1本の碑のみ。無断立ち入り禁止となってました。
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2018/10/14 01:05
2018/10/13 22:51
城跡から (2018/10/07 訪問)
城跡から男鹿半島に夕陽が差し込むのを見ました。
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2018/10/13 22:41
石垣修復中 (2018/10/07 訪問)
現在はプラモデルのようなお城です。
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2018/10/13 21:52
台風の爪痕が・・・ (2018/10/07 訪問)
早朝5時半に自宅を出て高天神城に行ってからの訪城。結構ヘロヘロな上に10月とは思えない暑さ。休憩をはさみたかったので二の丸美術館とのセット券にしました。
24年たった木造天守はクンクンしても木のいい香りはもうほとんどしなかったけれど、年月を重ねるほどに味わいが出てくるので何度行ってもいいですね。
美術館でしばし休憩してから二の丸御殿へ。日本家屋への憧れがやみません。。。
そして、掛川古城に行き忘れていたことに気づく(゚д゚)!
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2018/10/13 21:19
初登城 (2018/10/13 訪問)
飯盛城跡は以前から知ってはいましたが、今回初登城してきました。
飯盛城は標高314mの飯盛山の山頂一帯に存在した山城で、1560年この城に入城したのが三好長慶です。三好長慶は将軍や天皇がいる京都を制した大名です。
大阪府下最大の山城で規模は南北650m×東西400mに及びます。各曲輪には長慶や家臣達が暮らした跡です。
東尾根筋の石垣を目指し登城しましたが、入口を見つけることが出来ず諦めました。しかし自分の好きな石垣が至るところに残り山中に石垣を見つけると来て良かったと夢中でシャッターを押しましました。久しぶりに自分の好きな戦国後期の山城の石垣を堪能することができました。
バカナビが車が通れないような細い獣道をルート表示したことで、左リヤドアに傷が付かなければ最高だったのですが、皆さんもお気を付け下さいませ。
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2018/10/13 19:58
3度目の日本100名城スタンプラリー81個目 (2018/10/13 訪問)
山城の郷からの登城路が通行止めとなっているため、まちなか観光駐車場に車を回し、初めて麓から攻城した。有子山城より少しだけ楽なくらいのレベルだった。入場料500円を支払うのも今回が初めて。順路が決められてしまっていて、天守台下の南千畳のお気に入りの撮影スポットに立ち入ることができなくなってしまったのはなんとも残念である。「城のしおり」を購入してそれに載っている日本城郭管理者協議会加盟の城を順次、攻めていって巡りあった竹田城。初めて訪れた今世紀初頭、他には観光客はいなかった。天守台には竹の梯子がかけられていてそれで登った。今の人気は隔世の感がある。
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2018/10/13 19:39
続日本100名城のスタンプ55個目 (2018/10/13 訪問)
出石城とセットでの続日本100名城。2013年以来5年ぶりの攻城だが、日頃の階段上りの鍛錬がものを言ったのか、さほど登城にきつさを感じなかった。本丸と千畳敷の間の大堀切まわりの樹木が伐採されていてとても見やすくなっている。石垣は勿論見事なのだが、さりげなく土塁が残り、登城路の途中の土橋からは竪堀が落ち込んでいるなど土の城の魅力も兼ね備えている素晴しい山城。眺望も絶品である。続日本100名城の中でもトップクラスの素晴しい城である。
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2018/10/13 19:29
続日本100名城のスタンプ55個目 (2018/10/13 訪問)
八重の桜の年に訪れて以来、5年ぶりの出石城。山本八重の最初の夫、川崎尚之助の故郷が出石だったのだ。昼食の出石の皿そばも2013年以来の5年ぶり。仙石家の転封で信濃のそば職人を引き連れていったことで、出石の名物に育ったのだとか。
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2018/10/13 18:51
2018/10/13 17:52
住宅地となっています (2018/10/13 訪問)
西武 の飯能駅から徒歩で15分くらい。
智観寺を目指して歩きます。
住宅地の中に石碑と説明板が建っており、少しだけ空堀が残っています。
隣の智観寺は中山家の菩提寺で歴代の墓所があります。
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2018/10/13 10:28
お腹いっぱい堀と土塁が見られます (2014/12/12 訪問)
JR宇都宮駅から東へ約6kmのところに国指定史跡になっている飛山城があります。
鎌倉時代後半に宇都宮氏に使えた芳賀氏によって築かれたそうです。
鬼怒川が天然の堀の役目をする平城で、現在は城址公園となり今でもかなり広い面積の城域が残っています。
土塁・堀は手の加えられた場所は見るからに人工的で、手の入っていないところは風化により埋まったり削られたりで解り辛く・・・
が、そのボリュームが圧倒的で、胃もたれする程土塁と堀が見る事が出来ます(笑)
建造物も多く再現されているので、物足りないと思う事は無いと思います。
見る人によって評価が大きく変わるお城かと。。。
自分は見学した当時は評価低かったものの、改めて写真みると「これ実はかなり良い部類に入るのでは?」ってちょっと評価変わってたりw
機会があれば再訪して確かめたいところです。
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2018/10/13 01:46
昔住んでました。 (2016/06/18 訪問)
ココを通勤ルートにしていたら,花粉症になりました。
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2018/10/12 22:47
付城のことをすっかり忘れていた(-"-) (2018/10/07 訪問)
掛川駅からバスだと「土 方」下車ですが、1コ前の「大東北公民館」で降りて先にスタンプ押して地図をもらいました。
高天神城に向かう途中、「千人塚」を発見。天正9年の落城時の死者が葬られた地だそうで…。
茶畑を過ぎ、南入口から入ろうとしたら倒木で塞がれており、仕方がないので北駐車場側の搦手口へまわりました。
小さめの山に見えたのに意外と急峻な坂を登り、途中、三日月池の小さな金魚たちに癒され、本丸に到達。土塁がしっかり残っていました。御前曲輪や模擬天守を失った土台を見てから、スルーすることは許されない石牢へ。勝頼くんの仕打ちは荒木村重どころではないぞ。。。
そして西の丸(高天神社)を抜け、大堀切に感動し、馬場平へ。よい眺め♪
そこから続く「甚五郎抜け道」は、行ってもよかったのでしょうか?行けるものなら行ってみたかったけれど、人の気配は皆無。やめておきました。
二の丸の先に祠と石碑が見えたのですが倒木で進めなかったのでズームで写真を撮ってみたら鎮魂碑でした。ほかの場所にも何基かありました。凄まじい戦いだったのですね。ここに下りられれば堀切の先の曲輪に上がれそうだったのだけれど行けませんでした。残念。
気を取り直して三の丸へ。富士山がきれいでした。さらに下っていくと着到櫓跡、追手門跡です。そのまま進むと、倒木ありの南駐車場でした。
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2018/10/12 19:56
代わり果てた名胡桃城 (2014/03/28 訪問)
2014/3/28に名胡桃城初登城し、2015/5/23に再訪、その後脇を通過する事はあっても訪問しなかったのが、続100名城認定に伴い2018/6/10に再訪
初登城から再訪まででちょっとだけですが改変があったのは気にならなかったものの・・・
2018/6/10訪問で愕然としました( ゚Д゚)( Д゚゚)( Д゚)゚(Д)~゚゚
面影残っていません(-Д-メ)
今しか知らない方々には見やすいものになっているかもしれませんが・・・現代チックなコンクリートや橋を沢山付け過ぎ~の、無かった虎口が増え~の、折角の堀切に鉄柵の橋かかり~の・・・
あの姿を頑張って歩いて初めて当時を味わえるのに。。。何しとんねんw
以前の姿をご存じない方に比較写真掲載させて頂きました。
・・・本丸の先の、肝心の一番奥、ここは行きやすい様にしてよ!ってところは当時のまま行き辛い状態でしたorz
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2018/10/12 19:48
2018/10/12 18:54
こんな所で細川忠興さんの名前! (2018/10/08 訪問)
谷田部城の案内板に意外にも初代藩主は細川忠興さんの弟、興元さんの名前。
帰ってから興元さんを調べてみると忠興さんとの不仲で出奔との事でした。
忠興さん、天下一 気が短いし、ガラシャさん束縛するような性格だしね。分かります。分かります。
(忠興さんファンの方、すいません。)
小学校の門近くに案内板があります。正面に陣屋御殿の玄関が移築されていて現在、公民館として使われているそうです。
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2018/10/12 18:07
2018/10/12 10:53
2018/10/12 09:17
歴史深い! (2018/10/09 訪問)
1000年を超える歴史を持つ石岡。
江戸時代も絶えることなく続いた街に敬服。
今や世界的スターの渡辺直美の生まれ故郷!
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2018/10/12 04:00
山上の城と山腹の藩庁 (2018/10/07 訪問)
10月に入って、続日本100名城のスタンプラリーも半年を向かえました!
そこで、この日は郡上八幡城を訪問致しました!
やっと31城目になりました!
さて、美濃郡上郡は上之保・明方・和良・下川の4つの主要街道が交差し、交通の要衝でありました!
遠藤盛数が、東氏の居城の赤谷山城攻めの拠点として対岸の八幡山に築いた砦が、郡上八幡城の原型で有ります!
遠藤氏から稲葉氏になり、大改修が行われました!
八幡山の北東麓に新たに堀を設け、山頂の本丸には総石垣の天守台が築かれました!
さらに、土塁を高くして塀を巡らし、武器庫と兵糧庫を増築し、北方に大きな井戸を堀り、山腹に二の丸を増築して居館としました!
これにより、近世城郭としての郡上八幡城の基礎はほぼ完成しました!
遠藤慶隆は、約2年半かけて城の改修を行い、本丸を拡張しました!
17588年に青山幸道が城主となったとき、それまで本丸に置かれていた藩庁機能を二の丸へ移しました!
以後、二の丸が新本丸となり、旧本丸は松の丸・桜の丸の名で呼ばれるようになりました!
さらに、西麓に位置する城下の殿町には、藩主居館が有りました!
山上にある旧本丸は東西約80m、南北約100mの規模で、最高部に天守台を築き、その北側に松の丸、南側に桜の丸を配置し、全体を石垣で囲んでいました!
旧本丸の真下は、3段の帯曲輪が取り囲み、松の丸と桜の丸に連絡する虎口が設けられていました!
石垣の大半は野面積みの技法で、部分的に打込接も見られます!
かつては、三重天守が存在したようですが、江戸期には天守は存在しませんでした!
山の山腹に、藩の政庁機能を持つ御殿を中心とする新本丸が設けられました!
現在の天守は1933年に、当時現存していた大垣城天守を参考に築造された木造模擬天守で、山頂の櫓、門も模擬で有ります!
だけど、城山となる八幡山に建つ白亜の四重木造模擬天守が郡上八幡のシンボルとなっています!
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