小山城の売りは何と言っても見事な弧を描く三重堀。2007年に訪れたときはこんなに綺麗には見えなかった。展望台小山城を名告る模擬天守からは本丸に接する復元された丸馬出が良く見える。堀は斜面になっているが此処も諏訪原城と同様、礫岩の岩盤で崖のように切り立った箱堀なのだという。
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2018/04/24 06:08
まーるい城ミニオフ (2011/02/19 訪問)
小山城の売りは何と言っても見事な弧を描く三重堀。2007年に訪れたときはこんなに綺麗には見えなかった。展望台小山城を名告る模擬天守からは本丸に接する復元された丸馬出が良く見える。堀は斜面になっているが此処も諏訪原城と同様、礫岩の岩盤で崖のように切り立った箱堀なのだという。
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2018/04/24 06:03
まーるい城ミニオフ (2011/02/19 訪問)
諏訪原城は2008年2月に訪れていて3年ぶりの訪城となったが、樹木が伐採されて丸馬出や三日月堀がとても見やすくなっているというサプライズ。崖のように切り立った堀、礫岩の岩盤をじっくりと見て二の丸に進むと、何と茶畑まで更地にされていた。天主台地裏手の搦手も樹木が伐採されて横堀、竪堀が良く見えた。以前とは全く別物といった諏訪原城、十分に堪能することができた。
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2018/04/23 22:10
3年で廃城になった城 (2018/04/21 訪問)
修復されたものも含め、石垣がかなり残っています。昭和50年代まで土に埋もれていたとは信じられない。城下町も雰囲気が感じられる。
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2018/04/23 20:15
ミニオフ会前の攻城 (2011/02/19 訪問)
田沼意次が築城した相良城。僅かに遺構も残るようだが、今回は城址碑のみのチェック、そして牧之原市相良史料館を見学するのみとした。
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2018/04/23 20:12
ミニオフ会前の攻城 (2011/02/19 訪問)
駐車場に車を駐めて暫く茶畑の中の坂を登っていくと、城址碑が有り、林を抜けると土塁に囲まれた三の曲輪、二の曲輪が広がっていた。広々としたこれらの曲輪は戦国期に拡張整備されたものらしく、武田氏による改修も考えられるという。更に進んだ本曲輪周辺が平安末期の築城から南北朝、室町期の中世城郭の部分。南東の尾根にかけてはノコギリ状に連なる堀切も残っている。
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2018/04/23 10:53
2018/04/23 10:33
地形が、そのまま残っていて、よかったです (2018/04/21 訪問)
城は、建物はないけど、城郭は、残っています。
道路を挟んだ、慈光院の住職さんの話によると、NPOの方が、お城を整備してくださったそうで、この場所が何だったのかをしるす紙が貼ってありました。住職さんの話では、いま、慈光院がある場所に、城主の住まいがあったそうです
足場が悪い場所もあるので、歩きやすい靴で行くことをおすすめします
トイレは、ないです
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2018/04/23 10:11
三階櫓からの眺めが素敵でした (2018/04/20 訪問)
白石の駅に車をとめて、そこから歩いてお城を目指しました。
途中の道で、壽丸屋屋敷という建物を発見して無料ということで入ってみました。
明治中期の建物で、案内の方が詳しく説明してくださいました。そこで、建物についてや、片倉家の歴史、商人との関係を詳しく説明してくださり、楽しい時間を過ごすことができました。
お城は、復元された三階櫓からの、眺めはよかったです
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2018/04/23 06:25
震災直後 (2011/03/21 訪問)
名古屋臨海高速鉄道あおなみ線荒子駅前にはまだ新しい前田利家初陣の像があった。重文の現存木造塔を持つ荒子観音寺への道路標示は今ひとつ不親切。更にそこから、前田利家の生誕地・荒子城址は、かつては丁寧な表示があって難なくたどり着けたのだが、かなりわかりにくくなってしまっている。その後向かったオープンしたばかりのリニア・鉄道館はさほどの混雑ではなかった。東日本大震災の影響とみられる。
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2018/04/22 23:45
2018/04/22 22:07
2018/04/22 20:09
大垣城 (2011/10/16 訪問)
夫婦で行ってきました。
大垣城は「関ケ原の戦い」の際に石田三成らが入城して西軍の根拠地となった城です。その天守は戦前に国宝(旧国宝)に指定されていましたが、1945年(昭和20年)の大垣空襲により焼失しました。現在ある天守は1959年(昭和34年)に外観復元されたもので、中は「関ケ原の戦い」についての資料館になっています。
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2018/04/22 19:25
菊池十八外城 (2011/03/30 訪問)
遺構はよくわからない。
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2018/04/22 19:18
菊池十八外城 (2011/03/30 訪問)
目を惹く遺構は見当たらない。
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2018/04/22 19:16
菊池十八外城 (2011/03/30 訪問)
ここの城址碑はちょっと立派。
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2018/04/22 19:13
菊池十八外城 (2011/03/30 訪問)
目を惹く遺構は見当たらない。
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2018/04/22 19:09
菊池十八外城 (2011/03/30 訪問)
曲輪がはっきりと見て取れて中々いい感じだった。
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2018/04/22 18:38
田原城 (2018/01/14 訪問)
夫婦で行ってきました。
田原城は三河湾を支配していた戸田氏の居城として知られています。城主が戸田康光のときに、松平氏から今川氏に人質として送られる嫡男竹千代(のちの徳川家康)を護送する任を受けましたが、敵方の織田家に寝返ったため今川義元の怒りを買い、攻められて落城しました。その後は松平氏譜代の本多広孝が、さらに家康が関東へと移封したのちは吉田城に入封した池田輝政の重臣である伊木忠次が城主となっています。江戸時代になると、渡辺崋山などを排出した田原藩1万2千石の藩庁として使われました。現在、本丸は巴江神社になっており、二の丸には復元櫓が模擬再建されています。
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2018/04/22 18:35
挙母城 (2017/12/03 訪問)
夫婦で行ってきました。
七州城は童子山の高台に築かれた城で、三河国・尾張国・美濃国・信濃国・遠江国・伊勢国・近江国の7つの国が見える高台にあることから、七州城と名づけられました。また挙母藩の藩庁が置かれた城で、挙母城とも呼ばれています。現在は本丸跡が豊田市美術館の敷地と城跡公園として整備されており、櫓台の石垣が残っています。1977年(昭和52年)には隅櫓が復興されました。
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2018/04/22 18:32
大和郡山城 (2017/08/13 訪問)
夫婦で行ってきました。
大和郡山城は筒井順慶によって築かれた城です。その後は秀吉の実弟である羽柴秀長の居城となりました。江戸時代には譜代大名が歴代城主を務め、柳沢吉里が入封後は柳沢氏が明治維新まで居城としました。大和は石材に乏しい国であったため、天守台の石垣には墓石や地蔵までもが用いられています(これを「転用石」と呼びます)。なかには「逆さ地蔵」と呼ばれる、逆さになった状態で石の間に埋もれている地蔵があります。現在は本丸の石垣や堀が残っており、また大手門、大手東隅櫓、大手向櫓が復元されています。大和郡山城は桜の名所として、日本さくら名所100選にも選定されており、毎年4月1日から行われる「お城まつり」には多くの花見客でにぎわいます。
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