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しんしんちゃん

青空に映える東播磨のツイン・キープス (2022/12/29 訪問)

明石城は元和3年(1617)明石藩10万石の居城として小笠原忠真に徳川秀忠が命じて築かせた城です。
苦労して堅城を作り上げた小笠原氏は寛永9年(1632)小倉藩に転付になりました。
狂言で例えるなら 
犬侍(いぬさむらい)真面目にやると 馬鹿を見る といったところでしょうか。
江戸時代、大名に忠誠心が育たなかった理由はこのへんにあるのかもしれません。
明石城の特徴は石垣の上にそびえる坤櫓と巽櫓ですね。
まさにツインタワー。クリス・グレンさんでいうところのツインキープスといったところですね。
まさにビジュバルばえする東播磨のWink城です。(古い)

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しんしんちゃん

三好長慶の最初の拠点。東播磨の出世城。 (2022/12/29 訪問)

越水城は大社小学校を中心とした高台一帯に築かれていたという。
wikiによると南は西田公園、北東の住宅地まで城域に含まれ、おそらく住宅地から小学校のエリアに
天守台も築かれていたのだろうと推測できる。
最初の天下人、三好長慶が最初に本拠にしていた城でまさに
東播磨の出世城といえる。
そんな由緒正しい城なのだが周囲に駐車場が無い。
小学校の周りをぐるぐる2周ほどしているのだが、これではまるで不審者ではないか…。
年末で人もそれほどいないので、止めれそうな場所に車をとめ、さっと写真を撮らせていただく。
やはり自分の足で城址を歩かないと城に行った気がしないのだ。
変なプライドに動かされながら、ささっとその場をあとにした。
アディオス西宮の出世城。ご利益がありますように。

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しんしんちゃん

播磨合戦どんの城 (2022/12/29 訪問)

豊臣秀吉の播磨攻めの際に最初に戦闘が行われた場所とされています。
黒田官兵衛率いる手勢と、野口城兵&教信寺の僧兵が戦いました。
当時は宗教勢力も戦争のシステムに組み込まれていたのですね。
教信寺は今回訪れなかったのですが、称名念仏の創始者 教信を開基をすると有ります。
とすると浄土宗なのでしょうか?
とかく織田の手勢はこの手の勢力と争う宿命にあるみたいですね。
次回訪問時は教信寺も訪れてみたいと思います。

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しんしんちゃん

ほぼ密閉状態の砲台。一発撃ったら内部はたいへん。 (2022/12/29 訪問)

国の史跡、西宮砲台は文久3年(1863)~慶応2年(1866)の4年をかけてこの地に築かれました。
まさに幕末の真っただ中で、幕府も大慌てで建造を命じたと思われますが
基礎部部は土堤に松クイを1000本以上も打ち込んで、その上に花崗岩の大岩をくみ上げるという念の入りよう。
本体には11も砲眼を備え、360度四方を狙うことが出来たと思われるが
天井がふさがれているので一発撃ったら内部はえらいことに…。
大急ぎで作っていた割には、えらく時間をかけてトンチンカンなものを作ってしまい…
突っ込みどころ満載ですが、この珍妙な国の史跡は
不思議と周囲の景色に溶け込んでいるような気がします。そう思うことにします。

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しんしんちゃん

入場料300円の続百名城の庭園 (2017/06/11 訪問)

続百名城の北畠氏庭園です。
前回訪問した際はまず館跡を訪れ、詰めの城の霧山城を訪れ
もう一回、館跡の庭園を訪れました。
美しい庭園に疲れた心が癒されます。
たしか庭園の見学には300円必要だったかな。
ここの庭園の売りはなんといっても池と苔むした石ですね。
特に派手なものはないけれど、じわじわくる良さがあるんですよ。
境内には花将軍 北畠顕家公の像があります。
あまり強そうには見えないのですが石碑を見ると
奥州の大群を率いて南朝の大義を貫き通し、ついに若干に二十一歳で阿倍野の露と消えた
鎮守府代将軍顕家公…(以下略)とあります、
若くして亡くなったのは残念ですが、すごい人だったんですね。

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しんしんちゃん

標高は高いが縄張りシンプルな北畠氏の詰めの城 (2017/06/11 訪問)

霧山城は続百名城北畠氏館の詰めの城です。
館とセットの認識ですね。標高560m比高240mですが意外とすんなり登城することが出来ます。
だったと思うんですよ。前回登ったのが6年前なので。
しんどかったらごめんなさい。
縄張りはシンプルです。まず鐘撞堂、北上して本丸。本丸の北に矢倉跡、本丸の南に米倉跡
…これだけかい。必要最小限な郭しかない。
まあ標高は高いし、北畠氏は支城をたくさん持っているし。
いざとなったらそっちに逃げ込めばいいか。
自分が登った時には鹿のふんがいっぱい落ちていました。
よけて歩くのが大変です。シカたのないことなのですが…。

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しんしんちゃん

北畠氏族、木造氏の栄華のあと (2017/06/11 訪問)

木造城は正平21年(1366)北畠権大納言顕能(あきよし)の三男、顕俊が築城しました。(現地案内板による)
彼が初代城主として木造氏を名乗り天正12年(1584)まで56年間、木造氏の城でした。
この時に織田氏がやって来て城をあけわたしたのでしょうね。
いまでこそ、でかい土まんじゅうに石碑を建てただけに見えますが
れっきとした北畠氏族の城郭だったようです。
かつて周囲は沼地で敵は攻めあぐねたようですが、今ではすっかり開墾されています。

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しんしんちゃん

いろいろと趣向をこらしてある堀内氏の山城(平山城) (2023/03/19 訪問)

天正16年(1588)に堀内氏が北山攻めの際に築いたと伝わります。
新宮城城主で熊野水軍の首領 堀内氏善(うじよし)が関ヶ原の戦で西軍に属して
桑山一晴に居城を追われ再びこの京城に逃げ込みました。
このたびは二度目の訪問になります。東の墓地側から侵入しました。
なぜここを選んだかというと、このあたりに畝状の竪堀がいくつかあるそうだからです。
年月がたってだいぶ浅くなってしまってはいますが、確かに畝状の竪堀がありました。
このまま居館跡を西に進み詰めの城跡へ向かいます。
居館跡(郭)との間には結構大きな堀切があります。
次回訪問時には堀切周辺の石垣も漏らさずチェックしておきたいと思います。(また来るんかい)

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ぴーかる

八神城 (2023/05/03 訪問)

【八神城】
<駐車場他>駐車場はなし。<35.268497, 136.692834>ポイントは路側帯の幅が広いです。
<交通手段>車
<見所>移築門

<感想>日帰り木曾三川ちょこ城南下の旅2城目。現地説明板を要約すると、八神城は鎌倉時代に尾張国長岡庄石田郷の司職である毛利氏が居城をここに移ったのが始まりとされます。土岐氏、織田氏、豊臣氏に仕え江戸時代には尾張徳川氏に仕え明治まで存続します。城も一国一城令の対象外となったようで現存移築門が2か所残されています。
 城跡には説明板と江戸時代に植えられたイチョウの巨木があります。樹齢300年以上だそうです。城跡の北東200m程の場所に八神の渡し跡があります。この渡しは江戸時代初期には名古屋藩家老となった毛利氏が名古屋城登城時専用として利用し、江戸中期には一般に開放して木曽川を渡る街道の一つとなりました。移築門は南に少し行った眞福寺山門に一の門、長良川を越えて西側に長屋門が民家にあります。現存建造物が2つも残っているのでなかなか良いです。

<満足度>◆◇◇

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しんしんちゃん

石垣と熊野川が美しい紀州徳川家付家老の城郭 (2023/03/19 訪問)

新宮城は熊野川流域の丘地に築かれている総石垣の城です。
国土地理院の地形図をみると丘地の稜線を利用して郭を配しているようです。
熊野川を北の守りとし、本丸を最高地に北に出丸を配し、西に徳の丸、松の丸へと続きます。
北に船着き場らしきものもあったようですが、確認していません。
出丸に向かう道は3月の時点では通行止めになっていますが、それ以外は各郭間を自由に行き来することが出来ます。
主だった郭部分は総合でもそれほど広くないのですが、
きれいに積まれた石垣をながめながら散策させていただきました。
こうしてみると山城や平山城だけでなく総石垣の城も地形を上手に利用して城を築いています。
近くにある続百名城の赤木城もそうでしたね。

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水田に守られた本丸 (2023/06/11 訪問)

田植え後の船上城本丸の微高地は、全周、水田で囲まれています。更に、その北側〜北東側は、かつても堀であった古城川が守り、それ以外の方面は、田んぼ脇まで住宅が立ち並んで容易に人を寄せ付けません。
北西隅に田んぼに降りる通路が二ヶ所あり、畦道に行けます。靴の幅より少し広い畦道が微高地とを結びます。
城下に船着き場があったと。かつてより海岸は沖側に後退しているのでしょうが、今でも海岸まで歩いてそれほどかからなかったです。

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WEST

脇本城探訪 (2023/06/08 訪問)

秋田県お城探訪の二日目、脇本城を訪問しました。
秋田駅からJR男鹿線に乗り、最寄り駅の脇本駅(ICカード使用可)で降りました。乗車時間は約40分。
脇本駅からは事前情報通り約30分歩くと案内所に到着しました。案内所にはパンフレットが用意してある他、簡単な説明図がありますので助かります。
城跡は草刈り等の整備も行き届き、かつ6月の訪問のためか緑溢れる綺麗な草原地となっており美しかったです。
見どころは、曲輪、空堀、土塁等の跡でしょう。行き届いた整備のおかげで、城跡を散策しながら、それらを実感できました。
帰りの列車時刻の都合で約1時間強の訪問でしたが、楽しい訪問だったと思います。
ところで、列車で訪問する場合、JR男鹿線の本数が限定されるため時刻表を確認して登城計画を立てたほうが良いと思います。

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イオ

住宅地の中の石垣 (2023/04/09 訪問)

関ケ原の戦いの功により若狭国を与えられた京極高次が後瀬山城に替わる居城として築いた城で、江戸前期に入封した酒井忠勝が三重三階の天守を擁する現在見られる姿に改修し、酒井氏14代の居城として明治を迎えました。廃城令の後、本丸跡には酒井忠勝を祀った小浜神社が創建され、現在に至っています。

北川、南川、江古川を堀代わりとし、西側は小浜湾に面した水城で、本丸の周囲に二の丸、三の丸、北の丸、西の丸を配した輪郭式城郭でしたが、河川拡張により城域は大幅に削られ、内堀も埋め立てられて住宅地になっています。それでも、登城時は南川に架かる大手橋が通行止めになっていたため東側に大回りせざるを得ず、今なお攻めるに難い城であることを実感させられました。

さて、小浜神社の駐車場(2台分)に車を駐めて登城開始。小浜神社の境内にはいくつかの説明板や案内板が設けられていますが、「ごあんない」と題した説明板の雲浜古城図は縄張図に現状が併記されていて参考になりました。その他、築城時に人柱となった娘を供養するために祀られた組屋地蔵尊、嘉門の井戸の前には城下から移設された八百比丘尼ゆかりの橋の石(古呂美石)、酒井忠勝に仕えた白狐伝説がある八助稲荷大明神、酒井氏邸宅を移築した酒井会館など、本丸跡に酒井忠勝を祀る神社だけあって、境内にはゆかりの史跡が数多く見られます。また、拝殿では小浜神社発行のパンフレット「小浜城と小浜城下町」が頒布されており(賽銭箱に100円を入れる)、小浜城や城下町、ゆかりの人物、小浜神社についてよくまとまっていて、おすすめです。

境内をひとめぐりすると、いよいよ天守台へ。住宅地に囲まれた城ということで、さほど期待はしていなかったんですが、天守台は思っていたより高さがあり、眺望も開けていました。天守台からは東と北に石垣が続き、麓には北側の小天守に登る石段もありますが、崩落または転落の恐れがあるからか、立入禁止になっていました(残念…)。

境内を出て、今度は外周を一周します。雲浜古城図によれば、境内南東隅の石垣は大手枡形、北東隅は搦手枡形の石垣のようです。搦手を守るのは翳櫓、北西隅には乾櫓、西辺には西櫓の石垣が続き、小天守から天守台へと繋がっています。本丸を囲む内堀は埋め立てられ、間近まで住宅が建ち並んでいますが、石垣直下に敷かれた防草シートの上を歩いて一周することができます。ただ、住宅のすぐ裏手なので、通行にも写真撮影にも非常に気を遣いますが…。周囲の石垣の高さもなかなかのものながら、直下から見上げる天守台の高さは一際で、ファインダーに収まりきらないほどでした。

住宅地の中に天守台と石垣が少しあるくらいかと思いきや、東辺を除いては本丸の石垣はしっかり遺っており、直下から見上げることもできて、大いに見応えがありました。若狭高校の移築門を見落としたこと、城下にも見どころがありそうなので、いつかまた訪れたいものです。
 

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todo94

スタンプとセット (2023/04/30 訪問)

芥川山城の続100名城スタンプ置き場となっているしろあと歴史館は高槻城内といってよい場所に立地しているので、スタンプゲットとともに訪れることになってしまいます。二の丸に当たる芸術文化劇場の堀や石垣、説明板もしっかりと拝見させていただきました。そして高槻城に来ると必ず立ち寄るのがカトリック高槻教会。ここの高山右近像は小学6年生の時の愛読書、学研の図鑑に掲載されていたのでお気に入りなのです。

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しんしんちゃん

南北朝鵜殿氏奮闘の城。小粒でもあなどるなかれ。 (2023/03/19 訪問)

麓に立派な遊具を備えた公園のある丘の上に鵜殿城は築かれています。
坂をえっちらおっちら上っているうちに簡単に主郭にたどり着きます。
というか主郭しかありません。シンプルすぎる…
でも周囲には土塁がしっかりとめぐらされているし、堀切もあります。
かつて南朝側だった鵜殿氏が北朝側に鞍替えしたさい周囲の南朝側の武将たちが
一気に押し寄せてきたそうですが、鵜殿氏はこの城にこもって4日4晩持ちこたえて
ついには南朝の軍勢を追い返したそうです。
この城でですか… 鵜殿氏すげー。
その鵜殿氏も大阪の陣で大坂方として参戦し、ついには帰ってこなかったそうです。
戦の世の悲哀ですね。

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しんしんちゃん

築上名人藤堂高虎の最初期の総石垣の城。良く見ると積み方がテキトー… (2023/03/19 訪問)

天正17年(1589)藤堂高虎によって一揆を封じ込めるために築かれた城と伝わります。
総石垣造りの城で藤堂高虎にとっては最初期の城だと思うのですが
良く見ると石の積み方がテキトーなんですよ。
なんか荒削りなかんじで、隅部は本来算木積なんだけど、ただ積んであるだけだったりするし
山奥でとくに誰に見られるわけでもないし…といったわけではないのかもしれないけど
崩れなきゃいいや(実際は崩れたのかもしれないが)といった積み方です。
そのくせ少し遠目にはえらく立派に見えるんですよ。
このあたりの一揆衆を威圧するにはこれで十分だったということですね。
この経験が後の伊賀上野や津城に生かされてくると思えば感慨もひとしおでしょうか。
地元では桜の名所です。石垣の城に桜。花見には最高でしょうな。

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しんしんちゃん

堀の中に住んでいるから堀内氏。そのまんまじゃない。 (2023/03/19 訪問)

金龍寺と周辺は戦国時代から近世初頭にかけて奥熊野地方を支配した堀内氏の屋敷跡であった。(現地案内板)
周囲五町(約550m)、四方に堀があったと記されている。
そのまんま堀内氏ということですね。
西方と北方に一部、小川が残っているそうです。
お寺が屋敷跡だと、けっこうイメージがつかみやすいかも。
山門なんか屋敷門そのまんまですからね。

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しんしんちゃん

地味だけどなかなかジワる松平発祥の城。 (2014/03/15 訪問)

松平氏始祖の親氏の築城と伝わる、まさに松平氏始まりの城です。
縄張りはそれほど複雑ではなく、2の郭から主郭へ、2の郭から西へむかう道をゆけば3の郭にたどり着きます。
ふもとから4の郭に向かっていくと櫓台跡と思われる遺構が残っています。
それほど大規模ではありませんが築城当時からすれば必要十分な設備を備えていたと言えるでしょう。
城の説明がある石碑には市指定史跡とありますが今では立派な国の史跡です。
松平氏発祥の城というわけですから、当然といえば当然でしょうか。
一見地味ですが、なかなかじわじわ来る城です。

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しんしんちゃん

槍半蔵。渡辺守綱由緒の城。 (2014/03/15 訪問)

守綱神社の北側にある公園が城跡で西側にある川辺に対して台地状になっており
西側には土塁が残っているようです。
公園内にはいくつか建物の基礎部分のようなものが残っており
いつの時代ものかわかりませんが槍半蔵こと渡辺守綱が入城したあとに築かれたものかもしれません。
あの槍半蔵の子孫が尾張藩付家老として明治まで代々この地を治めていたのですね。
写真は2014年に最初に訪問した時のものですが、数年前にもまたここを訪れており
写真がでてきたらいくつか追加してみようと思います。

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しんしんちゃん

長沢松平氏のちょっと良さげな城 (2014/03/15 訪問)

古瀬間城は現在、浄願寺の背後の丘 古瀬間城址公園として整備されています。
主郭の北側に腰郭を配し、城の周囲にも帯状の郭を配しています。
主郭には展望台があり眺望もなかなかのものです。
成願寺から城跡に至る道の途中には松平宗忠公の墓があります。
この宗忠さん松平家三代、信光より別れた長沢松平家の方で古瀬間城を
築城された方でもあります。
現在は豊田市が公園として管理しており、見張櫓(展望所)もその際に
建造されたものらしいです。

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