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カズサン

金箔瓦が発見された日野江城 (2016/06/20 訪問)

 平成28年6月、原城、有馬キリシタン遺産記念館を終えて日野江城を初登城、情報とガイドは何時もの城郭放浪記さん、余湖図コレクションさんに因る。
 大手川沿いの駐車場は日野江城の東大手側、二の丸数段曲輪の石垣城塁が本丸に向かって並び聳えてる、雨の中でしたが大手口から二の丸北側の登り階段を上がる、二の丸の登城階段発掘調査で金箔瓦が出た所、今は埋め戻されている、を通り本丸下段の城塁を廻りこみ西側の登城路から本丸下段、中段、上段、その上は祠が祀られてる。
 西側本丸下がもう一つの駐車場、通路堀切の西に三の丸、北に北の丸を確認、遠望する、南面は崖で切り立った山稜を東尾根筋、北尾根筋と城郭に造り規模全体は大きい。見応えの有る城郭でドロンで東側より俯瞰してみたい。
 有馬氏が原城、日野江城と規模の大きい城郭を造り金箔瓦も有り、財力、豊臣政権との繋がりが伺えます。

 訪ねた翌年に集中豪雨で二の丸上から本丸の間で崩落が有ったとのニュースを聞きどうなってるのでしょうか?心配しております。

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tos-M

待ち遠しい 木造復元・二の丸丑寅櫓 (2020/02/09 訪問)

西尾城跡にある西尾市歴史公園の一角に現在、二の丸丑寅櫓の復元工事が進行中です。
完成予定は2020年6月26日だそうです。この城跡にある歴史公園には、本丸丑寅櫓や二の丸表門にあたる鍮石門が木造再建されています。
また姫丸跡にある西尾市資料館は、入場無料ですが展示物は西尾藩・西尾城の歴史がわかる資料が多くあり、公園全体が西尾市民の憩いの場・歴史を学ぶであるとともにお城ファンにはたまらない場所です。パンフレットもいただけますので是非お立ち寄り下さい。

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SIN

池田城跡公園 (2020/02/11 訪問)

阪急池田駅から五月山方向へ徒歩10分ほど、車でも体育館のコインパーキングを利用して数分歩けば行けます。
小高い場所でやぐら風展望休憩舎からは市街地の景色が見回せて良い場所でした!

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SIN

尼崎城 (2020/02/11 訪問)

オープンに行ったのですが、ゆっくり見れなかったのでゆっくり見回りました!無料でなりきり体験をして、御城印も入手しました( ╹▽╹ )

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todo94

住吉神社 (2020/02/08 訪問)

正覚寺に直行して、住吉神社に登っていきました。住吉城の説明板と抜け穴を確認してから、周囲を少し散策してみました。鐙摺城ほどではありませんが、富士山と江の島がきれいに見えました。住吉隧道もくぐり抜けてみました。

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中川藤兵衛尉

龍王山城 (2020/02/10 訪問)

此方も数年振りの再訪。北城本丸から奥への道が崩壊していました

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中川藤兵衛尉

藤井城 (2020/02/10 訪問)

龍王山城の近くにあった城。登城路が崩壊していました

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中川藤兵衛尉

和州豊田城 (2020/02/10 訪問)

数年ぶりに再訪したのですが、堀が圧巻でした。曲輪は殆どが藪でしたが……

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中川藤兵衛尉

別所城 (2020/02/10 訪問)

近鉄天理駅の北東にあった城。残存する土塁や圧巻

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小城小次郎

根室半島チャシ群

海を臨み大地を画する小空間は、存在自体がパワースポット。わけ知り顔で歩き回るキタキツネさえも、神の使いに見えてくる。

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どう

丸山城 (2020/02/09 訪問)

国道246号線を走っていると、丸山城址公園の案内を偶然見つけ突如訪問。
ほとんどの遺構は公園の土の下らしいが、全体の面影や造り上げた城跡を感じることはできる。

やや小ぶりと感じたが、国道が城跡を横断しているらしく、本来反対側まで広がっていた様子。国道に橋がかかって渡れるが、突如訪問の為時間なく次回へ持ち越しとする。
以前まだ城に興味があまりなかった頃に何度も通ってきた場所だが、何で今まで気付かなかったのかと思い知らされる。

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くっしー

縄張りからして綺麗なお城 (2020/02/10 訪問)

もちろん、天守がとても綺麗なお城なんですが、ぐるっと城内を一周すると清々しい気分になれるお城ですね。
城の中には「狭間」や「石落とし」にキャプションがついているのもいいですね。
あと江戸時代の城絵図がいろんなところで利用されているのもいいです。(画像を載せたかったのですが、10枚を超えてしまったので・・・)
それから、御殿が綺麗です。二の丸庭園もいいです。説明しきれませんので是非行って観てください!!

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タイ

登城路なし (2018/03/18 訪問)

害獣防止柵から入って、ひたすら上へ。登城路はありません。登頂すると、郭のような地形としっかりとした堀切が見られます。

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カズサン

巨石も残る大城郭素晴らしい (2016/06/20 訪問)

 今回の城廻りは中々遠くて訪ねられなかった原城を主目的にしており当日は雨で傘を差しながらの探訪、車で国道251号線から原城の案内板を城跡方向に大看板が出てます、そのまま本丸大手の駐車場に停める。
 本丸は大手門跡には根石部分に巨石が残り大手枡形、本丸北面は石垣壁が連なり大手枡形まで壮大で圧巻です、北面の石垣を見ながら本丸東の池尻口門から本丸に登る、天草四郎の像、南断崖が海に落ち込み、西側の発掘復元された櫓台、本丸枡形を構成してる発掘された本丸門跡、枡形虎口、本丸大手門跡、北の大空堀、二の丸、三の丸、田尻門跡、阿蘇山の火砕流堆積物で出来た断崖の見学、大手門跡、板倉重昌の碑と廻りました。
 立地場所といい縄張り、石垣、大堀、二の丸、三の丸と曲輪も広く海に面して水軍の基地等含めれば大城郭、島原の乱の反乱側の城域に使われた事が分ります。
 発掘調査復元管理整備が行き届いてる城跡です、晴れた日にゆっくりと探訪したい城です。

 この後有馬キリシタン遺産記念館に寄り勉強と資料を頂き、日野江城の発掘調査で発見された金箔瓦(レプリカ)も見学しました。 

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くっしー

長久手古戦場 (2020/02/10 訪問)

「小牧・長久手の戦い」とは、天正12(1584)年に羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄の間で行われた戦いです。
天下分け目の戦いといえば、「関ケ原の戦い」のことを言う場合が普通ですが、個人的にはこの「小牧・長久手の戦い」も、その後の政治史に大きな影響を与えた合戦だと考えています。

というわけで、現地確認してきました。

そもそも、何が残っているのかということですが「長久手古戦場公園」という公園があります。
そこには、「勝入塚」があります。
勝入とは池田恒興の法名です。すなわち、ここは池田恒興の戦死地なんですね。
そこから西へ300mでいったところに「武蔵塚」があります。
森長可のことを「鬼武蔵」と呼んだことから、彼の戦死地のことを「武蔵塚」と呼ぶのですね。
ただ、見つけるのにてこずった。
その結果、それ以外のいろんなものを見つけることになりました。
それが・・・「鎧掛けの松」「長久手城址」「血の池公園」などです。

書くのがつかれてきたので、画像を見てください。そこに説明も載せました( ̄▽ ̄;)

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くっしー

空堀が良かった。 (2020/02/10 訪問)

「ニッポン城めぐり」で偶然見つけたので行ってきました。

縄張りはそれほど大きくないですが、なかなか良かったですよ!
特に「空堀」はなかなか大きな掘削で見ごたえがありました。本丸を囲む形で二の丸と西の曲輪を隔てています。
築城は織田信秀(信長の父)で、その後丹羽氏が支配。小牧・長久手の戦いで落城すると廃城となったそうです。

ちなみに、発掘調査で城内から古墳が見つかっているそうです。

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skoba

雲海の城 (2007/01/04 訪問)

三大山城の一城。早朝から雲海に浮かぶ松山城を見てから登城する。雲海に浮かぶ現存の城が見れて感動しました。巨大な岩盤を利用した石垣は圧巻で、現存最小の天守にもかかわらず心に残る一城でした。大河ドラマの真田丸のオープニングに使われたお城です。登城途中は猿が出ますので気をつけてください。

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岡山平野を見下ろす要所 (2020/02/09 訪問)

城の構造や歴史は先達(備前石工河内屋治兵衛さん)の投稿を参照。山頂からは、岡山城を含め、西方が見渡せ、要所とわかる
津本陽の「備前物語 宇喜多秀家」に、明禅寺攻めの描写があり、「二本の樹木のあいだに張った縄に巨石を引っかけ、大勢の軍兵が引き...巨石は唸りをたてて宙を飛び」と。山頂付近だけでなく、登城道にも花崗岩が露頭。敵に飛ばす巨石にはこと欠かない。
三村の二万に対し宇喜多五千が勝ったのは、決戦に先立ち当日に明禅寺城を落としたのに加え、休ませた兵を次々と投入する「繰り引きの戦法」が斬新で効果大だったのだと。
登城道は、落ち葉が掃かれ、登り易かったです。地元の方々がラジオ体操を兼ねて来られ、維持管理されているのだと思います。

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カルビン

徳川家に冷遇されていった悲しい大久保家のお城 (2016/05/03 訪問)

以前三島大社をメインに静岡県東部を訪問した際に立ち寄った沼津城。

現在は開発が進み、城址公園となった場所にはお城で有った事を示す遺構は残っておりません。
代わりに城碑と解説が充実しております。

大通り沿いに何ヶ所か石垣(移築)や遺構跡地があるので、そちらも一緒に見れれば良いのでしょうが・・・その詳細位置が訪問した当時解らなかった為に、跡地しか確認出来ませんでしたorz
(以前車で訪問した際、駐車出来る場所を見つけられず・・・信号待ちで見つけた外堀跡とその際用いられた石垣の写真も添付しておきますw)

沼津には徒歩圏内に沼津城の城主だった大久保忠佐の菩提・妙伝寺もありますので、セット訪問推奨です。


大久保家は徳川幕府設立に大きな力になったものの、戦闘力こそあれ、その後幕府運営に適した人材がいなかった為か、徐々に冷遇されて最後には御家断絶してしまいます。
(大久保忠佐の弟・彦佐衛門忠教(三河物語の著者・旗本で復帰)や、忠教の甥・忠隣も小田原藩改易後にその系統の忠朝が大久保家の累代の功績が認められて藩主として復帰する等、大久保家は復活した)

江戸幕府設立あたりから、その功労者であったバズの本多家・榊原家等多くの武闘派の家が徐々に勢力減退して行ったのを見て、徳川家って冷たいな~と思えてなりません。

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イオ

関ケ原古戦場(西軍編) (2020/02/01 訪問)

さて、朝一番で登った松尾山から下りてくると、いよいよ関ケ原古戦場めぐりです。実際には東軍西軍関係なく近い順にめぐっていったんですが、西軍編、東軍編、両軍・垂井町編に分けて投稿します。

大谷吉継陣跡

大谷吉継は小早川秀秋の寝返りに備えて、松尾山を見渡せる若宮八幡神社の裏手に布陣しました。
参道の南側に無料駐車場があり、神社の脇を登っていくと陣跡の石碑と塹壕状の土塁・横堀が見られます。また、陣跡から東に行くと松尾山眺望地、北に登っていくと吉継の墓所があります。
関ケ原で戦った諸将の中では大谷吉継が一番好きで(真田信繁の舅どのでもありますし)、墓所にも手をあわせてきたんですが、吉継の介錯をした側近の湯浅五助と大谷隊と戦った藤堂高虎の甥・藤堂高刑との約束、そして吉継の墓を藤堂氏が建立したことを現地の説明板で知り、胸が熱くなる思いでした…。

平塚為広碑

平塚為広は大谷吉継の前衛として布陣し、吉継から前線の指揮を任されて奮戦しましたが、小早川秀秋に続く脇坂安治らの寝返りにより、吉継に辞世の句を送って討死。それに対する吉継の返句(辞世の句)とともにこれまた胸が熱くなります…。
平塚為広「名のために捨つる命は惜しからじ 終に留まらぬ浮世と思えば」
大谷吉継「契りあらば六の巷に待てしばし おくれ先立つ事はありとも」
石碑は大谷吉継陣跡東側の広域農道(戦国ロード)沿いにあります。駐車場はないので、見通しのよい路肩に駐車しました。
なお、「元始、女性は太陽であった」で知られる平塚らいてうは為広の末裔で、この石碑の建立にも関わっているんだとか。

宇喜多秀家陣跡

宇喜多秀家は南天満山に布陣し、西軍主力として福島正則らと激戦を繰り広げました。
天満神社に石碑が建てられ、参道沿いに土塁や横堀が見られる…ようですが、車道(未舗装)を往復したので見逃してしまいました。駐車場はないので、空きスペースに駐車しました。

小西行長陣跡

小西行長は北天満山に布陣し、この地から開戦を告げる烽火を上げ、寺沢広高らと戦いました。
関ケ原開戦地(無料駐車場あり)の奥に石碑があります。

島津義弘陣跡

島津義弘は現在の神明神社から北西の薩摩池あたりに布陣、石田三成からの再三の攻撃要請にも応じませんでしたが、西軍総崩れにより敵中に孤立する中での敵中突破は「島津の退き口」としてあまりに有名です。
神明神社裏手に石碑と説明板があります。開戦地駐車場から徒歩3分の距離ですが、近くに数台駐められそうなスペースはあります。

石田三成陣跡

石田三成は関ケ原を一望し北国街道の抑えとなる笹尾山に布陣し、小早川秀秋の寝返りまでは数で勝る東軍諸隊を相手に善戦しました。
笹尾山の麓に竹矢来や馬防柵が復元され、山頂には石碑と関ケ原を見渡す展望台が設けられています。麓の無料駐車場から山頂までは遊歩道が整備され、5分もあれば登れます。

島左近陣地

島左近は石田三成隊の前衛として笹尾山の麓に布陣、黒田長政隊や細川忠興隊を相手に奮戦し、鬼左近と恐れられました。
麓の竹矢来の前に説明板が設置されています。また、左近陣の西側には同じく前衛として布陣した蒲生郷舎の陣地(の説明板)もあるようですが、見逃してしまいました…。
 

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