次男と二人でクラブツーリズム「北陸7名城めぐり2日間」の6城目は越前大野城です。一乗谷城からの転戦です。
続100名城スタンプは、このころは集めていなかったので押していません。
一乗谷城でカメラを落とした為、カメラは使用せず、スマホでのみ写真を撮りました。
投稿写真は残っているスマホからの2枚だけです。(次の攻城先の丸岡城で試しにカメラを使ったら写りは悪いが写真は撮れました。)
1575年(天正3年)織田信長は、金森長近と原政茂の両名に命じて、大野郡の一向一揆を収束させました。その恩賞として、 大野郡の3分の2を長近に、3分の1を政茂に与えたといわれています。
その恩賞として、 大野郡の3分の2を長近に、3分の1を政茂に与えたといわれています。
大野城の城主は、築城されてから明治に入り城が払い下げられるまでの間に、19人が務めているそうです。
安土桃山時代の城主には、金森長近のほか、豊臣秀吉の一族といわれる青木一矩(かずのり)や、信長の孫・織田秀雄(ひでかつ)などもいたようです。
江戸時代に入ると、大野は福井藩の一部となり、福井藩主・結城秀康(松平秀康)の有力な家臣・土屋正明が大野城主を務めました。
土屋正明は結城秀康の家臣でありながら石高は3万8千石(≒お米で約5700t)で、小藩の大名と同じくらいの領地を持っている優秀な人物だったようです。
1624年(寛永元年)結城秀康の子・松平直政が城主となった際には、大野藩の石高は5万石(≒お米で約7500t)に加増されました。
松平直政はその後、信濃松本(現在の長野県松本市)で7万石(≒お米で約10500t)、出雲松江(現在の島根県松江市)で18万石(≒お米で約27000t)と領地を加増され移っていきました。
1682年(天和2年)に大老・土井利勝の子、土井利房が大野城主となると、幕末まで約180年の間に、土井家から8人が城主となったそうです。
最後には、1872年(明治5年)に入札により本丸が商人など20人以上に払い下げられ、約290年の大野城の歴史に幕が下ろされたそうです。
スマホで撮った写真が天守閣しか残っていないので、よく思いだせません。攻城時間も不明です。
続100名城スタンプを押していないので、もう一度来なくてはいけません。
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