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赤い城

ふるさと公園 (2023/05/28 訪問)

ふるさと公園に駐車場があります。
公園が主郭部で薬研堀が残っています。
以前は狼煙台があったようですが登城時は無し。
そこから竪堀っぽい部分はありました。
天正壬午の乱の際には北条氏が駐屯地としていたとされます。
この日は早朝の訪問でしたが地元の方が草刈りをされていました。

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にのまる

石碑復活🙌 (2023/05/05 訪問)

2018年5月に行った時には長崎館の石碑があったのですが、その後宅地造成のため撤去されたとのご報告がみなさんからあり、もう行くこともないだろうなーと思っていたのですが、先日、お散歩中に寄ってみたら石碑復活していました\(^o^)/
以前のは赤文字だったので新しくされたようです。(新旧並べてみると同じもののようにも見えます。)
閑静な住宅街のお店の敷地ゆえすぐにお暇しましたが、うれしかったです。

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ぴーかる

嵐山城 (2023/04/22 訪問)

【嵐山城】
<駐車場他>専用駐車場はなし。阪急嵐山駅周辺にコインPあり。
<交通手段>阪急電車

<見所>堀切
<感想>嵐山城の築城は応仁の乱の頃で山城国の守護代香西元長が築城したとされます。香西元長は管領細川氏の家督争いに加担している中で討死し、後は管領の細川晴元らによって使用された可能性があるそうです。
 私も[京都京都一周トレイル西山26]から登城しました。城跡までは3㎞程はある長丁場ですが登山道が整備されているのでハイキングと同じ感覚で登れます。登り始めてすぐに獣捕獲檻のある場所に削平地があります。[西山30]の標識場所にも削平地が広がっています。嵐山城跡の一部かどうかは分かりませんが古い曲輪跡のような感じがしました。麓付近と中腹の曲輪跡かもしれません。[西山32]の標識からやっと嵐山城方向の案内があります。ちょうど中間地点くらいです。[西山33]の標識辺りに嵯峨の町と桂川・渡月橋が見える展望が良い所があります。ここから残りは横移動な感じで主要部入口の堀切に当たります。堀切正面の山が主要部になりますので、堀切から左手の道には行かずに少し荒れた右手方向の道を登ります。主要部虎口とおぼしき場所に石積み遺構があります。山頂部はそこそこ荒れています。石積み虎口のある広めの削平地と一旦狭くなって北側の削平地があります。どちらが主郭かよく分かりませんでした。北側の削平地から北西方向に扇状に段曲輪が広がっています。すこし荒れているのと、城跡説明板も石碑も何も無いのでビギナーにはちょっと遺構の判別は難しめかとは思います。

<満足度>◆◆◇

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トク

㊷【関ケ原の26人】(18)大谷吉継 (大谷吉継陣跡) (2022/12/01 訪問)

(18人目)「大谷吉継」の続きです。
関ケ原の「大谷吉継 陣跡」を訪れてきました。

大谷吉継の陣は山中村と呼ばれた地にありました。麓の駐車場にチャリを止め(写真①)、ここから徒歩で登ります。階段を登るとJR東海道線の踏切があります(写真②③)。ここは十分注意して渡って下さい。線路は意外と幅広く足を取られます。見通しも悪く警報機が鳴るやいなやあっと言う間に猛スピードで列車がきました(😱~)。踏切を渡って神社の右手から登り、途中右に行くと吉継陣跡と眺望地、左に行くと吉継の墓があります(写真④⑤⑥)。

大谷吉継はこの陣で藤堂高虎と対峙します。しかしその陣の位置を見て私は驚きました。吉継の陣は高虎の方を向いていません。何と松尾山にいる小早川秀秋の方を向いていました。もうこの時点で、小早川秀秋が裏切るという確信があったものと思われます。(写真⑦⑧⑨)

でも不思議でした。大谷吉継はなぜ、京極高次・脇坂安治・朽木元網・小川祐忠・赤座直保の5人もからも裏切られたのでしょうか? 今まで吉継の悪い噂などは聞いたことがありません。恨まれるような男ではなくむしろ実直な男だと思います。三成に加担したから・・・? ただそれだけの理由だったからなのでしょうか?

吉継は病を押して戦います。今でいうハンセン病だったようです。もはやこの時点では、立つ事もできず輿に乗り、目も見えなくなっていました。平塚為広が吉継に代わり、実質は大谷軍を指揮していたようです。

数に劣る大谷軍ですがよく奮戦し、小早川軍とは互角に戦います。しかし、前方で吉継を補佐(与力)であったはずの、脇坂・朽木・小川・赤座の4人が裏切り反転、藤堂高虎に調略され共に攻めに加わると、もはや持ちこたえる事はできず、吉継は最後にここで自刃して果てました。関ケ原の戦いの最中で亡くなった大名は、大谷吉継ただ一人だけです。なぜそうせざるを得ないまでに追い込まれてしまったのでしょうか? しかしこの中でまた吉継に関わる美しい話があったので、この続きは藤堂高虎の中で・・・

次は(19人目)藤堂高虎に続きます。
 

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イオ

池の中の水城 (2023/02/11 訪問)

かつての深野池西寄りの三つの島にあった水城で、室町中期に河内国守護・畠山氏の内紛に際して築かれたようです。三好長慶が飯盛城に入った頃には飯盛城の支城として機能しており、大坂との間の舟運を担った三箇頼照の居城でした。三箇頼照はキリシタンに改宗(洗礼名サンチョ)すると城下に教会を建て、河内キリシタンの拠点として繁栄しました(ルイス・フロイスの書簡にも三箇の隆盛ぶりが記されています)。三箇頼照は三好氏が滅ぶと織田信長に従うも、本能寺の変以降は明智光秀に味方したため城も教会も焼き討ちされ、三箇城は河内キリシタンの結城如安(ジョアン)に与えられましたが、小牧長久手の戦いで討死したことにより廃城となったようです。

江戸中期に新田開発により深野池が干拓されたため遺構は消滅しており、所在地もはっきりしないようですが、城びと位置情報の三箇菅原神社が比定地のひとつとされ、三箇城址石碑と菅原神社の説明板に三箇城の記述が見られました。神社前の参拝者用駐車場から参拝がてら周囲をひとめぐりしましたが、微高地といえば微高地かなぁ、という感じでした(たぶん気のせい)。

それにしても、下調べの段階では池の中の水城といわれてもいまいちピンとこなかったんですが、飯盛城のスタンプを押しに訪れた大東市立歴史民俗資料館で、大和川の付け替えと新田開発の展示を見て、いろんなことが納得できました。大和川の付け替え自体は知っていましたが、付け替えまでは北に分流してこのあたりで淀川からの分流と合流して池や湿地帯になっており、三箇城は大坂との間の舟運を担うべく池の中に築かれていること、池や湿地帯と生駒山地との間の狭い平地を東高野街道が走っているため、三箇城に加えて野崎城を支城とすることで水陸双方の交通を掌握できること、だからこそ三好長慶は飯盛城を居城としたのではないか…。資料館や博物館を訪れることを今年のテーマのひとつにしていますが、遺構のない城であってもこうして資料館で理解(妄想?)を深められるのは楽しいものですね。
 

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todo94

和歌山の城めぐり② (2023/04/29 訪問)

ゴールデンウイークの初日の行き先を和歌山としたのは、鳥取県に次いで攻城数が少ない県だったから。手取城からの転戦です。説明板もある遊歩道の入り口は、県道から三﨑神社に向かう裏道に入ってすぐの場所ですので、県道沿いの駐車場を利用するとよいかもしれません。遊歩道を進んで峠のあたりは堀切跡だとのことです。ピクミンブルームのキノコが生えていたので本之脇城の入り口であることが確認できました。キノコクリアでゲットしたポストカードには標柱が写っていましたが、現地には存在していません。木のベンチが目印です。山中に少し分け入ると、石垣が現れます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:長松城 (2023/04/27 訪問)

松尾山城からの転戦です。荒崎小学校校門脇の石碑前(35.363879、136.568501)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、永禄年間(1558年〜1570年)頃には竹中半兵衛重治の一族である竹中重利によって築かれたと云われています。
重利は重治が死去すると羽柴秀吉の直臣となり、1593年(文禄2年)大友義統が改易になると、豊後高田13,000石で転封となり、後に豊後府内35,000石(または20,000石とも)の大名となりました。
その後は1594年(文禄3年)に入れ替わりで5,000石で入封した武光式部忠棟が城主となりました。
忠棟は1600年(慶長5年)関ヶ原合戦では西軍に属して福束城の丸毛兼利を救援するも落城、やがて東軍が集結したため、城を棄てて伊勢国桑名の氏家行広の元に行って籠城したそうです。

現在城址は荒崎小学校の敷地となっており遺構はなく、校門脇に城址碑が建っているのみです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=御茶屋屋敷に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:松尾山城 (2023/04/27 訪問)

長比城からの転戦です。松尾山登山口駐車場(35.352142、136.461413)に駐車しました。

松尾山城は「関ケ原の戦い」で東軍に寝返った小早川秀秋が布陣した城として有名です。
築城年代は定かではないが応永年間(1394年〜1428年)に富島氏によって築かれたと云われています。
浅井長政が織田信長との同盟関係を解消したことにともない、長政は樋口直房に美濃国境である松尾山を占拠させ城を修築させました。
しかし直房は竹中半兵衛の調略により信長に降り、その後は信長の家臣である不破光治が城を守りました。
1575年(天正3年)不破光治は越前平定で功を挙げ、前田利家・佐々成政とともに府中三人衆の一人として越前国龍門寺城主となりました。
1579年(天正7年)には浅井家滅亡によって、その役目を終えていったん廃城となりました。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦で大垣城主伊藤長門守盛正は石田三成の要請を受けて大垣城を提供するとともに、松尾山城を修築して布陣しました。
しかし、盛正は小早川秀秋によって追い払われ、松尾山には小早川秀秋が布陣しました。小早川秀秋は西軍として松尾山に陣を布いたが、東軍に寝返ります。

松尾山城は前日に攻城する予定でしたが、発熱の為、断念しました。(前日断念した城は菩提山城、京極氏館、上平寺城など)
せめて登り口までは行きたいと思い、本日、急遽、やって来ました。必ずリベンジします。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=長松城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:長比城 (2023/04/27 訪問)

三田村城からの転戦です。
山道登り口(35.347030、136.412620)から進入し、300mの砂防ダム手前の空スペース(35.349127、136.411206)に駐車しました。

長比城は1570年(元亀元年)浅井長政によって築かれました。
堀秀村と堀氏の家臣である樋口三郎兵衛直房が城主をつとめましたが、織田方に内応したため戦うことなく落城となりました。

長比城は前日に攻城する予定でしたが、発熱の為、断念しました。(前日断念した城は菩提山城、京極氏館、上平寺城など)
せめて登り口までは行きたいと思い、本日、急遽、やって来ました。必ずリベンジします。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=松尾山城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:三田村城 (2023/04/27 訪問)

小室城からの転戦です。三田公会堂駐車場(35.417979、136.309172)に駐車しました。
三田公会堂の南側にある伝正寺が、三田村城廃城後に移されたと伝わっています。

現地説明板などによりますと、三田村城は、京極・浅井氏の家臣で、姉川北岸で大きな勢力をほこった三田村氏の城館跡で、最後の城主「三田村左衛門尉」は小谷城主浅井氏亮政・久政・長政の3代50年にわたり重臣であったようです。
姉川の合戦時に、三田村左衛門尉は浅井長政の命で横山城の城主を任せられ、三田村城は軍事同盟を結んでいた朝倉景健の本陣が置かれたそうです。
1570年(元亀元年)6月28日、姉川を挟んで、南岸には織田・徳川連合軍、北岸には浅井・朝倉連合軍が対峙し、9時間もの激闘が繰り広げられた末、織田・徳川軍の大勝利となり、姉川は血で真っ赤に染まったと伝えられています。
姉川の戦いで敗北した三田村左衛門尉は、小谷城に撤退したが、その後、1573年(元亀3年)に小谷城も陥落しました。
三田村氏は織田軍団の総攻撃を目前にして、羽柴秀吉を通じて信長に全面降伏を申し出たが、聞き入れられず三田村氏とその一族77名は打ち首になったそうです。

伝正寺を取り巻く土塁を確認しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=長比城に向かいます。

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しんしんちゃん

境川を背後に背水の守りを敷いた城 (2023/05/07 訪問)

深見城は境川を背後に本郭を配し周囲を土塁で囲ってあります。
さらに本郭の正面と左舷に郭を配し、さらに土塁で囲ってあります。
背水の構えとなりますが、城の規模からすれば十分な防御力を持っていると言えます。
土塁などの遺構は比較的よく残っていると言えます。
車は近くの停めてよさそうな駐車場に置いて、そこから歩きました。

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しんしんちゃん

思った以上に遺構が残る街中の城址公園 (2023/05/07 訪問)

早川城は鎌倉時代の御家人 渋谷氏によって築かれたと城内の案内板に記載があります。
現在 よく整備された城址公園になっており、街中にもかかわらず立派な駐車場 トイレが設置されており
地元の人の大切な憩いの場になっています。
一見 単郭の城に見えますが、駐車場から本郭に向かっていくあたりが かつての二の郭になるようです。
思ったより遺構が良く残されており土塁、堀切の姿を良く留めております。
本丸にある物見塚には、あの東郷平八郎の先祖の東郷氏発祥の地の碑が立っています。


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しんしんちゃん

街中にひっそりとたたずむ陣屋跡公園 (2023/05/07 訪問)

現地にある説明板によると荻野山中陣屋は天明3年(1783)に築造されました。
現在は陣屋跡公園になっており 地下にはかつての堀や古代の竪穴住居が眠っているとのことです。
城域内にある神社などを回っているとなんとなく、かつての陣屋の雰囲気を味わうことが出来ます

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しんしんちゃん

幕末の英雄 勝海舟ゆかりの台場 (2033/05/07 訪問)

神奈川台場は江戸末期に勝海舟が設計して伊予松山藩が建造した台場です。
日本でも数少ない蝙蝠が羽根を広げたような形状をしていたようで
コウモリ台場とも呼ばれていたようです。
そのコウモリ部分は現在道路と高架になっており
一部 石垣が現存しており国の史跡に認定されています。

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赤い城

冬が良かったかも (2023/05/28 訪問)

果樹園の中に城跡があります。
南東側の虎口に説明板と石碑が立っていました。
駐車スペースも有りです。
単郭で周囲を土塁が囲み、その外側には空堀が巡っています。
ただやはりこの時季、下草の勢いは半端無く歩くのは断念しました。
堀底道歩き隊としては冬季に再訪したい城かな、と思いました。

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小牧長久手の戦い(小牧) (2023/06/01 訪問)

 小牧長久手の戦いというと長久手の戦いの方が規模も大きく激戦であったため有名ですが、今回は小牧周辺の古戦場を散策しました。
八幡林の戦いは小牧山を狙った森長可の軍勢を酒井忠次、榊原康政、奥平信昌、松平家忠らの軍勢が打ち破った戦いです。名鉄羽黒駅から徒歩約5分の成海神社近くに案内板が立っています。
姥ヶ懐古戦場は小牧山城から徒歩10分くらいの場所に石碑が立っています。ただ石碑の文字は読むことが困難になってきていました。徳川軍と羽柴軍と小競り合いがあったとネットにありました。小競り合いでも石碑があるのはおもしろいですね。

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小牧山歴史館リニューアルオープン (2023/06/01 訪問)

 小牧山城の小牧山歴史館(模擬天守)がリニューアル(2023年4月1日オープン)となり久しぶりに行って来ました。この天守閣は西本願寺の飛雲閣を模して建てられていますので、他の天守閣とは少し趣が違いますね。内部展示も以前は小牧市の歴史民俗資料を展示していましたが、戦国時代の小牧山を中心とした展示に全面改装されていました。また主郭周辺の石垣が復元整備されていました。大手道は安土城を彷彿させる一直線の道で以前より好きな遺構です。模擬天守からは濃尾平野がよく見えます。曇っていたので見にくかったのですが、金華山(岐阜城)も見ることができます。
石垣は織田信長が築いたと推定されています。自分としては織田信長の城のイメージが強いのですが、「徳川家康本陣の地」と書かれたのぼりが多く立っていました。大河ドラマ「どうする家康」の影響ですね。
 名鉄小牧駅から徒歩15~20分くらいで登城口まで行けますが、WESTさんも利用されていたこまき巡回バス「こまくる」を利用しても行くことができます。10分くらいで「小牧山前」もしくは「小牧市役所」で下車すると大手口が近くにあります。

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トク

㊶【関ケ原の26人】(18)大谷吉継 (大谷吉継と敦賀城) (2022/11/30 訪問)

(18人目)は「大谷吉継」です。
関ケ原当時の居城「敦賀城」を訪れてきました。

敦賀城は、秀吉の家臣だった蜂谷頼隆が三重の天守を築いたのが始まりで、その後に入った大谷吉継が水城に大改修しました。

敦賀駅からバスに乗り10分、市立病院前で下車するとこの辺一帯が城跡です。確かに海に近いです場所です。ちょっと歩くと海が見え、湾の向かい側には突き出た金ヶ崎城があり、当時はなかった金ヶ崎城の前には埋立地があって、苫小牧行きのフェリー乗り場になっていました。川もあるので水運にはかなり恵まれた場所だったようです。

そういえば(まだここに敦賀城がない頃)、金ケ崎の退き口で、ここは金ケ崎城から国吉城へ通じる道なので、家康はこの道を命かながら必死で逃げて行ったのではないだろうか?・・・とバスの中からふと想像してしまいました。

敦賀西小学校の校門には、ここに城があった事を示す石碑がありました。石碑にはかつてあったとされる三重の天守の絵も刻まれていました(写真①②)。そこから少し歩いた真願寺は、敦賀城の北西隅とされ、城の礎石が残っています(写真③④)。また八幡神社には吉継が寄進したとされる石灯篭・石鳥居・龍の木彫も残っており、吉継の肖像画も奉納されていました(写真⑤⑥⑦⑧)。川を渡った所にある来迎寺の山門は、かつての敦賀城の中門が移築されたと伝わっています(写真⑨⑩)。

吉継は会津征伐に加わるため北陸諸将を束ね、ここ敦賀城から出陣、家康のいる伏見城へと向かいます。しかしその途中で佐和山城に立ち寄ると、三成から家康を討つ計画を打ち明けられました。血気にはやる三成に対し、「無謀である、三成に勝機なし」と説得します。平塚為広と相談し共に再度説得するも、最後にはその熱意に打たれ、会津行きを取止め三成に加担する事を決意しました。そして他西軍諸将とともに伏見城攻めに加わり、鳥居元忠と戦います。

私は八幡神社の肖像画の前に立ち考えてみました。吉継はなぜ三成と共に家康を攻める事を決意したのでしょうか? 秀吉に小姓の時代から共に仕え気心の知れた仲、文禄慶長の役では同じ文治派として苦労を共にした親友。しかし吉継の容態はこの時かなり悪化してきていました。よって吉継は、懇意であった家康より、三成との友情に自分の残り少ない命を賭けたのではないでしょうか?・・・

次は関ケ原(大谷吉継 陣跡)に続きます。
 

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イオ

ハイキングコースの道中 (2023/02/11 訪問)

飯盛山から南西にのびる支尾根上の八幡山に位置し、西麓に迫る深野池との間を走る東高野街道を抑える交通の要衝で、南北朝期には四条畷の戦いで北朝方の陣が置かれていますが、野崎城は室町中期に河内国守護・畠山氏の内紛に際して築かれたものと考えられ、その後、飯盛城の支城として機能し、飯盛城の廃城に伴って廃されたようです。

慈眼寺(野崎観音)の駐車場に車を駐めて登城開始。まず本堂にお参りして、左手奥の鐘楼の脇を抜けるとハイキングコースに入ります。登り始めてすぐに石造九重層塔の建つ郭があり、このあたりからが城域のようです。そこから階段状に曲輪群が設けられていますが、ハイキングコースや休憩所、展望所などにより改変を受けていると考えられ、旧状はよくわかりません。

西端の郭から15分ほどで本郭に到着。本郭には城址碑と説明板が建てられ、西方向の眺望が開けています。本郭から南東に下りて行くと飯盛城へと続く尾根筋が堀切で断ち切られていました。堀切から岩盤の切通道を抜けて南西に下りた先につり橋があり、その南西下には郭が広がっている…はずですが、藪に沈んでいてよくわかりませんでした。

…ということで、明瞭な遺構は堀切くらいのものですが、飯盛城へのハイキングコースの道中にありますので、ついでに訪れる価値はあるかと。

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todo94

2012年3月11日以来の再訪 (2023/04/29 訪問)

前夜に家を出、SAで仮眠をとりつつ、和歌山へと向かいました。紀ノ川SAにて朝食をとってからの朝駆けです。前回訪れたのは東日本大震災からちょうど一年たった2012年3月11日。城攻めの後、帰路に就く車中で14:46のサイレンを聞きました。今回はゴールデンウイーク前半の4月下旬で樹木の葉が茂ってしまっていました。この城のように美しい土の城は冬枯れの季節に訪れるのがベストだと思います。

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