ながしまじょう

長島城

三重県北牟婁郡

別名 : 岡山城、城腰城、梅谷長島城、紀伊長島城
旧国名 : 紀伊

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①本丸と説明板
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昌官忠

(東海&関西)遠征18日目:長島城 (2025/06/01 訪問)

紀伊長島駅から徒歩20分くらいで、長楽寺入口(34.200545、136.334872)に着きました。山門の脇に長島城跡説明板がありました。
長島城攻城後、樹齢1000年のクスノキを見る為、長島神社入口(34.199525、136.332022)に向かいました。

1384年(至徳元年・元中元年)北畠顕能・顕泰によって築かれたと云われています。
赤羽谷に隠れ住んでいた鎌倉北条氏の遺臣奥村進之丞らが近隣を荒していたので、北畠氏が長島城を築城し、家臣加藤甚左衛門を城主として派遣したそうです。
1395年(応永2年)奥村氏は尾鷲・長島にむかって挙兵したので、加藤甚左衛門は尾鷲でこれを迎え撃ったが内通者がいて敗れ、甚左衛門は自刃して果てました。
1575年(天正3年)織田信雄に仕えていた加藤甚五郎が城主となって長島城に戻りました。
翌1576年(天正4年)北紀伊に及んでいた新宮の堀内氏善の勢力を駆逐しようと、信雄は加藤甚五郎・奥村氏に命じ、一時は三木城を攻め落としたが奥村氏が堀内氏に寝返った為に敗れ甚五郎は長島城に戻りました。
奥村氏は長島城の風上より火を放ちそれが城に及んで甚五郎は城腰山麓で自刃し落城しました。

いくつかある登城口の内、自分は長楽寺から途上しました。凋落寺から主郭まで20分ちょっとかかりました。
主郭には説明板と城址碑があり、西側の一段高いところに携帯の通信施設などがあります。
主郭北から西へ連続する竪堀、西の尾根を断ち切る堀切などが確認できます。
攻城時間は45分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に戻る為、紀伊田辺駅から電車で新宮駅に向かいました。
歩行歩数=35062歩、歩行距離=24.5Kmです。

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しんちゃん

シダ好きにはたまらない城 (2024/09/29 訪問)

正直、シダのことばかり記憶に残っていて、城址の印象があまりありません。西側に連続竪堀などがあるようですが、確認してないですね。本郭まで行って、ほうほうの体で帰って来てます。これが1月や2月だと、もっとじっくり散策しているのですが。
温暖化の傾向は城めぐりをする側にとっても厳しい話です。冬場に集中して山城を巡りたいですが、どうしても夏場に(もう秋ですが)訪問せざるを得ない場合もありますので。
シダ好きにとっては天国ですが、そうでない者にとってはエグいです。これ以上、比高が高かったら無事に帰ってこれるかわからないですね。
まあ‥お勧めは冬場ですが、夏場でも他の城では出来ない体験をすることが可能です。「蓼(たで)食う虫も好き好き」といいますので‥。

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しんちゃん

人類(城びと)とシダ類との闘い (2024/09/29 訪問)

城びと戦士の先人方の投稿を参考にさせていただいたのですが、夏場は「シダ」が酷い様子。嫌な予感しかしない‥
といって三重の城を完遂するためには避けて通れません。季節的には良くないですが、例によって行けるだけ行ってみることに。
愛宕山大権現まではスムーズに来れますが、そこから先はシダしか見えない‥これ登城道? 一瞬心が折れそうになりますが行くしかない。真ん中のへこんでいる所が道筋のようだ‥道というよりシダなのだが、トーダイさん、とばつびしゃもんさん、イオさんに続きます。城びと戦士の「はしくれ」としてシダに負けるわけにはいかないのです!
城域に近づいてくるとシダが途切れてくるので脇から城域に侵入。東に尾根が続くのでまずはそっちを見に行きます。東端は竪堀か登城道か良くわからないです。そこから引き返して主郭を目指しました。
トーダイさんの写真を参考にすると1月でもけっこうシダが残っている様子。これは長島城を攻略するためにはシダと仲良くなるしか無さそうですね‥‥

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イオ

主郭を取り巻く竪堀群 (2024/05/04 訪問)

南北朝期に北畠氏家臣の加藤甚左衛門が赤羽川と江ノ浦の間の丘陵上に築いた城で、甚左衛門は赤羽谷の奥村氏の侵攻を迎え撃つも、内通により敗れて自刃しました。戦国末期、加藤氏五代・甚五郎は北畠信意(織田信雄)より奥村氏とともに北畠旧臣と結んで敵対する熊野の堀内氏攻めを命じられ、三木城を攻め落とすも堀内氏の反撃を受けて撤退。何とか長島城に帰還したものの、寝返った奥村氏に火をかけられて城は焼失し、甚五郎も自刃しました。

登城口はいくつかあるようですが、南東麓の長楽寺から登城しました。長楽寺は加藤氏の菩提寺であり山麓の居館跡でもあるようで、山門の脇には長島城跡説明石板が建てられています。長楽寺の脇から山中へは津波避難道が整備されていて、避難道を登って行くといくつかの石碑が建てられた平坦地があり、中腹の曲輪跡のようです。ここで長島神社からの道(たぶん)と合流し、さらに登って行くと愛宕社を過ぎたあたりから道はシダに覆われるようになり、シダをかき分け進んだ先が主郭です(登城口から約15分)。

主郭は東西二段になっていて、南東隅の虎口から入ると長島城跡の石碑があり、西側上段の手前に説明板、上段には通信施設が建っています。主郭には土塁もなく特に見るべきところはありませんが、主郭の南下には竪堀と帯曲輪があり、西下は両端が竪堀となって落ちる堀切が西尾根を断ち切り、北西下から北下にかけては3条+3条の連続竪堀が横移動を封じ、東下も南北両側に落ちる竪堀が東尾根からの侵攻を遮断しています。

東尾根を下って行った先には加藤甚五郎一族の五輪供養塔が建てられています。ここも中腹の曲輪跡のようで、説明板によればこの五輪塔は江戸中期に菩提寺の長楽寺から移されたものとのことです。ここからはとばつびしゃもんさんに倣って郵便局の前に下りて行くつもりが、分岐を間違えてより北側の青面金剛童子の脇に出てしまいましたが、道中に湾の先に広がる熊野灘を眺めることができたので、これはこれでヨシ! としておきましょう(主郭周辺からは眺望がききません)。

私の拙い写真では伝わりませんが、藪に沈んでいたり浅くなっていたりはするものの、主郭を取り巻く竪堀群はなかなか見応えがありました。あとはシダをもうちょっと何とかしてもらえれば…。
 

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 加藤甚左衛門
築城年 至徳元年(1384)
主な城主 加藤氏
廃城年 天正4年(1576)
遺構 曲輪、横堀(空堀)
指定文化財 町史跡(長島城址)
再建造物 石碑、説明板
住所 三重県北牟婁郡紀北町紀伊長島区長島
問い合わせ先 紀北町観光協会
問い合わせ先電話番号 0597-46-3555