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カズサン

福島城の詰城、十三湖がよく見える (2024/05/21 訪問)

 福島城を終えて国道339号線を北西に約2km程進むと唐川城の標識が見える、狭いですが舗装されてる山道を岩井牧場を廻り込むように進み2度目の分岐点に唐川城標識、指示なりに進み程なく唐川城跡展望台に到着、車で行けると事で展望台だけ初探訪。

 駐車場:唐川城跡展望台駐車場、数台は可能、トイレ無。
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 唐川城は展望台だけと思っておりましたので展望台からの眺望を楽しむ、ひょっとして登城口が判るかなと辺りを見渡しましたが指示板、人踏道は良く分からず。
 展望台付近に唐川城跡標柱、黒い御影石で「安倍 安藤氏 奥州十三湊日之本将軍」の立派な石碑、安東史跡をめぐるみち案内板、唐川城説明板が有り、展望台内部には唐川城跡解説板が有り縄張実測図、発掘の成果などが纏められています、展望台の先には展望台からの眺望写真に要所記載されて展示されて眺望の参考に成ります。

 展望台からの眺めは素晴らしく午前中曇り雨が降りそうな天気は晴れて、十三湖はバッチリ見えて、遠く日本海も蒼い色がよく見通せました、手前の岩井牧場の草原も、残念ながら岩木山はよく分かりませんでした。
 後から岩井牧場の道で山菜取りですれ違ったご夫婦も見えて、車のナンバーを見たのか遠くから来たね!と声掛けされました。

 永享年間~嘉吉年間に安藤氏は南部氏に攻められ福島城落城後、詰城の唐川城に移りここも落城し、蝦夷地に落ち延びたと伝わっているそうです。
 中世十三湊の繁栄が惜しまれます、何となく奥州日之本将軍安倍氏安藤氏の十三湖、十三湊の淡い浪漫が脳裏に漂っていましたので。
   

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トク

103【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (出世の始まり-浜松城) (2024/02/15 訪問)

(26人目)井伊直政の続き⑤です。
直政が家康に召し抱えられ出世の始まりとなった「浜松城」を訪れてきました。

小姓として召し抱えられた虎松は、家康から「万千代」という名を与えられます。そして草履取りとして励む毎日。翌々年には芝原の地で家康就寝中に夜陰にまぎれて襲ってきた武田の刺客を討ち300→3000石に加増されます。この時から家康より絶大な信頼を得ていったようです。万千代この時16才。さあここから、一介の草履取りから徳川家臣団筆頭にまで上り詰めて行った、彼の出世物語(サクセスストーリー)が始まります!

浜松城を訪れると、まず登城口には家康様の銅像がありました。まさに浜松の顔といった感じですね(写真①)。天守はリニューアルされたとは聞いていましたが、確かに黒漆と白漆喰がとても綺麗でした(写真②)。石垣の石も西日本と違い、黄を含んだきれいな石垣です。

しかし、家康時代には天守や石垣はなく、土造りの城だったそうです(写真⑦)。家康が江戸へ移った後に秀吉の命で入った「堀尾吉晴」が、現在のような石造りの城に変え天守も築いたとか(写真⑧)。どうりで浜松城と松江城は何となく似てますよね! その天守も江戸中期にはすでになく、いつなくなったのかははっきりしないようです(写真⑥⑨)。

しかし訪れた後に「城びと特集(城をめぐる最新研究)」に掲載された小和田先生の記事で、家康時代にも少し石垣はあり、富士見櫓の石垣はそうではないかという事でした。確かにその時、天守やその回りの石垣は少し上下を平たく削って丁寧に積まれている感じがしたのに(写真③)、ここ富士見櫓の下だけは何となくちょっと雑な感じのする積み方だな~・・・(写真④)、とは一瞬は思ったのですが、とにかくその時は家康時代に石垣はないという説明(写真⑦)を読んだ直後だったのと、引間城の写真を撮る事に頭がいっぱいで、富士見櫓の石垣をよく見なかった事を今になって後悔している次第です(😩もう遅い)。

そして本来の目的である、直政の遺構がどこかにないか探してみました。でもなかなか見つかりません。しかし見学していると「井」の文字の瓦を発見! これは井伊家屋敷の瓦か? と一瞬思いましたが幕末藩主「井上家」の瓦でした(写真⑤)。結局浜松で、直政の遺構は何も発見できませんでした(ガックリ)すいませ~ん😥。

そして万千代3000石に加増された翌年、井伊家再興がかない家康からも信頼されていると聞き安堵したのか、井伊直虎は龍潭寺松岳院にてこの世を去ります(享年不詳)。

次は、直政の初陣(高天神城攻め)へ続きます。


【余談】浜松餃子
浜松の人はよく餃子を食べるとは聞いていましたが、確かに駅前にはたくさんの餃子屋さんが並んでいました。そこで私もその内の一軒に入ってみました。味噌ホルモンといっしょに食べてみると、確かにとてもビールによく合いおいしかったです(写真⑩)。そして飲む前に「やらまいか!」「おいしょお~!!」と叫んで下さいと言われ、意味はよくわかりませんでしたが、回りにいた他の見知らぬお客様方にも御協力をいただき、大声で叫ぶと何と割引してくれました。なるほど🤔・・・これが浜松の文化だったのか~!
 

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カズサン

長年の願い安倍・安藤氏福島城探訪 (2024/05/21 訪問)

 今回の東北城探訪は、縄文三内丸山遺跡と安倍・安藤氏の古代中世城郭を廻る事が今企画の目的でした。福島城跡、唐川城跡、十三湊遺跡と廻ります。
 中里城遺跡を終えて国道339号線を北上約12km程、先ずは福島城へ、丁度昼どき「道の駅十三湖高原」で資料収集と昼食で休憩。該当資料は無し、昼食は十三湖名物シジミ入りのしじみラーメンを頂く、塩味でしじみのダシが出て大変おいしい。

 駐車場:福島城専用駐車場(41°02'50"N 140°22'14"E h=40m)、小型車12台、バス3台可能、アスファルト舗装、トイレ無。
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 道の駅十三湖高原より国道339号線を西進約1000m程の道沿いに福島城外堀跡が標柱と共に確認できる、車は脇の駐車エリアに駐めれる。外堀跡から西へ約200m弱福島城専用駐車場へ入るアスファルト舗装の道が有り奥に立派な駐車場と福島城解説板が測量図に遺構を記した図面付。
 福島城跡登城口は其処より国道339号線を西進約500m、徒歩約7分で入口へ、福島城跡の標識がある、登城口へ砂利道で軽4トラックは通行可能、国道入口に「熊出没注意」の黄色いパネル、青森県初の熊注意体験、何時もの熊除け鈴ベルを鳴らし鳴らし南へ100m~150m程で目的の福島城跡本丸・内郭へ到着、内郭は200m四方の方形城館の様です、本丸虎口に復元櫓門、しかし朽ちかけている、前の木橋も朽ちかけて以前の立入禁止パネルと虎ロープは長年の風雪に耐えかねて役に立ってない、苔むしてる木橋に足を一足踏み込むが危険で進入できず。
 そこで本丸の進入口を探すべく櫓門前の堀と土塁を東へ100m程北東角辺りを南に曲がり堀と土塁が開いた処から本丸・内郭へ、しかし草が深いので東側から本丸・内郭を眺める、兎に角広い内郭は深い草原、熊出没注意の看板も有り余り長居も出来ずここで退出。
 長年福島城の探訪を望んでいましたが何十年振りに願いが叶いました。
 
 この年では最初で最後でしょうが草刈、木橋の修理など整備されて、縄文世界遺産で注目されてる青森県ですので、縄文世界遺産と安倍安藤13湖湊中世遺産とタイアップして大勢の人が立寄る様に成ればいいなと思っています。
 歴史、構造、地理は解説板を添付いたしますので興味のある方は見てお読みください。
 国道339号線を歩きますが結構交通量が多く危険ですので十分注意して歩いてください。
 
 
 

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しんちゃん

無印投稿  佐賀城 (2014/01/07 訪問)

佐賀城の前身は龍造寺氏によって築かれた村中城でしたが、江戸時代の慶長気に鍋島氏によって今の縄張りになりました。堀の幅は50mもあり内側は美術刊や中学校、宅地などで埋め尽くされており、本丸の一部が残り、佐賀城歴史公園として整備されています。
明治時代の初めに起こった佐賀の乱により鯱の門、続櫓、本丸御殿以外の建物は消失しています。かつては天守も存在したようで、小倉城と同等か、もう少し大きかったのではと考えられています。現在の本丸御殿は木造復元されたもので佐賀城本丸歴史館として公開されてます。

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赤い城

山中要害山城 島根県大田市 (2024/05/19 訪問)

相方リクエストの山陰旅で海沿いのホテルに宿泊しました。
日本海に沈む夕日、久しぶりに見ることができました。
全国に夕日スポットはたくさんありますがここも絶景だと思っています。

翌朝、朝駆けで近隣の城へ、まずは城びと未登録ですが富山要害山城です。
富山郵便局の少し先に登城口があり、少し登ると駐車場があります。
ここから舗装された道を登ります。
案内板に沿って登城口に、まずまずの急坂を登って行きます。
井戸跡や曲輪の跡を経て本丸へ。
本丸は以前公園になっていたようです。
見晴らしは良く、日本海も見えます。

見どころは本丸下の石柱。
柱状節理が本丸を守り、下には竪堀もみられます。

近くには石見銀山もある出雲と石見の境目の城、交通の面でも重要な位置にあった城です。

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しんちゃん

脱兎の如く (2024/02/10 訪問)

どうも膳所藩は幕末期に幕府とうまくいってなかったようで、明治維新の後、早々に廃城願いを出し、解体・移築が進められたようです。石垣も徹底的に崩され、目に見える石垣は全て、模擬石垣のようですね。正直、オーラが無いです。残っているのは、いのさんの投稿にあった、琵琶湖の底に沈んでいる石列くらいのようですね。
よくもまあここまで‥暗い怨念の様なものを感じます。残念なことに、そこに城への愛はありませんでした。
鬼の勢いで移築が進められたためか、城門などの遺構は豊富に残っています。
本丸二重櫓‥芭蕉会館
北大手門‥篠津神社(重要文化財)
犬走門‥若宮八幡社表門
遵義堂表門‥和田神社表門
勢多口番所‥残っていません
南大手門‥鞭崎神社神門(重要文化財)「未掲載」
二の丸水紋‥新宮神社「未掲載」
城門‥膳所神社北門「未掲載」
城門‥膳所神社表門「未掲載」
城門‥膳所神社南門「未掲載」
城門‥近津尾神社神門「未掲載」

多いですね。こうして見ると結構行ってない。膳所神社は合わせて訪問したほうが良さそうです。

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BUGTI

諏訪の浮城 (2024/06/08 訪問)

30年ほど前にも訪れたはずだが、これといった思い出もなかった。久しぶりに立ち寄ることができた。本丸以外は宅地化しており、浮城の面影もなくなったが、無骨な石垣が織豊期築城の面影を残している。城内に温泉があったというのも珍しい。本丸東側堀沿いの石垣が孕んできているのが気になった。崩れないと良いが。そして、矢穴の幅は広い。。。

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しんちゃん

日本三大湖城  (2024/02/10 訪問)

日本三大湖城の一つ、膳所城は慶長6年(1601)豊臣方への押えとして、徳川家康によって天下普請で築かれました。縄張りは藤堂高虎によって行われ、四重の天守が建てられていました。これほど立派な城であったにも関わらず、今は本丸が「膳所城跡公園」として整備されているのみで、石垣の多くは琵琶湖疏水等の建築用の資材に転用されてしまったようです。
天守台周辺の石垣は当時のものでしょうか? 慶長6年の石垣にしては積み方が稚拙な気がします(こんなもの?)。城内にある案内板の「旧膳所城郭明細図」の挿絵と随分違いますね‥。後世の公園化の際に余った石垣を積み直したような気がするんだけど‥。
築城当時の本丸と二の丸は寛文2年(1662)の地震を機に接合され、今の膳所浄水場がある位置に、新たに二の丸が築かれました。膳所神社、篠津神社、鞭崎八幡宮に城門が移築され、国の重要文化財として指定を受けています。

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ぴーかる

松尾城 (2024/04/20 訪問)

【松尾城】
<駐車場他>松尾城址パーキングロット無料駐車場に駐車しました。
<交通手段>車

<見所>堀切・曲輪
<感想>日帰り伊那郡河岸段丘平山城の旅2城目。鈴岡城から車で移動しました。現地説明板によると松尾城は不明な点が多いようですが、南北朝時代には小笠原貞宗が居城したといわれています。小笠原家は深志・松尾・鈴尾の三家に分かれ、信濃守護職をめぐって争うようになります。松尾城は1582年に織田信長によって攻められ落城します。
 城跡は段丘の東に突き出た部分に築かれていて、東端に主郭を置いています。主郭から西方向に曲輪群が広がっていたようですが、現在は主郭と主郭を取り巻く堀切、主郭から西の蔵屋敷と城畑跡とその西の堀切が遺構として残っています。これより西側は畑と宅地になっていて改変されているようです。見応えに関しては整備された隣の鈴岡城の方がありました。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

青崩峠 浜松市天竜区 (2019/10/06 訪問)

青崩峠は静岡県と長野県の県境、標高1082mの位地にあります。縄文時代から道が有ったとされ、神武天皇の命を受け元湯彦命が三河から信州に入るときに使用したという伝承もあるようです。信州から秋葉山に至る途中にあり、秋葉街道の一部ともされ、国道152号から遊歩道が続いています。道中には元亀3年(1572)武田信玄が「三方ヶ原の戦い」に至る遠征の途中に休息を取ったとされる「武田信玄公の腰掛け岩」が鎮座しています。
遠州と南信州を繋ぐ三遠南信自動車道の難関と言われる「青崩トンネル」が去年5月に貫通し、コンクリート打ちもほぼ終了しつつあるようです。奥三河を経由せずに信州に行けるようになるのは助かりますが、ただでさえ枯渇しつつある奥三河はマジでやばいんじゃないでしょうか。新城はなんとか持ちこたえるにしても、豊根村なんて人口1000人切ってるし(コンビニもない)どうなるんだべか。

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零汰

本年度の営業は終了いたしました。またのお越しをおまちしております。 (2024/05/19 訪問)

自分には飲酒の必要性がないので「男山」の銘柄は全く知りませんでした。その男山株式会社がこの山一体の所有者で、毎年5月の連休前後に「カタクリ」が咲く時期のみ開放されるそうです。

訪問時は2週間程過ぎていて入ることは出来ませんでした。訪問時期を連休に合わせてカタクリを眺めながらチャシを楽しめると良いかもしれません。

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しんちゃん

栗林公園  ロキソニン (2013/12/11 訪問)

チェブさん、ロキソニンはもうちょっとお城めぐりをしたいけど、足のマメがつぶれて痛くて歩けないよーみたいなシチュエーションで使うとよろしいかと。痛みは体からのサインなので、お大事に。

くりばやし‥ではなく「りつりんこうえん」です。讃岐高松藩の大名庭園で国の特別名勝に指定されています。個人的には日本三名園にも引けを取らず、それ以上の庭なのでは?と思っていたりもします。
江戸時代初期に讃岐領主・生駒高俊公により紫雲山を借景とし、南湖一帯が造園されました。寛永19年(1642)に水戸光圀公の兄、松平頼重公が入封すると歴代にわたり改築を施し、延享2年(1745)に完成し、松平家の下屋敷としても使用されたそうです。
南庭と北庭に分かれ、6つの池と13の丘があり、北庭は明治の末から大正始めにかけて改修を受けています。

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朝田 辰兵衛

にのまるさんへ~今治城もでしたか…~ (2024/04/27 訪問)

横浜で全チェックできるほど,かるたを占有できなかったですが,今治城もでしたか…。私はその場で松前城の絵札が違っていることを指摘しました。
対処法として,新庄城の投稿でも書きましたが…
「私からの提案は,先日の投稿で「仙台城」の絵札と読み札が並んだカード紹介がありましたが,そのフォーマットで全カード紹介をしてみてはいかがでしょうか…?」
ということです。私たちからの愛のあるツッコミで,修正されていくことと思います。
スタッフさん,お考え願います。

さて,赤い城さんからオススメの「小沢城」,予告どおりGW前半初日に攻城しました。
京王よみうりランド駅から徒歩で,よみうりV通りのヘアピンカーブ深部から入りました。登り切ったら「天神坂」という標柱がありました。帰りは「小沢城址緑地保全地区」の標柱がある場所に。ここから京王稲田堤駅に向かいました。

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零汰

あぶないからはいってはいけません (2024/05/15 訪問)

国道274号線沿いの滝の上自然公園の一角にあると案内板は表示されています。川と線路に挟まれた半島のような場所がチャシです。

入口にはタイトルの言葉が書かれています。看板の様子からだいぶ以前から関係者以外の進入は無かったのではないでしょうか。
公園自体は立派で吊り橋などあります。主要都市を繋ぐ場所にありますので休憩がてら散策するのも良いかもしれません。

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カズサン

縄文から戦国期まで遺跡が重層してる (2024/05/21 訪問)

 飯詰城(高楯城)を終えて国道339号線を北上、途中に太宰治記念館斜陽館に寄り約18km程の中里城(中里城跡史跡公園)を初登城。ナビは中里斎場を目指す。

 駐車場:中里城跡史跡公園駐車場、アスファルト舗装で余裕の駐車可能、トイレ無。
 参考資料:城びと、グーグルマップに依る。

 駐車場に駐めて、登城階段からいざ進行、先客が1台それも伊豆ナンバー静岡県人かな?後で遭遇し会話をしました。
 登城階段から尾根に登り尾根筋道を曲輪へ虎口があり広い草原に成っており東から西先端へ広がっており二段に成っており西が上段、段差には土塁と堀で南北に分断、下段の周辺には北、東、南に空壕(説明板による)、井戸跡、竪穴建物地面表示、下段と上段の南側には柵列の復元、上段北に中里城趾石碑、南に展望デッキ、展望デッキに登り中泊町、十三湖、日本海方向を眺望する、生憎の曇り雨気味で眺望は良く無い。
 各遺跡発掘跡には説明板が付いている。
 
 中里城遺跡解説板によると。
 ここの遺跡は、縄文時代前期(約6000年前)の痕跡、平安時代半ば(10世紀約1000年前)には、古代集落が成立し約100年断続し、竪穴建物跡が80棟余り発見、後半(11世紀約900年前)なるとムラを囲む様な空壕・土塁・柵列などの区画施設がつくられ「古代防御性集落」と呼び・・この時代を復元整備した。
 室町時代(15世紀約550年前)には安藤・南部両氏の武力抗争を背景に城(館)として利用された。

 伊豆ナンバーの方とは城内曲輪と駐車場で少し会話し、東海大学の大学院生で卒論の研究で訪ねたとの事、将来は学芸員に成りたいとのこと、何処かの遺跡発掘現場でお話を伺うことになるのかも?、私と同じ様に静岡から車を飛ばして900km、大変な熱意です。
 その方の情報で中泊町博物館?史料館?に中里城遺跡の模型ジオラマを展示されているとの事。(時間の関係で私は寄りませんでした)
  

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カズサン

城郭風建物に満足して (2024/05/21 訪問)

 東北城探訪・青森県2日目、弘前のホテルを7時半に出発し五所川原市を目指し約30km程北上、飯詰城へ初登城。

 駐車場:妙龍寺山門斜め前に参拝者駐車場有り。私は妙龍寺より北西約250m程の交差点道路工事中のジャリ駐車エリア(40°49'40"N 140°29'26"E h=30m)を利用駐車。
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 妙龍寺山門下の細い道を登って行く脇には山水が流れているが全体薄暗い、熊注意看板は無かったが鈴を鳴らして登って行くと高楯城址由来なる案内看板がある所へ進む、この看板は風化により見ずらい読みずらい、飯詰城は別称高楯城とも呼ばれているようです。
 登って果樹園に着き、斜め上へ登る道を進み、写真で見ていた赤瓦の城郭風建物の有る曲輪へ更に曲輪を東に進み石碑がある、良く観ると青年団賛歌の楽譜が刻まれている、城跡碑では無い、がここは二郭だそうです、草が茂って奥に進む状態でない、ここで登城を終了とする。
 帰って投稿時よく確認すると果樹園をそのまま東に進むと主郭にたどり着けたらしい。城郭風建物に満足し、草が茂ってと諦めた所で主郭への探訪が出来なかった次第。

 高楯城址由来看板が読めないので、城郭放浪記さんの歴史を借りると。
 城主は朝日右衛門尉と伝えられ、朝日氏は藤原藤房の末裔といわれる。天正6年(1578年)津軽為信は北畠氏を敗ったが、その後も飯詰城の朝日行安は津軽氏に抵抗し続けた。天正16年(1588年)になってようやく飯詰城も落城したという。
 
 飯詰城を終えて北上する事、約9km程の太宰治記念館斜陽館が、道々案内が有りあの有名な小説家太宰治の家か寄ってみました、又前の無料観光駐車場の売店前に今年の春場所に新入幕110年振り平幕優勝した尊富士関の応援看板イラストが有りチョットほっこり184cmの背比べ体験。写真投稿します。
 
 

 

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にのまる

天神山城(三鷹市)・かるた第一幕おつかれさまでした。

天神山城は金子氏館(島屋敷)訪問の際に通り抜けていましたが、最近説明板が設置されたという情報を得たので散歩がてら行ってきました。
築城主や築城時期はわかっていないそうですが、城であった証がこの小山の下に埋まっていると思うとそれだけで感慨深いです。
柴田勝家の孫で北ノ庄城から落ち延びた柴田勝重の墓・柴田家墓所のある春清寺、柴田勝家のものと伝わる兜塚がある勝淵神社も近く、隙間時間で歴史散歩を楽しむことができます。

遅くなりましたが100名城かるたCF、残念でしたね。9月に7セット受け取って親族・知人に配り、12月のかるた大会に向けて腕を磨く予定でいたのですが…。加藤先生の解説講座も楽しみでした。
クラウドファンディングに挑戦すること自体が英断だったのだろうと推察しますが、何と言っても“日本100名城”かるた。頂は遥か山の上、思い描いたとおりにいかないのは城めぐりと同じ。難攻不落ですね。
しかし、高い山を麓から見上げるだけではなく勇気ある一歩を踏み出した結果ですから、この挑戦は必ずや次へと繋がると信じます。
一度目でまわりきれなかったり遺構を見逃したりしたところへリベンジ登城して素敵な景色に出会えた、何度も挑戦してよかった、失敗も無駄ではなかったという経験は多くの城びとさんがお持ちのことと思います。
100名城かるたも敗北ではなくて道の途中。次の一手を期待しています!
CFの写真を見ていてひとつ気になったのが、見間違いでなければ『た』の絵札が今治城になっていたような…?違ったらごめんなさい。
応援コメントでは既に「続100名城かるた」を見据えている方がいらっしゃいました。目標を高く持つことは大切ですね!

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カズサン

水濠と鏡石-7/7 (2024/05/20 訪問)

 本丸石垣の積直し工事で内濠は水が抜かれて居り、中濠、外濠を廻った個々の写真と馬出から続く本丸枡形虎口の巨石、立派な大石の存在感が在り併せ投稿を致します。
 東門口の弘前城案内図、弘前文化センター前の津軽為信公像も終わりに投稿させて頂きます。

 青森1日目夕刻に弘前城で無事終了、長く7編に分けての投稿ご覧お付き合い頂きましてありがとうございます。

 今回の企画、東北城探訪青森2日目の飯詰城へ続きます。
  

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チェブ

箱根関所の巻き。 (2017/08/20 訪問)

朝田 辰兵衛さん、しんしんちゃんさん、アドバイスありがとうございます。参考にします。
病院にも行かずにいたので安心しました。
これから少しづつ歩ける身体になるように、時間と歩数を気にしながら行動してみます。
それからロキソニン、常備品に加えます。

続100名城の「石垣山城」から車で30分位の所に「箱根関所」があります。
江戸時代の関所が再現されていて、寸劇も観られます。
「箱根関所」では、入り鉄砲と出女を重点的に取り締まったそうです。

出女で、御用にならないようにしようと思った「箱根関所」観光でした。
、、、その前に、梅雨と猛暑で家から出られないかもしれませんがヽ(;´ω`)ノ

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カズサン

現存桝形櫓門の北門と+α-6/7 (2024/05/20 訪問)

 弘前城には現存桝形櫓門が五つあります、先に写真投稿した追手門、南内門、東門、東内門の他に北を守る四の丸の北に枡形櫓北門が在ります、またの名を亀甲門と称し大光寺城の追手門が移築されてと言われています。
 更に三の丸と四の丸の間に丘陵差が在り築城当初は賀田御門が在り賀田城(大浦城)の大手門が移築されて三の丸の北門として折れを持った桝形で厳重な護りであったそうです。
 北門から外濠を東に廻り込んで東門、弘前文化センター駐車場へ戻りました、約1時間40分の探訪でした。
 北門と賀田御門跡の写真投稿を致します。

 水濠と鏡石-7/7に続きファイナルです。
 

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