公民館として長く使われていた書院が元の位置に戻るという朗報を聞いてから結構経ったがじっくりゆっくり大事に建築中で完成はまだ当分先らしい。最後の写真は公民館時代の書院。どんな姿に生まれ変わるのか。
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2024/06/10 22:45
じっくりゆっくり建築中 (2023/12/02 訪問)
公民館として長く使われていた書院が元の位置に戻るという朗報を聞いてから結構経ったがじっくりゆっくり大事に建築中で完成はまだ当分先らしい。最後の写真は公民館時代の書院。どんな姿に生まれ変わるのか。
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2024/06/10 22:34
無印投稿 高松城 (2013/12/11 訪問)
高松城は天正16年(1588)生駒親正によって築かれ、天正18年に完成しました。現在は玉藻公園として整備されていて、周囲は水堀で囲まれており、外堀と内堀は海水で満たされ、海城の雰囲気を良く残しています。
現在は高松港の南東に位置し、周辺にはJR高松駅や高松シンボルタワーなどインフラや市の中心的な施設が海岸近くに集中しています。本丸と二の丸を繋ぐ鞘橋は刀の鞘に見立てて名前が付けられていて、屋根付き廊下橋となっており、天守台から全容を眺めることが出来ます。月見櫓、艮櫓(うしとらやぐら)、水手御門、渡櫓が重要文化財として指定されていて、月見櫓と渡櫓は日曜日に公開されているようです。また三の丸にある旧松平家高松別邸・披雲閣も重要文化財に指定されていますが一般の公開はしていないようです。
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2024/06/10 21:14
2024/06/10 21:02
2024/06/10 20:43
2024/06/10 20:18
どかんどかーん ドカン坂……◎◎◎ 愛知県常滑市 (2021/05/30 訪問)
愛知県の焼き物の二大産地といえばご存じ常滑市と瀬戸市です。常滑焼は一時期、瀬戸焼に押され江戸時代前期まで勢いが衰えたのですが、尾張藩の支配下で勢いを取り戻しました。650~100万年前に存在した東海湖の底に堆積した鉄分を多く含む良質な粘土を使用しており、大きな壺や甕を製作するのに適していたようです。江戸時代後期(天保年間)に連房式登窯が導入され、効率よく土管、甕、朱泥茶器などを生産できるようになりました。瀬戸物と同じく猿投窯の系譜とされ、釉薬を用いない「焼締」による焼き物が特徴です。
また六古窯の一つに数えられ、日本遺産になっています。
土管坂は常滑市を代表する観光地「やきもの散歩道」の中にあります。海外でも有名らしく台湾人とみられる観光客が「タ~イワン」と言いながら記念写真を撮っていました。壁を覆い尽くしているのは明治時代の土管と昭和初期の焼酎瓶で坂道には「ケサワ」と呼ばれる土管の焼成時に使用した捨て輪の廃材(焼台)が敷き詰められ、滑り止めになっています。
写真のでかい招き猫は とこなめ見守り猫「とこにゃん」です。幅6.3mあり、日本一巨大と言われています。とこなめ招き猫通りの南側、陸橋の脇に据えられ、やきもの散歩道の入り口で観光客を出迎えてくれます。
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2024/06/10 20:15
2024/06/10 18:52
常滑城 天下人と焼き物 (2024/06/08 訪問)
常滑城は緒川・刈谷水野家の分家、常滑水野(監物)家の城で、水野監物忠綱によって築かれたとされています。戦国期の産業としての焼き物の需要は高く、織田氏の経済力の源にもなっていたようです。徳川家康の叔父・水野信元のころには知多半島一帯に水野家の勢力が伸び、長篠の合戦のころには信元は24万石の所領を得ていたようです。尾張圏内で徳川に近い、水野氏が力を増したのが脅威になったのかは不明ですが、天正2年(1575)信長は瀬戸焼のブランド力を強化し販路としての街道の整備に力を注ぎます。しかも、翌年の天正3年(1576)信長の命を受けた徳川家康によって信元が大樹寺で殺されてしまいます。常滑水野氏と常滑焼には逆風が吹き続けている感じで、常滑焼は安土桃山時代から江戸時代初期まで一時衰退してしまったようです。
そうした経緯があってか信元の娘婿で常滑城主・水野守次は本能寺の変に際して明智光秀に味方し、常滑城を退去させられています。後に織田信雄の家老・岡部重孝が入りますが、豊臣秀吉に通じたとして重孝は信雄によって殺されてしまいます。その後、徳川家康の家臣・高木広正が信雄より常滑郷に500貫文を与えられますが、家康の関東移封に伴い関東に移り、常滑城は廃城になったようです。
正法寺のある丘陵が城址と見られ、正法寺の南の小公園に城址碑が立っており、近くまでソーラーが迫ってきています。
織田信長にとって焼き物は財力の源であり、家来に与える褒美であり、また趣味の一環としても欠かせない重要な存在であったようです。
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2024/06/10 18:23
チェブさんへ~もう数ヶ月待ちましょう…~ (2024/04/02 訪問)
かわいいのが生えてきているようですね。その子を大切になさってください。個人差があるかと思いますが,もう数ヶ月待ちましょう。回復後は,6時間超の歩き続けというのは控えて,せいぜい2~3時間(2~2.5万歩程度)で切り上げるようにしたらどうでしょうか…?
トレッキングシューズも徐々に足になじませるようにしないと,身体の不調に影響を及ぼす可能性があります。
さて,鮎貝城ですが,土塁奥の水堀見落とし注意です。鮎貝八幡宮本殿は,明治31年に鮎貝城本丸跡に移転したとパネルに表記されていました。
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2024/06/10 17:02
鶴ヶ岡城探訪 (2024/06/06 訪問)
鶴ヶ岡城を訪問しました。現在のお城は、酒井氏が入封した江戸時代の姿とのことです。なお、この酒井氏は、あの徳川四天王の酒井忠次を祖とします。
JR鶴岡駅から自動車でアクセスしました。お城の周囲は鶴岡公園となっており、無料の駐車場が数か所ありますので、アクセスし易いお城と思います。
(なお、前日に村上駅からJR羽越本線で鶴岡駅に来ましたが、ICカードSuicaが使用できませんので注意です)
このお城の本丸跡には庄内神社が鎮座し、まずは参拝してからの散策です。本丸を囲むように水堀と土塁が巡らしてあり、平城のイメージそのものです。
また、二の丸跡には藩校の致道館、明治時代の致道博物館がありますので、見学をお勧めします。訪問時、致道博物館では「大名酒井家の名宝 国宝展示」が開催され、数々の貴重な国宝、重要文化財を見ることができました。
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2024/06/10 16:53
村上城探訪 (2024/06/05 訪問)
村上城を訪問しました。このお城は臥牛山を中心とした平山城で、室町時代に本庄氏が築城したのですが、現在の本丸、二の丸の姿は越前松平氏とのことだそうです。
アクセスはJR村上駅前からにて、新潟交通観光バス 道の駅関川行のバスに乗り、二ノ町バス停で降り、向かいました。(このバスの本数は少なく、たまたま接続がうまくいきました)
途中に東北電力村上電力センターに寄り、パンフレットを入手して登城しました。なお、センター内では村上城の簡単な展示があります。
登城口から七曲りの階段を15分程度登れば石垣が見えてきます。建物の遺構はありませんが、見どころは、総延長が1kmを超える石垣です。東日本では珍しいとのこと。石垣ファンにはワクワクしますね。
また、本丸からの眺望も素晴らしく、平山城の魅力です。
登城後は城下町を散策するのも良いと思います。歴史的な建造物や街並みを見ることができます。なお、村上市は皇后陛下雅子様のゆかりの地であり、まいづる公園にある旧嵩岡家の住宅は、雅子様の曾祖父が住んでいたとのことです。
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2024/06/10 16:43
新発田城探訪 (2024/06/05 訪問)
新発田城を訪問しました。JR白新線 新発田駅から徒歩20分程度ですので、アクセスし易いです。
このお城は戦国時代に入封した溝口氏の居城とのこと。残念ながら、明治時代の廃城令により、多くの建物が取り壊されました。しかし、表門と旧二の丸隅櫓は当時の建物として残されています。貴重です。
また、本丸、二の丸の半分は陸上自衛隊が駐屯しており、立入ができません。
見どころは、前述の表門と旧二の丸隅櫓及び復元された三階櫓と辰巳櫓の建物群、それに石垣でしょう。特に三階櫓は屋根の棟がT字型で非常に珍しいものです。自衛隊の敷地内にある三階櫓を除いて建物内部の見学ができるのも魅力ですね。
今後、三階櫓も限定日を設けていただいて見学できるといいですね。
なお、赤穂浪士の堀部安兵衛の生誕地が新発田とのこと、城内には銅像が設置されています。
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2024/06/10 16:28
2024/06/10 16:06
現存桝形櫓門の追手門と南内門-4/7 (2024/05/20 訪問)
本丸を終えて二の丸南内門、未申櫓、辰巳櫓を中濠越しに撮影し三の丸追手門を見学撮影、弘前城には現存の桝形櫓門が健在です、南の三の丸に追手門桝形、二の丸の南に南内門桝形、先に登城入口の東の三の丸に東門桝形、二の丸の東に東内門桝形、北の四の丸に北門桝形またの名を亀甲門桝形と五つの桝形を備えた現存櫓門が有ります、国内でも稀な現存桝形櫓門の残りを誇っています。
先ずは追手門と南内門の写真投稿致します。
現存桝形櫓門の東門と東内門に続きます。
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2024/06/10 14:42
閑話:砂利道7選+α
チャシが7か所続いて少々飽きてきそうでしたので目線を変えて一旦休憩
城の訪問時を除きバイクで出かける際に砂利道に出くわすと迂回して走行します。普段は道路工事中の砂利道を渋々走行する程度でしょうか。この2週間余りに城跡に訪れたり絶景を求めていたので過去数年分の砂利道を走り抜けました。そこで色んな意味で記憶に残る砂利道を書き出してみたいと思います。〇印が城跡関係です。
※この投稿は北海道並びに関係自治体や所有者に対してのバッシングではありません。歩いていく(熊の脅威は別として)、車で行くなど危険を回避すれば良い話です。バイクで行ったが故のいわば副産物の投稿です。零汰の戯れ程度とお考え下さい。
〇、ユクエピラチャシ訪問時の道道143号線・・・峠超えの山間部をぬうクネクネした砂利道です。別ルートを利用すれば問題ありません。
〇、桜丘チャシに至る砂利道・・・ここを訪れる場合は必ず通る1km程の砂利道。訪問時は道路工事終了直前の様子で砂利が深かったですが、体力のある時期に訪れたので少々苦労した程度です。
〇、鶴沼チャシに至る砂利道・・・ここも必ず通る道、坂道カーブがあるので出来れば避けたいところです。別の砂利道で迷いこんだので3km程度走る事となりました。写真1
〇、茂別館に至る砂利道・・・境内まで砂利道で行く事が出来ますが、坂道カーブそして砂利が大きいです。後半戦で疲弊の出始めていた頃で難儀しました。
・、コッタロ湿原と釧路湿原を繋ぐ砂利道・・・とにかく景色は抜群です。湿原を歩いて眺める場所は幾つもありますが、車窓から眺める事が出来るのはここだけではないでしょうか。深砂利部分が所々ありチラ見程度しか出来ませんでした。5km程度の長さでしたが、舗装すると人が殺到してしまうかもしれないので舗装を避けているのかもしれません。
・、十勝牧場白樺並木と展望台に至る砂利道・・・並木道を舗装してラインを引いた風景を想像すると味気なくなります。現状維持が良いと思います。展望台に向かう途中で挫折しました。深砂利+登りだったからです。写真3
・、礼文林道・・・8km弱の砂利、土混じりの林道です。絶景を見たくて無理をして走行して転倒した場所です。これは全て自身の責任で私が悪いです。想像通り絶景でした、緑の時期だったらもっと良かった事でしょう。写真4.5
番外、志苔館入口・・・勢いよく入り込んで身動きが取れなくなった場所です。道路に出すのを苦労しました。こちらの入口は車でも苦労しそうです。写真2
番外、白い道・・・宗谷丘陵にある最近観光客の増加した場所です。砂利ではなく帆立貝を粉砕して撒いていて景観は良いです。道に浮いた砂や小砂利と変わらず滑るので気にしながらの走行となりました。
くだらない与太話でした。いずれ小ネタが溜まったら息抜きに城に絡めて投稿する事があるかもしれません。
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2024/06/10 13:28
一回も展望台に入れていない。 (2024/06/08 訪問)
大草城には2013年と2021年と三回来ています。なんとなく展望台に登ったような気がするのですが、古い写真を見ると、一回も登ってない。そうだったのか‥。現状、変な城型オブジェです。そういえば、本丸と二の丸の草も荒れてきている気がする。
展望台が整備されて、草をキレイに刈ると良い公園になるんだけど、ちょっともったいないですね。
大草城は本能寺の変の後、織田長益(有楽斎)によって築かれたとされています。江戸時代は尾張藩によって城址が保存されていたので江戸末期まで堀や土塁が良好に残っていたようです。現在残っている遺構が当時のものかはわかりませんが、そうだと思ったほうが、訪問時のテンションは高いです。
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2024/06/10 13:09
白山神社と円観寺が城址 (2024/06/08 訪問)
知多半島東岸側、白山神社と円観寺のある丘陵が城址のようです。遺構かどうかは不明ですが、白山神社の背後にはうっすらと土盛りがあります。当地の武雄天神社の祠官・岩田氏が長尾城の支城として築いたとされています。
やがて河和戸田氏がとってかわり、戸田孫左衛門(法雲)が居住したとされますが、今川氏についた戸田氏は水野氏や、その後ろ盾の織田氏の攻勢を受け、桶狭間の合戦の後に廃城になったようです。
ちなみに今日も屋根の修理の業者が来ています。家も築40年もたってくると修理が大変ですわ。
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2024/06/10 13:01
会下(えげ)山 (2024/05/04 訪問)
吉川英治の「私本太平記」を読みました。楠木正成の最後の戦い、湊川の戦いの描写のなかで「会下山」が要衝であり、西から押し寄せる、足利の大軍に対し、700騎ほどの少数で楠木正成がここに陣を張ったとされています。新田義貞は、会下山南麓から和田岬に布陣し、楠軍と合わせて、(六甲山〜)会下山〜和田岬(〜瀬戸内海)を防衛ラインとしました。
会下山に登ってみると、傾斜は急だが、比高はそれほどでなく、かつ広い頂部をもった独立峰で陣を構えるのに適しており、また、六甲山と瀬戸内海に挟まれた狭い平地を塞ぐ要衝であることがよくわかりました。
山頂に東郷平八郎元帥揮毫の「大楠公湊川陣之遺蹟」の石碑があります。
南側中腹に、牧野富太郎植物研究所跡があり、得した気分。
また、この辺りは、平清盛が作った福原京、一之谷の戦いの場所とも被ります。
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2024/06/10 11:58
現存二の丸三つの隅櫓・三階櫓-3/7 (2024/05/20 訪問)
本丸の石垣積直し作業現場見学、曳家位置の天守閣を内外からの見学を二の丸に現存する三つの隅櫓を中濠越しに見学、二の丸内からの見学をしますが桜の葉が茂り良く観る事が出来ません。
二の丸南西の未申櫓・三階櫓、二の丸南東の辰巳櫓・三階櫓、二の丸北東の丑寅櫓・三階櫓が現存で天守閣を入れると四の三階櫓が現存し弘前城はまた五つの桝形櫓門も残っており、日本では大変貴重な城郭です。
時間切れで三の丸植物園が閉門しており辰巳櫓が良く観える場所の確保が出来ませんでした。
夕刻も迫り駆け足で未申櫓、辰巳櫓、丑寅櫓を廻り、東内門前の与力番所も残っており投稿させて頂きます。
現存桝形櫓門追手門と南内門-4/7に続きます。
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2024/06/10 11:00
今しか見れない曳家位置天守閣-2/7 (2024/05/20 訪問)
石垣積直し作業現場の通路見学を終えて、本丸・天守閣見学時間期限15分前に本丸へ、赤い下城橋、馬出、本丸桝形虎口の鏡石が多く立派な巨石が目を引きます。
先ずは時間ギリギリの今しか見れない曳家位置天守に登閣、靴のまま入る事が出来ました、1階の弘前城本丸模型を見学、2階3階と登り、銅板瓦を格子窓越しに観察、同じく破風周りの瓦、鬼瓦を観察、曳家での鉄H鋼組が痛々しいが致し方無い。
時間切れに見学終えて、本丸の展望デッキより曳家位置の天守閣を眺め工事現場も眺めるが作業も本日は17時で終了。
曳家位置の天守閣も目に焼き付け一生の思い出です。元の天守台に戻る日を待ちたいと思います、だいぶん年を取りましたが青森弘前に来る事が出来るでしょうか?車での駆けつけは無理でしょうから新幹線?飛行機?でしょうか?
現存三隅櫓(三階櫓)-3/7に続きます。
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