埼玉県川越市の関東七名城の一つ川越城です。1456年太田道灌が古河公方の古河城に対抗する拠点として築城したのが始まりとされます。1524年北条氏綱に本拠江戸城を奪われた扇谷上杉氏が川越城を本拠とします。1537年北条氏綱が川越城を攻略、北条為昌を城主とします。1541年氏綱が亡くなり氏康が当主となると扇谷上杉氏・山内上杉氏と古河公方・今川氏が手を結び北条攻めを開始。1545年7月今川氏が駿河北条領を攻撃。そして9月、扇谷上杉氏は、山内上杉氏と古河公方と連合軍8万の大軍で川越城奪還に出ます。川越城には北条綱成が3千の兵で籠城、城方はよく守り長期戦となります。10月氏康は今川氏に駿河の領地を明け渡し和平を結び武蔵に兵力を集中。1546年4月長期対陣により油断していた包囲軍を北条氏康が8千の兵で夜襲。日本三大奇襲戦の一つ「河越夜戦」です。氏康は包囲軍を散々打ち破り北条氏の武蔵攻略が進むこととなり、関東の大大名北条氏の誕生となります。豊臣秀吉の小田原征伐では、川越城は前田軍に包囲され開城。新たに領主となった徳川家康は酒井忠重を城主としています。江戸時代に入ると近世城郭に改修されています。1638年城は火災により全焼、翌年老中松平信綱が城主となると川越城は新たに築き直されています。以降領主は次々変わりますが1867年松井松平氏が8万石余で領主となり明治維新を迎えています。城は武蔵野台地の北東部に造られ、本丸、二の丸、三の丸と複数の曲輪を有し、土塁と水堀で囲まれた東西800m南北600mの規模とされます。天守の代わりに三層の富士見櫓があったとされます。現在、城跡は大部分が市街地となっていますが、日本に2つしか残っていない本丸御殿が現存しています。その他、本丸御殿南側に富士櫓跡、本丸御殿と市役所の間に中ノ門堀跡があります。7時半頃訪れたため本丸御殿・中ノ門堀跡とも見ることができませんでした。また、大手門跡に立つ市役所に太田道灌公像があり、その先の蔵造りの町並みに1654年頃に造られ大火のたびに再建された時の鐘「鐘撞堂」がありますが、これも訪れた時は、耐震工事中でシートに覆われ見られませんでしたが、現在は上部は見えるようになったみたいです。
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