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todo94

秋の乗り放題パスでの攻城⑥ (2024/10/13 訪問)

富松城から徒歩にてアプローチしました。ここは荒木村重の有岡城を織田信長が攻めた時に陣がおかれた城だったのですね。有岡城落城後、一族家臣がここで処刑されたということで大きく立派な故六百三十餘人之碑が建てられていました。イオさんの情報で昭和公園東側の道路が堀跡とのことでしたのでこちらにも脚を伸ばしてきました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)7日目:高田城 (2024/09/28 訪問)

高田駅から徒歩10分くらいで、城碑説明板前(34.511779、135.746999)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、高田氏によって築かれたと云われています。
1447年(文安4年)には越智・古市方の布施氏によって攻められ、五重の木戸を四重まで攻め落とされながらも撃退したそうです。
松永氏と筒井氏が対立すると高田氏は松永氏に属しましたが、1571年(元亀2年)松永氏が筒井氏に大敗すると筒井氏が大和国を支配することとなり、高田氏は中坊で殺されたそうです。

高田城は片塩小学校一帯に築かれていたそうです。
遺構はありませんが、小学校の南側にある小公園に案内板と石碑が建っています。
電車の時間がせまっている為、攻城時間は5分くらいで速攻で撤退しました。次の攻城先=今井環濠を目指す為、高田駅から電車で畝傍駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)7日目:片岡城 (2024/09/28 訪問)

下牧南口バス停から徒歩10分くらいで、説明板前(34.576370、135.708824)に着きました。

片岡城はこの地域の国衆、片岡国春によって築かれた城です。1569年(永禄12年)、城主が片岡春利のときに松永久秀に攻められ城を奪われ、このときに城は改修されたようです。
その後、1577年(天正5年)に久秀が織田信長に反旗を翻すと、明智光秀によって攻められ落城しました。

見学路が整備され、主郭に入れるようになりました。 
案内板を正面に見て左側に30mほど下った所に登城口があります。 2分ほどで主郭に着きます。 その道以外は私有地のため、立ち入らないように気をつけてください。
現在城址には、空掘を確認することができます。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=高田城を目指す為、畠田駅から電車で高田駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)7日目:恩智城 (2024/09/28 訪問)

恩智駅から徒歩10分ちょっとで、恩智城址公園入口(34.606491、135.633082)に着きました。

建武年間(1334年〜1338年)に恩智左近満一によって築かれたと云われています。 恩智氏は河内国二宮恩智神社の社家の後裔だそうです。
恩智左近は元弘年間(1331年〜1334年)に楠木正成に従って千早城籠城や、飯盛山城攻撃に加わり、楠公八臣の一人だそうです。
1348年(貞和4年・正平3年)楠木正行に従って四條畷に出陣し討死したそうです。

恩智城は恩智神社へ向かう参道の途中の南側にあり、現在は公園となっています。
公園西側の一段高くなった所に、石碑が建っています。
電車の時間がせまっている為、攻城時間は10分くらいで速攻で撤退しました。次の攻城先=片岡城を目指す為、恩智駅から電車と奈良交通バスで下牧南口バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)7日目:高安城 (2024/09/28 訪問)

近鉄の高安山バス停から徒歩10分ちょっとで、レーダ観測所(34.616262、135.656412)に着きました。

高安城は古代の天智天皇6年(667年)に築かれた「古代高安城(たかやすのき)」と戦国時代に築かれた「中世高安城(たかやすじょう)」の2つがあります。
古代高安城の遺構としては倉庫跡の礎石が発見されており、この遺構は簡単に見ることができるそうですが、時間の都合で行っていません。
中世高安城は信貴山城主となった松永久秀が出城と築いたと伝えられ、高安山の山頂に築かれていました。
中世高安城では、いくつかの曲輪と土塁、横堀が確認できるようです。

今回、高安山山頂(34.616938、135.657495)に向かう予定でしたが、ケーブルの発車時間が迫り、途中で断念しました。攻城時間は10分くらいでした。
次の攻城先=恩智城を目指す為、ケーブル高安山駅からケーブルと電車を利用して恩智駅に向かいました。

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じゅんじん

赤い (2024/10/13 訪問)

神社でコンサートの準備をしてました!

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しんちゃん

(本来なら)眺望は素晴らしい (2024/10/19 訪問)

菩提山城は良い山城です。だから登った方が良いですよ~。個人的には菩提山城と松尾山城を国の史跡に登録して欲しいと思っています。
何せあの竹中半兵衛の城ですからね。遺構も素晴らしいですよ。
実は大谷吉継陣跡の背後にも遺構が広がっていて、太田牛一の「内府公軍記」には宇喜田秀家の陣が山中にあったとされています。
南宮山(朝倉山から入りました)一帯にも大軍を駐留できるスペースが有り、後で確認したところ神谷道一氏の書いた陣跡とほぼ一致しています。南宮山の北側の尾根にある郭は神谷氏が毛利秀元陣跡とした場所と一致し、周辺からは関ヶ原を一望できます。
松尾山城の北西にある小山には出城があり(北側の崩れから訪問)白峰氏の言われる、一次資料にある岡の可能性もあります。そもそも松尾山は戦をするにしては標高が高すぎます。
吉川家文書には広家も南宮山に登ったという記載がある(小池氏の文書から流用)ので、いずれ関ヶ原に関する遺構の洗い直しと保存を検討するべきでしょう。

菩提山城に話を戻しますが、ハイキングコースとして整備されていて、とてもかわいいクマの注意書きがあります。イラストは可愛いですが、ひっかかれたら顔の半分が吹っ飛びますよ(笑)。まあ、この山はよほどのことが無ければクマは出ません。
比高335mと結構な高さと距離があります。大手曲輪を経て三の丸を訪問します。台所曲輪は立入禁止になっていますが、西の曲輪は訪問することが可能です。まずは本曲輪と二の曲輪を目指します。

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しんちゃん

小牧山城が見える。 (2024/10/20 訪問)

岐阜の城攻めもこれで終了。これが東海4県最後の城です。とはいってもまだコンプではありません。掲載を、あと4つ(!)残しています。大桑城で体力をだいぶ削って、本来なら帰還も考えるところですが、ちょっとだけ無理をしました。最後ですからね。
猿啄城はハイキングコースになっていて、思ったより多くの人が来ています。けっこう登りはきついけど、眺望が良いし、展望台があるので人気があるようです。特に遺構は見当たりませんが、眺望は良く、小牧山城も見えます。年配の家族連れがいるので、ほどほどにして帰りました。どうやら西側にも遺構が残っている様子。まあ基本、眺望メインの城ということで‥。

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しんちゃん

畝状竪堀群 (2024/10/14 訪問)

広瀬城は畝状竪堀群が見事な土の城の傑作です。周辺の土の城の中でも一番好きな城ですが、城郭大系に載っていません。
もともとは広瀬氏の山城でした。広瀬氏が三木氏(姉小路氏)に敗れた後は高堂城と共に三木自綱の居城になりましたが、天正13年に羽柴秀吉の差し向けた金森長近の軍に降伏しています。
三木氏の居城時に今の姿に改修を受けたとされます。ゲートには例によって「熊出没注意」の注意書きがあります。このあたりの城のお約束ですが、熊鈴を鳴らしながら入ります。
南西の尾根には大きな堀切が切られており、西の郭には畝状竪堀が付いていますが、藪に覆われ見えません。東側の主郭と思われる郭の先にも堀切があります。その先の東の郭の周囲はぐるりと畝状竪堀群で囲まれています。
いろいろと畝状空堀という言葉を使えという圧力がかかっているようですが、私は畝状竪堀という言葉の方がセンスが良くて断然良いと思います。
畝状空堀の中に含まれる畝状竪堀ってことじゃダメなんですかね?

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ぴーかる

弥勒寺山城 (2024/09/28 訪問)

【弥勒寺山城】
<駐車場他>山頂のトイレ横に3台程の駐車場があるが、北の登り口に柵がしてあるかどうか未確認
<交通手段>JR紀三井寺から徒歩で雑賀城⇒徒歩で来城しました。帰りは和歌山バス「秋葉山」から和歌山駅まで行きました。

<感想>>電車で和歌山ちょこ城巡り、写真消えた旅ラスト5城目。秋葉山の交差点からプールに行けるエレベーターがあるので乗り、プールの駐車場横の階段から山頂方向へ行きました。登った方向には山の中腹斜面には表面観察では遺構らしきものは見受けられませんでした。山頂部は広い削平地(改変されているかも)になっていて、公園化されています。山頂部の東側に土塁が30m程残っています。
 この城は雑賀孫市が雑賀合戦において奮戦した地であります。司馬遼太郎先生の「尻喰らえ孫市」は好きな作品の一つです。作中では孫市は本願寺の衆徒ではないのだけども惚れた女の為に本願寺側に引きずり込まれ織田軍と戦うことになるというお話でしたね。
 雑賀城からこの城跡まで国道42号線を歩いている時に、和歌山駅行きのバスがブブーンと通ったので「なんやバスがあるやん!」って気づいて、もう歩けへんかったし帰りは和歌山駅までバスに乗りました。この日は城びと中野城跡も行こうかと思いましたが、電車もバスも50分待ちで、歩くのももう辛かったので(結局写真がパアになったので結果オーライか)やめて終了としました。

<満足度>◆◇◇

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朝田 辰兵衛

谷津から先の登城道が見当たらず… (2024/10/05 訪問)

高瀬小学校から村山高瀬川に架かる橋を渡ります。田んぼの先のほうにフェンスが見えます。畦道を進みながらフェンスへと。フェンス沿いにちょっと戻るとフェンスの扉が見えます。丸太5本の橋が用水路に架かっており,ここを渡ります。1本腐っていたので,慎重に体重をかけてください。無事に渡ると「いのは山」の案内標識があります。整備された道を行くと,谷津に開けた平坦地に出ます。
ここから尾根道までのアクセスルートが見当たりませんでした…<泣>。
地形図を眺めると,山頂から東側にかけて等高線が緩やかだったため,約250mを直登しました。土の感覚と草木の生え具合が自分のフィーリングに合いそうだったので,即決状態でした。ハゲ山で水分の少ない土だったら断念したと思います。たぶん…。
山頂近くに巨石がありました。巨石を過ぎると監視用と思われる帯曲輪。帯曲輪からさらに登ると山頂到着。ここが南の郭。山頂から北へ進むと祠のある主郭に到着。
下山時に尾根道を進みましたが,途中までしかピンクリボンがなく,谷津に開けた平坦地へは斜面を選んでたどり着きました。
なので,夕方の登城は危険だと思います。あくまで自己責任という自覚で登城願います。

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しんちゃん

城山の 秋の空気が ゆらゆらと 歩く速さで 躰に当たる(お城短歌) (2024/10/20 訪問)

せっかく古今伝授の里に寄ってきたので一句作ってみました。さわやかな秋の空気が山城を攻める火照った体を冷ましてくれます。
だいぶ山城に登りやすくなってきましたね。こないだまで、暑い中・蜘蛛の巣と格闘しながら藪の中を彷徨っていたのと比べると雲泥の差です。時間に余裕があるので麓より登ります。山頂まで2.1km、比高320mの道のりです。
登り始めて、いきなり堀切に出くわします。ここから岩門(番所)跡まで特にこれといった遺構は無いので、時間と体力に余裕に無い方は「はじかみ林道」登山口から登られた方が良いでしょう。そこからだと石垣1の地点まで約720mなのでだいぶ体力を温存できると思います。そちらのルートは比較的新しいもののようです。
番所跡から尾根に登ると、南西に馬場がありますが、まずは主郭を目指します。途中・石垣のビュースポットが三か所あるので、見逃さずに進みたいと思います。

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しんちゃん

藪を抜ければパラダイス (2024/10/05 訪問)

比自山城は第二次天正伊賀の乱の際に伊賀衆が籠り丹羽長秀らをさんざんに手こずらせた堅城です。大規模な縄張りを持つと言われますが、その内容は不明な点が多く、イヤな予感と期待が混ざり合った心境でやって来ました。
主郭周辺、特に北西に遺構が良く残ります。ただし、主郭にたどり着くまでには藪を突破しなくてはなりません。メガネやゴーグルをされてない場合は多少遠回りでも安全なルートを見つけて攻略すると良いと思います。
主要部にたどりつくと堀切が南北を隔てています。北側が主郭と思われ、周囲に土塁が残りますが、南の郭から攻めていきます。南の郭には一部突出して南方に突き出している箇所があります。それ以外に特に何とて無いので、堀を越えて主郭に入ります。
主郭の北側にも郭があり、城域が広がっています。そこから戻って北西を目指すと堀切が郭の周囲を囲み北西にも郭がひろがっています。
堀は二重で、上の郭に向かう土橋もついています。ネイティブで謎のイメージが強い城だったので、その遺構の見事さのギャップに一本取られたかんじです。はやく藪を刈って、史跡認定しましょうよ。

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和歌山城公園をライトアップ「和歌山城~光の回廊~」&点灯記念イベント

四季を通じて夜の和歌山城の魅力を創出する和歌山城~光の回廊~がついにスタート!
夜の和歌山市・和歌山城へNight Outしよう!

(ライトアップ期間)
冬季:2024年11月24日(日曜日) ~ 2025年2月28日(金曜日) 時間:17時00分~23時00分(予定)
春季:毎年3月下旬~5月上旬
夏季:毎年7月下旬~8月下旬
秋季:毎年9月下旬~11月上旬
※春季以降の詳細な日程等は季節に応じて順次発表いたします。
※ライトアップの演出・時間は季節に応じて変更していきます。

〇 和歌山城~光の回廊~ライトアップ記念 WAKAYAMA LIGHTS 2024 和歌山城ドローンショー presented by FeStA LuCe
和歌山城~光の回廊~のライトアップを記念し、株式会社タカショーデジテック様及び株式会社ドローンショー・ジャパン様のご協力により、和歌山城“初”・和歌山“最大”となるドローンショー「WAKAYAMA LIGHTS 2024 presented by FeStA LuCe」を特別開催します!
光に彩られた和歌山城公園・夜空に浮かぶ和歌山城天守閣と最先端のドローン400機によるコラボレーションを是非お楽しみください。

日時:2024年11月24日(日曜日) 19時00分~(約15分間)
観覧場所:和歌山城公園 西の丸広場等を予定

主催:フェスタルーチェ実行委員会 株式会社ドローンショー・ジャパン
共催:和歌山市

注意事項
・ショーの前後は、天守閣周辺、砂の丸広場及び付近で立入規制を行います。
・当日の天候により、ショーは中止となる場合があります。(振替日:2024年11月26日(火曜日))

詳しくはHPから
https://www.city.wakayama.wakayama.jp/kankou/1010182/1060229.html

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赤い城

宇喜多直家生誕の城 (2024/10/13 訪問)

登城口に砥石城入口の案内板があり、登城路はハイキングコースになっています。
少し急ですが歩きやすく山頂部の本丸には10分ちょっとで到着、見晴らしも良いです。
本丸は広く、説明板も設置されていました。
野面積みの石垣の案内板があり、僅かに当時の石垣が残ります。
その奥の石垣は江戸時代に建っていた金比羅宮の石垣です。

主郭から奥の尾根に進み出丸へ向かいます。
笠松神社の手前に案内板があります。
やや入口がわかりにくいですがこの案内板とピンクリボンに沿って行くとすぐに道がついています。
まずは堀切、浅くなっています。
さらに尾根を進んでいくと出丸手前に堀切があり、その先の城塁を登ると出丸、さらに奥に向けて段になって曲輪が続いていました。

直家生誕地ですが島村盛貫の奇襲により祖父の能家が自害、父の興家と脱出した城です。
その後各地を転々とした後奪還しました。

近くには高取山城もあり徒歩圏内なのですが次回に回すこととしました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)7日目:信貴山城 (2024/09/28 訪問)

奈良交通バスの信貴大橋バス停から徒歩15分くらいで、空鉢護法堂参道口(34.610008、135.670322)に着き、そこから空鉢護法堂(信貴山の主郭で最高所)を目指しました。

築城年代は定かではないようですが、河内国との国境に近い要衝にあることから南北朝時代頃から砦や陣が設けられたようです。
本格的な城郭を築いたのは木沢長政で1536年(天文5年)の頃と云われています。
木沢長政は河内国守護職畠山氏の家臣で飯盛山城主となるなど重用されたが、主君畠山義堯を裏切って細川晴元に接近しました。
1542年(天文11年)河内太平寺合戦で長政は討死し、二上山城とともに信貴山城も落城しました。
1559年(永禄2年)松永弾正久秀が大和へ入国すると、多聞山城とともに信貴山城も改修して拠点としました。
1564年(永禄7年)三好長慶が飯盛山城で病没すると、松永久秀は三好三人衆と将軍足利義輝の暗殺するなど畿内での勢力を増したが、三好三人衆と仲違いしたことにより、大和より追い出した筒井順慶が三好三人衆と結んで筒井城の奪還を計ります。
三好家中で孤立した久秀は高屋城主の畠山高政と結んでこれに対抗しようとしたが、上芝での戦いに敗れ、その後、三好三人衆の陣があった東大寺の奇襲に成功した久秀でしたが、信貴山城は三好・筒井軍によって攻め落とされました。
1568年(永禄11年)足利義昭を奉じて上洛した織田信長に久秀はいち早く降り、その加勢を得ると信貴山城を取り戻しました。
1570年(元亀元年)筒井順慶の勢力が盛り返すと、翌1571年(元亀2年)には辰市城合戦で大敗を喫し、その後、筒井順慶も織田信長に帰順し、その斡旋もあって和睦となりました。
その後、将軍足利義昭が画策した信長包囲網に加わり反旗を翻しましたが、1573年(天正元年)甲斐の武田信玄が没すると包囲網も破綻し、久秀は多聞山城を明け渡すことで信長に降り、信貴山城へ退きました。
1577年(天正5年)久秀は佐久間盛信に従って本願寺攻めに加勢していましたが、再び毛利輝元や上杉謙信、本願寺など反信長勢力に荷担し信貴山城に籠城しました。
信長は筒井順慶などを主力とする大軍を送り込み、久秀が所有している名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば助命すると勧告するが久秀はこれを拒否。久秀は天守に籠もって自爆して果てました。

なんとか松永屋敷までは行きたかったのですが、バスの時間がせまり石碑の写真を撮って撤退です。
後で気づきましたが、登るのに一生懸命で遺構の写真を一枚も撮っていませんでした。何をしに行ったのやら。。。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=高安城を目指す為、信貴山門バス停から近鉄バスで高安山バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)7日目:立野城 (2024/09/28 訪問)

王寺駅から近鉄生駒線を利用して信貴山下駅で下車。そこから徒歩15分で、墓地登り口(34.601154、135.687793)に着きました。
信貴山下駅から舗装された登り坂を15分歩くのは、結構きつかったです。

永禄年間(1558~70年)興福寺の立野氏が築城したとされます。のちに松永久秀軍に落とされ、信貴山城の東南を固める出城となりました。

城山台団地の城山台第2児童公園及びその上の墓地が城址のようです。
墓地から城山台第2児童公園へは直接行けないので、一旦降りて回り込む必要があります。
標識などはなく、城址感はありません。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=信貴山城を目指す為、徒歩で万葉荘園前バス停へ向かい、そこから奈良交通バスで信貴大橋バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)7日目:椿井城 (2024/09/28 訪問)

下垣内城から徒歩20分くらいで、椿井城登城口(34.620531、135.711453)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、島氏によって築かれたと云われています。
島氏は平群一帯に所領を持った在地豪族で、もともとは西宮城を居城としていたようです。
石田三成に仕えた島左近清興はこの島氏の出で、筒井順慶に従って松永久秀を敗り、大和守護職へと導いたが、順慶が没すると家督を継いだ筒井定次とは折りが合わず辞去し、やがて石田三成に仕えたそうです。

南郭の主郭・副郭とも眺めは最高です。主郭の石垣は草が生い茂り、落葉も斜面に堆積しているので見学の際は注意して下さい。
南郭から北郭への進入口は藪化しており進入できません。というか、北郭へは進入禁止のようですので見学は断念しました。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=立野城へ行く前に、一旦ホテルに戻り朝食を食べる為、電車で竜田川駅から王寺駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)7日目:下垣内城 (2024/09/28 訪問)

西宮城(城びと未登録 奈良県平群町)から徒歩2~3分くらいで、平郡中央公園(34.624027、135.703072)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、島氏によって築かれたと云われています。 谷を挟んで南に西宮城があります。

西宮城は平群中央公園の一角にあり、南の谷を挟んでと西宮城相対します。
当初単郭の城館と見られていた下垣内城は東西二郭の副郭で、間に8m程の堀切があったそうです。
現在は東屋があるなだらかな丘陵になっており、遺構らしき地形は見ることができませんが、東屋の柱に案内板が設置されています。
トイレもありました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=椿井城へは、ここから徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)7日目:西宮城(城びと未登録 奈良県平群町) (2024/09/28 訪問)

ホテルでの朝食前に西宮城(城びと未登録 奈良県平群町)、下垣内城、椿井城の3城を攻城しました。
宿泊先のホテルから王寺駅に向かい、近鉄生駒線の始発で竜田川駅に着きました。
竜田川駅から徒歩10分くらいで、冒険広場(34.622817、135.702903)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、島氏によって築かれたと云われています。
1460年(長禄4年)畠山義就の軍勢が島城へ押し寄せましたが、筒井順永の後詰により撃退しています。この島城が西宮城か椿井城と考えられているようです。
島氏は後に椿井城を築いて居城とし、筒井順慶、後に石田三成に仕えた島左近清興が著名です。

西宮城は平群中央公園の一角にあり、北の谷を挟んで下垣内城と相対します。
公園にある案内板によれば、時計台のある所が堀切で土橋が架かり、東側が主郭、西側が副郭であったようです。
案内板の写真も撮りましたが、ピンボケで投稿できません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=下垣内城へは、ここから徒歩で向かいました。

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