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甚右衛門

馬場美濃守信春築城のザ・甲州流 (2024/06/08 訪問)

葛山城から転戦して攻略。途中で吉窪城を攻略しようとしたけど、城近くの道路が狭く、近隣の西明寺近くに駐車スペースが確保できず攻略断念して牧之島城ヘ。よく形を残す丸馬出に駐車スペースがあります。案内板も整備され、三日月堀もよく形が残っていて甲州流築城術の見応えあり。丸馬出と本丸千人桝形をつなぐ橋は老朽化したのか撤去されており、二ノ丸側から本丸に向かいました。この城は土塁や水堀、空堀がよく残っていますが、特に本丸の桝形は見事です。土塁に上がり見ることをおすすめします。この城から2キロ先に北アルプスの山がよく見える上の平展望台があるのですが、生憎晴れていても雲が多く見えそうに無いため断念。春先か晩秋にもう一度登城しようと思います。

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しんちゃん

大知派峠廃寺跡 豊川道 (2019/02/17 訪問)

静岡県湖西市の大知派峠廃寺跡の続きです。南東の「おちばの里親水公園」のあたりから豊川道が続いています。豊川道は今川沿いに開かれ古くから豊川稲荷への参道として使われていました。一説には平安時代から既に道があったとされています。
道沿いには農民が厳しい税の取り立てから逃れるために隠して耕したとされる「隠し田」の石垣を見ることが出来ます。豊川道から分岐した坂道を進むと大知派峠廃寺跡にたどり着きます。標高340mの高所より遠州浜名湖の展望を楽しむことが出来ます。

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しんちゃん

Oh! No じゃなくって Oh! Yes~♪  (2024/06/08 訪問)

「捲土重来! 大野城よ私は帰ってきた!」 なんつって。お久しぶりです、大野城さん。
大野城は土岐氏家臣の佐治氏の城です。佐治氏は後に織田信長に従い、お市さんの三女の、お江さんの最初の嫁ぎ先としても有名です。主郭跡に天守を模した展望台が建てられ、南の櫓台跡には佐治氏を祭った、佐治神社があります。現在は城山公園として整備されており、土塁らしきものが残り、模擬城門が建てられています。
展望台の外観はいささか珍妙ではありますが、眺望は最高です。西野口海岸から伊勢湾まで遠く見渡すことが出来ます。景観ならおそらくチタイチでしょう。Oh! No じゃなくって Oh! Yes なパノラマビューですわ ♪ (アホ!)

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小城小次郎

日本武尊はともかくとして (2023/12/02 訪問)

日本武尊の東征時に設けられた城(夷城)との奇怪な伝承が残るお城だが後北条の「河東十二塁(って何だ?)」の一つとも。城域は広くて駐屯地にはなり得るので後北条が大宮氏の後詰に入った城という最近の説明には納得感がある。

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零汰

ダブ山チャシ:順番を間違える (2024/05/11 訪問)

加齢により感情の起伏が小さくなってきました。逆に分かっているかのように斜に構えたり気取ってみたり。何より驚きや感動が少なくなって来たのが残念で良くない傾向です。いつからか予習をせずに真っ白な頭で訪れるようになりました。その場合、良い城の訪問になると初見で大きな驚きを感じます。こちらもそんなチャシでした。きっと十分予習して写真を見て訪れたらそこまでの驚きを感じないでしょう。

野付半島は道路の両脇が海です。岬や半島を走るのと違い水面と道路の高低差が小さく、トドワラやナラワラを見る事が出来ます。この世の果てと呼ぶ人もいて楽しみにしていました。その入口の直ぐそばにダブ山チャシはあります。

詳しい案内板を見て登っていくと景観はオホーツク海と遠くに見える雪山と眼下には蛇行する小さな川が。ショボい展望台よりも良い景色です。そこには今までよりも大きなチャシの遺構が広がっています。こちらも祭祀用でしょう、今までの基本形状を変形しているようです。違ったのが堀が二重になっいる場所がある事と、大外に小ぶりの堀が入っている事です。とても良い遺構で軽く興奮気味でした。初見の際の驚きに勝る驚きはないのではないでしょうか。

その直後は興奮気味のままに野付半島を行けるところまで走っていきましたが、想像より面白くない。チャシが良すぎて半島が霞んでしまったようです。先に半島へ行くべきで訪れる順番が逆でした。それなら両方楽しめた事でしょう。


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チェブ

日本一の兵と鬼の小十郎。 (2024/05/04 訪問)

GWの東北道は渋滞するのが当たり前。
なら下道でと、東京の端っこから国道4号を使って7時間かけ「白石城」に進軍しました。
夜中だったので、7時間でも順調に到着。開門したばかりの「白石城」には、もう登城する人々が。

秀吉さん、伊達家が治めていた地を、蒲生 氏郷さんに与えます。その後、上杉家が治めましたが、伊達家が奪い 家臣の片倉 景綱さんが「白石城」の城主になります。

駐車場から登って行くと、『二ノ丸大手二ノ門』の説明板があります。前後の草木の奥に古い石垣が隠れてました。
今は簡単に通れてしまう門を、襟を正し通行します。
と、復元された大手一ノ門・二ノ門と三階櫓の美しさに感動しました。
天守と言っても良い、風格のある三階櫓は、一国一城令に配慮して、あくまでも櫓だとアピールしてます。
この、三階櫓は忠実に再現されているので、膝痛には急階段が笑っちゃう位つらかったです。
でも、コンクリートではなく木造で、とても良い雰囲気の三階櫓です。
櫓内は、縄張り図や甲冑が飾ってあります。入り口から、やけに六文銭の幟がはためき、何でだろうかと思ったら、大阪の陣での、逸話がありました。
真田 信繁さんが敵将の片倉 重長さんに子供たちを託しました。「白石城」で匿われていたんだそうです。
鬼の小十郎、頼れる漢だったのでしょう。

櫓を出ると、ぐるっと匿われた土塁を見学。最近 お目にかかっていなかった石垣を見て歩きました。

この後、昼食に温麺を『やまぶき亭』でいただきました。店内は甲冑やコケシが飾ってあります。
温麺は、胃を病んだ父の為に作った物が始まりなんだそうです。
冷たい温麺をいただきました。お汁は、ゴマ・クルミ・醤油たれです。エピソードと同様にやさしい味でした。

優しい先人たちに触れ、膝痛も忘れた「白石城」攻めでした。

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甚右衛門

武田方の旭山城と文字通り睨み合う城です (2024/06/08 訪問)

旭山城からの眺めを見た時から次はこの城の攻略と決めてました。ながの山城歩きのガイドを参考に葛山城駐車場に駐車して攻略。ナビで芋井郵便局にすると分かりやすいですが、曲がり角が鋭角になるのですぐ先でUターンが楽。念の為熊対策が必要。道は整備されていて看板もあるので迷うことはありません。このルートは、いつの間にか途中から北側の郭を一つづつ攻略するように登り30分ぐらいで主郭まて攻略できます。主郭には四阿があり休憩できるほか、目の前に旭山城が良く見えておりお互いが目障りな位置にあるのがよく分かる。九連の堀切も笹などに覆われてますが比較的分かりやすいですが、端の九番目は良く分かりませんでした。あと気を付けないといけないのが、主郭から姫谷、堀切方向に向かって下る場所。ちょっと足場が崩れているのか足場確保しづらいので慎重に。長野市の山城では一番規模が大きく、ぜひ旭山城とセットで攻略してみてください。葛山攻略後、この城を落城させた馬場美濃守の城である牧之島城に向かいました。

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小城小次郎

張り切って行ったが (2023/11/24 訪問)

早朝に広島城界隈を散歩する機会に恵まれ、前日の天気予報が「晴れ」だったのでいい写真撮るぞと張り切って行ったが現地は曇っていた・・・でも本丸の東側で土塁を見つけた。こんなところにも遺構が残っていたのか。

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みん

幸せ (2024/04/25 訪問)

GWに帰省の際、ランニングがてら久しぶりに再会しました。
今は、神奈川に住んでおり約30年前に地元を離れ帰省の度は訪れてましたが。今回、自分1人で帰省し何十年ぶりかにゆっくりじっくり鑑賞しゆっくり楽しめました。
時間があったので初めて見る場所を発見したりと楽しめました。幼少の頃から城山のある生活が当たり前だったので、改めて城のある生活に憧れます。

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シャンシャン

悲運な城 (2024/06/07 訪問)

幕府の命により、築城後わずか3年で廃城になったという悲運な城。
所々修復された石垣はあれど、敷地内はきれいに整備された公園になっており、100名城や続100名城に全く劣らない総石垣の立派な城跡。
本丸から海岸沿いの工業地帯が良く見えて、江戸時代の城跡と現代文明のコントラストが面白い。
石垣に様々な種類の刻印があり、それを探しながら回るのもまた一興。

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しんちゃん

四万十の街並みと川の流れ (2013/12/13 訪問)

ちょっと古い写真で申し訳ない。中村城は一条氏の城で、為松氏によって築かれたとされています。西の四万十川、東の後川に挟まれた丘陵地に築かれ、石垣が残っています。現在は為松公園になっており、二の丸跡に犬山城を模したとされる模擬天守が建っています。なぜ犬山城?と思いますが、隣の芝生は青いというやつでしょうか。
模擬天守は微妙ですが、展望台からの眺めは良好で四万十の街並みや川などの景観を楽しむことができます。行って損はないと思います。

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しんちゃん

模擬天守からの眺望は良い。 (2013/12/12 訪問)

川之江城は鷲尾山の山頂に築かれています。南朝歴・延元2年(1337)に南朝方・河野氏の砦として土肥義昌によって築かれたとされています。交通の要衝である、四国の瀬戸内海側の中央に位置しており、戦国時代も河野氏側と長宗我部氏側との間で、激しい争奪戦が繰り広げられています。江戸時代の寛永13年(1636)に一柳直家が川之江藩を立藩しようとしたのですが、寛永19年に死去し、伊予国内の所領は没収されたため再建はかなわず川之江は天領になってしまいました。
現在は城山公園として近くまで車で行くことができ、怪しい模擬天守からの眺望は抜群です。ちょっと写真が古くて申し訳‥。
巨大な橋が完成して、四国もだいぶ行きやすくなりました。できれば車で訪問したいですね。

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しんちゃん

さすがでございますな (2024/06/08 訪問)

すこしの間、ヤキトリでいじりたかったのに、そうなる前に機転を利かせるとはさすがでございます。
まさに軍師官兵衛の如くでございますね。これも私なりの愛ですわ。(土壇場で参加したくせに‥)
捲土重来、大いに期待いたします。まだまだいけまっせー。
さて寝ようかな。

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応援メッセージご紹介記事を公開しました

ヤキトリから不死鳥のごとく蘇った城びと編集部です。
「日本100名城かるた」商品化プロジェクト実施中、多くの方が寄せてくだったメッセージに大変励まされました。
感謝の気持ちを込めて、応援メッセージご紹介(そして捲土重来を誓う)記事を公開しました。

「「日本100名城かるた」商品化を応援いただいたメッセージをご紹介!」
https://shirobito.jp/article/2008

やるぞー!

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しんちゃん

十河城  今日はヤキトリですぜ (2018/01/03 訪問)

十河城は南北朝の頃よりの十河氏の城で称念寺一帯が本丸跡とされています。戦国期に長宗我部元親によって落城しますが、豊臣秀吉の四国侵攻により十河存之が2万石で返り咲きます。しかし翌年・天正14年(1586)の九州征伐の戸次川の戦いにて存之が戦死すると、十河城も廃城になったようです。
城址は東に白河が流れ、西側は谷をせき止めて鷺池とし堀として活用していたようです。北側は堀切に土橋がかかった先に曲輪を配し、南側に大手を設け土塁を五重に築き、三方は深い田になっていたようです。

十河城とは関係ありませんが、スパードミーに出張で来ているやきとり龍鳳で特売のヤキトリを買ってきました。10本で1300円、税込みです。豊橋人は安くてボリュームのある物が大好きなんですね。逆に高くておしゃれなものはウケが良くないです。典型的な田舎気質ですね。コンビニでは揚げてある串をヤキトリと称して売っていますが、3本で胸焼けがしてきます。やはり串は焼いてナンボですぜ。

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零汰

惑わされる (2024/05/11 訪問)

時に険しい登りや直登のある山城に行くと遺構を見るという目的を忘れ、登ることに熱中して遺構を見逃してしまいます。

湿原が多く存在し木道で渡れる場所が多くあるので一か所ぐらい歩きたいなと考えていて、こちらを歩く事になりました。標津湿原を木道で渡って辿り着くチャシだったらです。こちらのチャシは、ポー川史跡自然公園の一角にあり、開拓の村に駐車し木道を渡って行く竪穴住居跡に混在するチャシになります。

いささか長すぎて飽きてしまった木道の先のポー川を渡ると説明版と石碑に突き当たります。歩き進めていくと雰囲気抜群、苔むした道、時おり眺めるポー川の景色が心地良い。話は変わりますが橋から見える北海道の川は護岸工事の跡が少なくどこもかしこも美しい。運転していても橋を渡る際によそ見する事が数多くありました。

竪穴住居で穴だけの遺跡を見たのはここが初めてです。経年により角が取れているのは仕方ないとして、遺跡と分からず見た人なら、なんだこの穴は、となるでしょうね。特に村長?と書かれていた竪穴は別格に大きいサイズです(写真5)。径が大きいので当時は上屋を作るのは大変だったでしょう。チャシの一部は村長竪穴に掛かった場所に楕円形のような方形の崩れた形であります。軽く興奮気味で数多く竪穴を見ながら進んでいくと砂利道に出ました。その先の橋の脇にはカヌー乗り場が、こちらポー川をカヌーで渡れるようです。
とても良い雰囲気の中を散策出来て満足しながら開拓の村方向に歩いていく時に気が付きました。「あれ、チャシの写真撮ったっけ?」

すみません、雰囲気に飲まれて3枚しか撮っていませんでした、しかも1枚は端にちょこっと映っているだけ(写真6~8)。ここは雰囲気に惑わされてしまって目的を見失う危険な場所ですが、チャシのみならず木道や竪穴その他を含め全体で楽しめる場所です。どなたか行かれたら不足している写真をぜひ投稿お願いします。

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ぴーかる

中世山城から近世平山城への変遷が見られる城郭 (2024/04/13 訪問)

【高田城】
<駐車場他>三の丸跡:城内観光駐車場 出丸跡:<35.086987, 133.693900>道路脇 二の丸~山頂主郭:二の丸グランド前にそれぞれ移動して駐車するのが良いでしょう。
<交通手段>車

<見所>二の丸櫓台跡石垣・三の丸陣屋跡・主郭虎口跡
<感想>日帰り今シーズン山城攻めラスト5城目。高田城の築城は1501年頃に三浦貞連による説が有力です。三浦氏は室町時代の初期に国人領主となり支配してきました。三浦氏の高田城は戦国時代、尼子氏や毛利氏に城を奪われ、奪還したりを繰り返しますが、ついに毛利氏に城を明け渡します。備中高松城攻め後の秀吉と毛利氏の協定により美作国は宇喜多氏のものとなったので高田城も宇喜多氏のものとなります。ちなみに宇喜多直家の妻の円融院の前夫が高田城主の三浦貞勝である。江戸時代に入ると、小早川秀秋⇒津山藩主の森氏が城代城番を置きます。森氏が改易後は幕府領となり一旦廃城となります。1764年に三河西尾城から遠い支族同氏にあたる三浦明次が2万3千石で転封して勝山藩を立藩します。現在残る麓の三の丸の居館跡と二の丸の櫓台・郭壁の立派な石垣はこの時改修築造されたもののようで勝山城と改称しました。

 勝山城の三の丸麓居館跡にまず行きました。石垣跡や石組井戸が現存しています。居館跡から徒歩で中世の出丸跡まで行きました。1つの小さい城程の規模で主郭に大きく腰曲輪が巻いて所々に腰曲輪があります。堀切も大きく見事です。車を移動して二の丸のグランド前のスペースに駐車し二の丸櫓台の石垣を堪能し、また車を移動し<35.090791, 133.695954>ポイントに2台の駐車スペースがあるので、そこから堀切・三郭を通過し山城の方の主郭に到りました。反対方向の小屋の段という曲輪には二の丸跡から登城した方が近いので二の丸跡に駐車しそこから徒歩で小屋の段⇒主郭主要部⇒三郭跡から舗装道を降りて戻る方が楽に全ての遺構を巡れるかと思います。
 山城の方は三郭が藪化でほぼ進入不可、主要部は主郭に舌状の二郭の腰曲輪、帯曲輪が巻いています。西方向に下って段曲輪があり、中腹に小屋の段があります。主郭の虎口跡も含めて廃城した時か、勝山城築城の時かに破却されているようで、石垣がほぼ残されていません。
 この城にて今シーズンの山城納め。熊に遭遇することや事故になることもなく無事に沢山の山城を攻めきりました。涼しくなるまで平城・平山城にシフトしてお届けします。走行距離463㎞無事走破。

<満足度>◆◆◇

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朝田 辰兵衛

延沢城散策2/2(天人清水/大堀切~本丸跡) (2024/04/20 訪問)

本丸跡に大杉があり,眺望も開け,登城の達成感があります。しかし,個人的には「天人清水/大堀切」をおすすめします。その奥の北郭までは整備の手が行き届いていない感じを受けました…。このへんでカモシカ遭遇を期待したんですが,残念な結果に…。その代わり,河島山遺跡で…。

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朝田 辰兵衛

延沢城散策1/2(登城口~櫓門跡) (2024/04/20 訪問)

todo94さんの投稿としりとり手札で,興味をそそられたお城のひとつが「延沢城」でした。他の方の投稿でもカモシカ遭遇が語られており,かなり高い出現率なのだと認識しておりましたが,私の前に姿を現してはくれませんでした…。
まず,目指すは「常盤小学校」。以前は「常盤中学校」だったようです。常盤小学校の西側と東側に登城口があります。東側にはパンフレット置き場があります。西側ルートと東側ルートは途中で合流します。東側ルートの途中に三の丸があるので,往路か復路のどちらかで東側ルートを選択されることをおすすめします。ちなみに私は往路で西側ルート,復路で東側ルートを選択しました。

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トク

102【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政と家康出会いの地?-中泉御殿) (2024/02/15 訪問)

(26人目)井伊直政の続き④です。
家康が浜松時代に鷹狩りの休憩地として建てた中泉御殿を訪れました。

JR磐田駅から南に徒歩3分の所にあり、御殿の跡地は現在は公園とコンビニになっています(写真①)。また駅から北へ徒歩10分の所にある西願寺にある門は、御殿の裏門が移築されたものだと伝わっています(写真②③)。

浜松時代に家康は鷹狩りを大変好んでいました。磐田駅の南側一帯は現在は住宅地ですが(写真④)、当時ここは池や沼が多く、そのため鳥や動物が多く生息していたようで、家康はこの地を好み、数十回もここで鷹狩りを楽しんだと言われています。そしてその休憩地として中泉御殿を建て、ここを狩りの拠点としていたようです。

1575年、14才になった虎松(直政)は、鷹狩りの最中に目通りがかない、家康と出会ったと伝えられています。しかしその場所がどこだったのか調べましたが、明確な場所はわかりませんでした。ならば私は、この周辺で出会った確率がいちばん高いのではないかと思い訪れました(これはあくまで私の推測なので間違っていたらすいません)。

家康は井伊直親が自分と通じていたため今川氏真から殺された事を憶えていました。井伊家は正室の瀬名の母方の家でもあり、その血筋の直親の子が生きていた事に驚き、虎松を見た瞬間、「直親の実子であれば召し抱えぬわけにはいくまい」と語ったそうです。そして虎松は300石で家康の小姓として召し抱えられ、念願の井伊家再興を果たすことができたのでした。

私は磐田駅からこの鷹狩り地の一帯を眺めながら考えてみました(写真④)。家康には初めて見た虎松がどのように映ったのでしょうか? きっと何か感じるものがあったのではないでしょうか? そしてこれを何より一番喜んだのは、念願の井伊家再興を夢見ていた、叔母であり養母でもあった直虎である事は言うまでもありません。

次は、直政の出世の始まり(浜松城)を訪れます。
 

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