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しんちゃん

京都紅葉特集 (2018/11/24 訪問)

古都鎌倉のことを「鎌倉城」と呼ぶこともあるそうです。天然の要害で七つの切通しで守られた鎌倉そのものを城塞都市と考えるわけですね。源氏の本拠を意味する言葉という説もあるようです。
城塞都市といえば平安京。平安京はわずかに縦長の方形をしていますが、御土居は豊臣秀吉によって平安京の中央から東側一帯に築かれ総延長は22.5kmに及び、土居によって洛中と洛外を分けていたようです。秀吉の時代、御土居の中は城塞都市の様相を呈していたものと思われます。
なぜ紅葉の写真を載せるのかと言われると、「猛暑」→「真っ赤な太陽(五レンジャー?)」→「赤」→「紅葉」という四段活用です(ポカッ)。
禅林寺永観堂‥京都市左京区 言わずと知れた紅葉の名所。
南禅院‥京都市左京区 南禅寺の塔頭寺院。
化野念仏寺‥京都市右京区 この世とあの世の境目。
滝口寺‥京都市右京区 「平家物語」の平重盛の家来斎藤時頼と建礼門院の侍女「横笛」の悲恋の物語ゆかりの地として近年再興されたようです。新田義貞の首塚もあるそうな‥。
雲龍院‥京都市東山区 中世の天皇家と縁が深い。書院には「悟りの窓」

せっかくなので御土居や平安京の外にある寺社も掲載させていただいています。
追記‥「真っ赤な太陽」だと美空ひばりさんの名曲のほうがしっくりくる方も多いかもしれません。

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三浦の晃ちゃん

休館日 (2024/08/13 訪問)

模擬天守閣で、内部は資料館になっています。行った日が、祭日の翌日で、休館日でした。すぐ近くまで、車で上がれます。盛岡の南部家は、もともと、この地域の出らしいです。

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しんちゃん

土々累々 (2024/04/20 訪問)

小堀城は加古川の西側に築かれた中世の平城で、この周辺には河合城や堀井城など比較的大きな平城が複数存在しています。案内板を参考にさせていただくと、城主は赤松氏の一族とされる光枝氏で、三木合戦の際には当城を焼き払って三木城に籠り、平井山合戦で討死したとのこと。城域は東西250m、南北200mの範囲に渡り、周囲を土塁で囲み複数の曲輪を配していたようです。
南西側の案内板のある場所には土塁が良く残っており、南端には門(虎口とも)が建てられていたようです。東の住宅の周辺には主郭と南郭を隔てる土塁が残っており、東側にも土塁の残片が所々に残っています。

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しんちゃん

城主コロコロ変わる (2024/04/20 訪問)

豊地城跡は東条川が周囲の地形に沿って南側に向かって大きく湾曲している部分の南東に位置しています。観音堂のある場所が西の郭の周辺と見られ、東の畑地が主郭跡とされています。主郭周辺には内堀と外堀が配されていたとされ、今でも道沿いに内堀の跡が見られ、観音堂周辺にも堀跡らしき溝が残っています。また主郭東側には外堀跡とされる ため池も有るようです。
石碑に刻まれている文章を読むと、豊地城は東西およそ400m、南北およそ200mの城域を持ち、東西北を川に囲まれた要害の地に築かれていたようです。南北朝時代の城主は金谷経氏、応仁年間以降は赤松氏の家臣・依藤氏 三木の別所重棟(宗) 栗山氏(初代赤松氏の実兄景盛の子孫で依藤氏時代からの執権)と変わり、三木合戦後に廃城になったようです。

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しんちゃん

室戸岬 (2018/01/04 訪問)

室戸岬は 日本新八景とも言われる国の名称ですが、交通の便が悪く、知名度の割には人が少ないようです。海岸には様々な奇岩が存在し、坂本龍馬の相棒で陸援隊隊長の中岡慎太郎の銅像が遥か海の先を見つめています。

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たか

一度で二度おいしい? (2024/08/11 訪問)

本佐倉城のあとに京成佐倉駅前の観光案内所に寄って御城印を購入。
そのあとに佐倉城へ。

歴博側ではなく薬医門側から登城。
水堀を眺めながら西方向の出丸を目指しました。
その後戻って本丸跡で一の門や角櫓、銅櫓、天守閣跡を見学。
モッコクの落書きも確認。
土塁がしっかりと高く、その上を歩いて回れるのも良かった。
佐倉城の礎石がある方向の空堀は深くしっかりと残っています。

二の丸跡、三の丸跡を見ながら見学していると旧陸軍の油脂庫跡まであるではないですか。
説明書きには歩兵第57連隊通称佐倉連隊の武器手入れ用の油保管庫となっていました。
グアム島、フィリピンレイテ戦でほとんどの隊員を失ったとありました。
いまこうやって城巡りさせてもらっているこの平和を願って亡くなっていった方々に胸が熱くなってしまいました。

最後に有名な馬出空堀を実際に見て感動。
お城散策に太平洋戦争の面影までありタイトル通りで満足しました。
今度は歴博にも寄りたいと思います。

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たか

今日は山の日! (2024/08/11 訪問)

今日は山の日という事で御城印&スタンプを入手しにGO!
まずは本佐倉城へ。

車でナビ通りに行くと、どんどん道が狭くなり不安になったが案内板が出ており、拓けたところに出ました。
行ってみると駐車場は意外と大きく案内所がありました。
早速御城印を購入してスタンプは?ってなったらなんとトイレの前(笑)
これならいつでも押せますね!

案内所の素敵なおじさまにいろいろとジオラマを見ながらレクチャーを受けていざ出陣。
東山虎口→南奥虎口→セッテイ虎口→セッテイ山(倒木の為通行止め…)→東山→Ⅳ郭虎口→倉祉→奥ノ山(妙見宮跡)→城山
う~ん…おじさんの言ってたのと違う(笑)
でも遺構がいっぱい綺麗な形で残っておりしっかりと見ごたえがある山城でした。
東山から印旛沼への景色は絶景。
説明文で昔は鉄道部分まで沼で手前側は湿地帯となっていました。
攻めづらいところだったろうなと思いをはせることができました。

いろいろと説明板の設置や除草及び伐採管理など大変であるでしょうが、今後とも未来へ残して頂くためによろしくお願い致します。
最後に案内所のおじさま、丁寧な案内と親切な対応に感謝です。
ありがとうございました。

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たか

大好きな黒田家由来の福岡城 (2024/08/06 訪問)

福岡城に行ってきました。
平和台球場があったころに行ったことはありましたが約40年ぶりに訪問です。

福岡城むかし探訪館に行き、100名城スタンプ並びに御城印を入手。
中にはジオラマや説明動画などがあり非常に興味深いです。
わたしが一番印象深かったことは、福岡と博多が商人の町と武家の町とで分かれていて、那珂川で門を設置して簡単には行き来できないようにしていたという点、それを発展させていくために行き来を自由にできるようにして、敬意を表して博多という地名を残したという話。
また福岡という地名は元々黒田家の出身地の名前を取ったという事。
他にもいろんな資料があり是非とも見学することをお勧めします。

鴻臚館あとも見学してから三の丸、二の丸、本丸、天守台と石垣のすばらしさを堪能しつつ登っていきます。
天守台に登ってその絶景に感嘆の声が思わず出てしまうほど。
福岡タワーやドームのある百道は埋め立てなのでしっかりと海も見渡せたのでしょう。
皆さんの賛否ありますがわたしは天守閣はあったと思いたいです。
そしてその天守閣からの眺めはもっとすごく、周りからはシンボルとして見られていたのではと思うとゾクゾクしてしまいます。
多門櫓も見ていたら時間切れとなってしまいました。
しかしいろいろと見るところがありゆっくりと公園内を散策できる素晴らしいところでした。

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たか

茨城県のお城巡り⑥(恐怖だらけの登城) (2024/08/02 訪問)

この旅最後のお城は月居城。
袋田の駅側の反対側(東側)からナビで案内され途中で怖くなりました。
通行止めが解除されていたのですが、まず離合もできない狭い道に、隧道を抜けたところから廃墟が数件と脇の木が垂れ下がって前が見えない悪路。
戻ることもできずにゆっくりと進んだら突然現れた公衆トイレ。
なぜ?って思ったらその先に登山口の看板。
やったーと喜んでその場に駐車して登城すると虫の集中攻撃。
虫よけを吹きかけながら登っても意味をなさないレベル。
ただ意外とハイキングコースと書かれているだけあって登りやすく楽勝かと思いきや途中で城址方向への看板を登るとそこからは岩むき出し、天然の土塁の数々でロープを頼りにゼーゼー言いながら登城。
ようやく石碑のある頂上へ到着。
しかしこんな大きな石碑を一族の方々の寄付とはいえどうやってここまで持ってきたのだろうと感心した
(製作費より運搬費の方が高価では?などと考えた)
そして下山して車に乗り込み袋田方面へ進むと、なんと片側車線が崖崩れを起こしている!
とにかくこの旅一番の恐怖と疲れで帰路につきました。

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たか

茨城県のお城巡り⑤ (2024/08/02 訪問)

茨城県のお城巡り第5弾は松岡城。

お屋敷通りという通りを整備しており、当時の雰囲気をかもち出しています。
小学校の塀がまたいい感じに雰囲気を出し、その横を公園に向かって石畳を進んで行くと駐車場があります。
そこまできてこれは整備されていて登りやすいかもと期待しましたが、あまり高くないのに本丸を抜けて二の丸から降りようとするとロープがかけてあるくらい急坂で竹林だらけで結構ハードでした。
まあ竹林があるという事は急坂で当然と言えば当然なのですが。

麓は常陸松岡藩の藩庁があったと言うだけあってかなり広い範囲まで栄えていたんだなと散策して感じました。

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零汰

昌官忠式東北南下2日目 (2024/05/25 訪問)

1日当りどの程度進むのか予想出来なかったので東北南下の宿泊は快活クラブです。
北では城跡の写真や走行中の殆どで走行動画を撮っており持参したノートPCにデーター移行が問題でした。3.4日に一度は各都市でホテルに宿泊出来たのでそこで纏めて移行してました。

快活クラブ最高!シャワー有り洗濯も出来るその上食事もできる、何よりデーター移行も電源もPCも使い放題。鍵付個室に宿泊したのでオタク気質な自分には無敵。いつでも都合のいい時間に入れるので先が読めない場合の最強な味方となりました。宿泊に対してこだわりの無い方に断然お勧めです。

2日目:青森県~5城目より秋田県
1.和徳城(写真1)→2.弘前城(写真2)→3.大浦城(写真3)→4.湯口茶臼館→5.大館(写真4)→6.茶臼館(写真5)→7.檜山城→8.染川城→9.双六館→10.脇本城(写真6)→11.浦城→12.五城目城(写真7)→13.雀館(写真8)→14.湊城(写真9)
こちらに写真の記載の無い5城は個別に投稿します。

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たか

茨城県のお城巡り③ (2024/08/02 訪問)

茨城県のお城巡り第3弾は助川城。
ここは外国船を見張るために城郭を築いたという海防城で大名のお城とは違う点で珍しいとのこと。
まずは下の駐車場に止めていざ登城!
なんて気合を入れたらすぐに本丸に到着(苦笑)
手前に説明板があり上記の珍しい意味が記されている。
石垣があって写真を撮っていたら、あとで公園化する際に築いたものであることがわかりがっかり(笑)
遺構は表門礎石や鳩石しか残ってないとのこと。
しかし遠見番所跡からの景色は絶景!
天気も良いし最高でした。

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たか

茨城県のお城巡り② (2024/08/02 訪問)

茨城県のお城巡り本日第2弾は石神城。
駐車場(トイレがある方)から登城開始。
Ⅰ郭(遠見城)Ⅱ郭(御城、本丸)Ⅲ郭(二の丸)となっていてしっかりと各郭が土塁と堀で隔離されています。
Ⅲ郭では広場になっていて周りに桜の木があります。
これはお花見の絶好ポイントではないでしょうか。
ここに説明板があり石神小野崎一族の争いから帰城が認められ一族の菩提寺を三か所建立した話などが記されています。

この城址は空堀も深くて綺麗に整備してありとても見ごたえがありました。
わたし的にはぜひ一度は行って頂きたいお勧めの城址です。

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新ろくべえ

丸岡城に行ってきました (2024/08/05 訪問)

この城は、柴田勝家の甥、柴田勝豊(その後柴田勝家の養子に)が築いた城です。
《柴田時代》柴田勝豊1576~1582 安井家清1582~1583
1575年、越前一向一揆鎮圧の報償で、柴田勝家に越前一国が与えられると、
柴田勝家は北の庄城に居城を築城し、勝豊に豊原(丸岡城の東北)4万5千石を与えた。
勝豊は翌年、城を豊原から丸岡に移り、丸岡城を築城した。
1582年の本能寺の変後におこなわれた清洲会議で、柴田勝家は北近江を獲得し、
勝豊は長浜城に移され、丸岡城には、柴田勝家重臣・安井家清が入った。
しかし、賤ヶ岳の戦いで安井家清が討死、さらに北ノ庄城で柴田勝家が自害すると、
越前は丹羽長秀が所領となった
《丹羽時代、青山時代》青山宗勝1583~1587 青山忠元1587~1600
1583年、丹羽長秀は丸岡城に青山宗勝を置いた。
1585年、丹羽長秀が亡くなると嫡男長重が後を継いだが失脚、越前を取り上げられたが、
青山宗勝は所領を安堵された。
1587年、青山宗勝が亡くなると嫡男青山忠元が継ぐが、関ヶ原の戦いで西軍につき改易された。
《結城時代、江戸時代》今村守次1600~1612 本多1613~1695 有馬1695~1869
1600年、結城秀康が越前を与えられると、丸岡城には今村守次が入った。
1612年、お家騒動(跡継ぎ争い)である越前騒動で、今村守次は改易となり、
あらたに付家老となった本多成次が入城した。
1624年、二代福井藩主忠直が減封となると、本多家は独立。丸岡藩が誕生した。
しかし、1695年、4代本多重益が丸岡騒動により改易となると、有馬清純が入城した。
その後、明治維新に至るまで、8代約170年にわたり、有馬家が丸岡を収めた。
【城情報】
・形式       ❙平山城
・築城年      ❙1576年
・廃城年      ❙1871年
・廃城理由     ❙廃城令によって
・築城者      ❙柴田勝豊(柴田勝家の甥)
・最後の城主    ❙有馬道純
・主な城主     ❙柴田勝豊→安井家清→青山氏→今村氏(丹羽氏)→本多氏(本田重次系)
          ❙→有馬氏(初代はキリスタン大名・有馬晴信の曾孫)
・遺構       ❙石垣、土塁など
・主な建築物    ❙天守、
・説明看板、石碑  ❙両方有り
・駐車場、トイレ  ❙両方有り
・天守       ❙有り
・保存状態(自身判断) ❙天守以外の建物はないものの、当時の様子がよく分かる
・城レベル     ❙4(詳しくは新ろくべえのプロフィールへ)
・備考       ❙門や櫓を復元する、再開発事業をおこなっている
          ❙坂井市丸岡歴史民俗資料館は2024年8月30日に閉館。
          ❙展示されていた史料の今後公開は未定  

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たか

茨城県のお城巡り① (2024/08/02 訪問)

前日に所用があり茨城県へ。
茨城県のお城巡りをするために勝田に宿を取っていざ出陣。

まずは多良崎城へ。
皆さんが心霊スポット的なことを書かれていたのでビビりなわたしは朝早くに登城(笑)
ゴルフ場の作業員方たちの声が聞こえて安心しながら登りました。
道はしっかりと整備されていて赤の看板で「一の木戸」「二の木戸」「大手門」と説明がされてあります。
本郭は広場になっており清々しい気分に。
二の郭に辺りの説明板があり、周辺にはまだまだ遺構があるようですが時間の関係上、現在は墓地となっている内城に寄ってみましたが、土塁を見つけることができずに退散。
だってお墓参りの方がいるので不審者と思われるのも嫌ですからね…
非常に楽しく、朝方なので涼しくて良かったのですが、やはり虫が目や口に飛び込んできて不快でした(苦笑)
次の城に着く前に装備を買い揃えると心に誓いました(笑)

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たか

茨城県のお城巡り④ (2024/08/02 訪問)

茨城県のお城巡り第4弾は車城。
最近発見されたという事でワクワクして行ってきました。

車城の看板近くに車を止めて(ご近所さんに断りを入れて)いざ登城。
最初のうちは結構しんどいのかなと思っていましたが、地元の方々の努力のおかげかしっかりと整備されていて登りやすかったです。
本郭あとには八幡神社があり、向かって右側に説明板もありました。
神社にも感謝の合掌。
鳥居に恭しく頭を下げながら下山しました。
この一帯には最近発見されたお城がまだまだあるそうなのでまた来たいです。
ただ…夏は避けたい。
虫が無理(苦笑)

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零汰

昌官忠式東北南下1日目 (2024/05/24 訪問)

城びと一の元気印と言えば言わずと知れた昌官忠さん。昌官忠さんの通った跡は攻城し尽くされ焦土と化すのでは無いかと思われる程の訪問をされている。2.3日なら出来ると思われる方もいそうだがそれを1週間も2週間も繰り返されるとなると話は変わってくる。驚くべき事にそんなタイトな訪問を連日繰り返していながら投稿内容も的を得ているので恐れ入る。余程の事前準備をされており、人並み外れた胆力の持主なのでは無いかと密かに注目していました。一度は昌官忠式訪問を試してみたいと思っていて、北海道から帰る際に体力が残っているならとの条件で昌官忠式東北南下1週間を狙ってました。

函館からフェリーで青森入り、走行するルート沿いにある城跡の入口にマーカーし訪問しながら南下して行きました。昌官忠さんと違うのは城跡の情報の事前準備は全くしていなかった事。相変わらずの行き当たりばったりはこれまで通りでした。遺構が無ければサクっと訪問、遺構があるならじっくり訪問。

先に結果を言うと芳しくなかったです、頓挫しました。北海道に行った後の訪問はタイト過ぎました。頭は終始冴えていたのですが体が付いてこなかったです。とてもじゃないが私にはハードルが高すぎて昌官忠式には数段落ちるショボいシリーズとなりました。いつか場所を変えて仕切りなおして試してみたいと思います。

最近の投稿で昌官忠さんが登場していたのはたまたまですがこの投稿の伏線でも有りました。
最近お見掛けしていませんね、是非復活して日本各地の城跡を焦土と化すのを楽しみにしています。

1日目:青森県
1.横内城→2.陸奥高田城(写真1)→3.浪岡城(写真2)→4.高屋敷館(写真3)→5.原子館(写真4)→6.浅瀬石城(写真5)→7.黒石城(写真6)→8.黒石陣屋(写真7)→9.田舎館(写真8)→10.藤崎城(写真9)
この日の分は個別で投稿するかどうか分かりません。

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しんちゃん

小野藩一万石の陣屋 (2024/04/20 訪問)

小野陣屋は小野藩の藩庁で承応2年(1653)一柳直次によって築かれました。元々は一柳直家は伊予国川之江に本領を置き、分領である播磨小野には敷地陣屋(代官所)を置いていましたが、直家急死の際に嗣子がいなかったため、緊急に直家の娘に婿(直次)を取り藩を存続させようとしたことを幕府からとがめられ、1万8600石を没収され小野藩1万石に縮小されてしまいました。
当時まだ幕府は末期養子を認めていなかったため禁に抵触するという理由だったそうです。そんな経緯で敷地陣屋を廃して正式な1万石の陣屋として築かれたのが小野陣屋になります。城域は案外広く、馬場跡には好古館が建てられ、東は西池・中池・雁俣池の三池が堀の役目を果たしていたようです(現在は消滅)。
小野小学校が有るあたりに御西御殿や御手丸御殿などの主要部が置かれ、小野高校が有る場所には藩士の邸宅があったようです。陣屋とはいえ最低限の防御力を備えているようで、豊臣秀吉配下の頃から関ヶ原まで数々の武功を挙げた一柳直盛の後継としての誇りが残されている気がします。

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しんちゃん

太陽公園  白鷺城ではない姫路市の白鳥城? (2024/04/20 訪問)

太陽公園は兵庫県姫路市の峰相山山麓にある「石」をテーマにしたテーマパークです。ノイシュヴァンシュタイン城にそっくりな謎の城が山上にそびえたち、付近から見ると、すごく目立ちます。山上は「城のエリア」とされ隣接する「石のエリア」には万里の長城や兵馬俑の巨大な屋内展示があり、世界の石像のコピーが大量に設置されています。
城好きとして行くべきなのかどうなのかは、個人の判断に委ねるしかありませんが、私は以前から気になっていたので、勢いで行ってきました。見た目はヨーロッパの石造りの城ですが、中身は近代の鉄筋造りで、トリックアートなど、様々な展示物がありました。

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小城小次郎

瓜二つの門と石鹿(せきろく)地蔵尊 (2024/02/10 訪問)

城址公園の入口に建つ模擬城門はすぐ近くの膳所神社に移築された本丸大手門と瓜二つのようだ。城の別名石鹿(せきろく)が冠されたお地蔵さんは比叡山から坂本城・大津城を経て膳所城に運ばれてきたものなのだそうだ。

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