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カズサン

水堀に写った今治城 (2018/06/22 訪問)

 昨年6月下旬京都の用事を済ませしまなみ海道経由車中泊を入れ4泊5日の四国西部香川城廻をスタート来島海峡SAで車中泊し最初の目的地国分山城に向かう途中ナビに今治城が写って来ましたので10代最後の夏休みに四国一周城廻以来50年以上前からプライベート、出張で拾数回以上訪ねていますがチョットでも寄らなくちゃぁ~と今治城大手堀駐車場を目指したのですが朝早く空いて無く車の通りの少ない西側堀端に路駐しちょうど風も無く水堀に写った今治城を投稿します。

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くり

石垣山城から見る小田原城 (2019/05/03 訪問)

石垣山城から小田原城を見て、小田原城から石垣山城を見上げてきた。天気がよくて、遠くまで見えました。いろんな戦い方があるんだなぁと思い、当時はお互いの城がどんな風に見えてどんな風に思っていろんな決断をしたんだろうと考えました。

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うさぎ屋

旧芝区城山 (2019/07/21 訪問)

地名がかつて城山と言っていたらしいが、
遺構もなく城跡を見つけられなかったです。

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チェブ

蕎麦ととうもろこし。 (2019/06/08 訪問)

神奈川県愛甲郡の「田代城」に行きました。
北条 氏康さんの命により、内藤 秀勝さんが築城します。子の秀行さんと2代にわたり活躍したお城です。
武田VS北条の三増峠合戦で背後の富士居山に北条軍が陣を構えました。
「田代城」は盾になったのでしょうか?武田軍により攻められ落城してしまいました。

高い所に中学校があります。
こちらに説明板がありました。
本丸跡が中学校のようです。ちょうど野球の試合中で説明板の写真を写し退陣です。

ちょっと悲しいエピソードがありました。
武田軍の武者が蕎麦畑の白い花を海と見間違えてしまいました。北条軍の地の奥まで入ってしまい、戻れず自刃します。
北条軍にも同じような勘違いがありました。
収穫後のとうもろこしの茎を武田軍の槍と見間違えます。観念し自刃します。
その後、村人は蕎麦ととうもろこしを作らないんだとか。
当時の緊迫感に苦しくなりました。

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たくわん

城址公園広い (2019/07/24 訪問)

守谷駅からどうやって行くかわからないし今日は暑いので、タクシー780円。城址公園到着。案内図見てめぼし付けて歩いて行ったけど、変な所へ行っちゃいましたので、振出しに戻り、城跡目指す。広いし暑いし歩くのも大変だ。城跡も入れないところもあるし説明板とか少ないからよくわからない。曲輪とか堀とかはなんとなくわかった。もうちょっと整備されるともうちょっとわかりやすくなるかもね。

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カズサン

古・高松城 (2018/06/25 訪問)

 昨年の6月下旬十河城、前田城を終えて屋島の麓近くのむかし高松城と言われた喜岡城を探訪しましたナビは城郭放浪記さん、道が細く電車線が走って居り心配しながら到着、しかし駐車場が無い北面角に公園が有るが駐車場無し、公園北面の交通量の少ない片側離合出来るように路駐急ぎ足で探訪。
 公園、喜岡寺が1区画で小高くなっておりここが本丸か?、城石碑、解説板が有るのみ周辺に土塁的高まりの有る所が散見されます。

 ここを終わり勝賀城を見たいと車で登れる案内板解説板の有る中腹まで登り中腹より遠望する、四国の探訪を終わり瀬戸大橋より備中高越山城、備前沼城、三石城へ向かう。

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カズサン

本曲輪は墓所 (2018/06/25 訪問)

 昨年の6月下旬十河城の探訪を終え北上して高松道も越え屋島方面に近づきます、ナビガイドはいつもの城郭放浪記さん余湖図コレクションさんです、近くに来てるのですが道が細すぎて何度か行ったり来たりを繰り返し車を路肩に置き歩いて道を探しやっと辿り着けたのですが駐車場が無い農道の交差する若干広い三角コーナーに路駐しました、時点交通量は無し。
 本曲輪は墓所、南にⅡの曲輪で寺、北にⅢの曲輪が有りような様子南北に連郭式城郭、畑田圃から一段高まってる丘陵に築城されてます。

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カズサン

本丸は称念寺 (2018/06/25 訪問)

 昨年6月下旬朝駆けで丸亀城を訪ね高松道高松東IC経由で十河城、前田城、喜岡城を狙い攻城、県道30号線を南下し丘陵上の段々畑の頂上部に称念寺で本丸跡に成ってる。ナビガイドは城郭放浪記さん余湖図コレクションによる。
 駐車場は門前の駐車場が整備中でお寺正面を右北に行き標識に従いお寺北側の数台の駐車場利用。
 お寺の東面が段々畑で曲輪が段々に連なってる様に見受けられます、裏側に西方面はお墓ですが段丘で堀を思わせるため池が南北に広がってます。

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朝田 辰兵衛

片道約25分の登山道で本丸へ。 (2018/09/01 訪問)

途中,重厚な(?)獣柵を通過します。私の場合,ちょっと上の方で声がしたので,ためらうことなく歩みを進めました。声の主は,登城道を整備してくれていた作業員の方たちでした。おかげさまで,無事登城。感謝です。

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くろもり

長篠城を眼下にとらえる (2019/07/15 訪問)

飯田線の鳥居駅から新昌寺の鳥居強右衛門墓碑、武田四将(和気宗勝・高坂助宣・小山田昌晟・横田康景)墓碑をお参りし、豊川沿いの鳥居強右衛門磔の場を訪れた後、牛渕橋を渡り鳶ヶ巣山へ登りました。車での訪問の場合、砦入口付近の路肩が駐車場となっています(5台くらい)。

想像していたより比高のある山でした。Google Earthだと牛渕橋の辺りとは80~90m程の比高があるようです。少し下った西の曲輪跡と思われる所から、長篠城がまさに手に取るように見ることができました。砦跡には砦の碑?や説明板、慰霊碑等がありました。はっきりとした遺構は分かりませんでしたが、土塁跡のような地形等は見ることができました。

ここを守っていて討ち死にした武田(河窪)信実公も、まさか奇襲されるとは思ってなかったのではないでしょうか・・・信実公にはこんな逸話が残されています。「ある時、徳川家康の家臣篠瀬某が、主命に背いて怒りを買い、信実の許に逃げ込んできたので信実はこれを保護した。しばらくすると、家康の勘気も解けたので帰参を許すとの知らせが届いた。帰参を希望したものの、信実に対して何の恩返しもしていない。篠瀬は苦悩の末、その胸中を信実に告白すると、信実は「少し待て」と言って座を立ち、しばらくすると2羽の立派な鷹を携えて戻ってきて「三河殿は鷹狩りを好むと聞く。帰参の折にこれを献上いたせば、お主への心証も良くなるであろう」と言って鷹を与えた。この話を聞いた家康は、信実の爽やかな心根に深く感じ入ったと言う。 」以上Wikipediaより 家臣に信頼される将だったであろうと想像できる逸話です。

本当は、長篠・設楽原の戦いがあった6月29日(旧暦ではなく新暦)に訪れたかったのですが、その日は雨で、翌週も都合が合わず、この日も天気は怪しかったのですが、ここを逃すとまた1年行かないだろうと思い、雨の中の散策になりました。最後の後押しをしてくれたのは、他サイトで恐縮ですが、『お城めぐりFAN』の「梅雨時の土砂降りの頃(合戦の季節)いらっしゃった方、川の様子を御覧下さい。城を抜け岡崎に援軍を頼みに走った鳥居強右衛門はこの濁流を泳いで下ったんですよ。死んじゃうよな。」[長篠村の田吾作 (1999.03.24)] の書き込みを見て、決心がつきました。長篠村の田吾作さんありがとうございました<(_ _)>
こんな季節に鳥居強右衛門は豊川を泳ぎ、雨が見込める季節だからこそ勝頼公も決戦の地へと向かってしまったのかと考えてしまいました。

鳶ヶ巣山砦跡から東隣にある姥ヶ懐(うばがふところ)砦跡に三枝守友・守義兄弟の墓があるとの情報があったので、行ってみましたが、柵が鎖でがっちり閉じられており、お参りに行くことができませんでした。三枝守友公のお墓があるとは知らなかったので、この付近の散策では一番楽しみにしていた所でしたが、参れず残念です・・・最近では、三枝昌貞となっているようですが、私の中では守友の印象が強いです。武田二十四将の一人に数えられる方です。

にのまるさん。城郭検定1級合格おめでとうございます!三枝兄弟の墓の情報が合格祝いになるといいのですが、既にご存知でしたら申し訳ありません!ぴーかるさんも準1級合格おめでとうございます🌻

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うさぎ屋

滝山城趾 (2019/07/21 訪問)

全体的によく整備されていて、まわりやすかったです。
ただ、雨の後に訪れたためところどころ滑りやすかったです。

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小城小次郎

松江城

南側から訪ねた時と北側から訪ねた時とでは、お城の雰囲気も石垣も全然違って見える。整備された南側と、比較的古い姿を残す北側と、どちらが好きかはきっと人それぞれだろう。

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赤い城

神奈川と山梨の県境 (2019/07/20 訪問)

北条氏が武田の侵攻に備えた城。
秋山川沿いに位置します。
車を停めようと急カーブ沿いの広い空き地に入ったところ、路線バスのUターンのための地で駐車禁止。
向かいにも駐車出来そうな空き地?があったので停めさせて頂きました。
秋山川にかかる吊り橋を渡ったらすぐ城址です。
説明板が立っていて広い曲輪が残っていました。
蛇行した秋山川に囲まれ、自然の要害となっています。

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トーダイ

クルマで上がれます (2017/07/18 訪問)

坂北村全部と本城村の大部分を本領としていた青柳氏の城であった。青柳氏滅亡後、
武田信玄は川中島への拠点として改修、天文22年(1553)10日間泊まっている。
武田氏滅亡後は小笠原貞慶が、また、川中島への拠点とした。天正11年(1583)
4月から1年間小笠原貞慶と上杉景勝との間で、青柳城と麻績城の取り合いが4回
繰り返された。山城には武田・小笠原の改修により、各時代の特色が残っている。
(案内板より)

登城入口<36.430087,138.017269>から道標に惑わされながら約4キロ走り、青柳
城址公園駐車場<36.428536,138.036191>にようやく到着、一から五の郭のほか
二重の堀切(X2)、石垣跡など見どころが多い、素晴らしい山城です。

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カルビン

ペンパイナッポーアッポーペン(こさか違い(笑)) (2014/12/28 訪問)

この日朝から小幡城を見学した後南下しながら牛久城や木原城等複数のお城を見学し、小坂城にも立ち寄りました。

小坂城はグーグルマップで偶然見つけた場所で、この日訪問した6城のうちで一番期待していなかったのですが・・・
皆様の投稿にあるように、無名で規模もそこまで大きく無いものの、かなり優秀なお城でした。
(今ではちょっと名の知れたお城になったようですね)

凸凹にうねる郭、堀、土橋、土塁等、それ以外にもいろいろ見る事が出来るとは(驚)

規模で言えば小幡城や牛久城に届く訳も無く、100名城に選ばれるまでは行く訳もありません・・・が、土のお城ってこういう物なんだ。。。というのを手軽に学ぶには持って来いの場所です。
ちょっとした坂の登り降りはあるものの山登りする事も無いですし、城址公園入口には数台ではありますが駐車場もありますので。


そして神社仏閣の好きな方には、ここから2.5km離れた場所には牛久大仏もありますので、日本一大きな仏像の中に入ってみるのも宜しいかと。
(大型エレベーターで一気に胸の部分まで登れるんですよ)

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カズサン

二の丸発掘調査始まる (2019/07/24 訪問)

 二の丸跡に在った元城小学校が統廃合に寄り移され跡地の二の丸が発掘調査を開始しました今年6月から翌年3月までと掲示板に出ていました。
 元二の丸御殿が有ったと言われてますので校舎が取り壊され本格的な全面発掘調査が出来新たな情報、従来からの痕跡、言い伝わってる事の確認とか大変貴重な調査に成る事でしょう、発掘調査結果が楽しみです。
 二の丸と本丸の境の本丸土塁根石の確認、現在浜松市役所の地下駐車場に本丸石垣根石が保存されています、その北側方向の確認も楽しみです。
 本丸は東側約半分が削られ通路に成って居り東側に土塁、石垣跡の基壇と思われる土塁状のものが有ります、今回の調査結果で、本丸の復元、二の丸御殿の復元、本丸鉄御門多門櫓、菱櫓、裏御門も併せて復元されると嬉しいのですが、難しいでしょうね。

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トーダイ

堀切・竪堀など確認できますが、夏は? (2019/01/16 訪問)

この地は紀北地方に勢力を張った北畠の臣加藤氏が築いた山城の設けられていたところである。
最初にここに城を築いたのは、初代加藤甚左衛門で至徳元年(1384)のことであったという。
織田信長の三男で伊勢国司北畠氏の養子となった信雄に天正4年(1578)加藤五代甚五郎が
熊野征伐を命じられた。甚五郎は兵を進め一度は三木城(現鷲尾市三木浦)まで進出したが
新宮の堀内氏を中心とする熊野侍の反撃にあい敗れ、長島城へ退き、追撃してきた熊野勢を
迎え討ったが利があらず、また、赤羽谷の奥村氏の内通などもあり、ついに落城、甚五郎は
54歳を最後として自刃をとげたといわれている。(案内板より)

長島神社駐車場(20台)<34.199744,136.332061>を利用、中腹の愛宕山大権現裏から
(夏は見えない?)木段が整備された登城路で城跡まで約5分、主郭周辺は荒れていますが、
城跡碑・堀切・連続竪堀など確認できます。

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チェブ

六郎さんと四郎さん。 (2019/07/21 訪問)

埼玉県深谷市の「人見館」に行きました。
説明板によれば平安時代末期に人見六郎政経さんが築きます。
室町時代に丹波にお引っ越し。
その後、深谷上杉氏一族の上杉 憲武さんが改修します。

私、人物が好きで「人見館」の人見氏を調べてみました。
六郎政経さん以外に四郎入道恩阿さんのお名前を見つけました。
次郎さんや三郎さんはいません。
この二人、兄弟ではなさそうです。
まだまだ調べがい、ありそうです。
お城に戻ります。
「人見館」の横に水路がありました。当時もあったのでしょうか?
後で調べて分かったのですが「土塁だなぁ」と簡単に確認した遺構は二重土塁でした。
この「人見館」、重厚な構えだったんでしょうね。
夏草が伸びてます。やっぱり冬の方が見やすいと思います。

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イオ

日前神宮・國懸神宮 (2019/06/18 訪問)

延徳年間(1489~1492)に紀伊国造・紀俊連が日前神宮・國懸神宮の神領を護るために太田城などと共に築いたとされ、戦国期には太田城の支城となり、羽柴秀吉の紀州攻めにより廃城となったようです。

城域の真ん中を県道(宮街道)が通っており、県道の北側にある畑が堀跡で、畑の中の一段高くなったところが曲輪らしいですが、そう思いながら見てようやくそんな気がしなくもない、という程度で、このために訪れる価値があるかというと…。

あまりに見どころがないので、当初の築城目的である日前神宮・國懸神宮に行ってみると(秋月城から徒歩10分)、中学校や高校、幼稚園に囲まれた街中の神社でありながら、鳥居の先の神域に足を踏み入れると鬱蒼とした木々に覆われて空気が一変するのを感じます。大正期に境内の建物が一新され、古くからの姿は残っていないようですが、歴史のある格式の高い神社であることに違いはないので、秋月城とあわせて……というか、日前宮(日前神宮・國懸神宮の総称)のついでに秋月城をどうぞ。
 

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カズサン

ちょい寄り丸亀城 (2018/06/25 訪問)

 昨年6月下旬四国西部、香川県城巡り24日は丸亀城近くのホテルに宿泊し此処まで来たら寄らなくちゃと24日夜、駅近くの食堂で夕食を済ませ、夜の丸亀城堀端周辺を散策し翌日早朝朝食前に撮影散策しましたので写真を添付します、写真説明は皆さん良くご存じの事とでしょうから省きます。
 
 四国城巡りが終わって7月上旬に大雨に寄り丸亀城の高石垣の崩落報道に接し大変悲しんでおります、早い復旧と復興を期待しております、頑張れ「丸亀城」。

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