本多正純は徳川秀忠を宇都宮城のつり天井部屋で亡き者にしようとした・・・等の罪で佐竹藩に身柄預かりとなりました。
(実際にはつり天井部屋等は無く、権力争いのライバル・土井利勝(実は家康の近親だった説も)等に他の罪をねじ込まれてハメられたのが実状らしい)
佐竹藩では優遇されていた事・実際悪い事していないと訴えていた事が秀忠を逆上させ(やはり徳川秀忠は凡庸だったとこの事実から伺えるとの最近の研究結果らしい)、佐竹藩に命じて横手城に幽閉されてしまったらしいです。
結果その幽閉は生涯解かれる事無く、本多正純(とその息子・正勝)はここで没してしまいます。
戦国時代までは小野寺氏が支配していた横手城ですが、関ヶ原合戦では昵懇だった上杉氏に見方し西軍に付いた結果、津和野城預かりとなり、代わりに同じく西軍に付いて減封された佐竹氏が移ってまいります。
横手城にはその後近代の整備によって遺構は大きく消失してしまい、現在ある模擬天守も展望台と化している模様。
自分が訪問した際には既に時間切れで展望台閉まっていたので中は未確認です。
遺構の大半は失われましたが、地形を見る限りそれなりの規模のお城だった事は伺えます。
(横堀跡や帯郭跡・虎口跡等、おそらくそういう遺構があっただろう・・・という予測が出来る場所が多かったです)
一応土塁とか解る遺構も残っているので、訪問して損した感は全くありませんでした。
しかも横手城といえば本多正純のお墓がありますので(前振り長かったのはここにつなげる為w)
こちらもしっかりお参りさせて頂きました(むしろメインだったかも)
横手駅から歩いて散策するのであれば、先に本多正純(親子)のお墓見学⇒横手城、の順で回ると効率良いと思います。
本多正純のお墓のところには宇都宮城関係者(「よみがえれ!宇都宮城」市民の会)からの記念碑板がありました。
横手と宇都宮・・・本多正純つながりの縁はかなり太い様です。
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