場所は静岡県天竜区佐久間町、奥山氏の城を武田軍が遠州侵攻時に改修した山城で、高根城の前衛を守備した武田軍の番手城と考える。
特徴的なのが、ニの曲輪の南側にある二重堀切だ。本曲輪に対して内側の堀が箱堀で外側が薬研堀。小規模だが保存状態は良好で、高根城とセットで楽しむ事を推奨している。
登城ルートでの注意点。
R152から橋を渡ると、分岐点の看板に「新道←」「旧道→」とあるが、おススメは新道。
旧道からの登城は巨石が点在する沢を登るワイルドコースで上級者向けだ。
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2024/05/06 20:28
静岡県北遠にある大洞若子城 (2024/05/06 訪問)
場所は静岡県天竜区佐久間町、奥山氏の城を武田軍が遠州侵攻時に改修した山城で、高根城の前衛を守備した武田軍の番手城と考える。
特徴的なのが、ニの曲輪の南側にある二重堀切だ。本曲輪に対して内側の堀が箱堀で外側が薬研堀。小規模だが保存状態は良好で、高根城とセットで楽しむ事を推奨している。
登城ルートでの注意点。
R152から橋を渡ると、分岐点の看板に「新道←」「旧道→」とあるが、おススメは新道。
旧道からの登城は巨石が点在する沢を登るワイルドコースで上級者向けだ。
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2024/05/06 17:12
勝興寺の安養寺御坊跡 (2024/04/20 訪問)
蓮池城を終えて北陸路15番目南西に約3.4km程の安養寺城に初登城しました。
駐車場:無し、跡地約50m南の道路歩道のやや広い所に路駐(36°27'47"N 136°50'07"E h=60m)
参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップによる。
カーナビの目的地を少しずらし過ぎて目的地を見失うも、近くの八幡宮辺りで地元の方に聞き目的地に到着。
県道274号線を八幡宮角四辻を東に100~150m程行くと右手歩道側に勝興寺跡(安養寺御坊)指示看板が立っている、そこより北に農道50m程に安養寺城(安養寺御坊跡)の跡地に石碑、案内解説板、蓮如上人御文書の一説が刻まれた石碑が石橋を渡って小公園と成っている。約四百数拾年前にはこの辺りに越中門徒の一大拠点である、勝興寺が建っていたのでしょうが、現在は農地改良整備で水田地帯に成って小公園がその跡地を偲ぶ姿と成っている。
地元の方に聞いた時「安養寺御坊跡」より「勝興寺」の方がよく理解されてる様子でした。
案内板によると。
伏木古国府にある勝興寺は、蓮如上人の次男蓮乗が土山御坊を開いたことが起源である。その後移転を経て永正16年(1519年)に当地安養寺御坊を開く。天正9年(1581年)木舟城主石黒氏に攻められ焼失。天正12年(1584年)佐々成政は守山城主神保氏張を通して古国府城地を勝興寺に寄進し、勝興寺は現在の地に再建された。
勝興寺と井波城に在る瑞泉寺とは越中一向一揆二大勢力を誇った、現在の古国府城勝興寺、井波城瑞泉寺の寺院伽藍の彫刻は素晴らしく時間を忘れて見ほれるばかりです、さすが欄間彫刻で有名な井波の彫刻師集団の職人技なのでしょう。
この後は、射水の放生津城へ地道を使って走行。
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2024/05/06 16:22
見事な2重空堀 (2024/03/02 訪問)
【寺中城】
<駐車場他>野上八幡宮駐車場に駐車しました。八王子厳島神社まで車で行けます。野上八幡宮に一旦入って駐車場北側から狭い道が北に伸びているので道なりに進んで行けば着く。
<交通手段>車
<登城路>八王子厳島神社から西方向の山道に入ります。⇒すぐに電波塔の基地があり、左脇を通り抜けます。⇒谷を降り登りピークに出ます。⇒ピーク(一帯が削平地みたいになっている)を右折し杭に沿って進みます。⇒削平地の先端からロープが要りそうな崖になっています。ピンクリボンが僅かに見えているので、ズルズルと少し降りると貯水池が見えてきます。⇒降りきったら貯水池のほとりに出て堤防上を渡ります。⇒踏み跡の道があるので左手の谷を登ります。⇒登り切ったら土橋に出ます。⇒登った土橋の右手の山、切岸風になったピークを登る。⇒登り切ったら左手の鞍部(植林整備されているのが見える)を行くと主郭が見えてきます。
<見所>2重空堀
<感想>日帰り和歌山山城攻め2城目。初投稿のつもりが投稿にもたついてる間にキンヤさんの2番手になってしまいました。城跡は円形の主郭を2重空堀で囲んでいます。1重目は深い堀で、主郭西側にある長方形の副郭の横堀と繋がっています。2重目の横堀は現在は浅くはなっていますが、1・2重間の土塁は高く見応えがあります。副郭の横堀は曲輪西端に堀切竪堀となっています。城跡手前の土橋・ピークの削平地辺りも城跡かと感じました。小規模ながらなかなか見応えある城跡でした。帰路は貯水池手前のズルズルと降りてきた斜面を今度は急斜面、登るのに少しキツイです。
<満足度>◆◆◇
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2024/05/06 13:20
「師戸城」 (2024/04/06 訪問)
<オススメ>★★★★★
師戸城は、臼井城の支城として築かれたとされる。臼井四天王の1人として師戸四郎が居城していた。戦国時代には後北条氏の傘下に入る。小田原征伐で後北条氏の滅亡に伴い廃城となる。現在、空堀、土塁などが遺されている。※ 臼井城も併せて散策することをオススメする。
<アクセス>
京成臼井駅 徒歩40分
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2024/05/06 13:16
「臼井城」 (2024/04/06 訪問)
<オススメ>★★★★☆
臼井城は千葉氏の一族、臼井六郎常康が臼井に居を構え、臼井氏の中興の祖といわれる興胤(14世紀中頃)の代に、この城の基礎がおかれたと伝えられる。現在の遺構は15世紀以降のものと考えられる。戦国時代末期には原氏が城主であったが小田原征伐により千葉氏とともに滅亡した。酒井家次が3万石で入り、転封に伴い廃城となる。現在、空堀、土塁などが遺されている。
<アクセス>
京成臼井駅 徒歩20分
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2024/05/06 12:57
「中泉陣屋」 (2024/04/06 訪問)
<オススメ>★☆☆☆☆
中泉陣屋は、徳川家康が伊奈忠次に命じ、鷹狩のための施設として御殿を築いた。その後は、中泉陣屋として遠江・三河・信濃の天領を支配する代官所として利用される。現在、遺構は消滅している。
<アクセス>
JR磐田駅 徒歩10分
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2024/05/06 12:47
「横須賀城」 (2024/04/06 訪問)
<オススメ>★★★★★
横須賀城は徳川家康が大須賀康高に命じて築いたとされる。その後、東海道の要衝を守護する地として大須賀家2代、渡瀬家1代、有馬家1代、大須賀家2代と能見(松平)家2代、井上家2代、本多家1代とめまぐるしく藩主が代わり、西尾忠成が2万5千石で入封し、廃藩置県まで西尾氏が治める。戊辰戦争では尾張藩の説得を受け、新政府軍に恭順した。現在、曲輪、石垣、土塁などが遺されている。
<アクセス>
JR袋井駅 秋葉バス「七軒町」下車 徒歩10分
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2024/05/06 11:41
自然石基壇に石碑と解説板 (2024/04/20 訪問)
木舟城を終えて北陸路14番目南西に約6.3km程の蓮池城を初登城。
駐車場:無し、自然石基壇の南横に路駐。
参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。
自然石を使用した基壇に松、ツツジが植栽されて自然石の蓮沼城銘記の石碑、蓮沼城跡解説板、城主遊佐加賀守藤原長滋の連歌「たひ人の しつまる月に かねなりて」句碑が立っている。
解説板によると、城域規模は東西26間(46.8m)、南北36間(64.8m)で周囲に幅5間(9.0m)の堀が有ったとの事。蓮沼城は室町中期越中守護の畠山氏の家臣である守護代遊佐氏の居城であった。遊佐氏一族は文事を好み都より連歌師がしばしば蓮沼城に立寄り句会が開かれた様子、代表作が句碑の刻まれてる。天正13年(1585年)佐々成政の家臣が守備していた蓮沼城を前田利家が攻略した。(解説板抜粋)
短時間の探訪にて次に安養寺城(安養寺御坊)を目指す。
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2024/05/06 11:18
広大な広さ (2023/12/30 訪問)
まさに圧巻です。
本丸までが遠い‥
以前はもっと遠くにあったんでしょうね。
ゾッとします。
年末だったため天守閣の内部は公開されてませんでした。
残念!!
時間がなかったのでさらっとしか見てませんが多分一日かけて回らないとじっくりは見れないと思います。
石垣の発掘調査をやってました、いずれ公開されるようです。
この辺りは大阪の陣絡みの史跡や名残が色々あるのでまたしっかり時間をとって行きたいですね。
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2024/05/06 11:00
見る方角によって全く異なる素敵な姿を見せてくれます (2024/05/04 訪問)
さすが人気城ですね。入場券を買うまでに1時間待ち、更に入城するまでに50分待ち、見物ルートも大渋滞で、内部の造りや天守からの景色は堪能できましたが、自分のペースで見学することはできませんでした。
GWだったからかもしれませんが、計画はしっかり練ったほうが良さそうです。
ぐるり四方を巡ってみると、どこから見ても美しい、総堀跡にも一部 土塁や石垣が見られます❗
コンパクトな街で、近くには四柱神社などもあり、御朱印好きにも堪りません‼️
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2024/05/06 07:44
針尾送信所の近く (2024/03/28 訪問)
佐世保鎮守府周遊ラリーの川棚町のポイントに続いて、針尾送信所に赴きました。こんなに巨大な構造物の存在を今まで知らなかったとは。針尾城は針尾送信所のほど近くですが、グーグルマップに載っていません。城郭放浪記さんの情報をもとに雨中、しばし彷徨いつつ、見事な二重堀切を見つけることができました。主郭からの帰路、堀切を越える際に足を滑らせ尻もちをついてジーンズが泥だらけになってしまいました。この後は西海市の2つのチェックポイントをクリアすることができました。崎戸島の先端、北緯33度線展望台はかなり遠かったです。
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2024/05/06 07:37
桜の季節の桜チャシ (2024/04/29 訪問)
公園として整備されていて、目立った遺構は確認できませんでした。
かつては、チャシであることを記載した案内板があったようですが、登城時は撤去されていたようです。
その名の通り、桜がきれいでした。
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2024/05/06 00:12
GW初訪問 (2024/05/05 訪問)
頂上までの登山ルートは4つ、過去に死者が出たこともあるとのことで、侮れない険しい山。 ロープウェイ頂上からもさらに山を登って、ようやく天守に到着。本当に山に沿う形に建てられた城。
頂上からの見晴らしは絶景、城主として下々を見下ろすのは優越感だったろうと想像。
天守から見えた美濃の山と町と長良川は、まちづくりミニチュアっぽくて楽しかった。
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2024/05/05 21:18
本證寺の城郭伽藍 (2024/01/27 訪問)
城郭施設が残る珍しい寺院とのことで1月に訪問した愛知県安城市の本證寺。
鎌倉後期の創建と伝わり、室町時代には地域の本願寺派の有力寺院に成長。
矢作川西岸の平坦な碧海台地上に位置し、戦国期に入ると自衛のために堀と土塁が必要となったのでしょうか。
1563年に三河一向一揆が起こると、一揆方の拠点の1つとなり家康と対立。その結果、空誓らが一旦は領国追放となりますが、1585年に赦免され再興を果たしました。
現在も内堀内は本證寺の境内で、本堂や庫裏、裏門、鼓楼などは江戸期から残る建造物。また内堀周辺エリアは令和9年の史跡公園化に向け発掘調査と工事が進行中。ただし内堀や土塁が戦国期に存在したという決定的な証拠は得られていないとのこと。
訪問時は本堂周辺の内堀や鼓楼を確認した後、裏門から境内の外側を散策。
隅櫓のような鼓楼やクランク形状をした内堀は、正に要塞の雰囲気。
境内北側は草木が少々伐採され、一般にはまだ未公開の土塁が一部確認可能な状態。
滞在時間は約1時間半。
3年後が気になる城郭伽藍の本證寺が、私の城郭巡りの172城目となりました。
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2024/05/05 19:59
とにかく (2024/03/09 訪問)
寒かったでしゅ
城下町歩きも楽しかったでしゅが
なんかもったいない感じでしゅ
軒先貸し出しとかでもお店増やせば賑わう
スポットにならないでしゅかね〜
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2024/05/05 19:52
2024/05/05 18:32
2024/05/05 18:19
僕らのカープ♪ (2024/04/29 訪問)
ご存知、広島カープの球団名由来の鯉城、広島城です。
マツダスタジアムでのナイターが雨天中止となりとりあえず陽気でラーメン食べて宿泊先に。
翌日から九州遠征なので気を取り直します。
翌朝、相方睡眠中に久しぶりに広島城を散策しました。
近世城郭ではまずは内堀を一周するのが常ですが、この日もまずは内堀沿いに歩きました
GWとは言え平日、人もまだまばらです。
横矢がかかる石垣も素敵、裁判所敷地内の土塁も見学しました。
北側に行くと天守も望めます。
復元ですがやっぱり見応えありの天守です。
内堀を一周して大手門から二の丸へ。
もちろん堀には鯉が泳いでいます。
この二の丸、馬出を兼ねる珍しい造りです。
中御門から本丸に入りますが、石垣が所々赤く焼けています。
そう、原爆によるもの、違う意味でも歴史を感じます。
本丸には日清戦争時の大本営跡も。
広島が軍事の重要拠点であったことが伺えます。
北西の隅に復元天守、朝早かったので中には入れませんでしたが内部は博物館になっています。
福島正則時代の石垣や土塁も残り石垣には刻印のある石も積まれています。
原爆で天守含めて破壊されましたが様々な時代の歴史を感じることができる城なのではないかと。
帰りは大手門前の地下道を通りましたがここに暗渠の跡も残っています。
鯉城を訪れる際には見逃し無きよう。
しかし今日もカープ負け、打てない・・・。
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2024/05/05 16:40
2024/05/05 16:20
新善光寺 (2024/05/04 訪問)
戦国時代には結城氏、小田氏が争った境目の城です。最終的には佐竹氏の支配となりました。当時の城域はかなり広かったようですが、面影はあまりありません。新善光寺へ行って来ました。墓地横の堀跡と思われる地形がありました。他にも土塁等が所々残っているようですが確認していません。
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