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しんしんちゃん

有名な桜の名所。桜雲橋を渡って問屋門をくぐると本丸に太鼓櫓。 (2018/04/08 訪問)

高遠城は本丸を中心に周囲を郭で囲まれています。
本丸の東に二の丸、南に南郭、南郭と法憧院郭、二の丸と三の丸と
各郭間は堀切で仕切られ橋が架けられています。
大手道は三の丸に通じているようです。
桜見物の客が多く、城の中心部に行くほど人が多いです。
城域には国の史跡、藩校の道徳館が現存します。
本丸と二の丸の間に桜雲橋(おううんきょう)と問屋門、本丸には太鼓櫓があります。
空堀など城の遺構を残しつつ、全域が桜に覆われていて
なるほど桜の名所として全国でも有名な理由がわかる気がします。

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しんしんちゃん

日本三大湖城でかつての浮城。天守から見えるは桜の園。 (2018/04/08 訪問)

すこし古い写真ですが、高島城に行った時のレポートです。
諏訪高島城はかつて諏訪湖に突き出した水城で 諏訪の浮城と呼ばれていたそうですが
江戸時代から始まった開拓で浮城のイメージは無くなってしまったんですね。
それでも日本三大湖城のひとつに数えられているらしいです。
この時は前日に富士山と桜と五重塔の見える神社に行ってきて、この日は高遠城に
向かう途中だったんですね。
二大桜の名所の中間に寄ってみたんですが、ここも桜がなかなか素晴らしい。
自分の好きな景色が 「城」「紅葉」「富士山」「桜」ですからね。
特に城と桜は良く似合う。日本の宝ですね。

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chiroru

リピートしたくなる (2017/10/20 訪問)

小雨降る中の登城でした。杖を拝借し本丸から城址公園に向かいました。車を本丸の駐車場においてあるので戻ります。下りの景色と全然違い山城満喫!でした。雨に濡れた累々と続く石畳、はっと見上げれば目の前に最大の見どころである六段壁。霧も雰囲気を盛り上げてくれました。山城大好きです。登城したのはずいぶん前になりますが、情景が鮮明に脳裏に残っています。
城下町散策は別日に。観光案内ガイドさんをお願いし、細かく城下町の説明をうけました。ガイドさんは岩村城下に移住してこられたそうですが、岩村の生活が心地良いととても楽しそうにお話されるんです。「またお越しくださいね」って言われ「はい!」と心から返事ができました。

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しんしんちゃん

北城から伊吹山、南城から琵琶湖。絶景が映える東近江の出世城。 (2023/04/09 訪問)

登城道はいくつかあるようです。私は南の観音寺からのルートで攻めました。
南の尾根伝いに北上、尾根の南端部分からすでに郭の雰囲気があります。
城は尾根状に沿った形状をしていて、南城から北上して行って北城に主郭があり、
そこから西側に郭が伸びていっています、L字をさかさまにしたような形をしているんですね。
この形状だと郭同志の連携は難しいですが、尾根上を防御するのには適しています。
南城の中心部と北西の郭は一部 周囲に土塁が残り、堀切で敵の侵入を遮断しています。
今でも遺構が良く残っており、秀吉が最初に城番を務めたことから
出世城と言ってもよい城です。墨俣城には資料としての裏付けがとぼしく
秀吉が横山城で初めて城番を務めたとする仮定の話です。
主郭からは伊吹山が良く見えます。
南城からは琵琶湖をながめることができます。
案外、秀吉も城番を務めながら絶景を肴にたまに一杯やってたりしたのでしょうか。

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しんしんちゃん

地元ファースト、下坂氏の残した戦国武士の館。現在公開中。 (2023/04/09 訪問)

下坂氏は村落領主とも呼ばれる地元の土豪です。
古くは室町時代から京極氏に仕えました。
ガイドさんの説明によると地元とともにあるがモットーで
戦で頑張りすぎずそこそこにやり過ごしてきたようです。
確かに戦で死んでしまっては地元の民を守ることが出来ませんからね。
江戸時代はさっさと帰農して地元民とともにあったそうです。
帰農して庄屋になったのでしょうか? うだつの上がらない侍のままだと
領主ともども、いつどこに飛ばされるかわからないですからね。
地元ファースト ブレていませんね。
館は江戸時代に建てなおされたものですが、周囲に土塁をめぐらし
堀にはなんと水が溜まっています。
館の東側には切岸を備えた郭がいくつかありました。
いまの時代でも防御設備を備えた戦国の武士の館の形を残していて
国の史跡として、土日に公開されているようです。
日時の制限はありますが、この館は必見です。全国でも珍しい遺構と言えるでしょう。

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しんしんちゃん

下街道おさえの城。見晴らしは良い。で、やっぱり石垣。 (2023/04/09 訪問)

山崎山城は比高50mほどの低山(丘)の東西に長い尾根上に築かれた城です。
山城というよりは平山城に近いイメージですね。
北東の登城口から簡単に登ることが出来ます。車も駐車可能です。
登ってみたところ見晴らしは良いですね。
案内板によると安土城の支城として信長と運命を共にしたと考えられるとのこと。
信長の整備した下街道を見張るために石垣の城に改修したのでしょうか。
かつては周囲を石垣で囲っていたとのことですが、ちょっと見当たりません。
周囲を散策していると一部石垣が残されているようです。
西側の扁平地も郭だったと思われますが
いまは巨大な水タンクが鎮座しています。時代ですね。
国土地理院の地図を見るとタンクに向かう車道の周辺が広い
扁平地になっています。このあたりも郭だったのでしょうか。
今回は未訪問です。

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しんしんちゃん

庭園造りの名人、小堀政一の次男が築いた近江小室藩の中心 (2023/04/09 訪問)

小室城は小堀政一(小堀遠州)の次男、小堀正之によって築かれたと伝わります。
小室藩は政一の時代に1万2000石ほどあったと思われますが、2代正之のころに
弟に1000分与して、4代のころに弟2人に500石、300石を分与したので
1万630石になりました。大名としてギリギリですね。
ですので、小室城は実際のところは陣屋になると思います。
まあ小室城のほうが当人たちも聞こえが良かったと思いますよ。
戦国時代だったら、この規模でも十分城で通用しますからね。
小室城は山林の中へ道伝いに入っていくと右手にお堂があって、左手に入って行った
ところにあったと記憶しています。
城址碑があってその背後に扁平地が広がります。
城址碑の周辺にも平地があったので城の一部として機能
していたと思います。でも土塁は無いんですね。扁平地だけです。
小堀家の陣屋跡だったら庭園でも残っていると良かったんですけどね。

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しんしんちゃん

六角氏家臣 高瀬野氏の居城跡。城址碑は二つあり。 (2023/04/09 訪問)

肥田城は宇曽川を隔てて隣接する高野瀬城を本拠とする土豪、高野瀬隆重が
六角氏の命により築いたと伝わる平地城館です。(彦根観光ガイドより)
このあたり畑地や公民館を中心に平城が広がっていたようですね。
どうやら城址碑は二つ存在するようです。公民館に行ったのですが
写真を撮り損ねたようです。
かつての堀跡を車で回って、肥田城跡を後にしました。
おっちゃんさんの投稿された現地案内板をみるとかつての
縄張りや堀跡が良くわかるようです。
今回は少し調べがたりなかったようです。近くによったら再度、土塁跡や城址碑を
チェックしてみようと思います。

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しんしんちゃん

住宅エリアの中にある城址公園。けっこう立派な土塁が残っています。 (2023/04/09 訪問)

目加田城は、目賀田氏の城です。園地案内板によると
佐々木六角氏の重臣だった目賀田氏は織田信長が近江に侵出してくるにあたって
故郷の光明寺野(目加田)に移しました。
目加田城はその際の居城であったと思われます。
現在は愛荘町の史跡として整備されており、城址公園として駐車も可能です。
比高3mほどの土塁が部分的に残っていますが、城址公園としての雰囲気を十分に
残しています。公園以外の部分は宅地化しています。
堀跡も残っているようですが、確認はできていません。

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yoda 1253

高虎が完成させた現存天守 (2020/11/27 訪問)

装飾性の高い現存天守

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yoda 1253

高虎の改造 (2020/11/27 訪問)

平成16年木造で再建
千鳥破風が美しい

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yoda 1253

連立式天守は見上げると堅守そうな構え (2020/11/26 訪問)

名手加藤嘉明築城
現存木製だが綺麗に整備されている

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yoda 1253

戦闘的な城 (2020/11/27 訪問)

築城名人藤堂高虎らしい破風を持たない層塔型の城来島海峡の監視基地だった

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WEST

久保田城探訪 (2023/06/08 訪問)

秋田市の久保田城を訪問しました。
秋田駅から徒歩でアクセスできますので、訪問しやすいお城かと思います。
久保田城は佐竹義宣の築城で、天守のない土造りのお城です。城内は二の丸、本丸を囲むように土塁があります。建物では唯一現存している「御物頭御番所」の他、表門、御隅櫓が復元されています。
御隅櫓内には佐竹氏、久保田城の歴史に関する展示があり、当時の面影を実感できるかと思います。

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あみりん

東京でライブ遠征ついでに鉢形城へ。 (2023/06/16 訪問)

羽田空港から電車を乗り継ぎ鉢形城跡へ。
鉢形歴史館で100名城スタンプと御城印を購入。
寄居駅からタクシーで往復でした。
バスなんか本数全然無いぞ…💦

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勝龍寺城

【長岡京市】「山崎の合戦」が起こった6月限定 ゆかりの勝龍寺城・山崎城で“山崎の合戦”限定版御城印を発売中!

「本能寺の変」で主君・織田信長を討った明智光秀と羽柴(豊臣)秀吉が激突した「山崎の合戦」にゆかりの2つの城「勝龍寺城」(長岡京市)と「山崎城」(大山崎町)が初コラボ!限定版御城印を新発売しています。

“天下分け目の天王山”で知られる山崎の合戦が起こったのは、本能寺の変から11日後の天正10年(1582)6月13日。山崎から勝龍寺城にかけた一帯が戦場となりました。
これにちなみ、両家紋をあしらった“山崎の合戦”限定版御城印「勝龍寺城」「山崎城」の2種類を発売しています。

【販売場所】長岡京市内観光案内所(3カ所)・神足ふれあい町家・《土日のみ》勝竜寺城公園、大山崎町商工会・離宮八幡宮
【販売期間】2023年7月2日(日曜)まで
【販売価格】限定版各500円 ※通常版は各300円で常時販売中。

💡長岡京市・大山崎町にお越しの際は、“山崎の合戦”ゆかりの城にぜひお越しください!

【長岡京市】明智光秀が“最期の夜”を過ごした「勝龍寺城」
・「山崎の合戦」に敗れた光秀は、拠点としていた勝龍寺城に退却し、最期の夜を過ごしました。
 坂本城へ向かう際に脱出したと伝わる北門には、当時の石垣と礎石が遺ります。
・この城では、光秀の娘・玉(のちのガラシャ)が細川忠興のもとに輿入れし、幸せな新婚生活を送りました。
・現在は、勝竜寺城公園として整備。2階歴史ミュージアムでは映像やパネルでゆかりの人物を紹介しています。

【大山崎町】秀吉が築いた「山崎城」
・山崎の合戦に勝利した羽柴(豊臣)秀吉が、天王山の山頂にある山崎城の城主となりました。
・山崎城跡には、天守台や井戸、土塁の跡、礎石などが遺ります。
・天王山山頂までのハイキングコースにある展望台からは山崎の合戦の古戦場や淀川の流れを一望できます。

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トク

㊼【関ケ原の26人】(19)藤堂高虎 (藤堂高虎と今治城) (2023/03/10 訪問)

(19人目)「藤堂高虎」の続きです。
今度は関ケ原後の居城「今治城」を訪れてきました。

福山駅で新幹線を降りて福山城の気になった鉄板をちょこっと見学し、福山駅前から「しまなみ海道」を渡る高速バス今治行に乗りました(予約不要:降車時現金払い2,800円、途中下車すれば能島城へも行けます)。瀬戸内海の絶景を楽しみながら90分、終点の今治港で降りると今治城が見えます(写真⑨:天守最上階より眺めた今治港としまなみ海道と瀬戸内海)。本当に海に近い場所です。港から歩いて10分くらいです。やはりこの今治城の天守と藤堂高虎のツーショットは実にいい感じです(写真①②:高虎様~!なかなか知的な顔です)。でも銅像は鎧兜(よろいかぶと)の姿ではなく、なぜか? 裃(かみしも)姿です。実は、関ケ原後の居城なので、平和な世に貢献する高虎をイメージしてあえてこういう銅像にしたとか・・(なるほど🤔)。また城の南側から眺めた今治城の景色が、私にはとても美しく見えました(写真③④)。

高虎は関ケ原の功で、従来の宇和島大洲8万石に加え、伊予北半分12万石が加増され計20万石となり、新たな居城として今治城の築城を1602年に開始し1608年頃にほぼ完成します。しかしその年に伊勢へ移封となり今治城は解体、その資材は丹波亀山城の天下普請に献上されたのは有名です。でもなぜせっかく天守まで建てたにもかかわらず、わずか6年で移封になり解体する事になったのか? 私はとても不自然なので不思議に思いました(この続きは津城にて)。

現在の天守は本来の位置ではなく、本当は隣の吹揚神社の位置に建っていたそうです(写真⑦⑧)。また天守の形も丹波亀山城の古写真(写真⑩)を元に再現されたというだけの事で資料に乏しく、なぜかその写真にはない大入母屋破風(写真⑤)などもあるため、模擬天守となっています。

これはあくまで私の推測ですが、おそらく天守は骨組みを組んだだけでまだ完成はしていなかったのではないでしょうか? だからすぐ解体できたのではないでしょうか? つまり、実はこのような白壁の天守は実際には存在しなかったのではないかと思いました(だから資料に乏しいのでは?)。 当時は慶長の築城ラッシュで資材不足、よって今なら解体して伊勢へ持っていけると思ったのでしょう。しかしそれを途中で丹波亀山城へ差し出せと言われたのは想定外だったようですが・・・ でも逆らわずに素直に差し出したのもそれなりの理由があるような・・・(この続きも津城にて)。

層塔型の天守を考案し諸大名に広め、江戸城の作事など数々の築城に携わり、築城名人として徳川幕府から格別の待遇を得た高虎ですが、でもよ~く考えてみると(🤔?) 結局自分の居城となる層塔型の天守を完成させた事は一度もなかったという事になりませんか? 津城は最初から天守は無く、伊賀上野城も天守は完成せず倒壊したので、全部他人のために層塔型の天守を建てたという事になるのではないでしょうか?(宇和島城は望楼型だったので)。

私は今治城の天守最上階に立ち、瀬戸内海や眼下の吹揚神社を眺めながら考えてみました(写真⑦⑨)。ここに高虎が建てたかった今治城の天守はいったいどんな天守だったのでしょうか? 本当は瀬戸内海の青い海に映え、平和の象徴となるような真っ白い天守を、ここに建てたかったのではないでしょうか?・・・

次は、関ケ原(藤堂高虎陣跡と大谷吉継の墓)へ続きます。
 

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赤い城

整備がいい感じに (2023/06/05 訪問)

にのまるさんのレポートで整備が入っていることを知り再訪しました。
寄居駅から徒歩で30分くらいにある諏訪神社が登城口。
この日は鉢形城からの転戦でした。
登城口で手作りのパンフレットを頂きました。
御城印もあるので集めている方はこれもゲット出来ます。
登城路にも案内板がいくつもあるので迷いません。
少し登ると二重の竪堀に。
このうちの一条が登城路になっています。
もちろん並走するもう一条も見学。
山頂部の堀切から麓まで落ちる長い竪堀です。
さらに登ると二郭と三郭の間の堀切に着きます。
まずは東側に。東の曲輪東の堀切へ。
この堀切も竪堀となり麓まで落ちています。
引き返し三郭と東の曲輪の間の堀。
クランクしていてこちらも竪堀に繋がっています。
二郭に戻り深い岩盤堀切を経て主郭へ。
主郭は広さもあり二段になっていました。
西の端に石碑も立っています。
主郭の下にも堀切があり、ここも岩盤を削ったものです。
順路通り進んで行くと元の登城路へ戻りました。
途中石積のある曲輪も。
下山の途中、西側の竪堀を見るのを忘れてたことに気付き、竪堀を渡り曲輪を経て向かいました。
こちらの竪堀も麓まで落ちています。
最初に来たときには遭難しそうになったのですが見違えるくらいに整備されています。
しかも程よくやり過ぎ感はありません。
埼玉の城振り返りには入れてませんでしたが茶色とV字満載の是非行ってもらいたい城です。

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todo94

樟葉台場の対岸 (2023/04/30 訪問)

ゴールデンウィーク前半最後の攻城です。高槻で昼食をとった後、帰りがけに立ち寄りました。淀川の対岸の樟葉台場は見ごたえありましたが、こちらの河川敷には何もないとのこと。一応、堤防に上って河川敷を眺めてみましたが、写真は1枚も撮影しませんでした。

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朝田 辰兵衛

陣屋の井戸を見落とすな! (2023/05/03 訪問)

信州中野駅の東側になります。例の事件は,駅の西側で発生しました。
全然目立たず,案内もなく,見落としがちなのが「陣屋の井戸」です。鈴泉寺山門が飯山城移築門と伝わります。この,ほぼ向かいに「陣屋の井戸」があります。
この日は,井戸の至近距離に駐車車両があったため,いいアングルで撮影できませんでした…<泣>。

ホントかどうか不明ですが,「長野」は「中野」がなまって「長野」と呼称するようになったとのこと。
長野県内でも「長野」と呼ぶのはせいぜい北信濃エリア。他は「信州」とか「信濃」と呼称するのが一般的と,松本市内の友人が語っておりました。ご参考までに。

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