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カズサン

復元光信公館と牡丹 (2024/05/21 訪問)

 亀ヶ岡石器時代遺跡を終えて南下鰺ヶ沢へ約30km弱、探訪を長年願って居た津軽藩発祥の地なる種里城へ初登城。

 駐車場:麓の休憩所駐車場、トイレ有(17時に閉まります)
 参考資料:グーグルマップ、パンフレットに依る。

 16時半を過ぎていましたが登城開始、光信公の館は大扉は閉まり脇扉が開いており入館OK、電灯も灯して頂き見学できるようにしてくれました。
 延徳3年(1491年)光信公南部下久慈から部下を伴い津軽種里へ勢力の拡大し津軽藩統一の基礎固め、歴史勉強、種里城の模型、発掘調査、光信公の胴丸鎧レプリカなどの館内展示を見学して、光信公の像、裏の本丸跡、建物跡の地表展示見学、光信公の御廟所を本丸跡から拝み終了、5時を回って居ましたので登城口はロープで閉鎖、潜って出ましたが、トイレも17時閉鎖中でしたが待っていただき用を足しました。
 当日は火曜日でボタン祭り(5月下旬~6月上旬)中は無休と有りましたので見学出来たようです。開館期間は5月1日~10月31日
 開館日は金曜日、土曜日、日曜日となっています。が城跡、御廟所の見学は自由との事。

 開館日、開館期間を知らずに訪ねたまたまボタン祭り期間に入って居たので見学出来ました。色とりどりの牡丹が咲いていました久しぶりに牡丹を鑑賞しました。
 
 種里城の光信公の館は1990年平成2年の光信公入部500年祭のイベントに合わせ、事前の発掘調査、復元光信公の館設計等プロジェクトを組み建設したそうです。
 30年前に光信公の館復元は認知して居たのですが中々青森は遠く、鰺ヶ沢までは弘前中心部からも遠く、やっと今回の企画に入れて探訪が叶いました。

 弘前の帰路は館の方に聞き岩木山を北に廻って帰る県道31号線ルートを選択、昼以降晴れていましたので岩木山を、西から北から東から眺めての走行約40km、駐車出来る所で写真を撮りたかったのですが適当な駐車エリアが見つからず撮れず。脳内にバッチリ残しました。
 十三湖から鰺ヶ沢、深浦、岩木山、岩木川と廻ると津軽を歌う演歌に地名が出てきて、何か懐かしくまた初なのに久しぶりと言う感覚に成りました、鰺ヶ沢からの日本海も本州北の日本海は初めて、ふるさと鳥取と比べ感慨深い、城廻も地域めぐりと一緒でありがたく楽しい事です。

 種里城の探訪で青森県2日間は終了しました。明日は岩手県、岩手山が待っている。
 

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日本三大水攻め (2024/06/13 訪問)

 羽柴秀吉に水攻めにされたことで有名な城址です。来迎寺付近が本丸であったと伝わっています。石碑と説明板がありました。来迎寺の北東にある小山塚は戦死した籠城衆の首を埋めた塚のひとつで、土地区画整理により前にあった場所から移されたものです。今回は移築門や水攻め堤には行っていません。

 JR和歌山駅から徒歩10分くらいで行くことができます。

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紀俊連 (2024/06/13 訪問)

 戦国時代には太田城の支城であったと伝わっています。以前は堀跡などがあったようですが、なくなっています。グーグルマップの示す位置とイオさんの投稿を参考に写真を撮りました。堀跡があったのは吉野家やマクドナルドがある付近でしょうか。

和歌山駅より徒歩約20分弱でした。

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零汰

ここなんだけど (2024/05/15 訪問)

旭川にあるチャシです。旭川にいらっしゃる際に訪問するのは大変ではありません。

写真2の奥が目的地です。写真3の大きな岩を回って行くことが出来ました。写真4~7がマーカー周辺です。確かに平削している感じではありますがやけに狭い。西南には何かの施設があってフェンスで仕切られています。マーカー誤差かもしれないのでフェンス沿いを探りましたがやみくもに動きまわっただけに終わりました。

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ぴーかる

飯田城 (2024/04/20 訪問)

【飯田城】
<駐車場他>飯田合同庁舎駐車場に駐車しました。庁舎が休みの日は観光駐車できます。平日は不可。
<交通手段>車

<見所>桜丸御門
<感想>日帰り伊那郡河岸段丘平山城の旅3城目。飯田城は13世紀初め頃に坂西氏が築城したとされます。1554年に武田氏が下伊那に侵攻してから30年間武田氏の城となります。1582年織田信長の甲州征伐にて城は落城しますが、明治維新まで城が残りました。
 桜丸御門から本丸跡の長姫神社までゆっくりと散策しました。本丸が河岸段丘の先端部分にあたります。城跡内はほぼ現代の建物が建てられています。水の手御門跡やら移築門などは見落としてしまいました。

<満足度>◆◆◇

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零汰

ここなんだけど (2024/05/19 訪問)

こちらと上名寄チャシは内陸にあるチャシで主要都市より随分距離があります(名寄市の皆様すみません)。ルートに組み入れるのが難しい場所でした。

写真2から入って行って、写真3.4のマーカー部分に辿り着きました。確かに平削してありますが首を捻るだけ。マーカー誤差もあるので移動して見渡しましたが安定の熊笹だらけ。

転んだついでに山菜が生えていたので撮っておきました。

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しんちゃん

二見する? (2024/02/24 訪問)

二見には二度見する、振り返ってもう一度見る、みたいな意味もあるようです。じゃあ、その辺にセクスィ~なお姉さんが‥(いません!)
あついっすねー! 最近、あまりの暑さに言動が少し怪しくなって来ています。そう、全ては暑さのせい。
二見城は吉野川にせり出した台地の上に築かれていました。妙住寺のあたりが本丸跡で、南側は二の丸跡になります。妙住寺の御勝手口から入っていくと、吉野川が見え、城址跡としての雰囲気を味わうことが出来ます。
二見城の始まりは南北朝時代に南朝に味方した二見氏の居城とされています。戦国時代、筒井氏三家老の一人であった松倉重政が豊臣秀吉に仕え8千石を領し、慶長13年に1万石に加増され、現在の二見城を築いたとされています。
松倉重政は五條では良政を敷きましたが、大坂夏の陣の功績で肥前日野江に4万3千石で移封すると、石高に似合わない島原城を築いたり、領民から過酷な取り立てを行いました。また、キリシタンの弾圧を幕命により徹底したため、後の「島原の乱」の原因を作ったとも言われています。五條市では今でも名君「豊後様」として称えられ、江戸時代には「松倉祭り」が行われていたようです。島原との落差が半端じゃないっすね。




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カズサン

【陸奥・亀ヶ岡石器時代遺跡】青森県つがる市 しゃこちゃん土偶がシンボル (2024/05/21 訪問)

 安倍安藤氏遺跡群十三湊遺跡をチョットがっかりな探訪でしたが、種里城へ向かう途中に先ほど登録された世界遺産縄文遺跡群の一つ「亀ヶ岡石器時代遺跡」が通り道の県道12号線上に在りましたので寄ってみました、十三湊遺跡から南下約18km程の西側です。

 住所:青森県つがる市木造館岡稲元176(縄文遺跡案内所)
 駐車場:亀ヶ岡縄文遺跡案内所駐車場、砂利舗装でバスも含め大容量です、トイレ有。
 参考資料:グーグルマップ、ネット資料に依る。

 県道12号線を通て西側に社会の教科書に出てる遮光器土偶の大型モニュメントがしっかり東を見つめて居り直ぐに分かります、愛称「しゃこちゃん石像」と呼ばれているようです。発掘遮光器土偶現品は国重要文化財として東京国立博物館に収蔵されてるそうです。
 亀ヶ岡縄文遺跡案内所よりすぐ北の県道12号線西側エリアに小公園として纏まっています、遮光器土偶の解説板、史跡亀ヶ岡石器時代遺跡の解説板、遮光器土偶石像モニュメントの立像、トイレ、駐車場数台分可能のまとまりです。
 
 小公園の北西側200mのエリアに土壙墓群、竪穴住居跡、貯蔵穴などの発掘成果の地表展示がなされて居ります、遺物等は南の約2.5km程の木造亀ヶ岡考古資料室、また南南東約10km程のつがる市縄文住居展示資料館カルコ(つがる市役所東隣)に有るようです。
 年代は3000年前から2400年前、遮光器土偶、ヒスイ製装飾具、色彩土器などが発掘されて居り、江戸時代から亀ヶ岡土器は有名で滝沢馬琴が鑑賞した、出土する土器の素晴しさは外国人も魅了し、出島のオランダ商館を通じヨーロッパ諸国にも流通した。(パンフレットより)
   

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カズサン

【陸奥・十三湊遺跡】青森県五所川原市 安倍・安藤氏で栄えた湊町 (2024/05/21 訪問)

 安倍・安藤氏にまつわる福島城、唐川城を終えて今一度「安倍 安藤氏 奥州日之本将軍」の石碑に思いを馳せ中世繫栄したと言う、十三湖、十三湊を初探訪する。

 住所:青森県五所川原市十三古中道61
 駐車場:無し、十三湊遺跡前で路駐
 参考資料:グーグルマップとネット情報に依る。

 福島城初登城前に国道339号線東岸駐車エリアで十三湖を曇り空、強風の中、眺める、道の駅十三湖高原でも遠望、唐川城からも遠望し、国道339号線経由県道12号線に入り両脇の松林が素晴らしい、唐津城を攻城する前の虹ノ松原ドライブ以来の素晴らしさ、十三湖中島で休憩、中島と渡橋を眺めて、中島遺跡の説明板、顕彰碑、長山洋子の「恋の津軽十三湖」歌碑も眺める、茶店の方に日本のピラミッド靄山の話を聞く併せてパンフレットも頂く、十三湖大橋を渡りる、大橋からの景色も良い、県道12号線から町中の中道に入り、グーグルマップの史跡マーク「十三湊遺跡」へ到着。
 ポッツンと案内板が立ってるだけ、周りは砂地の畑、松林だけ、淡い安倍安藤氏に関わる遺跡と思っておりましたので少しがっかりですが、脳内で整理し中世の繁栄の湊、安倍安藤氏の栄華を留めおきます。
 

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赤い城

倒れたままの案内板が切ない (2024/05/19 訪問)

登城口に駐車場があり、トイレもあります。
公園として整備されていたようですが・・・。
登城路は意外と急、しばらく登ると削平地に着きました。
まずは主郭と反対側の尾根に。
二条の堀切で守られています。
この先に進むと平沙戊展望台だそうですが主郭方面に引き返します。
主郭手前には段になった曲輪もあります。

主郭は広く、公園の面影は残るものの案内板が倒れたまま。
切なさを感じます。
主郭の先には下に伸びる道があり、降りると二郭。
馬場跡で広さもありました。

ここも出雲と石見の境目の城。
かつては重要な場所であったことが想像できます。

そうそう、前日久しぶりに出雲大社ヘ参拝しました。
参道を歩くのは何十年ぶりだったのですがすっかり観光地化しオシャレな感じになっていました。
かつては寂れた参道商店街だったのに。
出雲市、頑張ったな、と。

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しんちゃん

高須〇〇ニック。 (2024/04/14 訪問)

さあ、高須〇〇ニックの時間です。もちろんピクの方です、栗じゃないですよ!
高須城の最初の築城者は新田義貞を藤島城に攻め、討ち取った越中の氏家中務丞重国とされています。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で城主・高木盛兼は西軍に味方し、福島正則の命を受けた松ノ木城主・徳永法印寿昌らに攻められ、寿昌の勧めで降伏します。
戦後は徳永寿昌が美濃・尾張国に合わせて5万600石を領し、初代高須藩主になりますが、二代昌重の代に大阪城改築の不手際と嫡子との諍いを咎められ改易となります。(中略‥)
元禄13年、尾張藩主光友の次男、松平義行が信濃三郡から当地に封じられ、高須藩3万石の藩主となり、尾張徳川家や有力藩主の嗣子が絶えた時際に跡継ぎを供給する役割を負うことになりました。
戊辰戦争で新政府軍と戦った陸奥国会津藩9代藩主・松平容保と尾張徳川家14代/17代当主・徳川慶勝は兄弟であり、ともに高須藩から養子に出ています。
高須城は案内板が二つあり、一つは「もんどばし」の東の水濠の中、もう一つは北の城跡公園に設置されています。水濠より北側、城跡公園周辺が三の丸跡とされ、瑞応院・海津明誠高校のあるあたりが二の丸、県道8号をまたいで流通センターのあるあたりが本丸跡のようです。

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しんちゃん

南北朝時代の井伊氏の西方の拠点。 (2024/04/29 訪問)

千頭峯城は大福寺の古記録「瑠璃山俊録残篇」に記載が有り、南北朝の時代に宗良親王を奉じて奮戦した井伊氏最大の拠点とされています。井伊氏一族の奥山朝藤が守将を務め、南朝方・浜名神戸庄庄官県氏、大江氏ら数百騎で籠城し、北朝方の高師兼の大軍と戦ったとされています。三ヶ月の戦いの末、暦応2年(1339)10月30日落城したそうです。
遺構の状態から見て、後世徳川氏によって改修を受けたと見られ、堀切や土塁などが残っています。特に西曲輪周辺の遺構が良好で、堀切の状態がすばらしく、最近見た中では最も形状の美しい堀切です。西の曲輪の東側と南側にも土塁が良く残っています。

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チェブ

武家屋敷の巻き。 (2024/05/04 訪問)

「白石城」から武家屋敷にお邪魔しに行きました。
「白石城」の城主 片倉氏の家臣 小関家のお屋敷は1730年に建てられたそうです。

『小関家』は三の丸の外堀に面して建てられていてます。外堀の向こうに学校のグラウンドがあり、その辺りに堀から荷揚げでもしたのか、船着き場(?)のような所がありました。
堀を、直角に曲がり到着。
堀は無骨な感じではなく、街に溶け込んでました。
目線を低くして堀の写真を写している方が。
なるほど、木々の緑がマッチします。
小関家は中級家中のお屋敷なんだそうです。
因みに、家中とは藩士とか武士の事でした。

帰り道、カーブミラーの上に「白石城」が乗っかってました。マンホールも「白石城」。

キョロキョロしていたら、堀に落ちそうになった「旧小関家」訪問でした。

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零汰

位置と存在は確認できました (2024/05/14 訪問)

こちらもおそらくマイナーチャシだと思われます。平地部分に表示を見つける事が出来ました。周囲の状況から砦用のチャシと思われます。南面に谷があり一部の土地が突き出ています。平地と畑の境に横堀があるのではないかと探したのですが見つける事が出来ませんでした。「北の遺跡案内」を見返すとマーカーは谷に突き出している土地に付いています。

気を取り直して見つけ出したのが写真4.5です。ちょっと違うんじゃないか?と思いましたが、ひょっとしたらひょっとするので写真だけは取っておきました。とりあえず位置と存在は確認出来ました。帯広に近いのでその際に訪問されるのも良いかと思います。

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しんちゃん

本慶寺の西と南に遺構が残る。 (2024/04/14 訪問)

津屋城には関ヶ原の合戦まで高木八郎左衛門正家が居城していましたが、西軍に味方したために廃城になりました。現在は本慶寺の境内とその周辺になっており、本慶寺は慶長8年(1603)に高須城主・徳永法印寿昌の許しで移されたと案内板に記載が有ります。
主郭は西北隅の一画(雛屋敷地)あたりで、本堂・庫裏敷地あたりが二郭、南側堀の外側の畑地が三の郭とされています。本堂背後・西側には堀と土塁が残っています。良く見ると、城郭放浪記さんの記事にある土橋も残っているようです。

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零汰

位置と存在は確認できました (2024/05/15 訪問)

取りこぼしせずに廻りたいと注意していましが見逃してしまいました。仕方なく引き返えそうとナビを設定すると105km・1時間35分程度の表示でした。下道です、しかも時速がおかしい。時速60kmを超えてやしないか?上陸してから距離感と速度がバグってます。

こちらは「北の遺跡案内」に明確なマークはありませんでしたが、オタリオマップ遺跡のマーカーがありました。そこがチャシの背後に位置するそうでしたのでまずはそこを目指しました。写真1から登って行くと斜面に遺跡とチャシを区切る自然地形(写真2)それに延びるように平地には横堀ではないかと思われる場所(写真3)に行き着きました。写真4.5は内部の様子で平地が広がっています。立地状況を考えると砦ではないかと思います。6は先端を下から撮ったものです。こちらはマイナーチャシで定期的な草刈などは行っていない様に見受けられます。位置と存在は確認できました。


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しんちゃん

城山小学校! (2024/04/14 訪問)

駒野城は城山小学校が城址とされていますね。ポ〇公につかまりたくないので校門から中を覗き込んで、あとは周囲をウロウロしてます。あやしいですかね?城址は津屋川に面し、北は断崖とされています。西は伊勢街道を挟んで養老山脈に対しています。築城者は「高木系譜」によると高木貞政の叔父、源太夫貞成とされているようです。
高木氏は初め斎藤氏に仕えたが、貞政の孫娘の婿、貞久より織田信長に仕えたようです。かつては周囲に土塁と幅8~9mの堀を設けていたようですが、関ヶ原の合戦で西軍に味方し廃城になったようです。

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カズサン

福島城の詰城、十三湖がよく見える (2024/05/21 訪問)

 福島城を終えて国道339号線を北西に約2km程進むと唐川城の標識が見える、狭いですが舗装されてる山道を岩井牧場を廻り込むように進み2度目の分岐点に唐川城標識、指示なりに進み程なく唐川城跡展望台に到着、車で行けると事で展望台だけ初探訪。

 駐車場:唐川城跡展望台駐車場、数台は可能、トイレ無。
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 唐川城は展望台だけと思っておりましたので展望台からの眺望を楽しむ、ひょっとして登城口が判るかなと辺りを見渡しましたが指示板、人踏道は良く分からず。
 展望台付近に唐川城跡標柱、黒い御影石で「安倍 安藤氏 奥州十三湊日之本将軍」の立派な石碑、安東史跡をめぐるみち案内板、唐川城説明板が有り、展望台内部には唐川城跡解説板が有り縄張実測図、発掘の成果などが纏められています、展望台の先には展望台からの眺望写真に要所記載されて展示されて眺望の参考に成ります。

 展望台からの眺めは素晴らしく午前中曇り雨が降りそうな天気は晴れて、十三湖はバッチリ見えて、遠く日本海も蒼い色がよく見通せました、手前の岩井牧場の草原も、残念ながら岩木山はよく分かりませんでした。
 後から岩井牧場の道で山菜取りですれ違ったご夫婦も見えて、車のナンバーを見たのか遠くから来たね!と声掛けされました。

 永享年間~嘉吉年間に安藤氏は南部氏に攻められ福島城落城後、詰城の唐川城に移りここも落城し、蝦夷地に落ち延びたと伝わっているそうです。
 中世十三湊の繁栄が惜しまれます、何となく奥州日之本将軍安倍氏安藤氏の十三湖、十三湊の淡い浪漫が脳裏に漂っていましたので。
   

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トク

103【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (出世の始まり-浜松城) (2024/02/15 訪問)

(26人目)井伊直政の続き⑤です。
直政が家康に召し抱えられ出世の始まりとなった「浜松城」を訪れてきました。

小姓として召し抱えられた虎松は、家康から「万千代」という名を与えられます。そして草履取りとして励む毎日。翌々年には芝原の地で家康就寝中に夜陰にまぎれて襲ってきた武田の刺客を討ち300→3000石に加増されます。この時から家康より絶大な信頼を得ていったようです。万千代この時16才。さあここから、一介の草履取りから徳川家臣団筆頭にまで上り詰めて行った、彼の出世物語(サクセスストーリー)が始まります!

浜松城を訪れると、まず登城口には家康様の銅像がありました。まさに浜松の顔といった感じですね(写真①)。天守はリニューアルされたとは聞いていましたが、確かに黒漆と白漆喰がとても綺麗でした(写真②)。石垣の石も西日本と違い、黄を含んだきれいな石垣です。

しかし、家康時代には天守や石垣はなく、土造りの城だったそうです(写真⑦)。家康が江戸へ移った後に秀吉の命で入った「堀尾吉晴」が、現在のような石造りの城に変え天守も築いたとか(写真⑧)。どうりで浜松城と松江城は何となく似てますよね! その天守も江戸中期にはすでになく、いつなくなったのかははっきりしないようです(写真⑥⑨)。

しかし訪れた後に「城びと特集(城をめぐる最新研究)」に掲載された小和田先生の記事で、家康時代にも少し石垣はあり、富士見櫓の石垣はそうではないかという事でした。確かにその時、天守やその回りの石垣は少し上下を平たく削って丁寧に積まれている感じがしたのに(写真③)、ここ富士見櫓の下だけは何となくちょっと雑な感じのする積み方だな~・・・(写真④)、とは一瞬は思ったのですが、とにかくその時は家康時代に石垣はないという説明(写真⑦)を読んだ直後だったのと、引間城の写真を撮る事に頭がいっぱいで、富士見櫓の石垣をよく見なかった事を今になって後悔している次第です(😩もう遅い)。

そして本来の目的である、直政の遺構がどこかにないか探してみました。でもなかなか見つかりません。しかし見学していると「井」の文字の瓦を発見! これは井伊家屋敷の瓦か? と一瞬思いましたが幕末藩主「井上家」の瓦でした(写真⑤)。結局浜松で、直政の遺構は何も発見できませんでした(ガックリ)すいませ~ん😥。

そして万千代3000石に加増された翌年、井伊家再興がかない家康からも信頼されていると聞き安堵したのか、井伊直虎は龍潭寺松岳院にてこの世を去ります(享年不詳)。

次は、直政の初陣(高天神城攻め)へ続きます。


【余談】浜松餃子
浜松の人はよく餃子を食べるとは聞いていましたが、確かに駅前にはたくさんの餃子屋さんが並んでいました。そこで私もその内の一軒に入ってみました。味噌ホルモンといっしょに食べてみると、確かにとてもビールによく合いおいしかったです(写真⑩)。そして飲む前に「やらまいか!」「おいしょお~!!」と叫んで下さいと言われ、意味はよくわかりませんでしたが、回りにいた他の見知らぬお客様方にも御協力をいただき、大声で叫ぶと何と割引してくれました。なるほど🤔・・・これが浜松の文化だったのか~!
 

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カズサン

長年の願い安倍・安藤氏福島城探訪 (2024/05/21 訪問)

 今回の東北城探訪は、縄文三内丸山遺跡と安倍・安藤氏の古代中世城郭を廻る事が今企画の目的でした。福島城跡、唐川城跡、十三湊遺跡と廻ります。
 中里城遺跡を終えて国道339号線を北上約12km程、先ずは福島城へ、丁度昼どき「道の駅十三湖高原」で資料収集と昼食で休憩。該当資料は無し、昼食は十三湖名物シジミ入りのしじみラーメンを頂く、塩味でしじみのダシが出て大変おいしい。

 駐車場:福島城専用駐車場(41°02'50"N 140°22'14"E h=40m)、小型車12台、バス3台可能、アスファルト舗装、トイレ無。
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 道の駅十三湖高原より国道339号線を西進約1000m程の道沿いに福島城外堀跡が標柱と共に確認できる、車は脇の駐車エリアに駐めれる。外堀跡から西へ約200m弱福島城専用駐車場へ入るアスファルト舗装の道が有り奥に立派な駐車場と福島城解説板が測量図に遺構を記した図面付。
 福島城跡登城口は其処より国道339号線を西進約500m、徒歩約7分で入口へ、福島城跡の標識がある、登城口へ砂利道で軽4トラックは通行可能、国道入口に「熊出没注意」の黄色いパネル、青森県初の熊注意体験、何時もの熊除け鈴ベルを鳴らし鳴らし南へ100m~150m程で目的の福島城跡本丸・内郭へ到着、内郭は200m四方の方形城館の様です、本丸虎口に復元櫓門、しかし朽ちかけている、前の木橋も朽ちかけて以前の立入禁止パネルと虎ロープは長年の風雪に耐えかねて役に立ってない、苔むしてる木橋に足を一足踏み込むが危険で進入できず。
 そこで本丸の進入口を探すべく櫓門前の堀と土塁を東へ100m程北東角辺りを南に曲がり堀と土塁が開いた処から本丸・内郭へ、しかし草が深いので東側から本丸・内郭を眺める、兎に角広い内郭は深い草原、熊出没注意の看板も有り余り長居も出来ずここで退出。
 長年福島城の探訪を望んでいましたが何十年振りに願いが叶いました。
 
 この年では最初で最後でしょうが草刈、木橋の修理など整備されて、縄文世界遺産で注目されてる青森県ですので、縄文世界遺産と安倍安藤13湖湊中世遺産とタイアップして大勢の人が立寄る様に成ればいいなと思っています。
 歴史、構造、地理は解説板を添付いたしますので興味のある方は見てお読みください。
 国道339号線を歩きますが結構交通量が多く危険ですので十分注意して歩いてください。
 
 
 

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