㊼【関ケ原の26人】(19)藤堂高虎 (藤堂高虎と今治城)
(2023/03/10 訪問)
(19人目)「藤堂高虎」の続きです。
今度は関ケ原後の居城「今治城」を訪れてきました。
福山駅で新幹線を降りて福山城の気になった鉄板をちょこっと見学し、福山駅前から「しまなみ海道」を渡る高速バス今治行に乗りました(予約不要:降車時現金払い2,800円、途中下車すれば能島城へも行けます)。瀬戸内海の絶景を楽しみながら90分、終点の今治港で降りると今治城が見えます(写真⑨:天守最上階より眺めた今治港としまなみ海道と瀬戸内海)。本当に海に近い場所です。港から歩いて10分くらいです。やはりこの今治城の天守と藤堂高虎のツーショットは実にいい感じです(写真①②:高虎様~!なかなか知的な顔です)。でも銅像は鎧兜(よろいかぶと)の姿ではなく、なぜか? 裃(かみしも)姿です。実は、関ケ原後の居城なので、平和な世に貢献する高虎をイメージしてあえてこういう銅像にしたとか・・(なるほど🤔)。また城の南側から眺めた今治城の景色が、私にはとても美しく見えました(写真③④)。
高虎は関ケ原の功で、従来の宇和島大洲8万石に加え、伊予北半分12万石が加増され計20万石となり、新たな居城として今治城の築城を1602年に開始し1608年頃にほぼ完成します。しかしその年に伊勢へ移封となり今治城は解体、その資材は丹波亀山城の天下普請に献上されたのは有名です。でもなぜせっかく天守まで建てたにもかかわらず、わずか6年で移封になり解体する事になったのか? 私はとても不自然なので不思議に思いました(この続きは津城にて)。
現在の天守は本来の位置ではなく、本当は隣の吹揚神社の位置に建っていたそうです(写真⑦⑧)。また天守の形も丹波亀山城の古写真(写真⑩)を元に再現されたというだけの事で資料に乏しく、なぜかその写真にはない大入母屋破風(写真⑤)などもあるため、模擬天守となっています。
これはあくまで私の推測ですが、おそらく天守は骨組みを組んだだけでまだ完成はしていなかったのではないでしょうか? だからすぐ解体できたのではないでしょうか? つまり、実はこのような白壁の天守は実際には存在しなかったのではないかと思いました(だから資料に乏しいのでは?)。 当時は慶長の築城ラッシュで資材不足、よって今なら解体して伊勢へ持っていけると思ったのでしょう。しかしそれを途中で丹波亀山城へ差し出せと言われたのは想定外だったようですが・・・ でも逆らわずに素直に差し出したのもそれなりの理由があるような・・・(この続きも津城にて)。
層塔型の天守を考案し諸大名に広め、江戸城の作事など数々の築城に携わり、築城名人として徳川幕府から格別の待遇を得た高虎ですが、でもよ~く考えてみると(🤔?) 結局自分の居城となる層塔型の天守を完成させた事は一度もなかったという事になりませんか? 津城は最初から天守は無く、伊賀上野城も天守は完成せず倒壊したので、全部他人のために層塔型の天守を建てたという事になるのではないでしょうか?(宇和島城は望楼型だったので)。
私は今治城の天守最上階に立ち、瀬戸内海や眼下の吹揚神社を眺めながら考えてみました(写真⑦⑨)。ここに高虎が建てたかった今治城の天守はいったいどんな天守だったのでしょうか? 本当は瀬戸内海の青い海に映え、平和の象徴となるような真っ白い天守を、ここに建てたかったのではないでしょうか?・・・
次は、関ケ原(藤堂高虎陣跡と大谷吉継の墓)へ続きます。
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