作手の奥平、長篠の菅沼、田峯の菅沼をして「山家三方衆」と呼ばれていた。東三河で戸田氏と並んでよく出てくる菅沼氏。どうやら田峯菅沼氏が宗家のようだ。彼らは奥三河の土着豪族で、徳川家康から対武田の重要な役割を担わされていたようだが、信玄公全盛期には早々と武田方に揃って寝返り三河遠江を転戦した。ただ、何と言っても信玄亡き後は、揺れに揺れて下克上を繰り返した。長篠の合戦後には、家臣の離反を受けて入城出来ず、甲斐まで一旦逃げて、夜襲して自らの城を取り戻した事件は有名だ。
縄張りは、さすが菅沼宗家だけあって立派な連郭曲輪群だ。本丸は休止中で立ち入れなかっが、曲輪一つ一つの呼び名に対しての解説柱が立ち楽しめる。特に井戸曲輪は面白かった。普通井戸があるが、ここには井戸跡がなく、掘っても水の出る地形でないため、天水を蓄える機能があったと考えられるとの事。何となくそれらしく掘ってあって面白い。
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