前田氏との攻防も有りますが豊臣期、江戸期は前田氏の領有となり廃城された。江戸後期には加賀藩の蔵屋敷と成り、現在は放生津小学校が建てられてる。

 城域は、本丸と二の丸からなり、本丸は南北約126m、東西81m、二の丸は南北約50m、東西約36mの大きさ。現在遺構は全て地中に埋もれている。発掘調査は昭和63年、平成元年、平成3年に行われている。

 土曜日で児童もお休みであまり気にせず探訪が出来ました。
 この後は直ぐ近くの放生津台場跡を訪ねます。
 

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イオ

乾櫓特別公開 (2024/05/03 訪問)

西の丸北西隅に建つ乾櫓は、大坂夏の陣の後の大改修により築かれた城内最古の二重櫓で、L字形で一階と二階の面積が同じ総二階造りが特徴です。大手口から京橋口までを広く見渡し、南の上町筋、西の高麗橋筋、北東の京街道からもよく目立ったことから「三方正面の櫓」とも呼ばれました。徳川期の大改修が完成すると三代将軍・徳川家光が乾櫓を訪れ、堀端に呼び集められた町民を前に金の采配を振るって大坂の地子免除を宣言し、大坂城の城主が徳川将軍であり豊臣から徳川の治世となったことをアピールする舞台ともなりました。

乾櫓の内部は通常非公開ですが、9年ぶりに特別公開されるとのことで行ってきました。西外堀越しにも西の丸からも外観は何度も目にしていましたが、改めて見てみると櫓台の石垣に化粧が施されていることに気付きました。それでなくても徳川将軍の城ですが、家光自らか来るとなればそりゃ化粧も必要ですよね。

内部は3つの内室の外周を武者走りが囲む間取りで、二階への階段(二階は非公開)が2つあり、西面と北面には16箇所の隠し狭間と出張に4箇所の石落としが設けられています。通常は非公開のためか床にはちょうなの痕がはっきりと残っていました。北西隅には家光の故事にちなんだ陣羽織と金の采配が備え置かれ(着用して写真撮影できます)、そばの窓から覗いてみると、上町筋、高麗橋筋、京街道が三方にのび、なるほど三方正面の櫓であることを実感しました。その他、乾櫓の修理時に交換された鯱瓦や懸魚、説明パネルが展示されています。

姫路城の西小天守特別公開が300円だったことを思うと、西の丸庭園の入場料と乾櫓記念符付きとはいえ、乾櫓のみで800円、大手口多聞櫓と千貫櫓込みで1500円はいささか高いようにも思われますが、それでもやっぱり念願の乾櫓を見学できて良かったと思ってしまうのは惚れた弱みというやつでしょうか(笑)
 

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三浦の晃ちゃん

整備は、まだ、途中 (2024/05/06 訪問)

途中まで、舗装された道があります。道の駅に車を置いて、往復40分ぐらいです。ところどころ、石垣があります。他は、何となくですが、廃城された時に、破却されたのかなと思いました。

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todo94

佐世保鎮守府周遊ラリーの後に (2024/03/28 訪問)

佐世保鎮守府周遊ラリーの最後のキーワードを旧佐世保鎮守府凱旋記念館で手に入れ9つのキーワードがすべてそろいました。時間にはまだまだ余裕があったので、2023年末に登城を断念していた佐世保城へと赴きました。亀山八幡宮に駐車させていただき、雨中の城攻めです。石段の先に堀割が見えます。堀割に向かって右手が出丸のようですが、こちらの方が本丸の雰囲気をまとっています。堀割の左手は急峻な岩盤をロープを伝ってよじ登ります。こちらが本丸のようですがフェンスに阻まれてあまり先へは進めませんでした。実は2023年12月に今回踏破した場所のフェンスの向こう側は散々さまよっているのでこれで撤退することにしました。この日の夕食はくっけん広場にて護衛艦カレーをいただきました。昔ながらの香ばしさがあっておいしかったです。佐世保のホテルに連泊して、翌日、黒島にわたって無事、佐世保鎮守府周遊ラリーを完遂することができました。終了2日前の駆け込みだったにもかかわらず、先着150名のカードケースをいただくこともできました。

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しんちゃん

こじんまりとした城址 (2024/04/13 訪問)

大留城は庄内川の北側にある子安神明社の周辺に築かれていたようです。神明社の北側に二の丸の空堀が有るようなのですが、情報が足りておらず確認していません。
築城者であり城主の村瀬作左衛門は小牧・長久手の合戦の際には羽柴秀吉に味方し池田恒興らの大軍はこの城で軍議を行ったとされています。その後、村瀬作左衛門は池田恒興らと共に長久手で敗れ討死したそうです。

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しんちゃん

石田会館 石田屋敷跡・石田三成出生地 (2019/11/24 訪問)

石田会館‥滋賀県長浜市石田町治部576
石田会館は石田三成が生まれた屋敷の跡地に建てられています。三成公にまつわる展示がされており、敷地内には三成公の銅像や石田治部少輔出生地の碑などがあります。三成公のファンの方にとってはぜひとも訪れたい場所の一つだと思います。
この地は関ヶ原の合戦場からも、さほど離れておらず敗戦後に伊吹山を経て長浜市のいずれかに潜伏していたようなのですが、心の中では郷里のことを想っていたのかもしれません。

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HKISD

小牧山城散策 (2024/05/02 訪問)

少し山の中を登っての天守でしたので実感わきました。
全ての戦いはここからだとも言っていました。

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HKISD

犬山城散策 (2024/05/02 訪問)

国宝の天守閣とても良かったです。
城下町での出店も良かったです。

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HKISD

名古屋城散策 (2024/05/01 訪問)

とても広く、天守に入れなかったのは残念でしたが
見応えありました。

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HKISD

清州城散策 (2024/05/01 訪問)

清州会議が行われた場所ですね。
信長の銅像も良かったです。

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HKISD

岡崎城散策 (2024/05/01 訪問)

岡崎城を散策しました。
徳川家康の誕生城。とても良かったです。

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