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カズサン

【遠江・獅子ヶ鼻砦】 静岡県菊川市 高天神城攻略六砦 (2017/02/04 訪問)

 大河ドラマ「直虎」ブームの余波で「静岡県菊川市大石1」の菊川市営保養センター小菊荘裏山に在る獅子ヶ鼻砦を探訪、車は隣の蓮池公園駐車場に停める。
 小菊荘の裏手に案内板と急峻な折り曲がった坂道登城路小笠原丘陵の先端部40m程の比高、南側先端が1曲輪奥に2曲輪、3曲輪、東側は崖、下段に降りて西に4曲輪5曲輪西に下って田畑に出ると南に折れて蓮池公園に戻ってくる1周です。
 高天神城攻略の徳川方六砦の中で交通便利に登城出来る城跡です。
 曲輪攻略ガイドは余湖図コレクションさんの俯瞰図を手元に廻りました。

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カズサン

源義家ご落胤東遠中世大城郭 (2017/01/28 訪問)

 大河ドラマ「直虎」ブームで東遠江の城廻り、横地城は以前より認知はしてましたが山城探訪の私としてのタイミングに成って無く今回まで未踏のままでしたしたが新野氏遺跡巡りの中で初登城、情報とガイドは何時もの城郭放浪記さん余湖図コレクションさんに依り上池東のトイレの有る駐車場に停める。
 駐車場より千畳敷に至る急峻な登城路を登ると千畳敷、西の城、中の城、本丸金寿城と探訪しました。小笠原丘陵の入り組んだ丘陵を使った城郭を堪能し、駐車場に戻って上池と丑池の間の離合困難な登城路を登り西の城の西に至り非常に狭い道を西に進み、武藤館、藤丸館、隠し井戸、横地氏一族の墓を廻って広い県道245号線に降りる、対向車が無く無事下城。

 源義家から繋がり今川氏との攻防により約400年の東遠州の名門も衰退しました。

 

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橋吉

将軍家の旅館 (2010/05/10 訪問)

水口(みなくち)は東海道五十三次の50番目の宿場です。
交通の要所であるこの地にはかつて水口岡山城という山城が築かれていました。

やがて、江戸時代になり太平の世となると山城は必要なくなり、代わって将軍上洛の際の宿泊地が必要となりました。
そこで岡山城を廃し、あらたに平城を築いたのが水口城です。

将軍家の旅館ゆえ本丸御殿は二条城を模した豪華な造りだったそうです。
もっとも、将軍の宿舎として使われたのは、1回限りでした。

1682年(天和2年)に水口藩が成立し、加藤明友が入りましたが本丸御殿は使用しなかったそうです。

水口城は本丸と管理施設である二の丸がありましたが、二の丸の跡は確認することができませんでした。
本丸は凸型をして、その飛び出た部分(出丸)が「水口城資料館」となっています。

本来、本丸の四隅にあった矢倉の一つをここに復元しています。

竹下政権のふるさと創生事業+αで建てられたそうですが、なるべく当時の木材を使用することに心がけられたそうです。

御殿があった部分は県立水口高校のグランドとなっていました。

しかしながら周囲の堀は残っています。
さらに乾矢倉の石垣は綺麗に残っています。

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高石垣散策 (2019/09/27 訪問)

 2度目の登城です。高石垣が見事な城址ですが、他の石垣もよく残されています。ただ堀側から高石垣を見ようとすると生い茂った木が邪魔して十分見れません。

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音羽北城 (2019/09/26 訪問)

 音羽氏城の近くの倉庫の裏から登城しました。
案内板もなく登城路もあまり整備されていませんが単郭で石垣があってであろうと思われる石がごろごろ転がっています。土塁も見ることがでいます。

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音羽氏城 (2019/09/26 訪問)

 三重県伊賀市にある城で「マップからお城を探す」には載っていませんが、「廃城をゆく ベスト100城」という本に掲載されていましたので行って来ました。登城口には新しい案内版があり、道も概ね整備されていて歩きやすかったです。城は単郭で三方に大土塁があり、北側は高くなっています。この虎口と北側の土塁にも石が積まれた箇所があります。背後には空堀も見ることができ楽しめる城址です。

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城好きのメガネ

「東国無双の名城 玉縄城」 (2019/09/28 訪問)

<オススメ>★★★☆☆
玉縄城は、三浦半島を本拠とする相模国の最大勢力である三浦氏を攻略するために、伊勢宗瑞が築いた城である。玉縄城は、扇谷上杉氏の後詰を阻止し、三浦氏との連携を遮断する役目を担った。三浦氏は支援を受けられないまま、滅亡した。二代目、北条氏綱は、北条氏時、北条為昌を城主とし、後北条氏の戦略拠点となった。北条為昌の死後、氏綱の養子となった北条綱成が城主となり、氏繁、氏舜、氏勝とつづく玉縄北条氏は小田原北条氏を支える有力な一門衆として活躍した。また、玉縄城は上杉謙信に「この城、東国無双の名城なり」といわしめるほどの堅城で、約80年にわたって一度も落城しなかったとされる。小田原征伐では、城主の北条氏勝は玉縄衆を率いて山中城を守備した。山中城を脱出した氏勝は、玉縄城で籠城。徳川家康の説得により、無血開城し、玉縄北条氏は滅亡した。

*主郭周辺は、清泉女学院中学高等学校の敷地内であるため見学は不可である。植木方面から陣屋坂を経由して、太鼓櫓、城碑、七曲坂、龍寶寺(玉縄北条氏の菩提寺)、玉縄ふるさと館、玉縄首塚の散策をオススメしたい。

<アクセス>
JR大船駅 徒歩20分

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カズサン

【遠江・滝堺城】 牧之原市 境目の城、富士眺望絶景 (2017/01/28 訪問)

 国道150号線沿いに登城路案内板が出ています(静岡県牧之原市片浜字法京)、そこより西に段丘麓に在る若宮神社、そこに案内板と方向指示板、車は神社脇の空きスペースに駐車し軽トラックは走行してる坂道を徒歩で10~15分程茶畑の広がってる頂点に着きます、そこにも案内板指示板、駿河湾に向かって連郭式の城郭です、各曲輪を土橋で繋ぎ3曲輪2曲輪1曲輪へ曲輪は全て茶畑に開墾されてる、1曲輪先端から駿河湾越しに富士山の姿がバッチリと見え抜群の絶景です。富士山の絶景を見ると歩いた疲れも吹っ飛びます。
 (情報とガイドは何時もの城郭放浪記さん余湖図コレクションさん)

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トーダイ

冬に再登城です (2019/09/26 訪問)

この山を矢倉山と呼ぶ。元々、鎌倉時代に矢倉神社が鎮座していたが、南北朝時代に
頂上に堅固な「矢倉畦城」が築かれた。初の城主は竹井氏であったが、元弘の乱頃は
田中氏が奪守して居城としていたらしい。室町から戦国時代に移ると戦乱が絶えず、
備中松山城の前衛城の役割を担っていたが、天正2年(1574)毛利氏に攻められて
松山城へと退いている。(案内板より)

他サイト情報から登城口<34.8419296,133.6922873> をナビに入力して着いたのが
案内板が立つ北登城入口<34.8470845,133.6874298>、車幅しかないが、舗装された
小道を進めば登城口と安心したのが大間違い、待っていたのは石コロ・小枝が積もる
約600mの悪路(上り坂)でした。

登城口に着くも駐車スペースは無し、登城口付近を確認しようと下りるとヤブ蚊群、
夕方で暗くなり、悪路を戻る根性は無く、そのまま悪路(下り坂)を約200m走り、
南登城入口<34.8421791,133.6948482>に辿り着きました。

南登城入口付近に路駐、冬に再登城です。

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ぴーかる

伊賀柏原城址(滝野城) (2019/09/16 訪問)

【柏原城】
<駐車場他>勝手神社P 周辺の道は狭いが近辺に行くと電柱に勝手神社の矢印看板がある。
<交通手段>車

<見所>曲輪・横堀
<感想>日帰り伊賀攻城の旅1城目。最初にお盆休みに購入し損ねた高取城の御城印を夢創館にて購入し、またまた道の駅大宇陀にて美味しかった農産物と新米を購入、一度行きたかった女人高野室生寺を拝観したのち、国道165号線を上りながらの攻城1城目。
 この城は第二次伊賀天正の乱の時伊賀衆の残存が集まって最後に立て籠もって戦った城です。城跡は単郭式の丘城で現在は3方は二重の横堀、西側は田んぼの用水路があるので、かつては小川を利用した水堀があったかもしれない。池の遺構も見受けられた。
 私はまず勝手神社に駐車させてもらい、お参り、神社正面鳥居横に添付写真の城跡碑があった。勝手神社から東に田んぼを挟んで城跡がある。現在の虎口もそのまま東側から主郭に入るが、虎口には何の細工もしておらず土塁を切ったような感じなので当時はここが虎口かどうかは分からない。主郭はそこそこ広く、取巻く土塁は2~3m程の高さ。1重目の横堀は深くて特に南側は5~6m程はあって見応えある。南側から山の方に登っていくので、特に深くしたのであろう。2重目の横堀は浅く数十㎝程だがしっかり残っている。案内板に東に堀切があるそうだが2重目の横堀から藪がきつくてマムシ注意なので行けなかった。
 しっかりと土塁と堀が残る遺構で見応えがあった。検索時誰も未投稿だったので行ってみても損はない城跡です。案内板に伊賀衆千六百人が籠って激戦したとあったので、信長軍に囲まれ最後まで戦った伊賀者魂を感じられた。

<満足度>◆◆◆

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カズサン

田沼意次幻の城 (2017/01/28 訪問)

 平成29年は大河ドラマ「直虎」ブーム直虎母方の新野氏もドラマのエンディングで数分関連遺跡等紹介が有り新野郷の寺院、神社、城跡を見て廻り近くの何回も寄ってる相良城を久しぶりに探訪。
 本丸跡、同牧之原市相良資料館、相良高校の校門脇二の丸土塁、探訪はしませんでしたが仙台河岸(資料館より東200m程)ここは萩間川から相良港に繋がり往時は千石船も横付けされたそうです。

 相良城は武田氏、徳川氏と代わり鷹狩り用の御殿が在ったそうですが田沼意次老中に成って5万7千石で築城されたましたが失脚後破棄された意次幻の城です、城跡は残して欲しかった。
 後に意次の2男田沼意正が1万石で相良城二の丸に陣屋を築き明治まで続いた。

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北畠信雄の城 (2019/09/28 訪問)

 途中までは案内板がありますが、肝心の登城口にはなく地元の方に聞いて登城することができました。未整備な城址ですが、土塁と周囲を囲む空堀など、かなり残っていて見ごたえあります。主郭の周囲には薄い土塁で囲まれた場所がありました。櫓でもあった跡でしょうか。

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城好きのメガネ

「三浦氏の本拠地 衣笠城」 (2019/09/28 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆
衣笠城は三浦氏の本拠地とされる。源平合戦では源氏方についた三浦義明が400余騎で籠城し、攻め手の平家方(追手口より江戸重長・河越重頼・金子家忠など2000余騎、搦手からは畠山重忠ら1000余騎)と激戦の末、壮絶な最期を遂げた地でもある。三浦一族は城主義明を残し、源頼朝と合流するため、安房に向かい、平家追討の功をあげた。三浦一族は鎌倉幕府内でも重要な位置を占め、再び衣笠城を拠点とし勢力を伸ばすが、宝治元年、三浦泰村が北条氏、安達氏との勢力争いに敗れ、源頼朝の墓所である法華堂(鎌倉市)で自刃した。その後、衣笠城は廃城となった。現在、遺構は物見岩と呼ばれる大岩が残されている。
*衣笠城に隣接する「衣笠山公園」は日本さくら名所100選にも選ばれているが、城跡ではないので注意。


<アクセス>
JR横須賀駅 バス 衣笠城址バス停下車 徒歩15分

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滝川雄利の城 (2019/09/28 訪問)

 美旗駅より徒歩にて登城しました。
城址はグラウンドになっています。土塁と周囲に堀が残っています。ただ堀の中には草木が茂り十分には見学しにくい状況でした。

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橋吉

城というよりは野戦陣地 (2019/08/27 訪問)

上ノ国勝山館、志苔館に訪れ、続日本100名城北海道編はコンプリートです。
しかし、飛行機の出発時間まではまだまだ余裕があるので、もうひとつ城跡を訪れてみました。
志苔館からクルマで30分のところにある四稜郭です。

四稜郭は五稜郭を援護する支城として、また東照宮を守護する為に北東約3キロメートル離れた丘陵上に洋式築城法により築かれました。

建設を指揮したのは大鳥圭介あるいはブリュネ大尉といわれています。

現在は史跡として保護されています。

史跡四稜郭
所在地: 北海道函館市陣川町59

わりと広い駐車場も設けられています。

虎口は、いちおう食い違いになっています。

城というよりは野戦陣地ですね。
大きさはサッカー場ぐらい
もっとも全体敵に斜面になっているので、サッカーは出来そうもありません。

建物は造られなかったそうです。
周囲は土塁によって囲まれています。
土塁の外側には堀が巡らされています。
ただ、それほど深くはありません。

四隅には砲座が配置されています。
兵士や近郷の百姓など300人で、昼夜兼行して築いたそうです。

もっとも、井戸も建物もなく、平地の真ん中に、この程度の土塁を築いただけの城では、籠城もできず、すぐに落城したらしいです。

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とりの子

能島に築かれた村上水軍の城 (2019/05/12 訪問)

5月12日に能島城へ行きました。西日本豪雨で被害をうけた能島は上陸禁止でした。村上水軍博物館の展示を見て、村上水軍のことを知りました。能島城へは行けなかったけど、いろんなことが知れました。

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とりの子

藤堂高虎が築いた城 (2019/05/12 訪問)

5月12日今治城に行きました。今治城は、ぼくの大好きな藤堂高虎が築いた城です。たくさんの櫓が復元されていました。日本初の桝形虎口があったそうです。この日は無料で天守に入ることができたのでうれしかったです。

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朝田 辰兵衛

ウネウネこれでもかぁ~ってぐらい続きます。 (2019/09/28 訪問)

登城口は3ヶ所。雷神社登城口,普済寺南側登城口と東側登城口。これらの案内板と駐車場が,大場沢公民館にあります。正面に普済寺が見えますのでつい足が向いてしまいますが,効率が良いのは雷神社登城口で登り,普済寺東側登城口からの下山かな…と思います。
標高:94m,比高:70m。村上城を含め,こちらも新潟・山形地震の風評被害を被ったエリアになります。

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マムシ注意 (2019/09/27 訪問)

 天正伊賀乱決戦之地です。主郭は高い土塁に囲まれ、東隅には「お滝女郎化粧井戸」という井戸が残っています。主郭の周囲には二重空堀を認め、東の尾根には堀切が設けられています。遺構はかなりいい状態にあり、ゆっくり散策したかったが藪になっている所もあり、また「マムシ注意」の立て札があり自然と急ぎ足になり、少し未練は残ったが早々に撤退しました。

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丹羽長秀の三男 (2019/09/28 訪問)

 名張小学校の前には藤堂家屋敷があり、その隣の寿栄神社には移築された太鼓門があります。

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