比較的登りやすい。上からの眺望もよかった
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2020/02/12 12:21
2020/02/12 10:13
土塁と水堀が良好に残る古城跡 (2018/12/25 訪問)
高岡城は、加賀100万石の初代(あるいは2代)藩主前田利長公の隠居所として築かれました。
最初の隠居地富山が火災で焼失、次いで、魚津城に移った後、高岡に新城を築いてうつったといわれますが、高岡城は、未完成のまま、廃城になったともいわれています。
現在は、国の史跡、日本100名城に選定され、高岡古城公園として整備されています。
駐車場もありますし、高岡駅から歩いて15分ほどで行くことができます。
近世城郭でありながら、石垣はほとんど用いておらず、水堀と土塁が良好に残されています。
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2020/02/12 06:40
2020/02/12 01:47
見えまくり。 (2020/01/21 訪問)
初めて真田の郷に足を踏み入れたのが2年前の1月。上田駅周辺は平気だったのに真田は猛吹雪で、その時の自然に対する恐怖と畏怖は忘れることができません。
ですが!その年の秋に砥石城を端から端まで歩いて心理的ダメージも回復したので、このたび真田の郷ウォーキングに行ってきました。2年前と同じ1月ですが今年は暖冬で雪も寒さも大丈夫でした。
石舟バス停から登っていきましたが、車道をぐるぐる歩かなくてもショートカットできる歩道があったので上がっていくと真田本城入口のところで車道と合流しました。その先「熊久保集落コース(車と歩行者)」と「風光明媚コース(歩行者)」に分かれていたので風光明媚コースから上がりましたが遠くまで見渡せて爽快な眺めでした。
そして、いきなり視界が開け、別世界が出現!手入れの行き届いた気持ちのいい広場で、ここでもしばし眺望を楽しみました。
と、ここまではまだプロローグ。この先に一郭→二郭→三郭と細長い連郭式の曲輪群がありました。一見シンプルではありますが周囲は崖。そして雪が降るととんでもないことになるはずで、この日も三郭の水道の水が凍っていました。(当時からある水の手の名残でしょうか?)二郭の虎口と腰曲輪、石積が遺構としての見どころだと思いますが(表示があったのでわかりました)、城としての見どころはここからの監視力の凄さ。上州道も周辺のお城も一望のもと。(現地に周辺のお城の地図あります。)
このあと真田氏館跡に寄りましたが、ほんとは松尾古城(と日向畑遺跡)に行きたくてたまりません。どのくらい大変なのでしょうか…。
⭐︎猿さん、お久しぶりです‼︎
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2020/02/12 00:24
寺尾城ツアーに参加して (2020/02/11 訪問)
余りメジャーじゃないお城ですが、イマジネーションを掻き立てるには充分でした!
小高い山と平地との高低差を上手く利用したお城だったようです!
また、海にも近く水運が発達していたようです!
寺尾城跡の高台からは、富士山も見えてここが城山であることを感じさせられました!
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2020/02/11 22:30
2020/02/11 22:18
秀吉ゆかりの頭陀寺城 (2020/02/11 訪問)
言い伝えに「少年時代の秀吉が、旅をしてる時に松下氏に拾われて3年間奉公した」等々諸説あるが、秀吉が松下家に3年間仕えた事は確かなようだ。私の驚きは、「1568年に父親の井伊直親を殺されて力を失った、幼少の井伊直政かくまって養子にした事」だ。徳川家の家臣だった松下氏が井伊家を助けなけば、井伊直政が徳川家康に目をつけてもらえるはずもなく、天下を取った豊臣秀吉に重宝される事も無かったはずだ。松下屋敷跡は、当時は水堀に囲まれた100m四方の大きな屋敷で、頭陀寺絵図によると寺の本堂から屋敷から一体となって頭陀寺城を形成していたようだ。頭陀寺の境内に歴史資料館がある。残念ながら撮影禁止、書物も販売していないが、非常に貴重な資料がいくつも展示してあり、満足度が高い。
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2020/02/11 21:58
読み「しゅうち」なんだけど… (2020/02/11 訪問)
晴天の丹波路を北上し須知城跡に行ってきた。
前回は琴滝のついでに登ったが倒木に次ぐ倒木に阻まれ進めなくなりリタイア。今回は明石(あげし)ルートから登った。
まぁまぁ真っ直ぐの登りで結構しんどかった。土が滑るのでトレッキングシューズとポール必須で。
曲輪の説明などはないが、頂上付近に曲輪か並んでいると思われる。主曲輪付近に石垣が多く残っており見ごたえがあった。
頂上からは名峰美女山から京丹波町の町並みが見えるほか、琴滝も荘厳。玉雲寺は明智に焼かれ再建された島津所縁の寺。見所も多い。
この大河ドラマで丹波の歴史に光が当たってほしいと願う。
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2020/02/11 21:27
誰も気に留めない小山 (2020/02/11 訪問)
少なくとも20年前からこの高さ6m程度の小山が目には入っていたが、遺構だと知ったのはこのサイトだ。外国船に対抗するための大砲台場との事だが、あらたまって案内板を見てビックリ!今から170年前は、高さが27mあったとの事。。。しかもこの山の位置が、海岸堤防の位置だったと言う。今の海岸は当時より500mも南にあり、それだけ天竜川の堆砂や地盤変動があったという事。台場の頂上から遠州灘を見ようとすると巨大な防潮堤で視界を遮って見えないが、その防潮堤で高さ15m程度。防潮堤の倍の高さを誇ったという事は、浜松城からも見えたであろう。いずれARなどで再現される事を願う。
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2020/02/11 20:43
七本槍賤ケ岳砦は絶景 (2016/05/05 訪問)
平成28年5月連休日帰り滋賀県未踏の城廻り、観音寺城を終えて賤ケ岳砦初登城、情報ガイドは何時もの城郭放浪記さん、余湖図コレクションさんによる。
連休で人出も多くリフトの駐車場は満車、若干並んで待ちほどなく駐車出来ました、リフトへの道すがら七本槍の各武将ごとに案内板が並んでる、清正、正則、嘉明、且元、安治等聞き及んでる武将たち。
リフトで山頂駅へそこから急峻な坂道を七本槍の武将撮影看板夫々の武将ごとに在り見ながら登ると辛い坂道もなんのその山頂曲輪へ琵琶湖、余呉湖を見下ろせ絶景圧巻、賤ケ岳合戦方向も一望下、440年前も昨日の様歴史実感でワクワクして来ます。
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2020/02/11 20:32
八木城大河ドラマ出るかなー② (2020/02/11 訪問)
麓や人物の話を少し。
昔、暴れ川であった大堰川(桂川)は麓の龍興寺(りょうこうじ)前の道路辺りを流れていたらしく、多くの寺院や塔中が配され、尼寺までも抱える妙心寺派の大寺院であった。現在もおびただしい石垣が残され、内藤氏の居館跡と伝わる東雲寺の入口は枡形となっている。
有事は居館から真っ直ぐの道を駆け城に詰めたと伝わっている。
山頂からは北部が見えないが鶴首山城が配され監視できる体制であったらしい。
さて、内藤家だが、細川の被官であり丹波を支配していたが、松永久秀の弟が養子で入り内藤宗勝を名乗り版図を広げたが、若狭攻めで失敗し、黒井城攻めで討死したことで没落していく。
家督争いに敗れたジョアンは八木城落城の難に遭わず将軍足利義昭に帯同し京から堺を経て鞆の浦に逃れる。ここで小西行長に出会う。
小西に遣えることとなったジョアンは朝鮮の役(文法の役)で共に外交官として活躍し停戦交渉に臨むが秀吉に嘘がばれ怒りを買うがなぜか生き延びる。
その後、主君小西行長は関ヶ原の戦で討死するがジョアンは難を逃れ有馬、加藤の後に前田家の客将となる。この時高山右近とともに高田にいたのではと言われている。
徳川家康がキリシタン追放令ひ発すると高山右近とともにマニラに渡り、右近は2年で亡くなったがその後12年に渡り日本人町の発展に尽くし天命を全うしている。
キリシタンということで家系図からも抹消されていたが近年の研究で様々なことが判明してきており、ジョアンの甲冑は二代将軍秀忠がイギリスに贈りロンドン塔に現存している。
八木城は昨年赤色航測図を作成した成果などを園部城域内にある南丹市文化博物館で3/29(日)まで展示している。
命が軽んじられていた時代に四度の難を逃れ海外を股にかけ信仰に生き抜いた人生は習うべきものがある。是非大河ドラマで取り上げていただきたい。
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2020/02/11 20:28
児島湾に臨む小山 (2020/02/09 訪問)
現在は干拓地が拡がっているが、戦国時代は児島湾は広かったと。宇喜多直家は16才で最前線の乙子城主となった。備前、美作の城の多くは、宇喜多直家が絡んで説明される。
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2020/02/11 20:19
小川城
単身流れてきた赤松氏の一族が謙信に認められて小川可遊斎を名乗り、見知らぬ土地で孤軍奮闘したという熱い歴史を負っている。そんなお城が、今や新幹線駅から徒歩圏の超駅近物件へと変貌した。
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2020/02/11 19:53
八木城大河ドラマ出るかなー① (2020/02/11 訪問)
地元の方々が遊歩道などを整備されたと伺ったので久々に登ってきた。
春日神社に車を置き内藤ジョアンの碑を左へ曲がると京都縦貫道下の隨道が城門風となっておりそこを抜けると登山口だ。
麓エリアに武家屋敷群があり階段状の平地が見られる。
城山登山道はかつて地元小学生が城山の合目標柱を建ててくれていたが、間隔が驚く程適当だった。(かわいい笑)今は山頂からしっかり計測され標柱が立てられている。
山頂の少し手前に対面所という番所の役割を果たしたと言われる曲輪がある。
石垣が見えてきたら馬屋を上がり左に曲がれば本丸だ。本丸には金之間と呼ばれる一段高い曲輪があるほか東側は三段になっている。
本丸からは京と丹波の境西山山系から愛宕山系、大堰川(桂川)など亀岡盆地が一望できる。
急峻な地形を生かし竹に油を塗り立て掛けて滑って登れないようにして明智軍をかわしていたが火を放たれ炎上したと伝わる。
また、妙見宮辺りに地下道の出口があり難を逃れられるようになっていたという伝承も。(ほんまかいな)
山陰道を眼下に見下ろし、篠山街道へも近接し、船井郡と桑田郡に跨がる広大な城域は、武将名のついた曲輪が多数あり一般的な名称ではなかなか説明しにくい(笑)
馬屋から二之丸の間には堀切があり、亀岡市神前(こうざき)方面には竪堀も見られるとのこと。
烏嶽曲輪を見た後、妙見宮から降りようとしたが倒木により通行が規制されており、来た道から下山した。
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2020/02/11 19:51
本丸と平井丸探訪 (2016/05/05 訪問)
平成28年5月連休滋賀の未踏の城廻り、三雲城を終えて観音寺城初登城、何時もの城郭放浪記さん、余湖図コレクションさんの情報ガイドで繖公園側から狭い観音正寺参道を登り有料ゲートで有料山林通行料600円を払い離合困難な道を走行、対向車が来ない事を願いながら走行するもタクシーと遭遇し何度か谷側ギリギリに幅寄せしてタクシーの素晴らしい運転技術に救われて切り抜けほっとして観音正寺駐車場に車を停める。
駐車場から10分位の道のりでも各曲輪を上下に確認し観音寺城のスケールの大きさを実感する寺に入る前にも土塁石垣門、参拝料500円を払い、100名城スタンプゲット、観音正寺、観音寺城の資料併せて戴く。
全城廻るのは無理なので観音正寺から観音寺城へ降りるゲートを開け閉めして観音正寺石垣下を通り案内に従い本丸へ、本丸石階段を降りて観音寺城の写真でよく露出してる平井丸石垣門の立派さにびっくり、池田丸方向は見下ろすだけの探訪。
参拝者は多いのですが登城者は私一人。
下城は対向車が無く無事下山しました、やれやれ安堵感満載。
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2020/02/11 17:37
秘密基地のような、お城跡。 (2020/01/03 訪問)
久野 宗隆さんの築城した「久野城」です。
桶狭間の戦いでは宗隆さんの子、元宗さんは今川軍。討死してしまいました。
久野家は宗能さんが継ぎます。ちょっと先々心配な今川家から離反して徳川家に従いました。
でも、一族や家臣の中で今川家か徳川家かと揉めたようで、、、。家康さん暗殺計画があったんだとか。
家康さんが関東転封になり久野家も下総国佐倉へお引っ越しです。
代わって秀吉さんの家臣が入りました。
「久野城」の石垣を許可なく修築した為、蟄居。
そうして、久野 宗能さんが隠居城として「久野城」に復活します。
お帰りなさい!久野家の皆様!
「久野城」は田んぼや民家がある、のどかな風景の中に、こんもりとありました。
駐車場もトイレもあります。
城攻めは1月3日だったのにトイレは清掃されてました。
地元の方々が大切にしている「久野城」です。
「ご自由にどうぞ」のパンフレットをいただき出陣です。
この日、風が強かったのでヨロヨロ歩きましたが大丈夫!
危険な所は歩きやすく石が敷かれ、手すりも場所により設置してあります。
パンフレットを見なくても案内板があります。たぶんチビッ子用ですが、、、。
コンパクトで親切な「久野城」。秘密基地にしたいお城跡です。
ちなみに子供の頃、無人の神社の床下が秘密基地で、捨て猫とマンガを隠してました(笑)
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2020/02/11 17:15
冬の特別公開と期間限定の御城印 (2020/02/11 訪問)
今日、姫路城へ行きました。姫路城に行くのは3回目です。冬の特別公開があると知ったので、行って来ました。今回初めてガイドをしてもらい、いろいろなことを教えていただきました。
特別公開の帯の櫓は、姫路城で一番高い石垣の上に建てられた櫓です。中は入れませんでしたが、櫓の近くまで見学できました。
太鼓櫓は、初公開でした。中がななめになっていました。
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2020/02/11 16:09
2020/02/11 16:06
芦屋の豪邸もいろいろ (2020/02/01 訪問)
トーダイさんが登城の際は、黄砂で景色が霞んでたとのことから、大阪湾方面と神戸方面の眺望写真をアップします。登山道は、更に奥の荒地山に続くハイキング道であり、けっこうハイカーに会いました。一人で黙々と道を整備している方も。
麓の説明板に、わざわざ「中世の城跡としての遺構は何も残っていない」と書くのもどうなんでしょう。
下山後、豪邸見物を兼ねて平野城まで山手を散策しました。
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