今帰仁の「じん」から、【深大寺城】(東京都調布市)。次は、「じ」「し」「いじ」「寺」などでお願いします。「いじみの」はもう出てしまいましたが。
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2020/06/18 05:24
【家×お城】登城したお城しりとり【209】 (2011/12/23 訪問)
今帰仁の「じん」から、【深大寺城】(東京都調布市)。次は、「じ」「し」「いじ」「寺」などでお願いします。「いじみの」はもう出てしまいましたが。
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2020/06/17 23:45
武田信玄最後の城攻めの地 (2020/06/17 訪問)
元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いで徳川家康に勝利した武田信玄は、翌年には東三河に軍を進めて長篠の南にある徳川方の野田城を攻め込んだ。
野田城は丘陵が舌状に張り出した先端部に位置して、東西両側を比高18mの深い渕に挟まれた自然の要害にあり、なかなか攻め落とせなかったため、武田勢は両側の渕の水を落とし、甲州の金掘衆を呼んで本丸の東と西から坑道を掘って、井戸水を抜く断水戦術を取って降伏させた。
この戦いの中で、城の中から夜毎流れる笛の名人が奏でる美しい音に誘い出されて、信玄が堀のそばまで来たところを城内から狙撃されたという言い伝えがあり、その傷がもとで甲斐へ戻る途中に息を引き取ったと伝えられている。
黒澤明監督による映画「影武者」はこの野田城で傷つき、帰路で没した信玄の死を隠すために影武者を立てたストーリーです。
城跡は丘陵地に3つの曲輪を配した連郭式で、一番奥の南側が本丸で、その一角には例の大きな井戸があり、その側には信玄を狙撃したと言われる場所の看板が立っています。また、城の西側の渕だった所には現在は法性寺があり、そこには信玄が狙撃されたと言われる場所の案内もあり、両方の直線距離は100mもない位なので、信玄の狙撃は十分可能だったと思われます。
その法性寺の大門は野田城から移設されたとされ、一見の価値ありです。
車での訪問は城跡前に1-2台なら路上駐車可能です。
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2020/06/17 22:47
印旛沼公園 (2020/06/13 訪問)
京成臼井駅から徒歩で40分くらい。
県立印旛沼公園として整備されていて駐車場もあります。
印旛沼に突き出た丘陵上に位置しており、臼井城の支城とされています。
駐車場からすぐに3郭と4郭の間の空堀、この時期紫陽花が綺麗でした。
3郭は野球場になっていました。
3郭と1・2郭の間にも空堀があり、遊歩道になっています。結構深い。
出勤と2郭の間にも空堀が残っていました。
2郭の先端部分に石碑があります。
晴れてたら印旛沼が綺麗でしょうが梅雨空・・・。
それはそれでいいんですけどね。
以前は舟戸大橋は歩道が無かったので歩くの危険でしたが、工事中で歩道が出来てました。
水浸しでしたけど。
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2020/06/17 21:28
【家×お城】登城したお城しりとり 業務連絡(?)
「芥」アプローチ手札をお知らせします。
安久田地獄穴洞窟遺跡(あくたじごくあなどうくついせき)[岐阜県郡上市]を許容します。
岐阜県の史跡。縄文時代中期~弥生時代にかけての土器が発見されています。
場所は,岐阜県郡上市八幡町安久田地内。長良川支流の安久田川を,長良川の合流点から約3km上流にさかのぼった右岸に位置する鍾乳洞にあります。
右岸と左岸とは…
川の上流に背を向け,目線は河口(下流)という体勢となり,右手側を「右岸」,左手側を「左岸」と呼称します。
これにより,ますます「高安城」の攻城が大きな意味を持ちそうに思えてきました。
さらに,「安」アプローチ手札がもう1つ欲しいところです。
「有」については,群馬県沼田市にあるサクラの巨木を許容するか悩んでいるところです。
天然記念物となっています。
もう少し納得のいく形を取りたいと思っているので,今しばらくお待ちくださいませ。
「赤穂」はムリかもしれません。
頑張ってはみますが…。
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2020/06/17 20:59
御城番屋敷に隠された誇り高き歴史 (2020/02/08 訪問)
城下の御城番屋敷は今もご子孫が居住する貴重な長屋だが、この長屋が良好な形で残された背景には、田辺与力として紀州藩に付けられた元・横須賀党が辿った誇り高き歴史が隠されていた。
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2020/06/17 20:25
烏帽子形城 (2020/06/07 訪問)
【烏帽子形城】
<駐車場他>城跡公園専用駐車場無料10台分程度あり。
<交通手段>車
<見所>横堀・堀切・礎石建物跡
<感想>この城は楠木七城のうちの一つで、上赤坂城の支城として築城した伝承がある。室町末期から戦国期にかけては甲斐庄氏・三好氏・根来衆・畠山氏やその他諸々争奪が繰り返され、秀吉期には中村一氏が岸和田城の支城として治めた。大坂夏の陣で家康に仕えていた甲斐庄氏が河内の道案内を務め、功により旗本に格上げされこの地に返り咲いたが烏帽子形城を維持できずに1617年廃城にした。
城跡は国史跡であり公園になっていて整備がゆき届いている。主郭は細長い瓢箪型をしていて、2棟礎石建物跡がある。礎石をコンクリートで周囲を固めていたのが少し残念だが、礎石建物跡から瓦も出土していて現地説明板によると「中世の山城に瓦葺きの礎石建物があるのは大変珍しいことで、中世の城と近世の城を結ぶ過渡期の姿をあらわしたもの。」とありました。
主郭の東側には主郭より広い帯曲輪があり、それらをダイナミックに横堀で囲んでいる。ここ等周辺はかなり見応えがあります。西端と東端は堀切で仕切っていて、東の方の堀切は谷と一体化して緩やかな傾斜の弱点を補っている。
烏帽子形山の北東部に円墳の古墳があり、山の東中腹に烏帽子形八幡神社がある。本殿は1480年建立の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財のなっている。
<満足度>◆◆◇
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2020/06/17 06:48
田辺城 (2011/11/13 訪問)
1578(天正6)年、丹後を制圧した細川幽斎(藤孝)は宮津城に加えて、交通の要所であった田辺(現在の舞鶴)に田辺城を築き、丹後経営の中心としました。
そして隠居後は、子の忠興を入城させました。
現在、本丸部分は舞鶴公園となっております。
建築物は城門と櫓(右)のみで、どちらも復元されたものです。
1600(慶応5)年、関ヶ原の戦いが始まると細川忠興は東軍側として参戦しました。
すると、石田三成は留守を守っていた父幽斎に対して1万5000もの大軍をけしかけます。
細川軍の主力は関ヶ原に行ってしまっており、守る兵は500人足らずしかいません。
幽斎は他の持ち城を焼き払い、田辺城に籠城を決めます。
少ない手勢で良く持ちこたえましたが、圧倒的多数の前に落城は時間の問題でした。
そこで、幽斎は朝廷に使者を送ります。
幽斎は戦国武将一の教養人で、古今伝授を受けていました。
この当時、古今和歌集の解説は、師匠から弟子へ秘伝の形で継承されていました。
幽斎が亡くなるとその伝承者が一人途絶え、資料も灰となりかねないのです。
おどろいた後陽成天皇はすぐに包囲を解くように勅命を下した。
まさに芸は身を助けたのでした。
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2020/06/17 06:48
2020/06/17 01:07
2019.3.23登城 (2019/03/23 訪問)
諏訪城から秩父鉄道和銅黒谷駅へ。秩父鉄道に乗り野上駅で下車。荒川を渡って県道82号を北上すると白鳥神社があり登城口となります。
事前に調べた情報では登城道や城址は藪化しているとのことでしたので、覚悟して行ったのですが、意外と登城道は整備されており、城址もきれいになっていて、空堀の遺構なども確認できました。
再整備する動きがあるのかもしれません。
廃墟とかした模擬天守が有名な城址ですが、城址散策としても楽しめる城址です。
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2020/06/16 22:07
ハイブリッドなお城なのだ (2020/02/08 訪問)
石垣が綺麗なお城だが土の枡形門があったりもする。片面石垣、片面切岸の堀があったりもする。ハイレベルな土の城と石の城を同時に楽しめる、実にハイブリッドなお城なのだ。
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2020/06/16 20:01
【家×お城】登城したお城しりとり[208] (2016/11/29 訪問)
todo94さんの「な」からリレーします。
琉球をtodo94さんばかりにまかせてしまうのもしのびないので,私から「今帰仁城」で。
ミニ万里の長城というキャッチフレーズですが,本物の万里の長城を見たことがないので比較できません。
しかし,ここからの眺望は気に入ってます。標高が高いからイイってもんでもない。空気感も含めての総合評価だと思います。
次は,「なきじんぐすく」の「く」などでお願いします。
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2020/06/16 19:24
【家×お城】登城したお城しりとり【207】
承知いたしました。「みはる」から【ハルトルチャランケチャシ】。次の「け」もあります。【建昌(けんしょう)城】(鹿児島県姶良市)。さらに続けて【台(うてな)城】(菊池十八外城・熊本県菊池市)。すべて、城びと登録の城ですが、台城の読みが「うなて」になっています。現地の表記にもある「うてな」が正しいはずですので、次は「な」でお願いします。ミニ万里の長城然とした続100名城につなげて頂ければ幸いですが、「な」につなぐことのできる手札は潤沢ですので、別の城につないで頂いても全くかまいません。
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2020/06/16 17:32
【家×お城】登城したお城しりとり[206] (2019/05/04 訪問)
もともと(続)100名城の訪城数は多くありませんが、残りわずかな手札から行かせていただきます。
三春城[福島県田村郡]_【み→ 】
では、todo94さん、よろしくお願いいたします。
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2020/06/16 06:51
2020/06/16 06:15
2020/06/16 00:47
2020/06/15 23:23
戦国時代の紀州では西の横綱とも呼ばれる湯河氏の本城 (2018/01/01 訪問)
湯河氏は紀伊守護の畠山氏を追放し事実上の守護とまで言われるほど勢力を持っていたそうです。
本丸周辺は良く整備され、本丸を囲んだ土塁が良く残っていて、この城の見所でした。
山城なのにトイレもありました。
当時は山全体に曲輪が配置された大規模な城だったようですが、今は大半がみかん畑になってしまっています。
本丸から東へ少し離れた出丸は藪で見辛かったですが、規模は小さいながら堀切や横堀が確認できました。
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2020/06/15 23:09
民家の虎口に土塁 (2020/06/13 訪問)
京成臼井駅から徒歩で30分くらい。
さくら霊園沿いの道の咲きありました。
小竹五郎の墓のそばに説明板がありさらに進んだ所に土塁があり、碑も立っています。
その先は民家の敷地でした。
土塁は結構立派、手前の空堀は藪でした。
先週の木出もそうでしたがこの辺り、私有地の城跡も多いですね。
住んでみたいものです。
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2020/06/15 20:44
登って降りて (2020/02/08 訪問)
本丸周辺の石垣が築城当初の姿を比較的強く残していたのはいい意味で裏切られた・・が、駐車場がわかりにくく、駐車場からひと山越えたところに案内看板があるという導線の悪さはなんとかならないものか。
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2020/06/15 20:15
下赤坂城・棚田・楠木正成生誕の地 (2020/06/07 訪問)
【下赤坂城】
<駐車場他>消防署千早赤坂分署横に6台分無料Pあり。
<交通手段>車
<感想>赤坂城の戦いで舞台になったところ。後醍醐天皇の皇子護良親王を擁した楠木正成が下赤坂城に約1ヶ月籠り戦ったが、にわか造りの城だったので落城、護良親王は逃れ、楠木正成は金剛山に潜伏した。南北朝期にも使用されたが再び落城した。
土塁と城跡碑がある所は棚田の展望台にもなっており、駐車スペースはありますが封鎖されていて近くまでの車の乗り入れは控えた方がよいです。道が狭いので駐車スペースはありません。上記駐車場に駐車して途中の棚田を眺めつつ訪れるのが良いでしょう。
土塁・城跡碑・説明板以外は特にこれといった遺構は無いですが、棚田の眺望が素晴らしいです。主郭は役場付近にあったようです。
楠木正成生誕の地碑があるのは千早赤坂村立郷土資料館の横にあります。楠木正成産湯の井戸は資料館・道の駅のある道路を挟んで真向かいにありますが、2018年の台風21号の影響で立入禁止になっていました。残念。
<満足度>◆◇◇
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