平野郷は、平安前期に坂上廣野麻呂(坂上田村麻呂の子)により開発されたと伝わり、平野川の舟運と奈良街道と中高野街道が交差する交通の要衝で、自治都市として堺と並び繁栄し、戦国期に環濠化したようです。大坂冬の陣では郷内の全興寺が徳川方の本陣となったことで豊臣方に放火され焼亡、夏の陣でも戦場となりましたが、戦後まもなく再建され、在郷町として発展しました。
二重に巡らされていたとされる環濠のほとんどは失われていますが、平野郷北端にある杭全神社の東側から北側にかけて環濠が残っているほか、南東隅の赤留比売命神社(三十歩神社)の裏手に土塁と環濠の名残が見られます。
さて、ここでも大坂の陣史跡めぐり(不定期連載第4回)を。
平野郷そのものが大坂の陣の舞台になっているわけですが、赤留比売命神社の北側には平野郷に13ある木戸口のひとつの樋尻口があり、その近くに地蔵堂があります。大坂夏の陣において、真田幸村(信繁)は大坂城に帰陣するにあたり、徳川家康が樋尻口を通過することを予見し、地蔵堂に地雷を設置。読み通り家康は樋尻口を通りがかり地蔵堂で休憩しましたが、小用のため地蔵堂を出たところで地雷が爆発、家康は九死に一生を得たという伝説があります。
# 幸村も道明寺・誉田の戦いから引き揚げる道中に、軍旗を奉納したり地雷を設置したり、忙しいことですね。
この伝説には続きがあって、その時の爆発により地蔵堂のお地蔵さんの首が西に300mほど離れた全興寺まで吹き飛ばされ、同寺にて首の地蔵尊として祀られているんだとか。通常は非公開で本堂に説明板があるだけですが、地蔵盆の時のみ一般公開されるようです。
その全興寺、歴史も由緒もある寺院ですが、天国あり地獄あり駄菓子屋さん博物館ありで、なかなか楽しいお寺です。
また、地蔵堂の道向かいには、徳川秀忠直属の旗本で、大坂夏の陣で伝令の任を果たした際に負傷し、郷内の願正寺で療養中に再起できないことを悟り自害した、安藤正次の墓所があります。
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