関東の秀吉の城跡行ってみました。
ここは小田原城とセットで行きたい場所ですね。
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2019/07/28 21:23
2019/07/28 21:13
2019/07/28 20:18
JR越美北線の本数の少なさから… (2018/09/02 訪問)
ついつい広域マップを広げ,県境をまたいで郡上八幡城が比較的近いので,公共交通が整備されていれば…と考えてました。長良川鉄道とセットの鉄道旅は,鉄道好きや城好き以外にも需要があると思うんだけどな…。
日かげを選びながら,JR越前大野駅から徒歩約25分で越前大野城へ到着。雲海は期待できないシーズンだったので,雲海撮影スポットの戌山城址への登城は見送り。蜂,蚊,虻,蛇も凄そうな気配ムンムンしてました…。
ランチは“平成大野屋”にて。このエリアでは唯一のこじゃれたレストランかも…。油揚げステーキ定食をアップしますネ!
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2019/07/28 18:56
2019/07/28 17:13
お万の方ゆかりの城 (2019/07/28 訪問)
徳川家康の次男秀康の母お万の方ゆかりの城址です。知立駅から徒歩5分くらいで城址碑のある公園に行くことができます。遺構はありません。
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2019/07/28 17:09
2019/07/28 16:59
大浜陣屋 (2019/07/28 訪問)
大浜陣屋が羽城の跡に作られたとのことで、その周辺が城址です。 碧南駅から歩いて5分くらいで大浜陣屋広場に行くことができます。
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2019/07/28 16:57
海上砲台から五輪会場へ (2019/04/14 訪問)
1853年ペリー率いるアメリカ海軍艦隊が浦賀沖にあらわれ、江戸幕府に開国を要求します。
これを機に幕府は防衛策に乗り出し、海上に洋式の砲台を建設することを計画します。江戸の町を防衛する為、品川沖に土を盛って人工島を造り、15ヶ月で5つの海上砲台を完成させます。
その後、幕府は開国に舵を切り、品川台場の砲台が使われることは無く、明治以降それぞれ違う役割を与えられます。現在残るのは、史跡公園として続100名城に選定されている第三台場(台場公園)とその脇に手つかずの状態のままの第六台場(立入禁止)です。
1979年に完成した13号埋立て地がこの第三台場とつながり、地名が「お台場」となり、周辺がお台場海浜公園になっています。第三台場は一辺が160m のひし形をしていて敷地内は、思った以上に広く感じられます。石垣や陣屋跡、砲台跡などが見られ、海風が大変心地好いです。
臨海副都心として魅力的な変貌を遂げた「お台場」は来年夏、東京2020オリンピック・パラリンピックの競技会場になっています。お隣の有明も含め、観戦したい競技が盛りだくさんです。新設される「有明アリーナ」でバレーボール2試合、家族で生観戦予定です!
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2019/07/28 16:07
横地城 (2019/03/02 訪問)
横地姓の発祥地です。
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2019/07/28 15:39
黒田代官屋敷 (2018/07/28 訪問)
人が住んでいてビックリしました。堀に囲まれ防犯完璧です。
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2019/07/28 15:31
横須賀城 (2018/05/27 訪問)
丸石の石垣が珍しい。
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2019/07/28 15:24
久野城 (2019/06/09 訪問)
カモシカに会いました。
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2019/07/28 15:16
造山古墳…もとい毛利方の陣城跡。 (2019/07/21 訪問)
岡山市北区、造山古墳は5世紀前半に吉備一帯を治めていたと思われる一大勢力により築造されたと推定されている、全国でも第4位の規模を誇る前方後円墳です。
…何故『城びと』なのに古墳を紹介するのか?
実はここ、備中高松城攻めの際に羽柴勢に対抗すべく、毛利方が造山古墳を利用して築いた陣城だったのです。
南の日差山には小早川隆景の陣もあり、造山古墳からも割と近いです。
陣城の遺構としては、主に後円部に集中しています。
頂上部が主郭として利用され、やや方形に土塁が築かれています。斜面には竪堀や郭跡らしき小さなテラスがいくつか見受けられます。
ちなみに、誰がここを築き、守っていたのかは不明だそうです。
古墳を利用して城が築かれるというのは決して珍しい事ではなく、代表的な例としては高槻市の今城塚古墳や大阪市の茶臼山古墳などがありますね。大坂城の前身である大坂本願寺も古墳を利用したという説があります。そういえば大坂城本丸の形、どことなく古墳っぽい気が…。
『城びと』には登録されていませんが、備中高松城水攻め関連遺跡としても古墳好きとしても見所のある、面白い場所だと思います。
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2019/07/28 14:29
社山城 (2019/01/05 訪問)
遺構が複雑で面白い。
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2019/07/28 14:19
其の弐、宗治公胴塚から蛙ヶ鼻の築堤跡を探訪。 (2019/07/21 訪問)
本丸跡の北側一帯は、『家中屋敷』といわれる郭の跡です。
その一角に、清水宗治公の胴塚があります。
しかしどうみても私有地というか民家の庭先なので遠慮気味にお邪魔して、手を合わせてきました。
舟上で切腹を終えて城内へ戻った首の無い宗治公の遺体。それを見て城内の一同は嗚咽を隠せなかったそうです。そしてすぐに手厚く葬られたのですが、その際に介錯人を務めた国府市佑は自らの首を掻き切り、墓穴に落ち込んで殉死したそうです。…壮絶。
三の丸跡の駐車場に戻って…と、その前に見逃せないのは『清水宗治公自刃の地』。その名も高松山妙玄寺の境内にあります。
家臣城兵とその家族の命と引き換えに切腹に臨んだ宗治公。その前に秀吉からは酒肴と切腹の為の舟が用意され、謡曲『誓願寺』を舞った後に辞世を詠み切腹したその姿勢は秀吉をして「武士の鏡なり」と感嘆させ、後の世の切腹の作法の手本となったとか。
ちなみに、城の守護神は妙玄寺に祀られたあと、後に最上稲荷妙教寺の妙見堂に祀られているそうです。
そしてその自刃の地すぐ南に『ごうやぶ』と呼ばれる一角があります。
ここは家臣二名が「我らもお供仕る」と宗治公の後を追って差し違えた場所といいます。ここでも壮絶なエピソードが…。
そして最上稲荷の大鳥居方面にマイカーを走らせ、いよいよ蛙ヶ鼻の築堤跡へ。
築堤の規模などについては諸説あるようですが、僅か12日間で高さ約6mの堤防を築き上げ、足守川をせき止めて高松城を見る見るうちに孤立化させたのですね。
堤防は現在ごく一部が残るだけですが、発掘調査によると、土俵を積んで木杭で固定工法であったことが判明しております。土俵だと版築とか土を直接積み上げるとかよりはるかに早く高く積めます。尚且つ、現代の土嚢と同じくしっかり隙間なく積めてさえいれば決壊しにくい。よく考えられてますね。
秀吉といえば水攻めは代名詞みたいに語られていますが、実は水攻めの成功例は世界的に見てもあまり無いようで、高松城の水攻めはその数少ない成功例だそうです。今度ちゃんと調べてみようかな。
まさに物量面や資金面のみならず、人員やその士気が高かったことも、全てがかみ合って上手くいったからこその勝利と言えるでしょう。
この他にも高松城攻略関連の遺跡は数多くあるようですが、今回はここまで。
他に目的地があったので、今回行けなかった最上稲荷とともに、また次の機会に。
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2019/07/28 14:12
2019/07/28 13:42
郭は畑ですがよく整備されています (2019/07/27 訪問)
近くに駐車場はありません。
搦め手となる妙見社から登城しました。
登城道は竹藪ですが綺麗に整備されています。
しばらく登ると奥仲城の虎口、郭は畑になっていました。
さらに進むと主郭跡の碑が立っていて空堀や横矢係りが観察できます。
仲々城にも空堀がありました。
その先、大手門方面にも行けるそうですが時間がなく引き返しました。
訪問する価値はあると思います。
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2019/07/28 11:39
其の壱、舟橋跡から本丸跡を歩く。 (2019/07/21 訪問)
※先に謝っておきます。スミマセン、前編後編に分けます…m(_ _)m
以前から行きたかったのに、足守の陣屋町や吉備津神社などでタイムリミットだったりと御縁がなかなかなかったのですが、ようやく訪れる事が出来ました!
秀吉による指揮の元、黒田官兵衛の献策による水攻めで余りにも有名なお城なので、細かい歴史や経緯は割愛。しかしここから秀吉の天下取りに向けての進撃が始まり、歴史の一大転換の地となったと思うと、もうそれだけで胸熱です!
そして大河ドラマ『軍師官兵衛』における岡田准一さん演じる官兵衛の、あの狂気を帯びた表情で竹中直人さん演じる秀吉に対し「御運が開けたのですぞ!!」と焚き付けるシーンが脳裏に浮かびます(笑)。
まずは『舟橋』から。
今はコンクリートの小さな橋ですが、当時は川船を並べてその上に板を渡して橋とし、有事の際は撤去して防御を固めた構造だったとか。
四方が田畑や沼地だったという高松城らしい軍事設備です。
そして三の丸跡の駐車場にマイカーを停め、早速城内へ。
午前10時半到着の時点で車はイッパイ。なかなかの人気振りです。蓮の花がもうすぐ見頃を迎えるということで、多くの方々がカメラを構えていらっしゃいました。
現在城域の大半は民家や田畑と化していますが、当時は本丸の南に二の丸が連なり、それらを家中屋敷群や三の丸が北から東にかけてコの字状に囲み、西一帯を広い蓮沼で防御を固めていたようです。
その蓮沼は史跡公園として美しく整備された際に復元されましたが、そのうち蓮が『勝手に生えてきた』そうです。蓮凄い。宗治公も堀一面に咲く蓮の花を見ていたのでしょうか。
てか、攻め手側にしてみれば、蓮がこれだけ密集していればなかなか容易に近づけないことでしょう。
あと、三の丸と二の丸との間の堀跡に位置(推定)する資料館は必ず訪れてみて下さい。パンフレットや展示物などなどしっかり情報収集出来ますし、スタッフの方々が親切に教えてくれますよ。また、撮影OKとのことで、昭和60年の水害の時の写真パネルを撮らせていただきました。水攻めの時の様子を彷彿とさせます。高松地域の地理がとてもよくわかります。
ちなみにこちらにて『備中高松城 水攻めの史跡を歩く』の冊子を購入しました。200円也。
大半が民家となっている二の丸跡を抜け、いよいよ本丸跡へ。
やはり本丸跡周辺が当時の面影を一番残しているのではないでしょうか。僅かながら周辺より少し標高が高く感じます。
本丸跡に来れば、清水宗治公の首塚に手を合わせておきましょう。
元々は秀吉の本陣だった石井山に、首実検を終えた後に家臣に命じて造らせたのを、明治になって本丸跡に移したのだとか。
宗治公にとっては敵陣から城を見下ろすよりも、城に里帰りしたほうが安らかに眠れるのでしょう。胴塚も近いですし。
いろんなことを考えながら、蓮沼越しに本丸跡をしばし眺めた後、家中屋敷跡と胴塚へ向かいました。
後編へ続かせていただきますm(_ _)m
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2019/07/28 11:29
浜松城 (2017/02/19 訪問)
周辺の木が少しずつ伐採されていて、よくなってきました。
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2019/07/28 11:23
中世宇土城 (2019/07/25 訪問)
横堀が残ってますが風化を防ぐためモルタルで固めてあります。
宇土城(近世宇土城)はすぐそばにあります。
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