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ぴーかる

明智長山城 (2020/03/21 訪問)

【明智長山城】
<駐車場他>花フェスタ記念公園駐車場無料 登城口周辺に駐車場なし。
<交通手段>車

<見所>曲輪・中の曲輪切岸・七ッ塚
<感想>1泊2日東三河・東美濃御城印取得の旅8城目。現在新型コロナウイルスの影響で状況は分かりませんが、私が行った当時は大手門跡横の駐車場は閉鎖していて仮設トイレ・仮設テントで御城印、パンフレット等の頒布を行っていました。駐車場は花フェスタ記念公園駐車場に駐車して徒歩15分程で登城口に着きます。途中に天竜寺の光秀の大位牌があり見所があります。
 
 登城口は麓に2箇所、光蓮寺を挟んで東と西側にあります。登城時は人の流れが東側の大手門跡から登って山頂の本丸跡に行って、十兵衛坂を下って西側の登り口に出るコースで歩いていました。行ったときは沢山の人が来城していました。城跡は散策路になっており整備されています。曲輪は山の北側の斜面を中心に形状に沿った形で配置(南側斜面はどうなっていたのだろうと思った)している中世山城です。山頂は築城前は横に長い頂上部だったようで(だから長山城なのか?)相当山頂部を削って、本丸・二の丸・中の曲輪・西出丸曲輪がほぼ同じ比高に並んだ細長い縄張りとなっている。
 二の丸跡には落城時に自刃した明智光安を含む7人の武将の塚の遺構があります。水の手曲輪付近に2重竪掘りがあり見応えあります。西大手曲輪に六眷属幽魂塔というのがあり、六眷属とは歴代の明智城主一門を意味するもので見慣れぬ石が顔を出していたのを掘りだして発見したらしい。落城後この地の領民が善政した明智氏の慰霊のためにそっと隠すように祀ったのではないかということです。

 本丸の展望台から眺めるとこの明智荘は所々に丘陵地があるものの豊かな平野部であったように感じた。学者でもない知識不足な全くの素人が見た感覚だけですが、恵那市の明知城、光秀の妻の実家妻木城、そしてこの明智長山城の3城に行って見て、武士の領主政略結婚、本当に光秀の妻が妻木氏の実子ならば光秀は領地支配の規模、お城の規模、周辺地域の情勢を考えてこちらの可児市明智荘の生まれだったように思った。

<満足度>◆◆◇

<イベント>花フェスタ記念公園で「麒麟がくる可児大河ドラマ館」を見ました。個人的意見ですが入館料500円のパフォーマンスはないです。無料で光秀や戦国時代の説明パネルがあるゾーンがあるのでそこで十分かと。

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ノブ

空堀がきれいです。 (2020/04/10 訪問)

沼田氏が西の備えとして築城した城です。
多数の旗が立っていたので迷わず登城できました。
狭い城ですが、空堀がキレイに見れました。
上毛高原駅構内で御城印が買えます。

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退会済み
ユーザー

大好きです (2015/10/20 訪問)

決して派手ではありませんが落ち着いた佇まいが大好きです。

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todo94

土岐の城 (2020/04/04 訪問)

公民館に駐車場が用意されています。中央道をくぐって側道に出て、水色桔梗の幟に導かれて坂を登ると登城口。立派な城址碑が建っています。かつてはかなり樹木が生い茂っていたのだと思いますが、伐採が進められて西出丸も東出丸も本丸も、素晴らしい眺望が開けていました。

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城好きのメガネ

「蟹江城」 (2020/03/21 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆
蟹江城は1429年頃に北条時任が館を築いたのが始まりとされる。戦国時代には今川方の松平広忠によって落城した。その後、伊勢国の長島城主だった服部友貞の支配下に入り、織田信長に対する拠点として活用された。1570年頃には、滝川一益が入り大改修が行われ、伊勢侵攻や長島一向一揆鎮圧の拠点となる。小牧・長久手の戦いでは、織田信雄の大軍に包囲され、篭城戦の末、落城したとされる。現在、本丸井戸跡が遺されている。

<アクセス>
JR蟹江駅 徒歩10分

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小城小次郎

坂本城

安土城よりも早く築かれ安土城と並び称された琵琶湖の名城には天守もあったらしく、かなり先駆的な近世城郭だったようだ。城跡近くの公園にある明智光秀像は何故だかとっても残念な気がする。

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街道おじさん

妻木城登城 (2020/04/05 訪問)

乙姫城との別名があり、大河ドラマ『麒麟がくる』では光秀の正室煕子(木村文乃さん)が生まれた城と
されている。
山城にしては立派な石垣が残っていたので驚いた。

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四四一六

蛸はお城の守り神 (2020/02/16 訪問)

根来衆、雑賀衆、粉河衆3万の軍勢に対し中村一氏8千の城兵で戦った岸和田合戦、大きなタコに乗って法師の格好をしたお地蔵さんと無数の蛸に救われたと言う「蛸地蔵伝説」から城の守り神を御城印にシンボル化したそうです。知らんけど…。

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四四一六

コレも「熊野 Power」…⁉️ (2020/03/20 訪問)

海岸線は隆起と風化と波の浸食でできた天然記念物。
山頂には戦国時代の居城跡。
見晴らしは最高です。

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todo94

大きな看板 (2020/04/04 訪問)

小さいながらもきれいな公園として整備されていました。看板はなかなかの大きさで2つもあります。模擬櫓風の展望台にも登ってみました。心地よい天気で桜も咲き誇っていました。新型コロナウイルス対策でライトアップは中止となっています。

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dougen

2019.12.30登城 (2018/12/30 訪問)

明智長山城がある羽生ヶ丘団地を南に下りた場所に羽崎城址があります。
駐車場は無いため、周辺の道が広くなっている処に駐車して登城しました。
一応、城址の案内板があるものの、登城口が判らず、近所に住む人に聞いたところ、親切に教えていただけました。結果、耕作地の様なところ(写真3参照)を横切って登城口に行くことになるので、普通は躊躇するケースです。
城址に神社があるため、そこまでの道は草刈がされていますが、それ以外の場所は藪化しており、
遺構が非常に判り辛い状態です。
立派な城址の石碑は設置されていましたので、史跡指定などして、整備されることを期待したいところです。

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ぴーかる

悪五郎の城 (2020/03/21 訪問)

【久々利城】
<駐車場他>可児郷土歴史館駐車場
<交通手段>車

<見所>枡形虎口・石垣跡・堀切
<感想>1泊2日東三河・東美濃御城印取得の旅7城目。この城は築城年は定かではないが土岐康貞が築城、土岐三河守悪五郎と称してこの名を世襲する。康貞の子行春が久々利太郎行春と称して久々利氏が始まり200余年続いた。戦国時代には久々利氏は美濃の斉藤氏、信長の美濃攻めの時には武田氏、信長の東美濃攻略時には金山城の森氏の傘下に入り織田家に従属する。本能寺の変のち1583年森長可が久々利城主悪五郎を金山城に招き謀殺、久々利城に夜襲をかけ落城する。森家家臣戸田勘左衛門が城代となって、1600年森家転封となり久々利城は廃城となった。

 登城口は県道84号線脇に、登城口にパンフレットが置いてあります。その場所から右手方向に登っていくと城跡、左手を少し入ると石垣跡があります。
城跡虎口前に畝状の土塁が3本あり、進入路を分散させている。当時は食違いになっていたようです。虎口は枡形で、畝状の土塁を含めて三の丸上から狙い打ちできるように横矢になっています。この辺りの防御は堅く森氏時代に改修されたようだ。曲輪は連郭式で山頂部から見張郭→奥の院→北の丸→土橋→本丸→二の丸→三の丸とある。見張郭北側に2重堀切、竪掘り(ちょとわからなかった)がある。連郭の北西部に谷を挟んで平行して細い尾根の武者走りがある。麓からも延びているので、ここから攻めると防備が弱いように感じた。
奥の院が城跡一広い曲輪で曲輪内に転落石が多数落ちている。見張郭との法面が石垣になっていて、そこから落ちたものと思う。城跡内に手書きの案内板(味がある)にも幻の本丸?とあったが、私もここがかつての主郭だったように感じた。

 御城印は可児郷土歴史館と併設する袋井コミュニティーセンターにて頒布しています。300円以上の募金をしたら1枚いただけるということになっており、販売はしていませんのでおつりは出ませんので小銭を用意されたほうがよいでしょう。

<満足度>◆◆◆

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カルビン

意外とバリエーション豊かだった (2014/03/28 訪問)

地域1の勢力を誇っていたのに、後北条氏や武田氏に良い様に翻弄され、挙句の果てに長尾景虎に泣きついて全てを投げ渡した山内上杉家・上杉憲顕本拠地。
憲顕って「けんけん」とも呼べるんですよね・・・チキチキマシーン猛レース(注・カルビン見ていたのは再放送ですw)思い出して笑ってしまいましたwww

長野業正が孤軍奮闘で頑張っていましたが、彼の亡き後一気に滅亡したに等しく・・・如何に名門と言えども、上に立つ人物が努力を怠るとこういう事になるのは何時の時代でも同じですね(汗)

そんな平井城は崖端城になっており、通常はここで政務を行い、有事の際には詰めの城・平井金山城にて戦うハズだったんですが・・・平井金山城は滅亡時には使われる事無かったっていうのが寂しいですね(堅固な山城だけに)

と言っても平井城もただ曲輪があるだけの場所ではなく、崖端を利用して遺構を備えた場所になっております。
その近さから恐らく平井城と平井金山城は元々1つの城として機能していたと思われます。

今(といっても訪問したの6年前ですが)は周辺の開発により部分しか残っておらず、見学した際の印象薄かったのですが、今記事upするのに写真見返していたら思っていたよりバリエーションの多い場所だったんですね。

そのほとんどが復元ですが土塁・空堀・竪堀等が見られ、解説も充実しており、無料の駐車場も完備された感じの良い場所になってます。

一応バス路線なので電車・バスで訪問も出来ますが、本数がかなり少ない為車での平井金山城等とのセット訪問推奨で御座います。


ちなみに平井金山城の方は当時途中まで登ったところでオオスズメバチの巣があった(3月下旬に何故活発に活動してる?!)為に引き返さざるを得なかった苦い思い出が・・・
こっちは再訪してから記事upしたいと思います。

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チェブ

茨城県立江戸崎高等学校発祥之地? (2020/03/21 訪問)

大河ドラマ「麒麟がくる」に、ほんのちょっと出そうな「江戸崎城」です。
負けてもヘコタレない小田氏と対立していた、江戸崎 治頼さんの居城です。
そんな小田氏に、一族のゴタゴタで「江戸崎城」を取られた事もありました。
江戸崎 治頼さんを調べたら、美濃の土岐原氏 土岐 治頼さんでした。関東管領 上杉氏に従って、この辺りに定着したようです。
そして、治頼さんのお兄さんが土岐 頼芸さん。
斎藤 道三さんに領国を追われ「江戸崎城」に落ち延びて来たそうです。
ここ、「麒麟がくる」に出ないか楽しみです。
で、「江戸崎城」は坂を上がった高い場所にありました。石碑があり写真を撮ろうとしたら「茨城県立江戸崎高等学校発祥之地」とあります。???
残念ですが、石碑より少し下の広場(曲輪?)みたいな所に、やや劣る説明板です。
茨城県で土岐氏のお名前、新発見でした。

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カズサン

薄墨桜の帰り寄りました (2020/04/07 訪問)

 日本三大桜の一つ樹齢1500年で有名岐阜県根尾の薄墨桜を見学した後に1km程の国道157号線下り沿いに在るとの情報で寄りました。
 場所は根尾中学校と根尾駐在所の中間国道157号線沿い、拡張で山手を削った護岸コンクリの上に案内板と社の灯籠2基あり、Snakepitさんの投稿に有った様に護岸コンクリ階段は何とか登れましたが案内板が有る処からの階段が丸石を使った石階段で幅が狭く急で枯葉に泥が付着して段幅をより狭くしていて両手を付いて歩かないと危険更に中段以降は更に急で丸石階段が枯葉泥に覆われて危険ロッククライミング式に登るロープが必要で備わって無い。ジグザクの階段が欲しい。
 危険で断念し周辺より眺める、護岸壁には南朝方の新田義貞弟の脇屋義助が拠り戦った事をイメージしたレリーフが飾って有り、杉林の樹林間からは曲輪の端の稜線が見える
 案内板には太平記によると根尾城が登場し、新田義貞の弟、脇屋義助が拠り戦ったと有りました。
 ここは美濃越前の国境157号線を下ると越前大野市が近い所です。

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街道おじさん

美濃金山城登城 (2020/04/05 訪問)

森蘭丸が生まれたという美濃金山城に二度目の登城。
天守が犬山城に移築されたそうである。
見事な山城で、丁度桜が綺麗だった。

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dougen

2018.12.30登城 (2018/12/31 訪問)

明智長山城址はカーナビに登録されてるため、カーナビの指示通りに上恵土城からに南下し、羽生ヶ丘団地を通り団地の一角に明智長山城址があります。
麓の大手口に駐車場がある様ですが、団地側の二の丸にも駐車ができます。
城址は市の史跡であり、明智光秀ゆかりの城ということもあり、良く整備されています。
遺構はそんなに残っていませんが、馬防柵や逆茂木などが模擬復元されており、中世の城郭の雰囲気を演出しています。
展望台からは可児市街が一望でき、初心者や一般の人でも楽しめる城址です。
時間の関係で大手口の方に降りませんでしたが、大手冠木門が復元されている様です。
なお、搦手口は崩落の影響で通行止めとなっていました。

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退会済み
ユーザー

日尾城 (2019/04/05 訪問)

かなりつらい登山を要する

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姫街道

周辺砦と共に高天神城巡りを楽しむ (2020/04/05 訪問)

高天神城への登城は今回で3回目。
「1574年の第一次高天神城の戦い」の武田方の戦略と、「1581年の第二次高天神城の戦い」の徳川方の戦略を考えながら、周辺の砦や城と共に高天神城へ登城した。
まず武田方。信玄・勝頼公は共に小山城から塩の道を通って「塩買坂」に陣を張ったと言われる。そこで、小山城→塩買坂と行ってみた。なるほど納得のルートであり、牧野原台地の西端にある塩買坂と正対するように小笠山稜の東端に高天神城があった。また塩買坂の南にある新野氏領内には、笠原城など明らかに武田築城技術が入っていると思われる城が点在していた。これらは、小山城や持舟城などからの物資輸送路の確保に重要な役割を果たしていたのだろうと感じた。徳川方の高天神城主小笠原長忠は猛将であり、徳川の援軍が来ないなか、城の特徴を活かして孤軍奮闘よく戦ったが、東からの補給路がこれだけ確保されている武田の大軍には敵わなかったはずだ。
次に、徳川方の戦略だが、有名な6砦や畑ケ谷城郭遺構を回ってから高天神城を初めて大手門側から登った。家康が陣どった小笠山砦こそ高天神城を向いているが、他の5砦は立地や遺構から、城への敵の補給路断絶や援軍を阻止するような役割をしているのではないかと感じた。砦の分布は、全て先の武田方城群に対して高天神城側だ。なるほど、言われているような厳しい兵糧攻めの戦略がわかる。畑ケ谷城郭遺構は大手門のすぐきわにあり、今も神社などに形を変えて保存されている。戦いは、城の特徴を知り尽くした元武田方高天神衆の武将が徳川方横須賀衆となって弱点である西城の赤根ケ谷から攻撃を行い落城へとつながったのは間違いないだろう。
ただ高天神城は、その圧倒的堅固な作りから、城外戦の戦略が勝敗を左右したのだと感じた。

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小城小次郎

大津城

関ヶ原の戦いにまつわる激戦を経て今や跡形もなくなったこのお城の天守が、国宝・彦根城の天守に姿を変えた。なかなかロマンチックな話ではないか。

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