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夏の散歩 堺 (2024/07/04 訪問)

 戦国時代の小説を読んでいると頻繁に登場する堺の街。一度歩いてみたいと思い行って来ました。
16世紀、南蛮貿易によってさらに盛んになった海外貿易と鉄砲生産によって会合衆などの豪商が莫大な富を蓄え大きな力を持ち黄金の日々を謳歌していました。西側は海、他の三方を濠で囲んで防御する「環濠都市」を形成し外敵の侵入を防ぐことで、戦国時代にあっても大名に支配されない自治都市を築いていました。堺に滞在したポルトガル人宣教師ガスパル・ビレラは「日本のベニス」と本国への報告書に記載しています。ポルトガルから種子島に伝来した鉄砲ですが、堺の商人がいち早く島を訪れてその製法を習得し生産を始めました。そして堺は瞬く間に日本一の鉄砲生産地となりました。
 ただ大坂の陣や大東亜戦争時の堺大空襲により当時の面影はほとんど残っていません。鉄砲鍛冶屋敷は江戸時代の唯一残っている鉄砲鍛冶の作業場兼住居です。妙国寺は新しくなっていますが、本能寺の変のときに徳川家康が滞在していた寺と伝わっています。他には環濠の一部と千利休屋敷跡や街の中に立っている石碑などが当時を教えてくれます。それなりの楽しく散策しました。

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小城小次郎

三重三日月堀は昔のまま (2024/01/01 訪問)

史跡公園ではなく都市公園として模擬天守ありきで整備されたが、このお城を特徴づける「三重三日月堀」だけは整備事業とは無関係に整備前の姿を保っている。整備前の姿を知っているのでこれだけは間違いない。

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しんちゃん

松坂城 二の丸の石垣 (2024/02/17 訪問)

松坂城は江戸時代の元和5年(1619)に紀州藩の藩領となり城代が置かれました。二の丸の高石垣には周囲の野面積みと比べて積み方の異なる箇所が有るようです。打込接の石垣のようで、意匠用の大きな石も用いられています。このあたりは紀州藩の時代に積み直されたのではないでしょうか。紀州藩の持ち城になるわけですが、石垣なら本家の和歌山城にも負けていない気がします。
石垣しかないような書き方をしていますが、他にも歴史民俗資料館や本居宣長旧宅、本居宣長記念館などが居候しています。推しますね‥本居宣長を。

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天守無しがアツい

巽櫓をじっくり見学 (2024/06/23 訪問)

(HP)https://sumpu-castlepark.com/gomon/

駿府城には坤(ひつじざる)櫓…紅葉山庭園…そして巽(たつみ)櫓という施設があり、坤櫓は訪れた事あれど、その他はまだ…そして駿府城の御城印と100名城スタンプをまだ得てない…という事情あり、再び私は駿府城へ向かうことにしました

料金所の傍に100名城スタンプが設置してあり、逃さず真っ先にスタンプ帳にそれを押しました。100名城と続100名城…計200のスタンプ欄があり、その全てを達成するなんてほぼ不可能…そう…コンプなんて鼻から狙ってません…けれど1個押す度に満たされる想いが湧き立つのは確かですね(^∇^)

入館してすぐの場所にあったのがジオラマ(1枚目)。駿府城全体を再現したもので、各所のボタンを押せばそこがスポットライトを浴びるかの如く目立つ仕組みになってました

駿府城歴代城主を紹介するパネル(2枚目)。家康は2度ここを治めており、2度目は征夷大将軍を引退してここ駿府に隠居してからの統治…城の大改修を命じたそう

5代目の頼宣は家康の十男…水戸藩初代藩主頼房の兄であり、紀州徳川家の初代…そして6代目は忠長…彼は家康の孫であり、3代将軍家光の弟…紹介文には「28歳で自ら命を絶った」

正確には兄家光により命を絶たされた…切腹を命じられた…ようですがね😅💀 一言で言えば彼には統合失調症なところがあり、殺傷禁止の場所で猿をたくさん殺したり、癇癪を起こして何人もの人間を手打ちにしたりして…父秀忠や兄家光の怒りを買い…改易…勘当…蟄居…そして切腹という末路

(徳川忠長wikipedia)https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E9%95%B7

駿府城にはかつて天守(江戸城よりも立派な)天守がありました🏯 けれど火災により焼失してそれからは天守台のみ残ってましたが、それも明治になって取り壊されました

その地は現在、発掘調査現場として工場のフェンスで覆われ、9:00-17:00はフェンス内に入口から入れて、遺跡の周囲から見学こそ可能であるけれどそこから中には入れません

駿府城の天守台が造られた時の様子が紹介されてました。まず採石場で石垣にする大きな石を集める。それから溝を掘って基礎の石を置き、根石を置いてから、土砂や川原石を敷き詰めて…石垣を造るそうです(3枚目)🏯

そういう作業工程で一生懸命頑張ってる作業員の姿が印象的に見えたので添付画像にしてみました👷🪨

櫓の奥には御城印や城カードを扱う売店があり、その2つと静岡茶のティーバックを買いました。そこは1階で2階には何と…家康が幼少期(今川氏の人質となっていた頃)を過ごした四畳半の間(4枚目)が再現されており、要チェケラかつ要撮影と言えました

「文化財に匹敵する展示のため中には入らず外から見学するように」との案内があり、それに従う形で外からのみ見物をしました。中への立ち入りを認めてしまうと荒らされてしまう恐れがあるので、それは正解と言える判断でしょう

四畳半と言うと…フツーの子供部屋並に狭いスペース…こんな中で幼き家康は学問に励み忍耐力を養っていった…のかな

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しんちゃん

気を遣いながら訪問 (2024/01/27 訪問)

沢山城は城域が私有地になっているため、櫓台(見張り台)と見られる八面神社への参詣道以外は立入禁止の場所が多いのが特徴です。あまり自由に散策は出来ないので、おとなしく撮影できる範囲に留めてありますが、この地域では貴重な遺構が残る城跡で八面神社の西側には堀切と郭がありました。神社裏手にも郭が有るようですが、ここは自重いたします。

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零汰

イ・シ・ヅ・ミ (2022/11/22 訪問)

今回の不細工で見栄えの悪い趣のある石積

写真1~3、出丸に有り虎口も存在しています
写真4~6、主郭から出丸方向の途中で見る事が出来ます
写真7、西郭北の畝堀の一つ、当時は積んでいたのでは無いでしょうか
写真8.9、主郭の最西端。上部に有ったので最初は気が付かず

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トク

博多祇園山笠-2024(飾り山) (2024/07/03 訪問)

7月に入り、福岡市中心部には、博多祇園山笠の飾り山が各地で展示され、大変華やいでいます。山には2種類あり、「飾り山」は各商店街が展示する山で、「追い山」はタイムを競うために担ぐ山です。その飾り山を全て見学してきました。写真ではなかなか分かりづらいかとは思いますが、どれも高さが20mくらいもありかなりの高さです。実際に下から見上げるとすごい迫力でした(😱~)。今回はその中からいくつかを、ご紹介させて頂きます。

【三番山:中州流】
●奇襲桶狭間(写真②)
今川義元を織田信長が奇襲し討ち取り天下にその名を轟かせた姿を描いています。

【八番山:上川端通】
●不惜身命真田幸村(写真③)
真田幸村が大坂の陣で徳川家康を追い詰める勇壮な姿を描いています。

【十一番山:博多駅商店連合会】
●商都博多偉人伝(写真④)
中世に商都博多の基礎を築いた商人、島井宗室・神屋宗湛・大賀宗九の功績を描いています。

【十二番山:キャナルシティ】
●刀伊入寇隆家勲(写真⑤)
藤原道長から大宰府に左遷された藤原隆家が海賊「刀伊」を撃退する姿を描いています。
●光源氏胡蝶舞宴(写真⑥)
紫式部と光源氏が見守る優雅な宴の世界を描いています。

【十四番山:ソラリア】
●黒田鍋島天神大普請(写真⑦)
九州の関ケ原で黒田長政に助けてもらった鍋島直茂が、そのお礼にと福岡城の築城時に堀を掘るのを手伝ったという話を描いています。
●管公西下創造多故事(写真⑧)
大宰府に左遷された菅原道真が博多の港に着いた時の姿を描いています。

【十五番山:新天町】
●サザエさん(写真⑨)
福岡出身の漫画家「長谷川町子」さんを偲んで作られています。

【十七番山:天神一丁目】
●嗚呼壮烈岩屋城(写真⑩)
岩屋城に籠城した大友宗麟の家臣高橋紹運が薩摩の島津勢と戦う壮烈な姿を描いています。

さあこれから15日の本番に向け、今度は追い山が動き始めます。ふんどし姿の男たちによる「オイサ!」の掛け声が街中に響き渡り、博多の街はいよいよ夏本番を迎えます。
 

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零汰

楽しい (2022/11/22 訪問)

訪問データー:2時間40分:3.5km:累計高低差449m

大きく分けて荒滝山山頂付近を主郭部とし段曲輪を配置して西北側に西郭、東側にある出丸の3つで構成されています。主郭に行き着くのは駐車場から約40分です。ルート図をトレースすると主な遺構を見る事が出来ますが、主郭北側の畝堀を見る事は出来ません。城内の案内は設置されています。

主郭から出丸の間には曲輪南に連続竪堀、出城を遮断する見栄えの良い竪堀が存在しています。主郭から西郭の間は多重竪堀だか空堀が折り重なっていて真っ直ぐに歩けなく楽しい。この周辺は低木が多く見晴らしが悪いので低木だけでも伐採すると起伏のある空間を目で楽しむ事も出来るのでは無いでしょうか。ですがそこは想像力でカバー。西郭北には大きめの波で見栄えの良い畝堀があります。

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カズサン

平将門の絡みも有る藤岡城 (2024/06/07 訪問)

 小谷城を終えて西に約7km程、栃木市小山市2城目の藤岡城を初登城。

 駐車場:無し、光和化成第二工場東前三角コーナー路側帯に路駐(36°15'25"N 139°38'39"E h=20m)
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 東武日光線藤岡駅を東から北に廻り込む様に西側のネクスタパッケイ(株)栃木工場の南側の小道に藤岡城への案内指示板が出てる、小道には轍が有るが私の車では無理、周辺を探して路駐場所に車を駐めて、徒歩で案内板に従って約200mの三所神社、藤岡城跡へ初登城、西側の水田から一段高い丘に藤岡城跡がある、現在は三所神社として祀られている、鳥居の前に私製印刷の様な案内板が有り、平将門の名前が出て来てびっくり、将門との絡みが有ったのでしょうか?それにしてもロマン感じる藤岡城です。
 西側に降りて西から南の周辺を水田、曲輪法面現在は工場群を眺めて終了。
 

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カズサン

石碑と案内板は剥落 (2024/06/07 訪問)

 常陸多良埼城、主の未踏の城探訪7城を終えて、まだ陽も有り5日畠山陣屋の後に探訪を企画していた、栃木市小山市の未踏の城4城、駒城から西北西約20km程で最初は小谷城(コヤジョウ)を初登城。

 駐車場:無し、県道174号線は交通量が多いので石碑横東入る、路駐牛舎が近くで臭いがきつい。
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 県道174号線東に小山が有り石碑と神明社、案内板があります、案内板は剥落して読めません、グーグルマップの史跡マーク小谷城跡に該当します。余湖図コレクションさんの案内ではその東奥の神明神社が該当マークに成っていましたので確認しましたが、神社が有り特に案内板は有りません、この一帯を思川南の堀として城郭を構えていたのでしょう、思川を通じて小山城祇園城とも行き来が出来ます、祇園城の支城だったとも?思川は南で渡瀬川と合流し一大湿地帯に成っています。
 

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イオ

主郭を取り巻く竪堀群 (2024/05/04 訪問)

南北朝期に北畠氏家臣の加藤甚左衛門が赤羽川と江ノ浦の間の丘陵上に築いた城で、甚左衛門は赤羽谷の奥村氏の侵攻を迎え撃つも、内通により敗れて自刃しました。戦国末期、加藤氏五代・甚五郎は北畠信意(織田信雄)より奥村氏とともに北畠旧臣と結んで敵対する熊野の堀内氏攻めを命じられ、三木城を攻め落とすも堀内氏の反撃を受けて撤退。何とか長島城に帰還したものの、寝返った奥村氏に火をかけられて城は焼失し、甚五郎も自刃しました。

登城口はいくつかあるようですが、南東麓の長楽寺から登城しました。長楽寺は加藤氏の菩提寺であり山麓の居館跡でもあるようで、山門の脇には長島城跡説明石板が建てられています。長楽寺の脇から山中へは津波避難道が整備されていて、避難道を登って行くといくつかの石碑が建てられた平坦地があり、中腹の曲輪跡のようです。ここで長島神社からの道(たぶん)と合流し、さらに登って行くと愛宕社を過ぎたあたりから道はシダに覆われるようになり、シダをかき分け進んだ先が主郭です(登城口から約15分)。

主郭は東西二段になっていて、南東隅の虎口から入ると長島城跡の石碑があり、西側上段の手前に説明板、上段には通信施設が建っています。主郭には土塁もなく特に見るべきところはありませんが、主郭の南下には竪堀と帯曲輪があり、西下は両端が竪堀となって落ちる堀切が西尾根を断ち切り、北西下から北下にかけては3条+3条の連続竪堀が横移動を封じ、東下も南北両側に落ちる竪堀が東尾根からの侵攻を遮断しています。

東尾根を下って行った先には加藤甚五郎一族の五輪供養塔が建てられています。ここも中腹の曲輪跡のようで、説明板によればこの五輪塔は江戸中期に菩提寺の長楽寺から移されたものとのことです。ここからはとばつびしゃもんさんに倣って郵便局の前に下りて行くつもりが、分岐を間違えてより北側の青面金剛童子の脇に出てしまいましたが、道中に湾の先に広がる熊野灘を眺めることができたので、これはこれでヨシ! としておきましょう(主郭周辺からは眺望がききません)。

私の拙い写真では伝わりませんが、藪に沈んでいたり浅くなっていたりはするものの、主郭を取り巻く竪堀群はなかなか見応えがありました。あとはシダをもうちょっと何とかしてもらえれば…。
 

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赤い城

山上部の石垣が素敵 (2024/06/16 訪問)

14年ぶりの再訪です。
ここも前回は駆け足程度、麓の御殿部分を回ったくらい。
ほぼスタンプ目的でした。
今回は山上部のメイン部分も見学できました。

公園駐車場に車を置き、まずは堀の回りを1周です。
復元鷲の門から堀沿いに石垣を見ながら進みます。
北側には海蝕痕があり、太古の昔はこの辺りまで海だったことがわかります。
西の丸を経て鷲の門まで戻りここから入城。

ちょうど博物館で企画展「幻の城徳島城」が開催されていたので見学しました。
博物館の入場券で庭園も見学できます。

さらっと見学した後はいよいよ山上部へ。
東坂口から登っていきました。
東二の丸には天守跡もあります。
さらに上へ、本丸北東の石垣は高さもあり見応えあります。

本丸は広く北側と西側に枡形虎口がありました。
西側から西二の丸、西三の丸へと降りて行きます。
こちらも石垣が素敵。
感心しながら西坂口へと降りて行きました。

阿波の青石と呼ばれる緑色片岩で濡れると色が変わる、と。
次回は雨の日に行ってみようかな。

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朝田 辰兵衛

詰城だと思われます… (2024/05/04 訪問)

北赤井神社が登城口。この周辺に居館跡を思わせる石垣や削平地が散見されます。天白城は有事の際の詰城だと思われます。見どころは,主郭東側の堀切です。

にのまるさんへ…
越後へようこそ。日付を確認したら,その日,私はにのまるさんのご実家エリアを満喫していました。昨年は雨でスケジュールが頓挫しましたが,今年はムシムシしながらも曇り時々晴れ。計画通り実行できました。いずれ投稿いたします。

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しんちゃん

神指城は小さな平安京なのか? (2019/08/12 訪問)

福岡県会津若松市の神指城は会津若松城の北西、阿河川のほとりに築かれる予定でした。慶長3年(1598)に上杉景勝が越後から会津に移封になり、慶長5年(1600)2月より築城を開始し、徳川家康の会津征伐の影響で6月に工事は中断し、完成には至りませんでした。
私は以前、関ヶ原周辺の投稿で関ヶ原自体が西(上方)から東(鎌倉・会津)に向かう敵を囲い込む城塞のようなものだと書いた記憶が有ります。外敵が襲来し上方が占拠された場合、天皇家や行政のトップを避難させる必要があり、それが鎌倉時代であれば鎌倉、豊臣政権の時代なら会津であろうと考えたわけです。関ヶ原を敵が突破したのなら東山道や東海道などを通過し、鎌倉や会津を狙うことが可能になります。よって関ヶ原の周辺の松尾山・山中・南宮山にはそれらを迎え撃つ仕掛けがあると仮説を立てました。
なぜ会津かというと豊臣家が頼りとする加賀の前田家、越後の上杉家は海に近く直接、外敵の攻撃を受ける怖れがあるからです。慶長2年(1597)に二度目の朝鮮出兵である慶長の役が始まりますが、その2年前の文禄4年(1595)から慶長3年(1598)まで蒲生家の御家騒動である蒲生騒動が発生し、蒲生秀行は宇都宮12万石に減封されてしまいます。
背後では豊臣秀吉の指示を受けた石田三成が暗躍していたという説もありますが、豊臣氏にとっては信頼のおける上杉氏を当地に封じ、万一日本勢が大陸で敗れ、敵が攻めてきた場合の避難先および反撃の拠点として会津を確保しておきたかったのではないかと考えます。
神指城の築城が家康の会津征伐を招いたとされていますが、正直 神指城は家康が目喰ら立てて脅威と感ずるほどの城ではありません。ただ、この城郭は構造がある宮城に似ています。そう平安京に似ているんですね。
神指城の規模は本丸が東西310m、南北340m  二の丸が東西710m、南北780m  比率はともに 1:1.1です
平安京の規模は東西4.5km 南北5.2km 比率は1:1.15 でほぼ同じなんですね。
いずれも北極星を基準に築かれているとされますが神指城はわずかに右に傾いています。この辺りについては会津若松市の文化財に詳しい方に相談をしていますが、私は京都が敵の手中に落ちた場合に敵勢力を打ち払い帰還を果たすという意味合いが有るのではないかと考えています。
上杉の治世が長く続いたのであれば城下町が形成され、周囲には総構が構築されたのではないかと思います。戦力としては家康の脅威にはなりませんが、豊臣家と天王家の避難場所として完成すれば、神指城の上杉氏を家康が攻めるのは難しくなると思います。家康としては城が完成する前に問答無用で叩く以外に選択肢は無かったのかもしれません。
実際に家康は秀吉の死後、豊臣家の頼りとする大名や拠点を着実に潰しに来ています。まずは加賀の前田氏、そして会津の上杉氏、加藤清正は大阪の陣の前に謎の死を遂げています。大阪の陣の後になりますが、広島城の福島氏が潰されたのも既定路線に沿って行われたのではないでしょうか。

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ぴーかる

刈谷城 (2024/05/11 訪問)

【刈谷城】
<駐車場他>亀城公園駐車場随所に数十台分ありますが、休日は満車ぎみなので、刈谷市歴史博物館(御城印販売)に駐車するのがいい。
<交通手段>車

<感想>岡崎平野・知多半島ちょこ城巡りの旅5城目。刈谷城は1533年に水野忠政によって築城されました。忠政は緒川城から刈谷城に拠点を移します。水野忠政の娘である於大の方(徳川家康の生母)はこの刈谷城から松平広忠に嫁いでいきます。水野忠政の二男信元は今川氏を離れ織田氏につきますが、佐久間信盛の讒言で家康によって殺害されます。佐久間信盛の追放によって水野氏が復領し江戸時代を迎え刈谷藩が立藩します。水野氏の後は藩主が転々としますが、18世紀中頃から土井氏が明治維新まで続き廃城となります。
 現地は別名の亀城公園となっています。主郭背後の土塁が明瞭に残されています。水堀も拡張されて池になっているものの、形状をよく留めています。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

耳をすますと (2024/01/27 訪問)

元弘3年(1333)に新田軍が鎌倉に攻めてきた際の関戸合戦で周辺が戦場となり、新田義貞が敵を敗走させた後、陣をこの台に据えたことから「天守台」の名がついたとされています。戦国時代に陸奥国で討ち死にした北条氏家臣・佐伯道永が守将を務めたとされています。城址は金比羅社付近と頂部の天守台あたりではないでしょうか。関戸古戦場の近くにある延命寺は佐伯道永の屋敷があった場所とされています。

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しんちゃん

灰汁の強い人物のあっさりした居城跡 (2024/01/27 訪問)

長沼城は鎌倉時代の御家人で源氏三代に仕えた長沼五郎宗政の居城とされているようです。鶴川街道沿いに城址碑が建っていますが、駐車出来る場所が見当たらず、ささっと写真を撮って足早に通り過ぎています。城址はあっさりしていますが当人は非常にアクの強い人物で、源実朝とはソリがあわず実朝も手を焼いていたようです。

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零汰

イ・シ・ヅ・ミ (2022/11/22 訪問)

城域に散見した不細工で趣のある石積達です。写真1.2の石積が引き返す目印になります。

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零汰

楽しい (2022/11/22 訪問)

訪問データー:2時間10分:1.8km:累計高低差317m

鬼神城郭放浪記さんの情報により既存林道を歩いて城域を目指しました。ですが林道である事を辞めたようで2列に杉が植えられていました。日当たりの良い場所では高さが3mを越していて抜け出すのに難儀しました。1年半前なので今では随分育っているかと思います。入口にはピンクリボンのある多重竪堀から入ります。

ルート図北から半時計周りに軌跡通りにトレースすると主要な城域を廻る事が出来ますが、主郭から北に幾つもの曲輪を降りていくとその先から道が無くなり駐車場所に戻るのが非常に苦労します。おそらくこちらが大手だと今でも思ってはいるのですが。一番目立つ石積がありますのでそこで引き返して元の林道行くのが無難かと思います。

城域内部は表示などほとんど無く過剰に手が加えられていないとても楽しい場所です。曲輪は元より竪堀・ウネウネ・不細工な石積が散見出来ます。

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カズサン

道沿い土塁に城名石碑 (2024/06/07 訪問)

 消化不良だった海老ケ島城を終えて、南西約12km程、多良埼城主目的常陸未踏の城探訪7城目(ラスト)道沿いの駒城を初登城。

 駐車場:無し、案内板の南側幅寄せして路駐(36°13'13"N 139°55'13"E h=30m)
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 東より県道233号線走行し県道の1本北の道に入り200m程に史跡マークの駒城、こんもり樹木が茂り案内板が有り直ぐに分かります、案内板、城名標柱が道路脇、城名石碑は奥の土塁上に設置、立派な石碑です、季節柄草が生い茂り中に進入し難く道路上で眺め写真を撮って終了。

 案内板によると。
 ここは東西120m、南北180mにわたる駒城の北西部にあたると有り、鬼怒川の東傍で西側の濠代わりとし東は水田当時は湿田か沼地で守っていた様子がグーグルマップの航空写真で推測が出来ます。

 南北朝時代藤原実寛が城主としてたてこもり、小田城に在城していた南朝方の北畠親房、関城の関氏、大宝城の下妻氏ともに北朝方の
高師冬との激しい戦いを繰り返し1340年5月駒城は落城、藤原実寛は捕らえられた。(案内板抜粋)

 駒城で多良埼城主目的常陸未踏の城探訪7城登城完了。

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