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カルビン

左入城 [東京都八王子市左入町 787 八王子インター際] (2014/05/18 訪問)

国道16号線・中央道八王子インター傍の村内家具の入口の所に左入城の解説碑があります。

村内の7代目社長がその地にお城があった事をわざわざ碑石にして残した様です。

遺構は残っておりませんが、すぐ北側に窪地があり、更に北に高台があって地形的にもお城がここにあったのは濃厚のようです。

更に窪地を超えた北東の広い高台がイオンモール建設予定地となっています(とはいえ看板でてから3年くらい放置されているw)が、そこで整地時に史跡が見つかったらしく発掘調査が行われていたようで、左入城に関わる物では?と思われます。

更に更に北の高台にある宗徳寺には北条氏照のお墓があるという話もあり、左入城が後北条家に関わるお城であったのは間違いなさそうです。

google mapにも載っていないお城なので検索に引っかかり辛い場所ですが、話のネタに訪問されるのも面白いかもです。
※他に何も無いので、バーター訪問地にして下さいw


ちなみにここから南にあるひよどり山上の住宅に北島三郎さんのご自宅があります。
健康の為に歩いてご自宅付近に行った事ありますが、周辺の家々はどこも大きなお宅ばかりで・・・どうやらセレブが住まわれる一帯のようです(^ω^;)ゞ
※挙動不審にしていると通報される可能性大なのでご注意を(汗)

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城好きのメガネ

「伝畠山重保館」 (2020/03/24 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
鎌倉時代の武将・畠山重保の居館とされる。畠山重保は北条時政の妻・牧の方の女婿 平賀朝雅との口論事件がきっかけとなり、北条時政・牧の方によって畠山重忠・重保父子討滅計画が進められた。稲毛重成の招きにより武蔵国より鎌倉に出てきた重保は、謀叛人として討たれた。また、父・重忠は事情を知らず菅谷館より軍勢数十騎ほど率いて鎌倉に向かう途中、二俣川付近で北条義時、安達景盛、和田義盛らの数万の軍勢に囲まれた。重忠は奮戦するも愛甲季隆の矢に当たり戦死し、畠山一族は滅亡した。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
横浜市営地下鉄ブルーライン 踊場駅 徒歩10分

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城好きのメガネ

「岡津城」 (2020/03/24 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
扇谷上杉定正・朝良の居城とされる。その後、後北条氏の支配下に入るが小田原征伐で落城する。徳川家康の関東入封後は彦坂元正が陣屋を築く。彦坂元正は家康からの信任も厚く、徳川五ヶ国総検地の奉行となる。江戸町奉行や相模・伊豆の代官などを歴任する。伊奈忠次・大久保長安とともに三目代の1人とされた。年々の豊作、凶作によって徴収額を変える「彦坂流」を採用した。1600年、鎌倉八幡宮の普請に関連して閉門を命じられ、貢金横領が発覚して改易された。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
相鉄線 緑園都市駅 徒歩25分

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カズサン

若き秀吉公奉公の松下屋敷 (2015/09/12 訪問)

 武漢コロナウイルス禍、梅雨時城廻り出づらい中古いですが平成27年9月12日の初登城を投稿します。
 当日は徳川家康公顕彰400年記念事業で浜松市文化財課による松下屋敷跡発掘調査現地説明会が有り初めて頭陀寺城、松下屋敷を訪ねました、浜松に移り住み50年近く成ってましたが頭陀寺、松下屋敷は聞き及んでましたが初めての訪問です。
 駐車場は有りません公共交通機関でのチラシで浜松駅よりバスで掛塚方面8番乗り場、頭陀寺下車、徒歩5分、発掘調査の説明を聞きながら周辺城跡屋敷跡の痕跡を求めて探訪するが余り残って無く、東側道路沿いの1m弱の高まりが土塁の跡か?石碑がひっそりと松下嘉平次屋敷跡と記され、後は児童公園第一公園、第二公園と成ってる。
 ここは豊臣秀吉公が若き日奉公した屋敷として有名です、近くに秀吉公が鎌を研いだといわれる鎌砥池も有り天白神社と共に史跡と成ってる、秀吉公は天下を取った後に当主松下之綱に袋井市の久野城1万6千石に取り立ててる。

 松下屋敷跡北に頭陀寺が有り往年は屋敷を含め大寺院と一体の領域だったそうです、寺院も先の大戦の空襲で被災し、塔中は宅地化に成って縮小されてる。

 平成29年のNHK大河ドラマおんな城主直虎以降、浜松市の史跡に新しい案内解説看板が設置され分かりやすく成っており、頭陀寺城(松下屋敷)も新しい案内解説板が設置されてる。

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todo94

飯野平城 (2020/07/11 訪問)

塩屋埼灯台の参観を無事済ませ、近隣の城攻めを画策したものの高久の古館は登城路がわからずじまい。雨も降っていたので無理はしませんでした。大館城入口に石碑が建っていて無事に攻略できました。主郭下の城址碑は飯野平城となっています。

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dougen

2019.3.31登城 (2019/03/31 訪問)

岩切館から県道36号で北西に進み、国道4号に入り北上すると、国道の脇に伊治城址の解説板が建っています。城というより古代城柵とのことです。

解説板のある道に入り、しばらく奥に進むと築館町出土文化財管理センターがあり、そこに土塁が残っています。また、近くの照明寺にも解説板が設置されています。

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中川藤兵衛尉

桜井谷陣屋 (2020/07/12 訪問)

大坂城代・阿部(あべ)氏の摂津国内の領地を治める為の陣屋でした。次代で阿部氏は関東に拠点を移しましたが、後に大坂城京橋口定番・安部(あんべ)氏が摂津国内の領地を治める為にこの陣屋を再利用しました。このまま幕末まで安部氏が相続していったそうです。現在は宅地となっており、往時を偲ばせるものは一切ありません

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たぬき親父

工事前に行きましたね (2018/10/07 訪問)

九州から来た子を連れて行きました、10月でも暑い一日でした、もっと中を見せたかったのですが時間が無く入れなかったです

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たぬき親父

家族連れが多かったです (2020/07/05 訪問)

御城印と武将印があると聞いて行ってきました、近くに有り娘が小さい時に来た事が有りますので30年ぶりの訪問です
天守より見える風景は住宅が増して色々なビルが見えるようになりました手始めに身近なお城からチャレンジを進めます

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カズサン

当主在住の代官屋敷、現存長屋門 (2015/09/22 訪問)

 平成27年9月、諏訪原城、勝間田城探訪を終えて小笠原山丘陵を南西方向に横断し途中には横地城山稜を横に見ながら菊川市の黒田代官屋敷へ、何回も訪ねてますが綺麗に保存管理、現在当主黒田氏お住まいに成って居ります。
 車は当屋敷の道を挟んだ東に大型の駐車場が完備され十分に駐車可能。

 茅葺の長屋門が南に構え、方形の濠と土塁で守られ周囲に遊歩道が完備し見学可能、現在住まわれて居りますので静かに探訪見学しましょう。
 濠、土塁、茅葺長屋門と充分に堪能出来る代官屋敷です東名高速菊川ICから約6km程です四季を問わず見学可能です。
 長屋門南に菊川市黒田家代官屋敷資料館が有りますので見学とパンフレットを入手されれば宜しいかと思います。

 黒田氏は高天神城の守将の一人で武田勝頼高天神城攻略落城後帰農した、後旗本本多氏の代官として仕えた。

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にのまる

【家×お城】登城したお城しりとり【250】 (2015/07/21 訪問)

todo94さんの2つのお城からつないで【広島城】にいかせていただきます。

初めて広島城に行ったのは小学校一年生の時です。
以来何度も広島には行きましたが、メインは市民球場。あと三省寮とみっちゃんとバッケンモーツアルト。

次は朝田 辰兵衛さんの遠征ウェイティングでしょうか。
お天気がまだ安定していませんのでお気をつけて。

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todo94

【家×お城】登城したお城しりとり【249】

カルビンさん、見事なリカバリー、アプローチショット、ありがとうございます!桔梗の「う」から【薄衣(うすぎぬ)城】(岩手県一関市)→【布広城】(島根県雲南市)。次は、「広」で中国地方最大の都市の100名城、お願いします。

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赤い城

旧城寺に土塁が残る (2020/07/05 訪問)

横浜線の中山駅から徒歩で15分くらい。
旧城寺の周辺が跡地のようです。
旧城寺の山門のあたりが枡形状の虎口となっていて土塁が残っています。
本堂の辺りが二ノ丸で説明板もあります。
主郭は墓地の辺りのようです。
主郭には弓道場が建っていました。
弓道場の裏にひっそりと石碑も立っていました。

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城好きのメガネ

「六浦陣屋」 (2020/03/24 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
米倉氏は甲斐武田氏の家臣であり、米倉重継は武田信玄・勝頼の二代に仕えた。甘利昌忠に属して信濃刈屋原城攻めで功をあげ、武川衆の頭目となるが1575年、長篠の戦いで戦死する。武田氏滅亡後は、徳川家康に属し、旗本となる。米倉昌尹は、3代将軍・徳川家光に拝謁し、御小姓となり、米倉家の家督を継ぐ。信任も厚く、目付や若年寄などを歴任し、1万石を与えられたことで大名として諸侯に列し、武蔵金沢藩主となる。その後、下野皆川に移封されて1万5000石を加増され皆川藩初代藩主となる。米倉忠仰は、5代将軍・徳川綱吉に側用人として仕えた柳沢吉保の子である。皆川藩3代藩主・米倉昌照の養子となり、跡を継ぐ。8代将軍・徳川吉宗に拝謁し、六浦へ移封となり六浦藩初代藩主となり、陣屋を築く。幕末には新政府側に付き、警備や人馬継立などを協力したとされる。陣屋近くにある泥牛庵は藩主の見晴台ともいわれた。*現在、陣屋跡は私有地となっているため六浦陣屋跡ゆかりのある泥牛庵を紹介する。

<アクセス>
京急電鉄 金沢八景駅 徒歩15分

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カルビン

【家×お城】登城したお城しりとり【248】 (2015/10/18 訪問)

すいません、北ノ庄城は以前自分が無駄にしりとり投稿してしまっているので、責任もって代わりの手札で展開させて頂きます。

イオさんの「赤木城」から

茂木城の別名・桔梗(ききょう)城


以前同城投稿済なので、写真は最低限で。
公園化しておりますが、それなりに遺構も残っており、ここだけ見に訪問しても損は無いくらいのものはありました。

最寄りの茂木駅からはちょっと距離ある+結構な高所まで行く必要がある為、山上に駐車場有る事から車での訪問推奨地です。
ちなみに駅から桔梗城の間・市役所の駐車場のところに茂木陣屋の碑石もあるので、一緒に訪問されると宜しいかと(コチラは遺構は無さそう)

todo94さん、お手数ですが「う」から「ぬ」に繋げて下さいませm(_ _)m

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todo94

布広アプローチの手札 (2020/07/11 訪問)

本日、攻略完了いたしました。幸い、雨は上がっていましたが、通り雨があったらしく、下草はたっぷり水滴を抱えていて、靴はびしょ濡れになってしまいました。豊臣秀吉の奥州仕置きで落城した歴史の地。九州ほどの降水量はないはずの東北ですが、北上川の水量はなかなかのものでした。

【しりとり業務連絡】しりとり、赤木城で止まっているかと思います。「北ノ庄城」でつないでいただければ、すぐに薄衣→布広と展開できますので、よろしくお願いいたします。

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カルビン

石田城 [神奈川県伊勢原市石田] (2019/12/19 訪問)

個人的コロナ自粛継続中の為、城びとに登録されているお城のネタが乏しくなってきましたので、暫くこの形式での投稿が多くなると思いますので宜しくです。


小田急線愛甲石田駅から南に徒歩10分強の所に石田城址があります。

ちゃんとした解説や城碑はありませんが、子安神社が管理する水神様の傍の掲示板に周辺が石田城であった事の説明書きがあります。

そして高確率で私有地内と思われる場所になってしまいますが、道路から土塁や切岸と思われる地形も見る事が出来ます・・・ま、お城として残っているのはそれだけなんですが(汗)
現在周辺は住宅地となっておりほぼ整備されてしまっているので、それが残っているだけでも儲けものなんですが(^ω^;)ゞ

東京周辺の近郊で遺構が残っているor解説や城碑だけでも存在する場所は難所数ヶ所を残しておそらく行き尽してしまったと思われる為、昨年中頃から石田城みたいに知られざる史跡情報得ると、猫まっしぐらで訪問してましたw


同じ愛甲石田駅からの徒歩圏内でやはり城びとに登録されていない愛甲氏館が駅の北西にあります(こちらは碑石のみ残る・後日投稿予定)が、両方合わせてもここだけ狙って訪問するのは勿体ないので、同じ小田急線沿線の近隣のお城(波多野城や眞田城、岡崎城、丸山城、他に城びとに登録されていない土屋城等)と合わせての訪問が良いかと思います。

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まっちゃん88

西方城、二条城発掘調査 (2020/07/11 訪問)

令和2年、西方城、二条城の発掘調査が始まりました。
秋頃には、現地説明会があると思われます。乞うご期待。
前回の説明会資料より、航空レザー写真、西方図書館の西方城縄張り模型、1947年頃の上空写真です。

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赤日子神社より (2020/07/11 訪問)

 赤日子神社の西側の駐車場に案内板がありパンフレットが置いてあります。主郭に大きな看板が設置されていて下から見えるのですが、時期的なものなのか草木のため一部しか見えません。城址へは標識が各所にあり迷うことなく行くことができます。土塁の上に石碑があります。熊ヶ池は堀の一部と言われています。

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がっくん

国史跡であったが初攻城 (2020/06/27 訪問)

八幡太郎義家の庶子を家祖とする横地氏の本城。
標高100mほどで東西に1.5㎞ほど広い山城域だが尾根伝いに車で巡る事が出来る。
ただすれ違い不可であるのでかなりドキドキしながらであった。(ゆっくり見るのであれば徒歩がおすすめ)
詰の城の散策へは麓の池そばのメイン駐車場から歩いてすぐ登城出来る。
本丸下の段々曲輪と堀切は遺構の保存状態良く、茂った草に臆することなく踏み入れた価値があった。
「金〇落としの谷」は説明板を見ると自分が思っていたのと違った命名由来がそこには書かれてあり、
面白いなぁと感じると共に勉強になった。
あと、二の丸である横地神社前の案内板にパンフレットが置いてあったが、
一部毎クリアケースに入っていたのが初めての経験で地元菊川市の誠意が感じられた。

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