岡山城に隣接する後楽園は岡山藩主・池田綱政が貞享4年(1687)から14年の歳月をかけて造築させた大名庭園で、日本三名園に数えられています。とはいえ栗林公園などもありますので、本州三名園のほうが正しいのかもしれません。
訪問時は12月の寒気だったので正直地味ですね。良い庭園ではありますが、訪問時のお勧めは田んぼに水の張った5月ごろや井田に稲穂が実った秋ごろが良いのかもしれません。
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2024/07/07 08:14
2024/07/06 23:52
2024/07/06 23:38
神島 (2022/10/30 訪問)
三重県鳥羽市の神島は三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台となったことで有名になりました。周囲は3.9km 基本移動は徒歩になりますので高低差などを含めると結構な距離ではあります。映画化も5回行われており、ロケも神島で行われています。観光客以外にも釣り人にも人気の島のようで、往復3000円の観光船は訪問客でいっぱいです。
鳥羽市になりますが愛知県田原市の方が近く、観光船なら15分で到着です。東周りに周遊するコースで、まずは小説にも登場する神島灯台を訪問します。
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2024/07/06 22:56
西光寺 (2024/07/06 訪問)
葛西清重が出家し居館があった場所に創設したのが、西光寺と伝わっています。山門横の塀から説明板が顔を出していました。
京成本線四ツ木駅から徒歩5分くらいです。
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2024/07/06 22:50
2024/07/06 22:42
多聞寺 (2024/07/06 訪問)
多聞寺北側の台地付近が城址と伝わりますが、遺構はないようです。多聞寺山門周辺を見て退却しました。
京成本線東中山駅から徒歩約5分で城址とされる多聞寺へ行くことができます。
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2024/07/06 22:38
馬加康胤 (2024/07/06 訪問)
実籾城から徒歩にて登城しました。20分くらいです。遺構はないようなので赤い城さん投稿の「例のマンション」の写真を撮影して退却しました。
帰りは京成幕張駅まで歩きました。約15分です。
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2024/07/06 22:32
妙見社 (2024/07/06 訪問)
妙見社を目指して行きました。宅地になっていてあまり散策できないので、付近を歩いて来ました。
京成本線実籾駅から徒歩15分くらいです。
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2024/07/06 21:31
阿坂城の「附(つけたり)」 (2024/02/17 訪問)
枳城は標高180mの尾根の頂部に築かれています。阿坂城の出城とされ、「附」として国の史跡に指定されています。林道が近くまで続いていますが、状態が悪く車が大事な人は歩いてきた方が無難です。主郭は頂部に築かれ、東西に堀切が配されています。北側には帯郭が配されており、南側の通路も帯状の平坦地とされています。主郭には案内板が設置されており、仏像が一体据え置かれ、訪問者を出迎えてくれます。
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2024/07/06 20:57
山科本願寺南殿 (2024/02/10 訪問)
延徳元年(1489)75歳になった蓮如は、本願寺の東800mあたりの土地に隠居寺を造り、居住したとされています。跡を継いだ息子の実如が住まう北殿に対し南殿と称され、一辺200mほどの方形をした居館で周囲を堀と土塁で囲まれていたとされ、いまでも土塁が残っています。見学には光照寺の許可が必要ですが、インターホンで確認をとれば特に問題無く見学することが可能です。
山科本願寺南殿跡‥光照寺 京都市山科区音羽伊勢宿町
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2024/07/06 19:38
吉川城 (2024/05/11 訪問)
【吉川城】
<駐車場他>駐車場はなし。どんどん庵大府宮内町店で食事し駐車しました。北にある吉川熊野神社に駐車できるようです。
<交通手段>車
<感想>岡崎平野・知多半島ちょこ城巡りの旅7城目。吉川城は1397年、吉加波入道によって築城されたとされます。戦国時代には花井氏の居城となったそうです。1580年に花井氏は寺本城に居城を移したため廃城となったようです。
現地に遺構は残されておらず、城跡碑と城内にあったと伝わる弁財天が祀られています。同時期に創建された吉川熊野神社には寄りませんでした。
<満足度>◆◇◇
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2024/07/06 18:32
佐野鞍懸城(大分県豊後高田市):ひっそりと石垣 (2019/07/27 訪問)
最狂長岩城や一ツ戸城その他大分県は石の城が多いイメージがあります。地元がほぼ土の城一択なので余計にそう感じるのかもしれません。
こちらは一ツ戸城と同じく樹木の生える山頂にひっそりと佇んでいます。違いは破壊が少なく石垣の体を保っている場所が見受けられる事です。標高は100m程度、小規模な城ですが石積ではなく石垣を見られるので国東半島に行かれる際には訪れたら如何でしょう。
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2024/07/06 16:55
源範頼館跡と伝わる (2024/06/08 訪問)
孫の行事参加も終わり浜松への帰路、以前より高坂氏館の堀・土塁を観たいと、行って見たい城に登録しており周辺未踏の4城を探訪へ、先ずは経路上、源範頼館へ初登城。
駐車場:館跡の息障院の南駐車用利用。
参考資料:余湖図コレクショングーグルマップに依る。
圏央道川島ICから北上し県道345号線と県道271号線の交差点を鋭角に南入、傍の用水が堀跡の様子、吉見幼稚園を東入りすると駐車場が有り、息障院の白壁が北に、山門の西に皆さん投稿されてる堀跡が良く分かります、石碑と息障院由緒が有る、参道の南に門柱前に源範頼館跡の石碑、山門に戻り西側の堀跡の確認、山門を潜り本殿に参拝、本堂の前の松が二本、一本は昇龍の様な姿、素晴らしい松の造りです。
北側東側西側は詳しくは探訪して居ません、樹木が茂っていますので堀跡水堀跡土塁が残って居るようです。
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2024/07/06 15:58
坂本城周辺の写真 滋賀県 (2024/02/10 訪問)
坂本城周辺の写真です。石垣公開だけではなく周辺も散策して来ました。本丸石垣はお約束として、西教寺の総門は坂本城を移築したと伝わっています。昭和59年に老朽化が進み修理が加えられ、往時の姿で復元されているようです。明智塚のある場所も城域とされ、落城の際に光秀の脇差・郷義弘を埋めた跡ともされていますが、どうなんでしょう。
安土城の石垣を築いたのは近江の別の石工集団とされていますが、坂本城の石垣は穴太衆によるものではないかと考えられています。実際、坂本は穴太衆の地元なので有り得る話です。これまでは本丸石垣しかなかったので、いささかショボい感じでしたが、三の丸の石垣が見つかったことで国の史跡登録に向けての動きがあるようです。周山城も同様で、これから明智光秀の築城名人としての側面が脚光を浴びてくるのではないかと思います。
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2024/07/06 13:58
うどん(香川)県 田村神社 (2018/01/03 訪問)
日本三大うどんといえば、一に「さぬきうどん」でしょう。これに異を唱える人は少ないと思います。なにせ自分たちで「うどん県」といってるぐらいですから。朝にうどんを食べ、昼にもうどんを食べにくる方もいるようです。ひょっとして夜もうどんを食べているのではないでしょうか。写真は、ごく普通のセルフのうどんですが、メチャクチャおいしいです。香川のうどんは日本一でしょう。
二番はやはり稲庭うどんじゃないでしょうか。冷を勧められ「いぶりがっこ」で食べましたが、冷の方がうどんの味が良くわかって美味しいとのことでした。
三番目は、いつの間にか水沢うどんということになりつつありますが、おそらくマスコミと群馬県民がそう言っているだけなので、あまり真に受けない方が良いと思います。他にも氷見うどんとか五島うどんとかいろいろあります。
田村神社は讃岐国の一宮です。祭神は五柱いて、田村大神と呼ばれているのですが、そのうちの一柱が倭迹迹日百襲姫命 で第七代孝霊天皇の皇女で箸墓古墳に葬られているとされ、卑弥呼と同一視する説もあるようです。
境内にはいろいろけったいな像が多いですが、倭迹迹日百襲姫命とモモタロウが並んでどこかを指さしている不思議な像があります。ご利益がありそうなら、なんでもぶち込んでいる感があり、なかなかカオスな空間に仕上がっています。
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2024/07/06 13:28
広いのだ。 (2024/01/28 訪問)
関東の北条氏の土の城はダイナミックで見ごたえのある城が多いですが、滝山城もその一つです。緑キラキラ八王子と言いますが、八王子とて東京都でけっこう開けているんですね。よくぞ残ってくれました。
中の丸から橋を経て本丸に至りますが、この橋のかかっている下が堀切道になっていてかなりの深さが有ります。本丸には東と南に虎口があり、それぞれ枡形が付いています。本丸の雷社のある場所が高地になっていて周囲には土塁が残っています。とにかく城域が広くて、本丸や二の丸に相当する曲輪が複数ある感じです。このまま周囲を水堀で囲い近世城郭に改修をしてもかなりの堅城になったのではないかと思います。
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2024/07/06 12:39
2024/07/06 10:18
2024/07/06 09:57
大和郡山城 追手向櫓・天守台 (2024/02/23 訪問)
大和郡山城は豊臣秀長の居城でしたが、江戸時代も松平氏・本多氏と譜代が入り、享保9年(1724)に柳沢吉里が15万石で入っています。柳沢氏も江戸時代は譜代の扱いになっています。追手向櫓は明治6年に取り払われてしまいましたが、昭和62年に再建されています。この日はたまたま公開されていて、梅の盆栽の展示が行われていました。
関ヶ原の合戦の後、城内の建物の多くは伏見城に移されたとされますが、天守は二条城に移されたそうです。今は天守台が残り、展望施設となり公開時間が限られているようです。
10月~3月:7時~17時
4月~9月:7時~19時
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2024/07/06 08:26
西の城(青木山城) (2024/05/04 訪問)
(続き)
西の城は青木山城とも呼ばれ、一之瀬川支流の大谷川と前川にはさまれた青木山頂部に位置する城で、東の城と一体になって機能したとされます。
東の城駐車場から歩いてもすぐですが、西の城登城用に開放されている公民館駐車場まで車で行って登城開始。案内表示に従って進むと、西の城の東麓に向井将監館跡と呼ばれる屋敷地がありますが、木々が生い茂っていて墓石くらいしか見当たりません。北東麓が登城口で、近くの田んぼの中にも未舗装の登城用駐車場が設けられていました。登城道の木製階段を上ったところから山道になり、しばらく登って行くと東端の堀切(表示では空堀)に至ります。ここから登城道沿いに三条の堀切と土塁や小曲輪が連続し、北東への分岐にも堀切と土塁が設けられています。青木山の頂部が主郭で、主郭の西側には四重の堀切、さらに両側が切り立った西尾根の先にも2条の堀切が見られました。
西の城は尾根筋に曲輪と堀切と土塁を設けただけのシンプルな縄張ながら、四重堀切など明瞭に遺っている上に、よく整備されて登城もしやすく、手軽に楽しく登城できる城でした。東の城とあわせて西の城にもぜひ。
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