高天神城への登城は今回で3回目。
「1574年の第一次高天神城の戦い」の武田方の戦略と、「1581年の第二次高天神城の戦い」の徳川方の戦略を考えながら、周辺の砦や城と共に高天神城へ登城した。
まず武田方。信玄・勝頼公は共に小山城から塩の道を通って「塩買坂」に陣を張ったと言われる。そこで、小山城→塩買坂と行ってみた。なるほど納得のルートであり、牧野原台地の西端にある塩買坂と正対するように小笠山稜の東端に高天神城があった。また塩買坂の南にある新野氏領内には、笠原城など明らかに武田築城技術が入っていると思われる城が点在していた。これらは、小山城や持舟城などからの物資輸送路の確保に重要な役割を果たしていたのだろうと感じた。徳川方の高天神城主小笠原長忠は猛将であり、徳川の援軍が来ないなか、城の特徴を活かして孤軍奮闘よく戦ったが、東からの補給路がこれだけ確保されている武田の大軍には敵わなかったはずだ。
次に、徳川方の戦略だが、有名な6砦や畑ケ谷城郭遺構を回ってから高天神城を初めて大手門側から登った。家康が陣どった小笠山砦こそ高天神城を向いているが、他の5砦は立地や遺構から、城への敵の補給路断絶や援軍を阻止するような役割をしているのではないかと感じた。砦の分布は、全て先の武田方城群に対して高天神城側だ。なるほど、言われているような厳しい兵糧攻めの戦略がわかる。畑ケ谷城郭遺構は大手門のすぐきわにあり、今も神社などに形を変えて保存されている。戦いは、城の特徴を知り尽くした元武田方高天神衆の武将が徳川方横須賀衆となって弱点である西城の赤根ケ谷から攻撃を行い落城へとつながったのは間違いないだろう。
ただ高天神城は、その圧倒的堅固な作りから、城外戦の戦略が勝敗を左右したのだと感じた。
+ 続きを読む