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宗春

小牧山城 (2018/01/03 訪問)

最初の訪問時の写真です。

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宗春

岩村城 (2015/08/13 訪問)

最初の訪問時の写真です。写った人物を消すため一部リタッチソフトを使用しています。
岩村歴史資料館に駐車して歩いて登城したのですが、夏で雨上がりだったので、鬱蒼とした山道を登りました。

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ダイエティシャン

甲府城 甲府開府500年  (2019/11/25 訪問)

 甲府開府500年ということで、攻城しました。

 台風の為、中央本線が一時運休になり、毎日復旧を願っていました。復旧した時はとても嬉しかったのを思い出します。関係者のご尽力に感謝です。静岡方面から、身延線経由で甲府に行こうかと色々な経路を検索していました。

 現在の状況も必ず終わりがあります。今は、ウィルスの終息にご尽力されている方々に感謝します。今後の攻城を軍議する時間を与えられたと思い、色々調べたいと思います。
 終息を心から祈っています。

 

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赤い城

筑波山を望む巨城 (2020/04/04 訪問)

県道41号線沿い、真壁体育館の駐車場を利用します。
体育館が本丸で二ノ丸、中城、外郭に遺構が残ります。
本丸への虎口に石碑が建っています。
中城には発掘調査中の部分があり、土塁や堀は復元工事中でした。
外郭の一番端にある鹿島神社の裏側にある土塁は戦国期のもののようです。
南北朝時代には関東六城に数えられた巨城です。

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todo94

生の松原は初めて (2020/03/29 訪問)

西新は2004年、今津は2005年に訪れておりましたが、生の松原の元寇防塁は今回が初めてです。波の音が聞こえるロケーションは最高でした。

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城好きのメガネ

「白鷹城」 (2020/03/20 訪問)

<オススメ>★★★★★
明知城は、明知遠山氏累代の居城であり遠山十八城のひとつである。標高530mの山に築かれた天険の地形を巧みに利用した山城である。源頼朝の重臣の加藤景廉が明知を含む遠山荘の地頭に任ぜられたのが始まりである。戦国時代には、交通の要衝であったため武田家や織田家に翻弄された。武田家の秋山虎繁(信友)、織田信忠(織田信長の嫡男)、森長可など目まぐるしく城主が変わった。秀吉の死後、田丸直昌が城主となるが、関ヶ原の戦いで西軍につき改易されると、遠山利景が先祖代々の土地を奪還する。一国一城令による廃城以降は山麓の陣屋にて、明治維新による廃藩置県に至るまで遠山氏がこの地を治めた。現在、土塁や堀切など遺構が遺されている。

<アクセス>
明知鉄道・明知駅 徒歩約20分

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カルビン

再訪の予行演習 (2014/07/21 訪問)

某肺炎ウィルスの蔓延防止の為にみんなで協力して我慢をしなければいけないこの時期。。。
趣味での外出は不要不急の外出となる為、お城巡り出来ておらずに悶々とされる方も多いと思います。

そこで景気付けと収束後のお出かけ情報として、封印していた近々で訪問していない元祖・続100名城upします。


お城巡りを始めて、初めて車で宿泊遠征したのが中部地方周遊でした。。。その1日目に訪問した越前大野城。

当時はカーナビ無く地図はロードマップでの訪問だった為に場所が良く解らず、案内に導かれるままに西側の駐車場へ、そこから登城。
途中城門や土井利忠像や野面積みの石垣を見つつ模擬天守に到着し、まず館内を見学。

その後東北方面へ進み金森長近像を見学したあたりで結構な時間経過していたので、残りは再訪を期して見学を終了しました。

山上とその道中至る所に野面積みの石垣があり、特に東側のものは苔生した場所が多く雰囲気が良かったです。
模擬天守の石垣も武者登り等、文句なしで続100名城に選ばれるべき場所でした。


完成された感のある場所なので再訪しても大きな変化はないと思いますが、見ていない場所も多く続100名城選定前の訪問だったので、郡上八幡城・鳥越城と合わせて再訪したいです。

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ぴーかる

妻木城 (2020/03/21 訪問)

【妻木城】
<駐車場他>本城池駐車場(城跡南側)・妻木城士屋敷跡前駐車場
<交通手段>車

<見所>士屋敷跡・巨石・主郭石垣・堀切
<感想>1泊2日東三河・東美濃御城印取得の旅5城目。多治見市内で宿泊した2日目。絶好の攻城日和、少しひんやりとした清々しい空気の中、朝8:00に妻木城士屋敷跡前駐車場に到着した。今回の旅のメイン、期待度MAXでの攻め城です。
 私は士屋敷跡を見たあと20分程登山して山頂にある城跡に行きました。途中巨石群があり私自身は楽しめましたが、駐車を移動すれば登山しなくて済むので楽に見学することができます。

「士屋敷跡」
関ヶ原の後、妻木氏が7500石で本領安堵され山頂の城では不便なのでここ城の北麓建てた。遺構は南から北方向の斜面に階段状にある広い屋敷跡は石垣造り。井戸跡・門跡・蔵屋敷跡がある。屋敷跡の中程には大石段の虎口があり見応えあり。近くにある崇禅寺に移築された屋敷群入口の門がある。関ヶ原ののち妻木氏が3代続いて跡継ぎ無しで断絶、屋敷も放棄されたらしい。しかし石高の割にはかなり広い立派な屋敷があったのだろうと思った。

「城跡」
元々は土岐氏が築城し、その後明智氏の所領になり、さらにその一族である妻木氏の城となった。 城跡は主郭のすぐ下段にⅡ郭があり、その間は1.8m程の仕切り石垣があり虎口も見られる。十字のくさび跡の残念石は東方向に主郭→堀切→曲輪→堀切の底にあります。北東方向に花崗岩の巨石群があり、石垣のようになっているが自然にできたものだそうで面白い。説明板の測量図によると南西部の曲輪群(行き忘れてた(泣))も含めるとかなり大きい城だったことがわかる。Ⅲ郭が物見になっていて、妻木郷が一望できる。

 個人的意見だが、光秀の妻煕子の実家、元々の主君の明智氏とはかなりつながりが深かっただろうと思う。麒麟がくるのように斉藤義龍に攻められて明智氏が没落する前に光秀と婚姻したのだろうと思う。
攻城後、崇禅寺に行って御城印2種とも購入、移築門と妻木氏3代の御墓見るの忘れたー。

<満足度>◆◆◆

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城好きのメガネ

「清洲城」 (2020/03/19 訪問)

<オススメ>★★★☆☆
尾張守護であった斯波義重が築城したとされる。1476年に、戦乱により守護所であった下津城が焼失したため、1478年に清須に移転した。伊勢街道が合流する交通の要衝でもあったことから、尾張の政治・経済の中心として栄えた。桶狭間の戦いに勝利した織田信長が、清須に入り、天下統一への第一歩を踏み出した。その後、清州同盟や清州会議の舞台となる。豊臣政権下では、豊臣秀次や福島正則の居城を経て、関ヶ原の戦いでは、東軍の最前線の城となる。名古屋城へ政治・経済の機能が移転したため廃城となる。現在、石垣が遺されている。

<アクセス>
JR清洲駅 徒歩15分

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カズサン

東館、西館猿との遭遇 (2020/04/04 訪問)

 先に清水山城の投稿の続きです、山桜が奇麗で、西館では突然の猿との遭遇をしました山城で猿に遇うのは初めて、館跡が奇麗に保存されてます。
 この時期濃厚接触も無い山城は換気抜群、遭遇者は山菜取りのご夫婦、遠目に一人、後はニホンザル、一人静かな独占状態で十二分に山城探訪を堪能しました。

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ぽんたっく土佐守

詰の段の桜が見頃です (2020/04/05 訪問)

JR朝倉駅から徒歩3分で登り口に到着。
この時期は詰の段の桜が綺麗です。
ここで花見をする人はほとんどいないので
毎年桜を一人占めさせていただいています。

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カズサン

素晴らしい山城です (2020/04/04 訪問)

 天気も良く日帰りで以前より気に成って居り登城したかった清水山城に初登城しました。
 高速道も、琵琶湖西岸の地道も桜満開で桜並木も数々有り目に一杯春を満喫して安全運転、清水山城麓に在る新旭森林スポーツ公園管理事務所を目指す。
 車は管理事務所隣の駐車場を利用、管理事務所で清水山城のパンフレットと登城ルートを確認する親切に教えて戴き、帰りにもお礼を言って終了。

 登城ルートは駐車場とテニスコートの間の道を地蔵庵、墓地と進み害獣除けフェンスを開閉し地獄山、地獄谷より北の登り道を進み東館越中殿出る、この間要所要所に案内指示板が有る、東館から西に小さな渓谷を昇り降りして渡り西館に出る、ここが結構広い、土塁、空堀、山桜多し、北に登って山城へ、途中に尾根に沿った数段の曲輪、堀跡、ミツバツツジが綺麗に満開多く咲いてる、本曲輪麓、登り面に畝状竪堀が数条はっきりと確認できる、九十九折の登城路(実際は五折れ)、鉄塔の在る本曲輪に出る、奥は広く建物礎石跡、土塁、虎口、台風の影響で木々が倒れてる、2郭、3郭の案内指示板が有り別の尾根を南に降りる、急な本曲輪下曲輪と2郭の大堀切、綱を持って昇り降りチョット危険、2郭は2段構成、2郭と3郭の大堀切は昇り降りの綱は有るが2郭が分ら見ると10m近く有り危険を感じて断念して大堀切、3郭は見るだけ、2郭横から本曲輪麓に抜ける道が有るが木が倒れ通行困難、無理やり枝を折ったり曲げたりして潜り抜けるがズボンに刺さり破ける始末、本曲輪麓までたどり着き来た道を下城。
 登り本曲輪、2郭まで探訪入れて約1時間20分、降りは約30分でした、危険な所も有りましたが山城の構成部位が有り楽しめますまた山桜、ミツバツツジの時期で花も楽しめました、案内も良く眺望は抜群。

 歴史的には佐々木信綱の流れで北近江、琵琶湖西岸に高島七頭の惣領家で戦国期浅井氏と組み信長と敵対し敗れ滅びる。

 東館、西館は別写真投稿します。

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小城小次郎

長浜城

羽柴秀吉が築いたお城は地表面からほぼ消え去ったが、地下にはそれなりに遺構が残っているらしい。最上階が小さい「小顔」の模擬天守はいかにもアンバランスだが逆に唯一無二の存在感を示しているとも言える。

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ダイエティシャン

伯耆国 尾高城〜米子城から東南方向に車で約20分 (2019/03/26 訪問)

大山が見えます。
桜もきれいでした。
様々な形の曲輪が楽しめます。
桜も楽しめます。
山陰の麒麟児「山中鹿介」が監禁され、脱出したとされたと伝わる曲輪もきれいに保存されていました。
天神丸跡の「シャトー尾高」の690円バイキンは、大人気だそうです。

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ヒロケン

小笠原氏大要塞群の一つ (2020/04/01 訪問)

埴原城は小笠原氏大要塞群の城の一つで、諏訪伊那地方からの敵に備えた南方の前線基地としての役割を担っていました。
1542年の「塩尻峠の戦い」の後、1550年武田信玄が小笠原長時を攻略する際に真っ先に埴原城を陥落させたため、近隣の小笠原氏城の林城・桐原城・山家城などの城が相次いで自落したことでも戦略上重要な城であったことが伺えます。

埴原城は小笠原氏城の林城・桐原城・山家城等と並んで戦国時代を代表する松本市内で最も規模の大きい山城で、城跡には今でも多くの郭や土塁・石垣・空堀・竪堀・堀切が良好な状態で残っています。
行き方としては、蓮花寺(松本市中山4524)を目指し、蓮花寺駐車場に駐車し、徒歩30分程で主郭に到着します。

この城の見所としては、「お姫様の化粧水」と呼ばれる水場を過ぎたあたりから、主郭部の石垣・主郭後方の技巧的な空堀を始めとする竪堀群が素晴らしい\(^_^)/(私見です)
(城域の至る所に、猪・鹿のう〇こがあり、踏まないように散策するのが大変です。)

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dougen

登城日 2018.12.30(日) (2018/12/30 訪問)

美濃金山城から県道351号を南下し、国道21号に東に入り、少し進んだところの名鉄顔戸駅付近の住宅地に顔戸城址があります。
史跡の指定は無いものの、城址の説明付きの石碑と付近に土塁や空堀が確認できます。

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dougen

登城日 2018.12.30(日) (2018/12/30 訪問)

和知城から木曽川を挟んだ対岸にある古城山を車で登って行くと金山城址があります。
年末だったため、公園の駐車場は閉鎖されていましたが、大堀切のところに駐車可能なスペースがありそこから徒歩で登城しました。
国の史跡に指定されており、城址は遊歩道が整備され、解説板等の設置されており、安心して見学ができます。
金山城は1600年に廃城となり、関ヶ原の戦い後、石垣などは破城の憂き目にあっています。
城址は破城後のままの状態で良く残っており、非常に散策が楽しめる城址です。
なお、名城スタンプの設置場所である可児市観光交流館は年末年始の休館のためスタンプは押せませんでした・・・

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背割り堤桜並木 (2020/04/04 訪問)

3河川合流点のすぐ下流の平地が狭くなった所を左岸の樟葉台場とで挟む。
阪急水無瀬駅から、高浜台場へ。淀川右岸を北上して、桂川と宇治川を渡り、背割り堤桜並木(約1.5km)を往復。木津川を渡り、淀川左岸を南下して、樟葉台場へ。帰りは、岩清水八幡宮下の京阪橋本駅へ。
背割り堤桜並木では、コロナウイルス対策で、立ち止まらず、宴会せずを呼び掛け、皆が守ってました。

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正太寺鼻 (2020/04/04 訪問)

 この城址は西側に山頂を中心とした曲輪群と東に正太寺鼻という岬に連なった曲輪群で構成されています。縄張り図では前者を宇津山古城、後者を宇津山新城と書いてあるものもありありました。正太寺から道があり西の山頂部へ行く道があります。墓地として利用されている曲輪もあり、車で山頂部まで行くこともできます。山頂部の曲輪を囲む西北部の土塁の内側に石積みが見られます。内側だけに石積みかと思って外側に回って見ると、崩れている所が多いのですが外側にも石積みを見ることができます。西側には数段の曲輪があり、周囲を石積みで固められたような曲輪もありました。縄張り図に描かれていた竪堀はよくわかりませんでした。散策していると井戸の跡かと思われるような所もあります。岬側(東側)の曲輪へ行こうとしましたが、藪がひどく断念しました。この日は晴れていて浜名湖がきれいに見えました。

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小城小次郎

大垣城

郡上八幡城の天守は大垣城がモデルだったということを考えていたら、郡上八幡城がモデルにしたのは戦前の「現存天守」であったことに気が付いた・・・あれ?郡上八幡城の話になってるなw

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