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牛若丸

だいぶ前に千葉ドライブで (2014/08/22 訪問)

以前に館山城と大多喜城と巡ったときの写真です。
この時は、外装補修中で足場が組んであり、ちょっと残念。また行きたいお城です。
結構、坂道を登りますが上から見るけしきは絶景です。

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笠置街道を行く (2021/01/17 訪問)

城びと未投稿の奈良県北東部の山間の二城を訪れた。笠置城の麓から、南に笠置街道を行き、北村城を目指した。途中に手書きの「上狭川城」の標識あり。
林道兼で、登城路が整備されており、容易にたどり着ける。単郭ながら、南の虎口は、二重升形で重厚な土の城。写真の6枚目以降。
北村城は、南側の民家脇から登城。庭先で作業中のご主人に道を聞くと、案内の後に、「何もないですよ」と。「十分、見応えあります」と応えた。
城跡は、南に深い堀切、北と東側に急な切り岸。
北村城の喜多氏は、山間の地ながら、筒井氏の重臣であったと。次に平清水城を目指した。

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カズサン

大手道側も草刈整備され良く観察出来ます (2021/01/16 訪問)

 この時期の本丸西土塁西側の鉢巻・腰巻石垣を先に写真投稿致しましたが大手道、大手門枡形、本丸東土塁の東側石垣、東門も草刈り景観整備され良く観察出来ます。久しぶりに石垣をじっくりと見る事が出来ました。
 石垣の観察は今の時期でしょう、これから3月に入るとミツバツツジが咲き、桜が咲き、ツツジが咲き夫々に趣の違った城跡景観が眺められます。
 先ずは今回撮った大手道方面の石垣写真を投稿します。(各曲輪、遺構跡の名称は浜松市文化財課2017年3月発行の二俣城・鳥羽山城探訪マップに依ります)

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昌官忠

クラブツーリズム「宮城・山形・福島の日本100名城制覇」の旅③ (2017/09/30 訪問)

「クラブツーリズム「宮城・山形・福島の日本100名城制覇」の旅」の3城目は会津若松城です。二本松城からの転戦です。
100名城スタンプは「天守閣内売店」で押しました。

会津若松城は、1384年の南北朝時代に蘆名直盛(あしな なおもり)に居城として創営されたことからはじまりました。当時はその名を黒川城といいました。
1589年には蘆名氏を滅ぼした伊達政宗が黒川城に入城します。翌年、豊臣秀吉は、奥州仕置によって政宗から城を取り上げ、築城の名人と称され、秀吉の信頼が厚かった蒲生氏郷が入城しました。
黒川城に入城した蒲生氏郷は、城を5層から7層へ近世城郭へと改造し、城の名前を「黒川城」から蒲生家の家紋の舞鶴にちなみ「鶴ヶ城」と改名しました。
蒲生氏郷の死後、上杉景勝が入城しますが、関ケ原の戦いで徳川家康に敗れ米沢に追い出されてしまいました。
その後、蒲生氏や加藤氏が入り、1643年に徳川秀忠の子、保科正之が入り、保科家の三代目正容の代に松平の姓が許され、幕末まで松平氏が領主として君臨することとなりました。
鶴ヶ城の最期の城主、松平氏が藩主を務める際に、鶴ヶ城で最も有名な出来事である会津戦争が起きました。

現在の天守は1965年(昭和40年)に外観復元されたものですが、さらに2011年(平成23年)に黒瓦を当時と同じ赤瓦に復元したようです。
また、天守にあるシャチホコは瞳には2カラットのダイヤモンドが埋め込まれているそうですが、見てみたいですね。
見事な赤瓦を備えた五層天守、水堀、石垣のすべてが圧倒的な存在感を出している素晴らしい城址でした。特に二の丸から見る本丸の高石垣は圧巻です。
攻城時間は60分くらいでした。

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イオ

なかなかの土木量 (2021/01/10 訪問)

室町期に熊野水軍・安宅氏により築かれた城で、平地の居館である安宅本城の詰めの城として機能しましたが、戦国中期に一族の跡目争いの中で落城し、発掘調査によれば火災後に改修された様子がないため、そのまま廃城となったものと思われます。

安宅八幡神社の裏山が城域で、神社の駐車場に車を駐め、津波避難場所として整備されている登城路を5分ほど登っていくと、幅の広い横堀に行き当たります。横堀の真ん中の土橋を渡ってさらに登り、平入りの虎口を抜けると二の曲輪です。二の曲輪は南北に細長い曲輪で、周囲を土塁が取り巻いています。
二の曲輪から一の曲輪(主郭)への本来の登城路は、一の曲輪南西部の虎口にまっすぐ登るルートだったようですが、一の曲輪北下の帯曲輪を経て北側から入るルートに改変されています。一の曲輪の周囲は土塁が取り巻いており、北東部(祠の奥)は櫓台状に高く分厚くなっています。一の曲輪東側の虎口を出ると、東下に小さな腰曲輪があり、そこから北に土塁を越えて進むと、巨大な竪堀が東斜面に落ち込んでいます。その竪堀から西方向には岩盤を削り込んだ深く幅広い堀切が伸び、反対側の西斜面で竪堀となっています。堀切を越えた先にも竪堀が設けられ、北尾根からの侵攻への備えは万全です。
三の曲輪へは一の曲輪南部の虎口から二の曲輪南東辺の土塁上を行く……はずですが、虎口が封鎖されていたので、いったん二の曲輪に戻って南東辺の土塁に上がりました。二の曲輪と三の曲輪の間は堀切で遮断され、二の曲輪南辺の土塁が土橋状の通路となっています。三の曲輪も周囲を土塁が囲み、南端の八幡神社からの斜面を堀切で断ち切っています。二の曲輪と三の曲輪の間の堀切は西斜面では竪堀となっており、堀底を下りていくと、二の曲輪西下の横堀へと続いていました。横堀の南端の西辺からは土塁が北に続いています。

決して大きな城ではありませんが、横堀は幅広く、堀切は深く、各曲輪は分厚く高い土塁で囲まれ、虎口は未発達ながら土木量はなかなかのもので、大いに見応えがありました。
 

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昌官忠

クラブツーリズム「宮城・山形・福島の日本100名城制覇」の旅② (2017/09/30 訪問)

「クラブツーリズム「宮城・山形・福島の日本100名城制覇」の旅」の2城目は二本松城です。白河小峰城からの転戦です。
100名城スタンプは「二本松市歴史資料館受付窓口」で押しました。

二本松城跡の築城は、古く畠山満泰が応永21年(1414)に塩沢の田地ケ岡よりこの白旗ケ峯に居を移し、二本松城と号したとされています。
天正14年(1586)に伊達政宗が畠山氏を滅ぼして二本松城は伊達の支城となりましたが、豊臣秀吉の奥州仕置以後、二本松は蒲生・上杉の支城として城代が置かれました。
その後松下・加藤氏を経て、寛永20年(1643)に丹羽光重が10万700石で入封、城内の石垣等の修築を行うとともに城下町整備を行い、二本松藩の居城として明治維新に至りました。
慶応4(1868)年7月、二本松少年隊の悲話を残して落城しました。

現在は「霞ヶ城公園」として整備されており、山上の本丸には天守台が再建されています。
また麓に復元された箕輪門近くには幕末の戊辰戦争でふるさとを守るために若い命を散らした「二本松少年隊」の群像があります。
自分が攻城した時は、本丸天守方面はロープが張られていて行けませんでしたので、三の丸付近のみの見学でした。消化不良です。
攻城時間は40分くらいでした。

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昌官忠

クラブツーリズム「宮城・山形・福島の日本100名城制覇」の旅① (2017/09/30 訪問)

城びと入会時の2020/7/29に「こじんまりとした三重櫓がいい味出しています」のコメントを投稿していましたが、内容がないので再投稿します。

「クラブツーリズム「宮城・山形・福島の日本100名城制覇」の旅」の1城目は白河小峰城です。
100名城スタンプは「白河集古苑」で押しました。

小峰城は、南北朝期の興国・正平年間(1340~1369)に、結城宗広の嫡子親朝(小峰氏を創設)がこの丘陵に城を築いたのが始まりとされています。
その後永正年間(1504~1520)頃には白河結城氏の本城となったと推定されるようです。
天正年間には常陸佐竹氏の影響下におかれ、その後天正18年(1590)豊臣秀吉により所領を没収されて、結城氏による白河地方の支配は終ったようです。
その後、蒲生氏、上杉氏など会津藩の領地となり、城代が当城におかれました。蒲生秀行の時代には城下の整備もなされたとされています。
現在にその名残をとどめる近世城郭は、寛永4年(1627)に10万石余で棚倉より入封した丹羽長重が、幕命を受け寛永6年(1629)より大改修を行い、同9年完成させたものです。
丹羽氏以後、松平(榊原)、本多、松平(奥平)、松平(結城)、松平(久松)、阿部氏と7家21代にわたる居城となっています。
慶応2年(1866)阿部氏の棚倉移封後は、二本松藩丹羽氏の預かるところとなり、慶応4年(1868)の戊辰戦争白河口の戦いにより落城焼失しました。

白河小峰城は、東北では珍しい総石垣造りの城です。盛岡城、会津若松城とともに東北三名城のひとつにも数えられています。
天守相当の御三階櫓は戊辰戦争の際に焼失しましたが、1991年(平成3年)に復元されました。
この御三階櫓は数少ない木造復元天守のひとつで、JR白河駅のホームからもよく見えます。
木造の三重櫓、前御門が美しい。何より石垣が美しく見応えがあります。攻城時間は60分くらいでした。

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橋吉

りっぱな回遊式庭園 (2016/05/03 訪問)

唯一の現存建築物として書院が残されています。

りっぱな回遊式庭園の高いところから書院の全体像をつかむことができました。

奥へ進むと歴代藩主の廟所がありました。

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洸(あきら)

大銀杏が素晴らしい (2020/11/19 訪問)

時期的にちょうどよかったのか、大銀杏と紅葉のコントラストが見事でした。
本堂や鐘楼などの、国宝や重文の建築物も素晴らしく、一時間ほど、のんびりと見入ってしまいました。
尊氏はあまり関係ないのに、太平記館や尊氏公の銅像などがあって不思議な感じ。
太平記館でレンタサイクルを借りると、織姫神社や足利学校、渡良瀬橋など、周囲をいろいろ散策できて便利です。

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洸(あきら)

登山 (2020/11/18 訪問)

太田駅からレンタサイクルで金山城ガイダンス施設まで行きまして。そこからは登山しました。
足腰に不安な方は、クルマで山頂駐車場まで行った方が良さそうです。
のんびり登ったので、ところどころで景色が堪能できてよかったです。山頂からの眺めが見事です。
金山城は、よくこれだけの石垣を再現したなと、感心しました。

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洸(あきら)

のぼうの城 (2020/11/18 訪問)

映画「のぼうの城」の舞台。
お城内の史料を拝見して、様々な大名が続いていたを初めて知りました。
平城ですが、なかなか迫力あります。

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洸(あきら)

憩いの場 (2020/11/15 訪問)

天守周りは広大な公園で、憩いの場になってました。
お堀や門が見事。
天守は再建の博物館ですが、館内の説明はわかりやすくて仕掛けも多く見応えありました。

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洸(あきら)

広々 (2020/11/16 訪問)

城跡ということで広大な敷地がそのまま残る公園。
お堀はありますが、櫓や天守や石垣はありません。
紅葉がとてもキレイでした。
博物館が月曜日はしまってるので注意です!

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赤い城

東に伸びる尾根に見どころたくさん (2021/01/16 訪問)

久留里駅から徒歩で20分くらいで登城口に。
残念ながら旧登城路は通行止め、台風の影響でしょうか。
天神曲輪からの林道も通行止めになっています。
模擬天守もそれなりに素敵ですがやはりここは山城。
見どころは別にあると思います。
幸い東の尾根には進めました。
本丸からすぐに岩を削った堀切、さらに進んでいくといくつか堀切を見ることができます。
途中、道が分かりにくいところもありますが目印のリボンもあるので大丈夫。
怒田方面の尾根の先には見たかった竪堀状の通路が。
ここも岩盤を削った切通状になっていました。
里見氏の上総の拠点、急峻な地形を利用した要害です。
夏はヤマビルが出るのでこの時季がお薦めです。

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牛若丸

葺き替えられた直後 (2012/07/28 訪問)

10年近く前ですが、赤瓦に葺き替えられた直後に行きました。
ついでに、飯盛山にもいき白虎隊へのお参りも。白虎隊も、飯盛山から炎があがる鶴ヶ城や会津の町を無念の気持ちで眺めてたんだろうな、と思いを馳せてきました。

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牛若丸

だいぶ前に千葉ドライブで (2014/08/22 訪問)

かなり前ですが、きれいなお城でした。
里見八犬伝所縁のお城です。

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牛若丸

初詣がてら (2021/01/11 訪問)

2021年1月11日(月・祝)に初詣がてら登城。
叶神社も西と東があり、こちらは東なので要注意。
神社横の急な階段を登ると本丸跡があり。本丸跡から望む相模湾は絶景。

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イオ

境目の城 (2021/01/10 訪問)

戦国前期に熊野水軍・安宅氏により築かれた城で、幕府奉公衆・山本氏の支配地域との境目にあたるため、たびたび攻防戦の舞台となりましたが、羽柴秀吉の紀州攻めの際に廃城となったようです。

熊野古道・大辺路を見下ろす山上に主郭、その西下と東下に曲輪を設けた山城で、先人の投稿にあるように、草堂寺に車を駐めて大辺路を歩いて登城することも検討しましたが、登城口まで車で行けるようなので、国道のトンネルを出てすぐ東に入り、製材所を抜けて紀勢道の高架をくぐって少し進むと、案内板と説明板のある登城口近くに車2台分ほどの駐車スペースがありました。

登城口から5分ほど登ると東尾根を断ち切る堀切に着きます。ここからが城域です。堀切から西に少し上ると腰曲輪があり、奥からロープ伝いに急斜面を登ると主郭です。主郭からは山本氏の支配地域である富田川流域を広く見渡せます。主郭西下の曲輪は周囲を土塁が囲み、北西部の虎口を出て斜面を下っていくと、シダで見づらい部分はあるものの、西側斜面一帯に畝状竪堀群が広がっています! さらに竪堀の上端は横堀で繋げられていて、小さな城ながら境目の城らしい守りの堅さを感じます。そして、最初の堀切まで戻って尾根沿いに数条の堀切や竪堀が設けられている(はずの)東尾根にも行ってみましたが、ほとんど自然地形な上に、シダが生い茂っていて何が何やらよくわかりませんでした。

年末からの寒波と年明け早々のコロナ感染拡大で、雪と人の多いところに行くのはやめておこう と、麒麟がくる紀行を取り止め、南紀白浜の国史跡「安宅氏城館跡」をめぐることにしましたが、今年の城始めの要害山城は、コンパクトながら畝状竪堀群などなかなかに見応えがありました。
 

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カズサン

草刈整備され鉢巻石垣腰巻石垣が良く観察出来ました (2021/01/16 訪問)

 二俣城の草刈り景観整備された遺構を十分堪能した後、旧二俣川南向かいの鳥羽山城へこの時期ですから草刈りされ景観整備されて良好観察出来る事を期待して車で登城、車は南の丸専用駐車場へ駐める、既に数台の車が駐ってる。
 期待通り草刈り景観整備され良好に石垣が観察出来ました、夏場ですと草木と公園植栽が茂り入り込めず良く見えないのですが今回は再度久し振りのご対面観察でした。
 先ずは本丸の西側土塁の鉢巻石垣約50~60m程とその下腰巻石垣約40m程、西の丸Ⅰ(旧名称笹曲輪)、西の丸Ⅱ(旧名称腰曲輪)の写真を投稿します。(曲輪、遺構の呼称は浜松市文化財課2017年3月発行の二俣城・鳥羽山城探訪マップに依ります)
 堀尾吉晴時代は天竜川行き来の船から石垣が白っぽく映え聳える鳥羽山城を仰ぎ驚愕した事でしょう。

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昌官忠

次男と二人でクラブツーリズム「北陸7名城めぐり2日間」⑦ (2017/11/04 訪問)

次男と二人でクラブツーリズム「北陸7名城めぐり2日間」の7城目(ラストです)は丸岡城です。越前大野城からの転戦です。
100名城スタンプは「霞ヶ城公園管理事務所」で押しました。

城びと入会時の2020/07/29に「こじんまりとした二重三階の望楼型天守と野面積の天守台石垣がよかった」の投稿していました。
あまりに中身がないので再投稿します。一乗寺城でカメラを落として写真がとれませんでしたが、試しで撮った写真がかろうじて大丈夫そうなので投稿します。

柴田勝家の甥・勝豊が1576年(天正4年)に築城し、その時に造った天守は現存するものでは日本最古とされていましたが、近年の調査により築城年代は江戸初期であることがわかりました。
江戸時代には福井藩の附家老として城主をつとめていた本多成重が城主
福井藩主・松平忠直の隠居に伴い本多家が独立し、丸岡藩が成立
本多家が改易となったのちは、有馬氏が入封し、以後8代が丸岡藩藩主となる
1948年(昭和23年)の福井大地震で天守は倒壊
1955年(昭和30年)に部材を70%以上再利用し組み直して修復再建されました

見所は天守につきます。自分的には無骨な石垣・石瓦(鬼瓦)と懸魚が好きです。攻城時間は60分くらいでした。

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